ナーガの道

−「四つの真理」の物語−

©雪山童子&老いたるモグラ

 

はじまり

[雪山の詩(うた)]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りをもとめる修行者から,このように聞いたのでありました.雪山,今はインドのヒマラヤ山脈に,かつて独りの修行者が住んでいたのでした.

インド古代の神々の王であるインドラは,この雪山をも足下に支配するものでもありました.稲妻のように天空をゆく戦車にうち乗って,その光輝く車輪を雷鳴のようにカラカラと鳴らして通るたびに,どうもこのたった独りの修行者のことが気になってしかたがないのでした.

古代インドの修行者は,その苦行積み重ねによって神々に等しい呪力や神通力を得ると考えられていたのでした.修行者たちがその苦行によって獲得した呪力には,神々たちといえどもしたがわねばなりませんでしたから,独りで法をもとめる修行者たちとは,その呪力によって神々の地位をもおびやかす類のものでありました.自分の支配地に修行者が住み着くことは,神々にとっては実にいやなものであったのです.
 さて,インドラは身体をさっと一揺すりすると,恐ろしい形相の羅刹の姿となって修行者の住む洞窟の崖下に近づきました.羅刹とは,墓場に住み人肉を食らうと空想された怪物のことです.しかし,修行者はおびえたそぶりも見せません.

羅刹に化けたインドラも修行者に呪詛されてはたまりませんから,ここは一つ悪知恵をはたらかそうと,崖下から修行者に呼びかけていうのでありました.

「修行者よ,

おまえは何のために修行しているのだ.おまえは私の領地に住み着いているのだぞ.おれには自由に人が食えんので腹がすいてたまらんのだ.苦行を捨ててとっととここを出て行くか,さっさと私の餌食になるがよい.」

修行者は不敵にも答えていうのでありました.

「羅刹よ,

私は,不死なる法,病むことのない法,老いることのない法,永遠不変の真理,をもとめているだけなのだ.私は,この雪山においてはじめて,不死なる法,病むことのない法,老いることのない法が得られると聞いたのである.私は,この法が得られるまでは,断じてここを動くこともないし,おまえに食われるわけにもいかん.さっさと立ち去るがよい.」

 羅刹はこれを聞いてギリギリと恐ろしい音を立てて歯噛みし,しばらく黙っていましたが,ふと思いついたようにいうのでありました.

「修行者よ,

そういえば,おれは,遠い昔,おまえと同じように,ここで修行していて,とうにおれの腹に納まってしまった哀れな奴めからこのように聞いたのを思い出した.すなわち,

諸行無常:全ての事物は,イノチあるモノどもに形成されたがゆえに,無常である,

是生滅法:このように,全ての事物は形成されたがゆえに,ついに滅するのが法なのである,

とな.」

修行者の顔色がふと真剣なものに変わりました.何か思い当たることがあるのでしょう.

「羅刹よ,

それは,一つの詩の半分(半偈)にすぎない.あとの半分はなんというのだ.」

羅刹はシメシメとニヤリと薄ら笑いをするのでありました.

「修行者よ,
ふん,おまえがさっさとおれに食われる決心でもするならそれを教えてやりもしよう.もし,おまえが自らこの崖から身をなげ捨てて,自ら粉々のミンチになって,おれに食べやすいシロモノになる,と確と約束でもするのなら,それを教えてやろう.

 しかし,おまえにはそんな勇気はあるまいなぁ.イノチと引き換えにするような大事な法でも詩でもあるまいからなぁ.まぁ,たった一つのイノチが惜しければ,今のうちにさっさと逃げ出すことだなぁ.」

修行者はいうのでありました.

「羅刹よ,
私は,不死なる法,病むことのなき法,老いることのなき法をもとめるのみであって,それが得られないなら,たんに,虚しく老いて,虚しく病み,虚しく死ぬだけのことだ.その法が得られるのであれば,死すとも悔いはない.おまえのいう通りにしよう.」

羅刹はしてやったりとばかり,カラカラと真っ赤な大きな口を開けて大笑いしたあげく,ヒッヒッ,とセセラ笑っていうのでありました.

「修行者よ,

それでは教えてやろう.すなわち,

生滅滅已:全ての事物の生成消滅が,ついに滅し終わるところ,

寂滅為楽:その静かな安らぎを楽しみとするのである,

というのだ.実に老いざる法,病まざる法,不死なる法であろう.さぁ,これを聞いたからには,さっさと覚悟を決めておれに食われるがよい.むろん,約束を違えれば,おまえの神通力はすっかり失われて,ついにはそこを逃げ出すしかなく,結局は同じようにおれに食われることになるのだがなぁ.まぁ,どっちにしても好きなほうを選ぶがよいぞ.」

これを聞いた修行者は,これらの詩句を反芻し終えると,約束通りに,さっ,と崖から身を踊らせました.

 あわや,修行者の身体は岩に砕かれてミンチになったか,と思われたのです.しかし,羅刹は身体を一揺すりすると,瞬時にインドラの本体を現し,一塊の光となって飛び走り,修行者をその腕の中にしっかりと受け止めたのでありました.

 神々の王であるインドラは,ここにおいて,その修行者を讃えていうのでありました.

「善きかな,修行者よ,

なんじほどの不退転の志と,真実の法をもとめる勇気があれば,なんじはいずれ,真に不死なる法,真に病まざる法,真に老いざる法を得るであろう.われら神々とても,不死なるものでもなければ,病まざるものでもなければ,老いざるものでもないのである.なんじが得るであろうその法は,神々であるわれわれにとっても,人々の世おいても,実に,得難いものとなるであろう.

 もしも,なんじの修行の結果,その真実の法が得られたならば,なんじは真実の法に目覚めた人と呼ばれるであろう.真実の法の眼を得て,真実の法を語るものとなり,真実の法の輪を回すものである,と呼ばれるに至るであろう.」

とインドラは語り終えると,また一塊の光となって,雪山の遥か彼方へ飛び去ったのでありました.

[ブッダ最後の旅へ]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からまたこのように聞いたのでありました.ゴータマと呼ばれたブッダは紀元前465年頃から383年頃に,雪山の麓である北インドに実在した人物であるといわれています.ゴータマはその最晩年,コーティ村において修行者たちにこのように語り終えてから,彼らと別れてアーナンダを従え,ついにその最後の旅に出発したのでした.

「修行者たちよ,

四つのすぐれた真理を悟らず理解せず実践しなかったがゆえに,かくも長き間,私もあなたたちも,このように世間を流転し迷いの生存の中にあったのでした.

さて,その四つの真理とはなんであったのでしょうか.

修行者たちよ,
 「苦しみ」という尊い真理を悟らず理解しなかったがゆえに,かくも長き間,私もあなたたちも,このように世間を流転し迷いの生存の中にあったのでした.

悪しきモノの「集まり」こそが「苦しみの起こる原因」である,という尊い真理を悟らず理解しなかったがゆえに,かくも長き間,私もあなたたちも,このように世間を流転し迷いの生存の中にあったのでした.

「滅する」という真理,すなわち「苦しみ原因である悪しきモノの集まりを滅することができる」という尊い真理を悟らず理解しなかったがゆえに,かくも長き間,私もあなたたちも,このように世間を流転し迷いの生存の中にあったのでした.

しかし,修行者たちよ,

「苦しみ」というすぐれた真理が悟られ理解されたのです.「苦しみの起こる原因」という尊い真理が悟られ,理解されたのです.「苦しみの原因である悪しきモノの集まりを止滅することができる方法」という尊い真理が悟られ理解されたのです.そして,「苦しみの原因である悪しきモノの集まりの止滅に至る方法を実践する道」という尊い真理が悟られ理解され,そして実践されたのでした.

迷いの生存に対する妄執は既に絶たれました.迷いの生存に対する妄執は既に滅びました.もはや再び迷いの生存を受けることはありえないのです.なぜなら「苦しみの原因である悪しきモノの集まりの止滅に至る方法を実践する道」という尊い真理が悟られ理解され,そして実践されたのですから.

「四つの真理」を目の当たりにみなかったがゆえに,私もあなたたちも,かくも長い間,世間を流転し迷いの生存にとられわれ,こだわってきたのでした.

それらの「四つの真理」はすでに目の当たりにみられました.迷いの生存にみちびく妄執はすでに根絶されたのです.苦しみの根は完全に絶たれました.もはや再び迷いの生存を受けることはないでしょう.

正しい法とはかくのごときものであります.

正しい見解とはかくのごときものであります.

正しい思いとはかくのごときものであります.

正しいコトバとはかくのごときものであります.

正しい行ないとはかくのごときものであります.

正しい生活とはかくのごときものであります.

正しい努力とはかくのごときものであります.

正しいココロの落ち着きとはかくのごときものであります.

正しいココロの統一とはかくのごときものであります.

正しい法に基づく知恵とそれに依る行ないとはかくのごときものであります.

正しい法に基づく知恵と,それによって修められた正しいココロの統一,そして正しい法の実践によって,諸々の汚れ,すなわち妄執の汚れと,迷いの生存の汚れ,見解の汚れ,無明の汚れから,私もあなたたちも完全に自由になり,ここに解脱は果たされ,静かな安らぎに至る道は完成したのです.」

 

[ブッダ最後のコトバ]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,さらにこのようにも聞いたのでありました.ゴータマと呼ばれたブッダが,クシナガラと呼ばれる場所のサーラの樹間で死ぬ時,従者であったアーナンダが聞いたというその最後のコトバは,このようであったといわれます.

「アーナンダよ.
修行者たちは私にいったいなにを期待しようというのでしょうか.

 私は内外の隔てなく,法を説いてきました.人格を向上させ完成しようとする人の教えにおいて,何ものかを弟子に隠すような教師の握り拳はありえず,掌の全てはそこに明らかに示されてあるのです.

修行者の集いを指導すべきであるとか,修行者の集団は私の教えに頼るべきである,とか思う人だったら,修行者の集いに対して何ごとかを言うべきでありましょう.しかし,ただ一人,人格の向上とその完成につとめてきただけの私にとって,修行者の集いを指導すべき思いもなく,修行者の集いは私を頼るべきである,と思うこともありません.ただ一人,人格の向上と完成に努めてきただけの人は,修行者の集いについて,いったい何を語ることがありましょう.

アーナンダよ.

私はもう老い朽ち,齢を重ねて老衰の極にあり,人生の旅路を通りすぎてきて,この老齢に達しました.わが齢は既に80となったのです.例えてみれば,古ぼけた車が皮紐の助けによってやっと動いていくようなものです.おそらく私の身体も皮紐の助けによってようやくその形態を保っているだけにすぎないのです.

しかし,人格の向上と完成につとめた人が,一切のカタチをココロにとどめることなく,一部の感受性を滅ぼすことによって,カタチのないココロの統一に入って止まるとき,かれの身体は健全であり快適でもありうるのです.

それゆえに,この世で自らを州とし,自らをたよりとして,他人をたよりとせず,法を州とし,法をよりどころとして,他のモノをよりどころとせずにあるべきです.

では,修行者が自らを州とし,自らをたよりとして,他人をたよりとせず,法を州とし,法をよりどころとして,他のモノをよりどころとしないでいることは,どのようにして可能になるのでしょうか.

アーナンダよ.

修行者は身体について身体を観察し,熱心に,よく気をつけて,思いを集中しつつ,この世とあの世における貪欲と憂いを除くべきなのです.

感受においては,感受を観察し,熱心に,よく気をつけて,思いを集中しつつ,この世とあの世における貪欲と憂いを除くべきなのです.

ココロについては,ココロを観察し,熱心に,よく気をつけて,思いを集中しつつ,この世とあの世における貪欲と憂いを除くべきなのです.

世間の諸々の事象においては,諸々の事象を観察し,熱心に,よく気をつけて,思いを集中しつつ,この世とあの世における貪欲と憂いを除くべきなのです.

アーナンダよ,

このようにして,修行者は自らを州とし,自らをたよりとして,他人をたよりとせず,法をよりどころとして,他のものをよりどころとしないでいることができるのです.

アーナンダよ.

今でも,また私の死後にでも,自らを州とし,自らをたよりとし,他人をたよりとせず,法を州とし,法をよりどころとし,他のモノをよりどころとしないでいる人々がいるならば,かれらの誰しもがわが修行者であって,最高の境地に至ることでしょう.「四つの真理と八つの正しい道」という尊ぶべき法を学ぼうと望む人々は,その誰もが,わが修行者でありうるのですから.」と.

そして,アーナンダが聞いたその臨終のコトバとは,ただ一言,このようであったのでした.

「もろもろの事象は過ぎ去るのである,怠ることなく修行を完成なさい.」と.

 

[「四つの真理」は不死なる法でありえたか]

 このゴータマと呼ばれたブッダの臨終のコトバと,雪山の詩に登場する,

諸行無常:全ての事物は,イノチあるモノどもに形成されたがゆえに,無常である,

是生滅法:このように,事物が形成されて,ついに滅するのが法なのである,

生滅滅已:全ての事物の生成消滅が,ついに滅し終わるところ,

寂滅為楽:その静かな安らぎを楽しみとするのである,

というフレーズとは,実は,まったく同一の意味内容なのです.

雪山の詩は,ブッダの死のありさまを説く『大乗涅槃経』の一節として,日本の文化にも大きな影響をあたえたのでした.また,インドラの化身である羅刹に助けられた修行者とは実は,雪山童子つまりヒマラヤに住む修行者とよばれ,それは,歴史上実在したことが証明されている唯一のブッダであり,若き日にはゴータマと呼ばれた人物の,その伝説上の前身であったとされています.とすると,雪山童子が求めていたといわれる,不死なる法,病気にならない法,老いることのない法,永遠不変の法は,ゴータマと呼ばれる人物が説いたといわれる「四つの真理」によってホントに発見されたといえるのでしょうか.

しかし,それらはいくら伝説であり伝承であるといえども相互に矛盾していていかにも変です.ゴータマと呼ばれた人物は,この伝承にもあるように,年老いて80歳にして病み(その症状から大腸ガンではなかったかといわれています),クシナガラなるサーラの樹間で死んだはずです.とすると,雪山の詩に描かれた不死なる法,病まざる法,老いざる法とは,まったくの伝説上の嘘であり単なるフィクションにすぎなかったのでしょうか.かたや,もしそれが真実であるならば,神々の王であるインドラが雪山童子を励ましていったように,それこそは全人類にとっての福音でありうるかもしれませんね.

「四つの真理」とははたして何だったのでしょうか.それは,真に不死なる法,永遠不変の法だったのでしょうか.中国や日本に仏教がはじめて伝来したとき,それらを,不老不死を説くものであるかのごとく思った支配者たちもいたといわれます.「四つの真理」が不死なる法であり永遠不変の法であるとは,古代の人々の「夢」にすぎなかったのであって,現代の私たちにとって,それはやはり「永遠の謎」であるにすぎないのでしょうか.

それでは,「四つの真理」にまつわる物語を,ゴータマの若き日の頃,後にブッダと呼ばれた人物が,出家して修行者となった直後からお話しいたしましょう.彼が出家して修行者となったことの動機は,後になって自然に明らかになることでしょう.


若き日のゴータマ

[隠者ブリグとの対話]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.いまやすでに出家して修行者となった若きゴータマは,まず当時の高名な自由思想家であったアーラーラ・カーラーマを尋ねてラージャグリハを出立したのでありましたが,途中に,森林に住む修行者であり,また自由思想家でもあった,ブリグの庵に立ち寄ったのでした.
 ブリグは若きゴータマにこのようにその修行法を語ったのでありました.
「ゴータマなる姓の若者よ,

料理していない食物,すなわち水から育つもの,植物の根や果実などが修行者の食事である.しかし,苦行の方法は,他にもいくらでもあるのであって,ある者は鳥のように落ち穂をついばみ,ある者は鹿のように草を食み,ある者は,蟻塚に入り込んだ蛇のように何もしないのである.ある者は石を嘗め,ある者は自らの歯でもって穀物を磨り潰して食べ,ある者は他人のために作った食物が余ればそれ食べる.ある者は,蓬髪たえず垂らして火の神であるアグニにそれを捧げるし,ある者は魚のように水に潜り亀にかじられながらも水に棲むのである.このように苦行を積むことによって果報を得て,神々のごとくより高い境地に達しようというのである.」
 若きゴータマは,ブリグの教えに対して,このように語ったのでありました.
「ブリグさん,

それはわたしの未だに期待するところではありません.わたしは世の全てのモノたちの,その老いの苦しみ,病の苦しみ,死の苦しみを目の当たりにして,そうした苦しみを滅する方法を探すために出家したのですから.また,そのように苦行を重ねて神々のような高い境地に達したところで,いずれ,老いの苦しみはやってきましょうし,病むことの苦しみは訪れましょうし,ついには,死の苦しみも訪れるのではないでしょうか.そうした老,病,死の苦しみを避けることも滅することもできないのであれば,現に苦しみをその身に受ける苦行とやらが,いったい何の役にたつというのでしょうか.」

 

[ビンビサーラ王との対話]

引き続き,私は,このように聞いたのでありました.これは,若き日のゴータマが出家まもない頃,ラージャグリハにおいて,ビンビサーラ王と交わした対話でございます.

ビンビサーラ王は,出家修行者の姿のゴータマを責めていいました.

「ゴータマよ,

おまえはなんと父王を棄て出家したそうだが,クシャトリアの勤めを忘れたのか.今,シャカ族は,危急存亡の危機にあるのだ.およそ,クシャトリアの勤めは,戦士として部族を守り,他部族との戦争に打ち勝ち,自らの部族を富ませて,ついには,戦士としての名声と富を獲得することにあるのを忘れたのか.」

ゴータマは答えました.

「王よ,

私はクシャトリアとしての勤めを放棄したのではありません.むしろ,私はクシャトリアとしての勤めを全うするつもりなのです.

 王よ,

クシャトリアの勤めとは,富を求めて敵に打ち勝ち,戦士としての名声を獲得することであるといわれます.しかし,戦争によって得られたその富や名声とは,いったい何のためにあるのでしょうか.」

 ビンビサーラ王は,思いがけない反論を受けていささか不愉快に思いましたが,さあらぬ態にて続けました.

「ゴータマよ,

富と名声とは,はるか古代からクシャトリアの求め続けてきたものであり,その存在理由でありその「おきて」なのであって,神々から与えられたそれなる目的を,私はいささかも疑ったことは私にはなかった.しかし,敢えていえば,富と名声とは,この世の快楽の源泉ではないだろうか.つまり,クシャトリア勤めとは,人間としての快楽の源泉をもとめ戦い得て,それらを部族にもたらすことによって,部族のすべての人々を幸福に安寧たらしめることこそがそれであるだろう.」

 ゴータマはまた答えていいました.

「王よ,

世間では,富こそは快楽の源泉であると申しますが,それは本当でしょうか.また,そこから得られる快楽といえども,真に快楽であるといえるほどのものがどれだけあるでしょうか.

 王よ,

美しい衣服,目に快楽を与えるといわれる諸々のものどもは,実は飾りにすぎず,甘美な夢や幻のごとくであり,真の快楽といえるものではありません.

 衣服とは,本来は,寒暑の苦しみから見を守るための手段であります.水は渇きの苦しみを癒すための手段であり,食物とは飢えの苦しみを満たすための手段であります.家とは,雨風の苦しみから,太陽の酷暑の苦しみから,身を逃れる手段であります.このように,衣服とは,寒さを防ぎ,裸身を覆い,寒暑の苦しみから免れる手段にすぎないのです.車や輿などの乗り物は,旅の苦しみを癒し,腰掛けとは,立ち続ける苦しみを癒し,水浴とは,蚤や虱の苦しみから身を免れる手段にすぎません.つまり,世間でそれを所有することが快楽だと思っているモノどもは,すべて,世の苦しみから身を免れるための手段にすぎず,それを保有すること,それじしんが快楽なのではありません.

王よ,

かくのごとく,富や名声は,それ自身を保有することがその快楽なのではなく,むしろ,それらはこの世の苦しみから身を免れる手段にすぎず,それがいくら過剰にあったとしても,全く役立たないものなのではありますまいか.世にそれを保有することが快楽であると呼ばれるモノどものすべては,実はといえば,この世の苦しみを免れる手段にすぎないのですから,真の快楽とは,世のすべての苦しみから免れており,静かに安らかに善く生き遂げる,ということにあるのではないでしょうか.」

 沈黙があるままです.ゴータマは王に尋ねました.

「王よ,

失礼ながらお尋ねいたしますが,この世の苦しみのうちにおいて,何がもっとも大きな苦しみでありましょうか.」

 王が沈黙し続けるので,ゴータマは続けていいました.

「王よ,

この世の苦しみにおいて,老い,病み,死ぬことの苦しみにまさる苦しみはございますまい.
 寒暑の苦しみにおいては,衣服や住まいが,その苦しみを免れる手段としてございます.飢えの苦しみにおいては食物が,渇きの苦しみにおいては水が,その苦しみを免れる手段としてございます.そして,富や名声は,これらの手段を獲得する源泉であることはたしかなことなのです.

 しかし,王よ,富や名声がいかに大であっても,そこに老いの苦しみを免れる手段を獲得する力はあるでしょうか.病の苦しみを免れる手段を獲得する手段はあるでしょうか.また,死の苦しみの免れる手段はあるでしょうか.むしろ,富や名声は,それが過剰にあることによって却って,それを持つ者の老いを早め,病の苦しみを重くし,その死の苦しみをますます耐えがたいものにするのではないでしょうか.

王よ,

私は,こうした老いの苦しみ,病の苦しみ,死の苦しみを免れる手段をもとめて出家したのでした.それを求める道こそは,富や名声を求めることよりもはるかに困難で,戦士として戦場にあるよりも身を失う危険ははるかに多く,また,長い道のりになるのではないでしょうか.」

王は沈黙のままでした.ゴータマは静かに一礼し,王宮をあとにしたのでありました.

 

[アーラーラ・カーラーマとの対話]

今となっては昔のこと,私はこのように聞いたのでございました.出家したゴータマは,当時,高名な自由思想家であった,アーラーラ・カーラーマのもとにやってまいりました.アーラーラ・カーラーマは,ビンビサーラ王の保護を受けていたこともあり,ゴータマの入門も即刻許してくれたのでした.

さて,当時は,自由思想家たちが活躍した時代で,彼らに入門するといっても今のように教科書があるわけではありません.師と弟子が対話し,その対話で発見された重要と思われる詩句はこれを全員で暗唱する,という次第だったのでした.これは,若きゴータマが,アーラーラ・カーラーマと交わした対話集です.

 まず,アーラーラ・カーラーマは,その知識の神髄を伝えるつもりで語りはじめました.ゴータマの真に志すところを知ろうとしたのでもあります.

「ゴータマなる姓の若者よ,

お聞きなさい.世のすべては,色・かたちあるもの,名あるものからできている.この色・かたちあるものが,数限りない,と思いをなせ.それが,色・かたちあるものには限りがない,という思いである.

次に,世のすべての,色・かたちあるものは,大虚空を漂い動く.この大虚空には,限りがない,という思いをなせ.それが,大虚空には限りがない,という思いなのだ.」
ゴータマは,納得せず,不審の面持ちで尋ねました.

「師アーラーラよ,

私はこのように聞いたのです.人々は,必ず,老い,病み,死ぬのである,と.また,その苦しみを滅し,静かな安らぎに至る方法がある,と.

しかし,今,お話を聞いても疑問は晴れません.人が老い,病み,死ぬということは,いったいどういうことなのでしょうか.」

アーラーラ・カーラーマは答えました.

「簡単なことなのだよ,ゴータマなる姓の若者よ.

あらゆる人は,その欲望ゆえに,色・かたちあるモノたちがあい集まって生まれる.欲望が衰えこの集まりの結びつきが弱くなると,人は老いる.この集まりの結びつきの一部が破れると,人は病む.この集まりの全てが解けると人は死ぬ.

このように,大虚空に漂う,色・かたちあるモノたちが,人々の欲望ゆえに集まって,世界が生まれ,また,欲望が衰えその集まりの凝集力が弱まると世界は老いる.その集まりの一部が破れると,世界は病む.この集まりの全てが解け去ると,世界は死滅する.
 このように,世界は,大虚空の中の,色・かたちあるものの集まりである.この大いなる繰り返しこそが世間であり,それは,サンサーラ,輪廻,と呼ばれる.

ゴータマよ,

色・かたちあるものには限りがない,という思いをなせ.また,大虚空には限りがないという思いをなせ.そうすれば,世の老・病・死の苦しみの依ってきたるところを,あなたは知ることになるだろう.」

「師アーラーラよ,

あなたは,世の老・病・死のありさまを見事に説かれましたが,しかし,その苦しみの集まりの現実に滅する道を,私は聞かなかったのですが,それはいかなるものなのでしょう.」
アーラーラ・カーラーマは驚いて答えました.
「ゴータマよ.

あなたのような問題意識をもった若者に会ったのははじめてだ.あなたは聡明であり道を求める強い意志に満たされている.正直にいおう.いまだに.それなる道をはっきりとは私は知らぬし,それを自ら求めるにおいては,私は老いすぎている.しかし,今までに私が聞き伝えた限りの,偉大な聖仙たちであり,リシと呼ばれた人たちのコトバのことごとくをあなたに伝えることはできるだろう.
ゴータマよ,

私の知る限りの知識をあなたに伝えよう.そこから,自らの道を発見してほしいのだ.」

 

−聖仙(グリ)たち−

アーラーラ・カーラーマは若き日のゴータマにこのように語ったのでした.

「ゴータマよ.

古来,多くの賢人たち,聖仙たち,グリと呼ばれる人たちが,世界はいかにして始まったのか,世界の各事物はどのようにして創られたのか,それはなぜ,世界として統一されて住し続けているのであるか,いったい,誰が,世界を創造し運命づけたのであるか,世界はどこから発生し,どこへ戻っていくのであろうか,という事柄について,真剣に思索してきたのであった.

 そうした人たちのうちには,アガマルシャナ,プラジャパティ・パラメーシュティン,ブラスマナスパティ,アニラ,ディールガタマス,ナーラーヤナ,ヒランガルバ,ウィシュヴァカルマンなどが,ヴェーダの伝統的教説にそれほどはとらわれずに自由に思索してきた思想家の先駆けとしてあげられるだろう.

ゴータマよ,

かくのごとき知識ある古えの人々の教説を学び,また自らの知識経験において批判的に検討することによって,私は,色・カタチ・名あるモノには限りがない,という思い,大いなる虚空には限りがない,という思いに到達したのであったが,老,病,死の真の原因については,未だに考えてついに思いいたることがなかったのであった.

しかし,ゴータマよ,

あなたは聡明であり,道を求める強い意志に満たされており,老,病,死の真の原因を覚り,それを滅する道を見いだし,その道を歩むことができるかもしれない,という希望を私はもつに至った.私は,これらの過去において偉大なリシであり聖仙たちとよばれる人たちの教説を,あなたとともに批判的に検討することによって,あなたの師であることにおいての責務を果たそうと思うのだ.」

 

−世界の諸原因について−

アーラーラ・カーラーマはゴータマに続けていいました.

「ゴータマよ,

アガルマルシャナの説は,このようであったといわれるのだ.世界は,タパス,つまり熱あるいは激情と呼ばれるモノから生じたのである,と.タパスとは,そこから永遠の法則と真理が産み出された根本原理なのであって,そこからまず夜が生まれた.夜から,水が生まれた.水から時間が生まれた.時間は,太陽と月と,天と地と,空(そら)と光とを産み出し,ついには,昼と夜との区別が成立したのである,とかれはいうのである.

 プラフマスパティの説は,このようであったといわれる.無からあらゆる存在が発生したのである,と.無とは,限定されていないこと,無限定ということを意味しており,それらが限定されることによってはじめて,あらゆる事物が存在するに至るのである.無とは,まったくの非存在ではなくて,存在することへの可能性であり,存在することへの潜在的意志である,と彼は考えたのであった.

 プラジャパティ・パラメーシュティンは,これにたいして,存在は無から発生しうるか,と問うのである.無は文字通り存在しない,つまり非存在と解されるべきなのであって,水こそが世界に遍満しており,万有,とくにイノチあるモノの根源なのである,と彼はいうのである.

 アニラは,これにたいして,空気こそが万有の根源である,と主張したのであった.空気は,水よりもはるかに無限定であり世界に遍満しており,しかも固有の運動能力をもつがゆえに,あらゆるイノチあるモノの原理としてふさわしい,と彼は考えたのであった.
 ディールガタマスは,一切は,天における火である太陽から由来する,と考えたのである.太陽は,天において,それ自身に固有する力で往来するのであり,太陽は火という灰色のマテリアから成り立っているのであって,稲妻などの天の火もそのようである,というのである.つまり,火は,熱の原因でもあり,水を産み出しもするのであって,水は植物の生成の原因でもあるのであるから,と.

 ナーラーヤナは,プルシャ,つまり神的なアートマンこそが世界の原理であり宇宙のはじまりであると考えたのであった.太陽,月,大地,水,火,天と大地の間の中空,それらを包む空間の広がり,そして,時間と季節,すべての動物,あらゆる種類の人間たち,そしてそれらを統べる「おきて」とは,プルシャから発しているのである,と.

 ヒランヤガルバの説は,ナーラーヤナ,プラジャパティ・パラメーシュティン,ディールガマスらの説の中間にあったといわれる.つまり,黄金なるマテリアが万物の始原であり,宇宙の法則を産み出す力を有するのであって,そこから世界の事物にはたらくあらゆる力,あらゆる存在,あらゆる神的なモノ,この世のモノどもが生まれるのである,と.また,太陽のマテリアは火であって,火が宇宙の根源的原理である,ともいうのである.

 ヴィシュバカルマンの説は,このようであった.彼は,水が万物のマテリアであって,それに固有な原動力があって,世界が生まれた,というプラジャパティ・パラメーシュティンの説に反対したのである.もし,水が固有の生成力を与えられているのなら,その固有の生成力,原動力,始原性,法則性は何に由来するのであろうか,と彼は問うのである.彼は,そのような世界の原理であり原動力は永遠不変であり,神的なモノである他はない,と考えたのである.神的なモノこそは,世界の始原のあり終末なのであって,それなる神的なモノは,この世界の創造以前に,宇宙的諸力が存在する以前に,唯一無二と存在として既に存在しなければならないはずである,と彼はいうのである.

つまり,過去においてヴェーダの聖仙たちの語ったことは,このようであったといわれるのである.」

 

−老・病・死の苦しみの原因は何か−

若きゴータマはこれらの諸説を聞き終えて,アーラーラ・カーラーマに問いかけました.
「わが師であるアーラーラ・カーラーマよ.

あなたは,ヴェーダの聖仙たちの諸説をまことに見事に語り聞かせてくださいました.
 しかし,私は,世界の始まりであるとか,終わりについての諸説を知りたかったわけではないのです.現に,この世のあらゆるイノチあるモノどもは,必ず,老い,病み,死んでいき,老いの苦しみ,病の苦しみ,そして死の苦しみを受けるのですが,その老,病,死の苦しみは何に依って起こるのでしょうか.世界の依って来る原因ではなく,この老,病,死の苦しみの,依って来るであろう,その原因こそ,私が切実に知りたいことなのです.」

 

−哲学者カピラ−

アーラーラ・カーラーマはさらに語り継ぎました.

「ゴータマよ,

あせってはならない.善き目的の完成,とくにあなたのいうような困難な目的の完成に至るためには,周到な計画が必要であり,そのためには,過去の多くの賢人たちのいうことを批判的に検討し,そこから自らの道を見いだし,自らその道を歩き尽くさねばならぬ.

過去における聖仙たちのうち,その最後の者であった,哲学者カピラに私はもっとも大きな影響を受けたのであった.私はその教説を語るであろう.それを聞き,自らの道を決めるがよいであろう.

彼のいうところの第一の要点とは,真理を真理として語るにおいて,それはまず予め証明されねばならない,というのである.しかも,その証明の根拠とは,直接的知覚と合理的推論のみであらねばならない,と彼はいうのである.

また,第二の要点とは,因果律の主張であって,あらゆる世界の事象には,その事象を引き起こすに至る原因が想定されねばならない,というのである.たとえば,壺が創られるにおいては,粘土を用意し,これを水で壺作りが壺のカタチに形成し,さらに火で焼き固めるのであるから,粘土,水,そして,火がその壺の素材として予め存在しなければならないし,それにさらに,壺作りの作業がつけ加わるのであるから,壺作りの作業こそ,その壺が創られるコトにおける原因である,といえるであろう.布が創られるにおいては,糸が素材であり,織り手が,それを布に織り上げるのであるから,糸なる素材が予め存在している必要があり,さらにそれにつけ加わる布の織り手の作業こそが,その布が織られるコトの原因であるといえるのである.

このように,世界が形成されるにおいては,壺においては,粘土や水や火が素材であり,布においては,糸がその素材であるように,また,壺においては,壺作りの作業が,布においては織り手の作業がその原因であるように,世界においては,土,水,火,風のような素材がまず存在しなければならなかったしまた,それらを世界として形成するに至る「作・業」つまりはモノを作り出す行為や仕事が,その原因として必要とされるであろう,と彼はいうのである.

ここにおいて,そうした世界を形成する原因としては,そうした作られたモノどもを作り出す作業者である世界創造者が必要であろう,とヴェータの賢人たちは推理し考えたのであったろう.しかし,カピラはそれらをも完全に否定するにいたったのであった.

むしろ,彼が着目したのは,世にありとあるイノチあるモノどもの,それらが生まれ,成長するその過程と,老,病,死に至るその過程だったのである.彼は,イノチあるモノが自ら生ずることの原因と,それが自ら成長し,自らをイノチあるモノとして完成し,ついに老い,病み,死にいたる,その原因を深く考察したのであった.つまり,彼は世界の事物の生成運動変化消滅の原因を,世界の事物に内在するであろう何かに求めたのであった.

ゴータマよ,

哲学者カピラの説はこのようであったといわれるのである.」

ゴータマは,心中深く驚き,アーラーラ・カーラーマの話しに聞き入るのでありました.

 アーラーラ・カーラーマはこのように語り継ぎました.
「ゴータマよ,

哲学者カピラは,あらゆるイノチあるモノの依って来たるところである,その原因をあくまで探求しようとしたのであった.

まず,われらが日常的に経験する,この現象するモノどもの世界は,生成されてすでに顕現し終えたモノどもと,未だに生成されず顕現してもいないモノどのから成り立っているのである.さて,生成され終えてすでに顕現し終えたものが,未だに生成される顕現してもいないモノどもの原因であることはないであろうから,すでに生成され終えてすでに顕現し終えたものの原因は,未だにイノチあるモノとはならず,個体としては生成されず顕現もしていない「何か」,に求められねばならないであろう.

さて,全ての生成され終えておりかつ顕現し終えたモノども,つまり,あらゆる個体の大きさは限定されているのである.しかし,未だに生成されもせず顕現してもいないモノは全く限定されていないのであるから,世界の事物のうちには,無限定なモノを限定する,という何らかの原因がなければならない,とカピラは考えたのである.
 カピラは,この無限定な世界を限定し,イノチあるモノである個体を生成し,顕現させる原因として,三つの原理を考えたのであった.その三つとは,サットヴァであり,ラジャスであり,タマスとがそれであった.
 サットヴァとは,イノチあるモノに内在するところの知恵の光であり法であり万物を照らす原理のことなのである.ラジャスとは,そのモノが生き延びんとする欲望であり激情であって,世界の活動性そのものの原理なのである.そして,最後にタマスとは,静止しておりあらゆる活動や活動性に関して無関心な,世界を構成する構造であり,また質料(マテリア)のことなのであった.

つまり,それ自身は活動性のない構造や質料であるタマスが,ラジャスによって活動性を獲得し,それが,うちなる智恵の光に照らされることによってはじめて,イノチあるモノ,個体が生成され,それが世界に顕現するに至るのである,と彼は考えたのであった.たとえば,ランプにおいては,油が芯に供給され,それに火が点火され,燃え上がってはじめて,世界を光で照らし,モノがみえるようになるようなものなのである.ランプにおいては,芯という静的な構造物に,質料でありタマスである油が供給され,それに火でありラジャスが与えられて,はじめてサットヴァと呼ばれる光が発するのであるから.

しからば,このように生じた智恵の光が,いずれ暗黒に帰滅するのがこの世の苦しみの原因なのではなかろうか,

ゴータマよ.

ランプの火が,油の供給を受けることをやめれば,やがては消えるように,イノチあるモノが,その知恵の光を失い,暗黒に帰ってしまう,それこそが,その老,病,死の苦しみの原因であるのではなかろうか.」

ゴータマはアーラーラ・カーラーマに尋ねました.

「しからば,師よ,

その知恵の光を求め,それを灯し続けることこそが,老,病,死の苦しみを滅する道ではないでしょうか.私は,その知恵の光をこそ真摯に求め続けたく存じます.なにとぞそれをお教えくださいますように.」

アーラーラ・カーラーマは答えました.

「ゴータマよ,

その知恵の光をその身に得るためには,多くの実践と修行を必要とするといわれるのである.私はすでに老いはじめており,その知恵の光を自ら求め続け,それを自らのうちに灯し続ける力はすでにないのだ.いま,それを自ら実践し,その身に体得しようとしているのが,ウッダカ・ラーマプッタである.内なる知恵の光を得ようとするならば,彼のもとに行き,その教えを受け,実践修行するがよい.」

 

−疑うことと反省すること−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように伝え聞いたのでありました.これは,ゴータマが,ケーサプッタなるアラーラーラ・カーラーマのところから去るにあたって,疑いと反省との差異と同一について交わした対話であります.

「師アーラーラ・カーラーマよ,

私はこのケーサプッタに来て以来,何人もの隠者や苦行者たちがここを訪れ,それぞれの意見や教説を披瀝しあうのを見聞してきました.彼らは,誰もが他者の教説を非難し反論し,相互に矛盾するコトバを投げつけあって,まったくそれが止むときがないのです.

そのために,私は,どの人のモノの見かたや考えかたが正しいのであるか,想い悩んで止むときがないのです.こうした人々があくまで正しい法を求めているのであるならば,何かしら真実さ,正しさ,ともいうべき基準があるはずでし,あるべきでありましょう.ぜひ,正しさの基準,法の法ともいうべきものをお教えいただきたいのです.」

アーラーラ・カーラーマは,ゴータマを勇気づけていうのでありました.

「善きかなゴータマよ,

そうした疑いと不安を抱くのはもっともなのであって,真理を求める人は,必ずやそうした疑いや不安をもつのであり,またもつべきでもあるのだ.

ゴータマよ,

あなたが伝え聞いたことを単純に鵜呑みにしてはならぬ.人から人に手渡されて手垢のついたモノを単純に受け取ってはならぬ.世間に流布しているおおかたの教説や真理やらといわれるシロモノとは,つまりは伝聞にすぎないのであるから.

 聖なる経典に書かれているとか,理屈において巧みであるとか,表面的な考察であるとか,説かれている教説や信条が自らの立場において好都合であり単に好きであるからとか,そのもっともらしさや,あるいはそれを説いた人が高名な隠者であり苦行者であるから,とかの単純な理由ですんなりと受け入れてはならないのだ.」

ゴータマはさらに問うのでした.

「師アーラーラ・カーラーマよ,

もっともなことであります.しかし,いつまでもそうであるならば,お互いが自らからくる真なるおもいなし,と呼ばれるその信念においてなす論争や疑いは止むことがないでしょう.それについては,真実さ,正しさの基準ともいえる何かがあるべきであって,それが真の法であり,正しい法であり,わたしたちが求めるダルマであるべきではないでしょうか.」

アーラーラ・カーラーマは答えました.

「善きかなゴータマよ,

真理の基準,正しさの基準とは,実は,口でいえばきわめて簡単なことなのだ.しかし,それを行うにおいては,極めて困難な道でもあることを心得るがよいのである.

ゴータマよ,

正しさの基準とは,それを行うにおいて,まず自らに厳しく問うことからはじまるのだ.これこれは健康によくないことである.これこれは自ら行ってはいけないことである.これこれは賢人たちに強く戒められてきたことである.これこれこそは悪しき行いであって,ついに我が身において苦しみと不幸の種となるであろう,と見分けることがそれである.

むろん,これだけでは十分ではない.そうした行いを説く教理が,人々の単純な情念につけこみ,また,無明と呼ばれる欲望に対する無知につけこむものではないのか,多くの生きモノたちを殺害することではないのか,多くの生きモノたちから盗むことではないのか,人々に嘘をつき欺くものではないのか,人々を乱に入らせるものではないのか,人々を邪ならしむるものではないのか,そうした悪しきことを自らにおいてなして反省なく,人々にそれを勧めるものではないか,と厳しく問うことがそれなのである.

そうした現れが少しでもあるならば,それをこそ厳しく疑うべきである.そして,それらの全てが,人々を不健康と不幸に陥れ,つまり老,病,死の苦しみをもたらす種となるものでないか,を厳しく見極めるべきなのである.

ゴータマよ,

たとえば,ヴェーダなる聖典は,自らを神聖であるといい,絶対的な権威であるといい,不可謬であるといいつつも,供物や犠牲を勧め,また,不死なる神々を動かそうとして苦行を勧めるのである.しかし,これらは,生きものを殺すことなのではないのか,これらは,生きものから盗むのではないか,これらは虚偽を説くのではないか,これらは,人々を乱に入らせるものではないのか,これらは,人々を邪ならしむるものではないのだろうか.現に,これらは,多くの人々の健康を損ない,多くの不幸をもたらしているのではないだろうか.」

ゴータマは答えました.

「師アラーラーラ・カーラーマよ,

いかにもそのとおりであります.それらは,多くの人々の健康を損ない,幾多の不幸をもたらしております.それらの聖典は,決して聖でもなく,絶対の権威でもなく,不可謬でもないように見受けられます.」

アーラーラ・カーラーマはいいました.

「善きかなゴータマよ,

しかし,こうした疑いと反省こそは,自由思想家としての極意ではあるが,それを空理空論として人々にみだりに語ってもならぬのだ.ヴェーダの聖典は,多くのバラモンたちによって説かれ続けてきており,今や人々の無明に深く根ざしているからである.このことを語るにおいては,慎重でなければならぬ.あくまで,個々の具体的かつ現実的な事例とその実相のみおいてこれを語るべきなのである.

 このことは,殺生ではないのか,このことは,盗みではないのか,このことは,虚偽ではないのか,このことは,乱に入ることではないのか,このことは,人々の健康を損ない,不幸をもたらすのではないか,このことこそは,ついに,老,病,死の苦しみの種になる悪しきモノどもではなかろうか,と.

そのように,世にありとある悪しきモノどもへの疑いを起こし,自らによく反省し,自ら善きことのみを行おうとすることこそが自由への道である.そうしてこそ,あの世のこの世の虚妄を捨てた人,自由に生きる人,自由思想家の一人であって,真の法に目覚めた者,と呼ばれるに至るであろう.」

 

[ウッダカ・ラーマプッタとの対話]

今となっては昔のこと,私はこのように聞いたのでございました.ゴータと呼ばれた若者は,アーラーラ・カーラーマに示唆されて,彼と別れ,ウッダカ・ラーマプッタのもとに入門したのでありました.これは,若き日のゴータマとウッダカ・ラーマプッタとの対話であります.

ウッダカ・ラーマプッタはゴータマに問いました.

「ゴータマよ.

あなたは,アーラーラ・カーラーマのもとで何を学んできたのであろうか.まず,じぶんなりにそれを語りなさい.それによって私はあなたに教えるべきことを決めようと思うのだ.」

ゴータマは問われていいました.

「アーラーラ・カーラーマは,多くの哲学者たちの説,とくに,大哲学者であったカピラの説を中心として教えておりました.私なりにそれをまとめますと,このようなことでありました.

世のすべては,色・かたちあるもの,名あるものからできている.この色・かたちあるものが,数限りない,と思いをなすべきである.それが,色・かたちあるものには限りがない,という思いなのである,と.

次に,世のすべての,色・かたちあるものは,大虚空を漂い動くのである.この大虚空には,限りがない,という思いをなすべきである.それが,大虚空には限りがない,という思いなのである,と.

しかし,私はこの説には満足できませんでした.それで私はアーラーラ・カーラーマにこのように尋ねたのでありました.

人々は,必ず,老い,病み,死ぬのである,と.また,その苦しみを滅する方法がある,と.また,人が老い,病み,死ぬということは,いったいどういうことなのでしょうか,と.

すると,アーラーラ・カーラーマは,このように教えてくれたのでした.

あらゆるイノチあるモノは,その欲望という名の無知ゆえに,色・かたちあるモノたちがあい集まって生まれるのである.欲望が衰えこの集まりの結びつきが弱くなると,人は老いる.この集まりの結びつきの一部が破れると,人は病む.この集まりの全てが解けると,人は死ぬのである,と.

大虚空に漂う,色・かたちあるモノたちが,人々の欲望ゆえに集まって,世界が生まれ,また,欲望が衰えその集まりの凝集力が弱まると世界は老いる.その集まりの一部が破れると,世界は病む.この集まりの全てが解けると,世界は死滅するのである,と.

このように,世界は,大虚空の中の,色・かたちあるものの,集まりである.こうした大虚空の中の,色・かたち・名あるものが欲望という名の無知によって生まれ,老い,病み,死んでいく,その大いなる繰り返しこそが,世間であり,それは,サンサーラ,世界であり,輪廻である,と呼ばれるのである,と.

色・かたちあるものには限りがない,という思いをなすべきである.また,大虚空には限りがない,という思いをなすべきである.そうすれば,世の老・病・死の苦しみの依ってきたるところを,私たちは知るであろう,と.

しかし,私はまだ納得できませんでした.アーラーラ・カーラーマは,世の老・病・死のありさまを見事に説きましたが,しかし,その苦しみの滅する道を,私は聞かなかったのでした.それを尋ねるためにこそ,私はあなたのもとに入門したのです.」

ウッダカ・ラーマプッタは,いささかためらいながら答えました.

「ゴータマよ.いかにも,私は,老,病,死の苦しみの滅する道を知っている.アーラーラ・カーラーマもむろん,それをすでに知ってはいるのだ.しかし,考えてもみよ,老,病,死の苦しみとは,自らのみが体験するものなのであって,それを真に滅ぼしえた否かは,これもまた自ら体験してみなければわからないのだ.

つまり,老,病,死の苦しみの滅する道を歩む,とは,単なる頭の中の知識であるだけはなく,それなる知識において自ら歩み続けることであり,たんなる理論であるだけではなく,その理論を生涯にわたって実践し実験することである.理論として語ればあまりにも平易で常識的ではあるが,自らの心身をもってその理論を実践することは,いわば自らの心身を対象とする人体実験なのだ.実験であれば,当然,成功もあれば失敗もある.むしろ,失敗例のほうが多いかもしれない.それを自らに行うにおいてはあまりにも多くの危険と困難をともなうことを覚悟せねばならないのだ.

老,病,死の苦しみの滅する道,その果てには確かに静かな安らぎがあるであろう.しかし,その道はそれぞれが自ら発見しなければならず,しかも,その道は,あまりにも困難であり,危険に満ちているのだ.道は狭く険しい.それをいささかでも踏み外せば,野獣の餌食となるであろう.道は遠い.行き疲れれば,飢え死にするであろう.

見れば,あなたはまだ若く壮年である.森に住み,法をもとめ,道を実践するにおいては,いま少し,老齢に達してからでもよいのではないだろうか.人は,若き時には人に学んで自らを育て,壮年に至っては,世間にたいして人としての勤めを誠実に果たすべきなのであって,すでに,世間においてなすべきことをなし尽くし終えて,今や,老い,病み,死ぬべきときがきてこそ,その苦しみを滅する道を歩きはじめるのがよいのである.」

 

−ゴータマの告白−

ゴータマは答えました.

「師ウッダカよ,

私は,老,病,死の苦しみを滅する道を知り,自らもそれを歩もうとして,全てを捨ててまいりました.まず,私は,シャカ族王の子として生まれたのですが,母は,私を生んですぐ死んだため,私は叔母の手で育てられたのです.私の死を真っ先に悲しむであろう母はもういないのです.

シャカ族は自由をその宗とする勇猛果敢な部族であり,その王は,戦士にして指揮官であり,勇猛中の勇猛なる者,獅子の中の獅子が,勤めるのが習わしです.しかし,私は,健康ではありましたが,戦士になるつもりは全くなく,むしろ,動物は大好きでありますから,乗馬ばかりをたしなんでおりました.つまり,弓矢の訓練も,剣を振るうこともなく,およそ,いかなるものも自らの手で殺すことをためらってしまうような,多くの市民であり戦士である人々から見れば明らかに柔弱者でありました.

私は,幼くして母を失い叔母の溺愛を受けて育ちました.それゆえか,むしろ,動植物を愛することのみ甚だしく,戦車に乗り矢を射ることも全く嫌いでした.しかし,王は,戦士の指揮官なのであって,そして指揮者を育てるのがつとめです.したがって,わが父なる王は,私が王権の後継者争いに加わることをむしろ望んでおりません.この動乱の時代の始まりにあって,シャカ族とても戦乱に巻き込まれざるをえないでしょう.そのときに必要なのは,自らを戦乱の真っ只中に置いて冷静沈着にして剛毅不屈,しかも敵にたいしては冷酷非情でありうるような断固たる指揮官なのであって,自らの手で何一つ殺すことのできない柔弱者ではありません.今となっては,私の出離と,その死を悲しむものは,シャカ族の勇者の中には全くいないでありましょう.

また,私は,王族の血を絶やさぬため,若くして妻を得,人々が世に得難いような早すぎた歓楽を楽しんだのでした.わが妻は,すでに男子を得て,私は世に生まれた勤めを既に果たしました.戦士の資格のない私が,その子を養育すれば,その子は,戦士には育ちません.妻は,王者の娘です.その男子を王者に育てるのがむしろその勤めです.私の死を悲しむ者は,もはやシャカ族には誰もいないでありましょう.」

 

−無所有の思想−

ウッダカ・ラーマプッタはいいました.

「なるほど,ゴータマよ,

既に,人としての世間の勤めを果たし終えたと主張するのなら,こころおきなく,自らの老,病,死の苦しみの集まりの滅する道を歩むがよいであろう.

苦しみの集まりの滅する道,それは,あなた自身,既に,それを知っていると言えるほど簡単なことなのだ.しかし,実際に自らの心身においてそれを体得するに至るまでは,それは険しく長い道になることであろう.

私は,それを俗人たちに秘密にしてきたのであった.なぜなら,この法こそは,自ら行うにはあまりにも危険すぎるからであった.また,この法こそは,自ら行い,自ら納得する他に,知る手だてがないからでもあった.あなた自身の老,病,死の苦しみは,あなただけのものである.その法に依り,老い,病み,死の苦しみの集まりを滅することを証明できるのは,ゴータマよ,あなた自身をおいて他にはないのである.

ゴータマよ,

あなたは,未だに敢えてそれを,私に聞く必要があるのだろうか.それを聞けば,それを行うことを誓ってもらわねばならぬ.だから私は,わが法の友であるアーラーラからの紹介がない人には,決して会わぬことにしてきたのであった.」

ゴータマと,ウッダカ・ラーマプッタはこのように語りあったのでありました.

「師ウッダカよ,

それなる法を語りたまえ.それを聞いて,それなる道を誠実に行うことを私は誓いましょう.」

「ゴータマよ.まず,私を見よ.私は若いであろうか?」

「いや,師ウッダカよ.あなたは,既に年老いておられます.」

「ゴータマよ.私を見なさい.私は健康であろうか?」

「師ウッダカよ.失礼かもしれませんが,あなたの皮膚は老い衰え,既に,健康であると私に見えるのは,わずかにその眼の輝きだけ,となっておられます.あなたの身体は老いており,むしろ,病者に近いのです.」

「ゴータマ.私を見よ.私は不死なる者であろうか?」

「師ウッダカよ.

あなたは,現に老いており,病み,死に近い,と私には見えます.また,私は,いかなる者も生じて滅する,世に不死なる者はない,と聞きました.

全ての事物は,速やかに過ぎ去るのが現に観察されます.あらゆる人は,生まれたからには,老い,病み,死ぬのであって,それに例外は一切認められません.それが厳然たる法なのであります.」
「善きかな.ゴータマよ.

あなたには,正しく見て,正しく語った.すでに,道の人たる資格があるといえよう.あなたは正直である,自らが見たままをそのまま法において見ると語るのであるから.

あなたは正直である.自らが聞くままをそのまま法において聞くと語るのであるから.そのように誠実に,自らが考えたことを,そのまま法において考えることであると正しく語るべきである.

そのように誠実に,自らが思うがままを,そのまま法において思うことであると正しく語るべきである.

正しい法が何であるか,正しい道が何であるか,わからなくなった時は,初心に帰って考え直すことである.それでもわからない時は,静かな場所に静かに座して,自分が行ってきたことを反省することである.それでもよく分からないのならば,その時にも,さらに規則正しく反省を続けることなのである.いずれ,真の法の目覚めがやってくる,と希望をもち続けることである.

このように,正しく見る,聞く,話す,そして,静かな反省,そしてそれを繰り返す規則正しい生活をなすべきである.その結果,あなたは,老いの苦しみを離れた者,病の苦しみを離れた者,死の苦しみを離れた者,真実の法に目覚めた者となるであろう.」

「師ウッダカよ,

お言葉ですが,既に私は,師アーラーラの教えに従って,そのような生活をしてまいったつもりでありました.しかし,アーラーラは,苦しみの原因,その成り立ちについて教えてくれたのみだったのです.

今また,師ウッダカは,師アーラーラと殆ど同じようなことを仰るのです.そうした単調な繰り返しが,ホントにはたして,老,病,死のその苦しみの集まりの滅する道なのでしょうか.現に,師ウッダカも既に,老い,病み,そして,死に近いのです.私には,師アーラーラ・カラーラーマも,師ウッダカ・ラーマプッタも,現に,老,病,死の苦しみを滅したとは全く思えないのです.私には,さらに疑問が増えるばかりです.」

ウッダカ・ラーマプッタは,ついにゴータマに語りかけていうのでありました.

「善きかなゴータマよ,

私はそのような素直な疑問を待っていたのであった.

いかにも,老,病,死の苦しみの集まりの滅する道は,険しく遠いのである.その道を歩くために,古くから言い伝えられた,私が知る限りの,反省の方法,コツを教えようではないか.くじけそうな時に,繰り返し思い出しなさい.

まず,これなる色・かたち・名あるものどもは,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.私の頭の髪も,私の頭も,私の手も,私の足も,私の身体の全てが,我がモノではない,との思いをなすべきである.

私の眼が見るモノは,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.私の眼も,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.

私の耳が聞くモノは,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.私の耳も,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.

私の口が語る言葉は,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.私の口も,我がモノに非ず,との思いをなすべきである.

我が思いの対象である,色・かたち・名あるモノどもは,全て我がモノには非ず,との思いをなすべきである.色・かたち・名あるモノどもを我がモノに非ずとするその我が思いとても,全て我がモノに非ずとの思いをなすべきである.

そのように,全ての,色・かたち・名あるモノどもの滅するところ,全ての,色・かたち・名あるモノどもの思いの滅するところ,全ての色・かたち・名あるモノどものが我がモノである,との思いが滅するところ,全ての色・かたち・名あるモノどものが我がモノであるとの思いもまた,ついに滅し終われるところ,そこに,静かな安らぎの場所があるだろう,と私は説くのみなのである.

ゴータマよ,

あなたが正直に言ったとおり,私は,老い,病み,死ぬばかりなのだ.あなたの助けにはなれぬ.これからは,あなた一人の厳しい修行となるであろう.もし,困ったことがあったならば,私の若き法の友,といっても,あなたには先輩にあたるであろうコンダンニャを尋ね,道をともにしなさい.

若き法の友,ゴータマよ,

私はあなたのような知的誠実さと,困難な道を歩む勇気のある人に会えてはなはだ幸運であった.無知を照らす知恵であるところの知的誠実さと,真の知恵を得るこめにその道を歩み,自らの心身においてそれを実験しようとする勇気を兼ね備える人は決して多くはないのである.あなたは,アーラーラ・カーラーマ,そして,ウッダカ・ラーマプッタにおいては若き法の友であったし,法を継ぐものであった.あなた自身が選んだその道を行くことだ.あなたは,いずれ,真の道に目覚めた者,真の法に目覚めた者,となるであろう.

私があなたに教えてあげられることは,これ以上には何もない.もろもろの事物はあまりにも疾く過ぎ去るのである.今や,あなた自らの心身において,法を実現し体現する時が来たのである.誠実に,勇気を持って,あなたじしんの道を歩み終えなさい.

色・かたち・名あるものたちの尽きるところ,色・かたち・名あるものたちを容れる大いなる広がりである空虚が尽きるところ,色・かたち・名あるものが我が物であるとの思いが尽きるところ,色・かたち・名あるものが我が者でないとの思いもまた尽きるところ,そこに,老い,病み,苦しみの集まりの滅する道の究極,静かな安らぎがあるであろう.

今や,あなた自身が選んだその道へ,誠実さと勇気を持って出発すべきその時がきたのである.」

 

[悪魔たちとの対話]

−犀の角のようにただ独り歩め−

今となっては昔のこと,私はある独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.

「あらゆる生き物を殺してはならぬ.それから盗んではならぬ.利己的な愛欲の対象としてもならぬ.子どもや異性を,その意志に反してまで邪に欲してはならぬ.いわんやなぜ,朋友にことさら親密な交わりを求める必要があるのであろうか.むしろ,犀の角のようにただ独り歩め.

あたかも林の中で,縛られていない鹿が,食物を求めて欲するところに赴くように,智恵ある人は独立しつつ自由な境地を目指すべきである.しからば,犀のようにただ独り歩め.

もし,あなたが,賢明であって協同しつつ行いを正しくする明敏な同伴者を得たならば,一切の危難に打ち克つことができるであろう.こころ喜んで,思いや想いそして念いをおちつけて,彼とともに歩め.

しかしもし,あなたが,賢明であって協同しつつ行いを正しくする明敏な同伴者を得ないならば,あたかも王が征服した土地を棄て去るようになすべきである.むしろ,犀の角のようにただ独り歩め.

われらは実に信頼しえ尊敬しうる友を得る幸いを誉め称える.自らより優れたあるいは等しい友には親しく近づくべきである.このような友を得ないならば,むしろ罪のない正しい生活を楽しむのがよいのである.しからば,犀の角のようにただ独り歩め.」

 

―老魔・病魔・死魔との出会い−

今となっては昔のこと,私はこのように聞いたのでございます.若きゴータマはウッダカ・ラーマプッタと別れ,ついにただ独り,出家修行の旅にでたのでありました.これは,そのときのゴータマと,悪魔たちとの対話でございます.

ゴータマは,苦行者の姿で森林を彷徨っております.髪は長く乱れ,梳らず,垢じみて,飢えており,足は疲れ,身体は震えております.それはさながら,

「歩め,道の人よ.犀の角の如く.歩め,道の人よ.ただ一人.道は険しい.空処には,野獣が住まう.夜は,それとともに臥さねばならぬ.道は長い.道端にはナーガが住まう.夜は,それとともに臥さねばならぬ.道は遠い.食するものとては,樹林にたわわなる,マンゴーの実にあらず,わずか,草の実のみ.髪は梳らず,蚤虱わき,身体は垢染みて,ひびだらけ.それでも,歩め,道の人よ.犀の角の如く.それでも,歩め,道の人よ.ただ一人.」

という次第だったのであります.ゴータマは独りつぶやくのでありました.
「道は遠い,私は疲れている.道は長い,私は飢えている.足はなえ,身体も震える.休憩をとらなければ,私は死ぬかもしれない.幸い,ここに,大きな菩提樹がある.草を敷き,ここに暫く座すことにしよう.」

ゴータマがまどろんでおりますと,老,病,死の三人の悪魔登場いたしました.彼らがゴータマに呼びかけます.

「ゴータマよ」

「私の名を呼ぶのは誰か」

「私の名は,老いである.あなたは,疲れ,飢えている.あなたは,老いに近い.疲れは,身体を老いさせる.飢えは身体を老いさせる.なぜ,ただ一人,道にあって,飢え,疲れるのか.」

「私は,老いの苦しみ,病の苦しみ,死の苦しみの集まりを滅ぼすため,道にあるのだ.」
「わっはっは.おやおやだ.疲れは老いを呼ぶのを知らぬのか.飢えは老いを呼ぶのである.私は,老魔である.私はあなたに呼ばれてやってきたのだ.私を呼ぶのはあなたなのだ.」

「ゴータマよ」

「私の名を呼ぶのは誰か」

「私の名は,病である.あなたの髪は梳らず,虱が住んでいる.虱は病を呼ぶのである.私は,病魔である.私はあなたに呼ばれてやってきたのだ.私を呼ぶのはあなたなのだ.」「ゴータマよ」

「私の名を呼ぶのは誰か」

「私の名は,死である.あなたの体は震えている.あなたは飢えによって老い,虱によって病み,その垢や異物によって汚れた身体は震えている.その震えによってあなたは死ぬであろう.私は,死魔である.私はあなたに呼ばれてやってきたのだ.私を呼ぶのはあなたなのだ.」

「ゴータマよ」

「私の名を呼ぶのは誰か」

「我らは,老いである.我らは病である.我らは死である.我らは老魔である.我らは病魔である.我らは死魔である.我らはなんじの飢えである,我らはなんじの不潔に巣くう虱である,我らはなんじの垢や異物や汚れに巣くう身体の震えである.我らはなんじの老いであり,病であり,死である.」

 

−スジャータとの出会い−

今となっては昔のこと,私はこのように聞いたのです.引き続き,これは,若きゴータマと悪魔たちの対話,そして,村の娘スジャータとの出会い,そして対話でございます.その日の夕方であります.スジャータなる村の娘が,飢え疲れて,菩提樹の下に倒れ伏したゴータマに,水を持って心配そうに呼びかけております.

「もし,出家修行者のかた!

ゴータマもやがて気がついて答えます.

「私の名を呼ぶのは誰だ.また,老,病,死の悪魔か.」

スジャータは呆れて答えます.

「悪魔ですって? 冗談じゃないよ.あたい,人間だよ.まるで魔物,と思ったのは,こっちさ.髪はボウボウ,ボロをまとってほとんど裸,あげく,骨と皮ばかり.話にはよく聞いた,羅刹,墓場で人の骨を食べる連中か,と思ったのはこっちさ.」

ゴータマ,ようやく起き上がるが沈黙のままです.

「口もきけないようだから,まず,水を置いとくからね.」

夜.ゴータマはまた瞑想に入ります.しかし,あいかわらず,老・病・死の三魔が現れるのみなのでありました.そして次の日の朝,ミルク粥を持って,スジャータが訪れます.

「おや,今日は,起きているのね.昨日は水だったけど,今日は,ミルク粥よ.少し,これでも食べて元気を出さないと,ホントに死んでしまうわよ.」

ゴータマ,沈黙のままです.しかし,心中ではこのように思うのでありました.

「今,私は,若くして老いた.今,私は,若くして病む.今,私は,若くして死ぬであろう.私は,飢えと,疲れゆえ,老い,病み,死ぬであろう.

飢えは苦しいか.否.そうした段階はとうに過ぎた.老いは苦しいか.否.そうした段階はとうに過ぎた.病は苦しいか.否.そうした段階はとうに過ぎた.

死は苦しいか.いや,そうした段階もまた,すみやかに,過ぎ去るであろう.あとは,静かな安らぎのみのハズだ.私は,飢えの恐怖とその苦しみを越えた.しかし,何が変わったのだろう.私は,老い恐怖と苦しみを越えた.しかし,何が変わったのだろう.私は,病の恐怖と苦しみを越えた.しかし,何が変わったのだろう.私は,死の恐怖と苦しみを越えるであろう.しかし,何が変わるのだろう.私は,飢えの苦しみを越え,老いの苦しみを越え,病の苦しみを越え,死の苦しみを越えるであろう.しかし,老魔,病魔,死魔は,夜毎に私を訪れる.この悪夢のような現実は,全く変わっていない.なぜだ?

おかしい,この,老いの苦しみを越えた境地はどこか疑わしい.病の苦しみを超えた境地もまた疑わしい.死の苦しみを超えた境地とやらは,さらに疑わしい.

私は,若くして,老いの苦しみを越えた.もはや,老いの苦しみを恐れぬ者である.私は,若くして,病の苦しみを越えたのである.もはや,病の苦しみを恐れぬ者である.私は,若くして,ついに,死の苦しみを越えるであろう.そして,一切の,老いの苦しみ,病いの苦しみ,そして死の苦しみを恐れぬ者となるだろう.老いざる境地,不壊な境地,不死なる境地に達しよう.しかし,今や,最後の疑いが,私を苦しめる.ほんとうに,これでよかったのか,と.」

ゴータマは,黙考いたします.しかし,一度生じた疑いは,全く晴れるどころではありません.ふと,ミルク粥に気がつきます.ふっくらとして.香ばしく,いい臭いがするのであります.ゴータマはさらに思うのでありました.

「この粥の白き色,これこそは,わが欲望である.このミルクのよい臭い,これこそは,わが欲望である.この白き色を見る私の眼.これこそは,わが欲望である.このよい臭いを嗅ぐ私の鼻.これもまた,わが欲望である.

この欲望の対象であるミルク粥は,我が物に非ず.私の欲望であるこの眼も鼻は,我が物に非ず.私は,この欲望の対象,を捨てて省みないのだ.私は,この欲望の対象を求める欲望,を捨てて省みないであろう.私は,このように,全ての欲望を捨てる者である.彼の岸に至る者である.解脱する者である.目覚めた者である.死後,善き人と呼ばれるであろう.死後,幸ある者と呼ばれるであろう.今は,その資格ある者,である.私こそは,すでに,聖なる者,彼の岸に立つべき者なのだ.

しかし,彼の岸は,どこにあるのだろう.私の眼前にあるのは,ただ白き粥のみであって,私の鼻を動かすものは,ミルクの臭いにすぎないのだ.これが,静かな安らぎの岸であるはずはない.」

ゴータマは,さらに考え込むのであります.

「ゴータマよ,何を恐れる.汝は,老いの苦しみを恐れるか.否.汝は,病の苦しみを恐れるか.否.汝は,死の苦しみを恐れるか.断固として否.私は,今,まさに死すべき者として,ここにあるのだから.

いや,私は恐れている.私は,まことに聖者であるのか,解脱して,静かな安らぎの岸に達したのか,という疑いを棄てきれない.

私は,何者をも恐れぬ者,獅子中の獅子,王者の中の王者,世界の主の中の主,そのような聖者であろうと志したはずであった.私が恐れているのは,今ここに 死して,聖者とならざらんことのみなのではなかろうか.

何かがおかしい...そうか! 今捨て去るべきなのは,聖者としての最後の誇り,我が高慢と偏見,それのみではなかろうか.このまま,この高慢と偏見を捨てずして,飢えて死んでは,私は,虚名を求めるもの,となろうやもしれぬ.」

ゴータマは放心状態で,のろのろと,ミルク粥を食べ終わりました.食べ終わって,スコールがあり,雷鳴があり轟然たる落雷があり,大地が震動したかのようでありました.ゴータマの,ただ独りでの修行,断食の行は未完に終わったのであります.これらは,全てを失った思いゆえの幻覚であったのかもしれません.ゴータマは虚脱状態でただ独りで残されたのでありました.

 

[スジャータとの対話]

−はじまり−

今となっては昔のこと,これはまた,私が,ただ独りで覚りを求める修行者から聞いた話しなのであります.次の朝,また,スジャータは,ミルク粥を持ってゴータマのもとにおとずれたのでありました.しかし,ゴータマはまだ死んだかのようであります.

「おや,大変! あらいやだ,死んじゃったのかしら.ちょっと,出家修行者のかた!」

スジャータはあわてて,ゴータマを揺すりたてます.ゴータマはようやくうっすらと眼を開けるのでありました.

「あら,なんだ.生きてるじゃない.今日もミルク粥を持ってきたわよ.早く食べて,元気になりなさい.」

スジャータは,ミルク粥を置いて帰りかけるのでありました.しかし,ふと思いついて聞くのでした.

「そう言えば,あんた,名前を聞いてなかったわね.私,ネーランジャ河のほとりのこの村の村長の娘でスジャータというのよ.ちょっとあんた,人の名前だけを聞いて答えないつもりなの? いつもいつも,黙ってばかりで,とっても失礼よ.」

ゴータマも,失礼といわれては,さすがに黙っていられないのであります.もはや,断食の行も中断し,無言の行もとてもあったものではありません.しかし,かつての若々しい勢いはなく,疲れて果ててのろのろと重々しく語るのみなのでした.

「私は,かつては,ゴータマと世間に呼ばれし者,そして,今こそ,全ての欲望を捨て去りし者なり.」

スジャータはすっかり呆れ果てていいました.

「ゴータマさん,あのねぇ,寝ぼけて,馬鹿言ってるんじゃないわよ.あんた,全ての欲望を捨てさるどころか,煩悩だらけの五体満足で生きてるのよ! とにかく,こんど会う時は,そのボロからはみ出たお〇〇〇〇をしまっておいてちょうだいよ.あたい,村の人たちに,恥ずかしくてしょうがないから.じゃ,またね.」

ゴータマは自分の姿を省みて愕然とするのみでありました.このように,ゴータマのただ独りでの修行は終わりを告げたのであります.若きゴータマは,後には史上ただ独りのブッダと言われた人でございますが,名族である釈迦族の王家の一人として,おそらくは,誇り高い人として.育ったのでございましょう.しかし,その自らの高慢と偏見を,キチンと反省できるか否かが,凡人とそうでない人の分かれ目になるんじゃないでしょうか.さぁ,お立ち会い.どんどん面白くなりますから,つづきを楽しみにしてくださいね.

 

−老・病・死の苦しみの集まりの滅する道−

今となっては昔のこと,私はこのように聞いたのでございます.再び,ゴータマと村の娘スジャータとの対話でございます.

次の朝,スジャータはいつものようにミルク粥を持ってやってきます.ゴータマは少し元気になったようですが,その悩みは深まったようです.菩提樹の下に座してはおりますが,どうにも落ち着かないようすでありました.

「ゴータマさん,おはよう.」

ゴータマは,沈黙のまま粥を受けます.スジャータは,しかし毎度のことではありますが,今朝ばかりは少しムッとしているようです.

「あんた,いつも黙ってばかりで,いったい,何のため?」

ゴータマは修行を中断したことにまだ悔いが残っています.しかも,修行中に女性と気安く話をすることはとても許されることでもあるまい,と少し悩んだすえ,もうどうにでもなれという気分であります.ポツポツと,スジャータと話をしはじめるのでありました.

「スジャータさん,

私は,老,病,死の苦しみの原因をつきとめ,その苦しみを滅する方法を修行し実践しているのです.」

スジャータは,突然,笑いだすのでありました.ゴータマは呆気にとられております.

「ゴータマさん,ごめんなさい.あんまりおかしいもんだから,つい.」

こんどは,ゴータマが少しムッといたします.憮然としつつも,やや真剣な面持ちで語りはじめるのでありました.

「どこが,おかしいというのでしょうか.

この世の全ては,生じたからには,老い,病み,死にいたるでしょう.この世の全ては,生じたものゆえに,滅するものなのです.この世の全ては,生成されたものであるがゆえに,消滅することを免れぬのです.そうした色・かたち・名あるモノどもの絶えざる生成運動変化消滅こそが,苦しみの原因なのです.

何者も,生まれたがゆえに,老い,病み,死ぬのです.形成れたモノとして生まれたがゆえに,老いの苦しみ,病の苦しみ,そして,死ぬことの苦しみを免れぬ.この世のイノチあるモノの全ては,老い,病み,そして,死ぬのでありまして,世界は,その老,病,死の苦しみに燃えているのです.

およそ,全ての人もまた,老い,病み,死ぬことを免れない.この世に,不老の人も,病まない人も,不死な人もいないのです.私は,不老の人,病まない人,不死な人となるための修行をしているわけではないのです.不可能なことを可能にしようとしているわけではないのです.ただただ,人々の老,病,死の苦しみを滅する方法を知り,それを自らためそうと,修行しているのです.そのどこが,いったい,何がおかしいのでしょうか.」

スジャータは,いままで沈黙のままであったゴータマが,いきなり,あまりにも雄弁に語りたてるので,ちょっと驚いて答えました.

「ゴータマさん,

私が笑ったのは,そんなことじゃないのよ.あんたの考えと,あんたが実際していることが,あんまり食い違って違っていて,可笑しいもんだから.つい,笑ってごめんね.」

スジャータは,やや平静な面持ちで語りはじめるのでありました.

「あんたの言うことは,タブン,ホントのコトでしょう.でも,私は,ただの村の娘よ,あんたのいうことは,難しくて,ちっともわかりゃしないのよ.セイセイショウメツするって何のこと.ゲンインって何のことかしら.私,生まれてから,今までそんな言葉はマルデ聞いたことがないので,ただ驚いたのです.

あんた,って,どっか,私の知らない,とお〜い遠い,他の世界からでも来たんでしょ.だから,あたいが,あんたの言葉がわからないように,あんたも,この世界のことがちっともわからないんじゃないのかしら.

私たちの村には,昔から,老いる苦しみを受けることもない,病む苦しみを受けることもない,死ぬ苦しみを受けることもない.そうした方法が,古い『おきて』,つまり法としてちゃんと伝えられているのよ.」

スジャータは,さらに歌うように語り続けるのでありました.

「私は,今,若いのです.ず〜っと,その若さが続きますようにと願いつつ,私は,毎朝,おいしいミルク粥を作るのです.それを,みんなと一緒に食べ,そして,みんなや牛といっしょに汗を流し,いっしょうけんめい,働くのです.それが,私がいつまでも若くあり続けることなのです.そして,決して老いの苦しみを受けないことなのです.

私は,今,健康なのです.ず〜っと,その健康が続きますようにと願いつつ,私は毎朝,水浴びをするのです.そして,髪を梳り,体を洗うのです.蚤や虱がたからぬように,と.そして,家の回りを清潔にするのです.それが,私が健康であり続けることなのです.そして,決して病の苦しみを受けないことなのです.

私はまだ若いのです.未だに,死からは遠いのです.そして,ず〜っと,死から遠くありますようと願うのです.

もちろん,私もいずれ老いて,病み,そして死ぬでしょう.でも,その前に,若く,健康であるうちに,私は愛する人の子どもを生むでしょう.そして,愛する人といっしょに,その子を育てるでしょう.

その子たちは,私に慈しまれてきっと若く,健康に育つでしょう.その子たちが,ず〜っと若く,健康でありますようにと願いつつ,ついには私も,老いるときが来るでしょうし,そして病むでしょうし,ついには死ぬでしょう.老いたとき,病んだとき,そして,死ぬときには,その子たちの悲しみが,私の死の苦しみのなぐさめとなるでしょう.

それが,私が,老い,病み,死なないことなのです.それが,私が,老いの苦しみを受けないことなのです.それが,私が,病の苦しみを受けないことなのです.それが私にとって,死の苦しみを受けないことなのです.」

やや沈黙があります.スジャータはさらにいたずらっぽく言うのでした.

「だからね,ゴータマさん,あんた,村の泉に行って,自分の姿を見てごらんなさい.あんたの痩せ衰えた体.それが,あなたの老いでしょう.あんたの虱の沸いた髪,それが,あなたの病でしょう.あんたは,飢えと虱に悩まされ,静かに座ることもできないで,死ぬほどの恐怖と,その苦しみを味わっているのよ.

その,キタナく長い虱だらけの髪を,お切りなさい.その,キタナく虱だらけのボロを,さっさとお洗濯しなさい.その,キタナく臭い垢だらけの体を,どうにかしなさい.そして,ミルク粥を食べて,早く元気になりなさい.そうすれば,み〜んな,きれいさっぱりよ.あなたは,老いの苦しみを滅ぼし,再び若くなるでしょう.あなたは,病の苦しみを滅ぼし,再び健康になるでしょう.

そのようにして,あなたは,飢えと虱と垢だらけの身体から解放されて自由になる.そうすれば,自然に,死の恐怖の苦しみから逃れるわ.きっと,死の苦しみからは,遠いものになるに違いないのです.」

ゴータマ,はこれを聞き,またまた愕然とするのみでありました.そして深く考えこむばかりでありました.

次の朝のことです.伸び放題であった蚤虱だらけの髪を切り落としたのでありました.また,ネーランジャ河で水浴びをして,ボロを洗濯し,体全体の垢を洗い落とのでありました.そして,ついに,菩提樹の下に心静かに座すのでありました.さてさて,お立ち会いのみなさま,いかがでございましょうか.飢えと虱と垢に悩まされたのでは,いくら,頭がよくって,若くったって,体力があったって,悟ることなんか金輪際できっこないもんじゃございませんでしょうか.

いろんな考えを反省し,まとめるにはまずは清潔,そして,精神統一,でございますね.そして,人間の脳味噌こそ人間にあっては一番大食いなのです.深く考え事をしようとすればなおさら,きちんと栄養を補給する必要があります.飢えていては,考え事ができないのがあたりまえで,栄養不良や,万一,酸素不足にでもなれば脳が真っ先に死ぬのですよ.過剰なダイエットや断食などしていては,頭がまずバカになるだけでしょう.気をつけましょう.

さて,お立ち会い.次は,インドラ,ブラフマン,神々との対話へと,続くのでもない,続かないのでもない,続くのでも続かないのでもないのでございます.

 

[インドラとの対話]

−インドラの叱責−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでございました.これは,若者ゴータマと,神々の王インドラとの対話なのでございます.ゴータマは菩提樹の下で,瞑想中であります.神々の王であるインドラがそのビジョン(幻影)のうちに登場いたします.光輝く矛と盾を持ち,堂々たる戦士にして王のいでたちであり,炎のような馬をつけた戦車に乗っています.轟々と砂塵をあげて街道を走り来たり,ついに,菩提樹の下に至り,ゴータマを見て止まるのでありました.その顔は,なんと,驚いたことに,ゴータマの父,スッドゥーダナ王に瓜二つなのでありました.

インドラはゴータマに呼びかけます.

「ゴータマよ」

ゴータマは無言のままです.インドラはさらに呼びかけます.

「ゴータマよ」

さらにゴータマは無言のままでありますから,インドラは業をにやしてさらにいうのでした.

「ゴータマよ!

 なぜ,返事をせぬのか.まぁよい.無言の修行でもあろうからな.」

神々の王,インドラはゴータマをこのように強く叱責するのでありました.

「ゴータマよ,

我こそは神々の王,インドラである.我は,この矛でもって,世界を征するものである.我は,この盾でもって,世界を守るものである.我は,この戦車でもって,世界を周ねく馳せめぐるのである.かつて,世界の全ては,わが矛によって征せられたのであった.かつて,世界の全ては,わが盾によって守られたのであった.かつて,世界の全ては,わが戦車によって蹂躪せられたのであった

ゴータマよ,なんじは知っておるのか.なんじの父,スッドゥーダナ王こそは,かつて,獅子中の獅子,戦士中の戦士であった.シャカ族の希望であった.その矛で,世界を征すべきものであった.その盾で,世界を守るべきものであった.その戦車で,世界を蹂躪すべきものであったのだ.

しかし,今や,彼は老いた.そして,今や,彼は病んでおる.いずれ,彼は死ぬであろう.シャカ族も,老いた.彼らもまた,病んでおる.なんとなれば,王族の中からも,なんじのような柔弱者が,続出しておるのだからな.

かつて,神々の王にして,我なるインドラは,おおいなる平原を踏破し,豊かなる森林に狩りしたものであった.幸多き大地と,恵み多き大河と,多くの奴隷たちに富む,この大いなるインドは,神々の王にして,我なるインドラが,征し,守り,周遊してきたのであったのだ.

さて,そのように,今,再び,このインドは戦乱の巷となるであろう.すなわち,戦士たちは,矛をとり盾をとり,戦車を駆って,土地と奴隷と富を奪い合い,あい争うであろう.群小の都市は,武器は豊かに,馬も肥えている.お互いに覇権を求めている.勝利した都市はより大にして,敗北した都市はより小となり,お互いがお互いをうち滅ぼすまで,その最後の一市民に至るまでもが戦いの野に駆り出されるであろう.

いずれにせよ,今や,戦いは避けられぬ.しからば,戦え,そして,勝利せよ.しからずんば,亡び去るのみであろう.」

インドラはさらにゴータマを叱責するのでありました.

「ゴータマよ,なぜこの危急存亡のときにあって,父を捨てたのだ.なぜ,再びシャカ族の希望となろうとはせぬのか.なぜ,世界を,その矛でもって,征するものとならぬのか.なぜ,世界を,その盾でもって,守るものとならぬのか.なぜ,世界を,その戦車でもって,周ねく駆けめぐるものとならぬのか.

シャカ族こそは,そのような戦士の中の戦士の末裔にして.光のごとき矛と盾を持ち,炎のごとく戦車を駆り,かつて,世界を支配した,王の中の王であった.なんじはその末裔なのだ.太陽のごとく,世界を征し,守り,馳せ巡る,王にして,炎のごとき光輝あるもの,アンギラスと呼ばれた.そうした偉大なる名を持つものたちの末裔が,シャカ族であったのだが.

なんじらこそは,神々の王にして,我なる古代の神の中の王,アートマンの子らである.すなわち,我なる神々の王,インドラの子ら,でもあるのだ.手に強き,光輝く矛と盾をとれ! 戦車に,炎のごとき息を吐く駿馬をつけよ! からからと回る車輪の,戦車に乗れ! 今こそ,シャカ族の戦士となり,戦士の王となれ!

しからずんば,遠からず,なんじじしんも,また彼らも,速やかに亡び去るであろうことを,我は知るがゆえに,それを,今,我はなんじに伝えよう.何を逡巡することがあろう.なんじの修行はもろくも破れた.誰のせいでもあるまいが.なんと,飢えと虱ゆえ,ではないか.

なにを疑い,躊躇うのだ.自らの無力と未熟を思うがよいのだ.限りある力と未熟な知恵をもって,老いと病と死の苦しみを滅し終えた,神々をも越えた者,聖なる者,となろうとはな.神々の力と知恵を恐れぬ不遜,高慢といえよう.

いっそ,シャカ族のもとへ,そして,父のもとへ帰れ.帰って,その膝にすがり,許しを乞うのだ.自分は,虱に負けた無力者であったと,飢えに負けた,愚か者であった,とな.」

さて,若きゴータマの答えや,いかようでありえましたでしょうか.ゴータマはようやくインドラに答えはじめました,静かに,しかしはっきりと.

「神々の王なるインドラよ,そして,私の父でありし人よ.いかにも,私は未だに若いのです.そして,未熟者なのです.しかしながら,まだ,道の人であることを,決してやめたわけではありません.神々の王,インドラよ.かつては,私の父でありし人よ.あなたへの敬意からも,私は語りうる限りのことは語りましょう.私が知る限りのことは,答えましょう.未だに私は法を求める者,道の人でもあるのですから.」

 

−戦争と平和−

ゴータマは,インドラにこのように語ったのでありました.

「神々の王,インドラよ.

あなたが,かつて,矛を持ったとき,その矛に血塗り,倒れしものは何だったのでしょうか.それは,私と等しき,熱き血潮持つ者,勇気ある者であったのでした.すなわち,あなたは,多くの若きものたちを,その若さのうちに滅ぼしたのでした.

あなたが,かつて,楯を持ったとき,その楯で守ったものは何であったのでしょうか.それは,富であり,財宝であり,家族であり,名誉でもあったのでした.その代償として,あなたは,敗亡せしものたちの,富や,財宝や,家族や,名誉を滅ぼしたのでした.

あなたが,かつて,戦車を駆ったとき,その車輪に踏みにじられしものは何であったのでしょうか.それは,奴隷たちであり,農民たちであり,その汗を流して,作りいだせしものたちでもあったのでした.あなたは,奴隷や農民たちを滅ぼし,世の全てを灰塵に帰す,滅びの王,災厄の王,であったのでした.

あなたは,若きものたちにとっては,老いの苦しみであったのです.あなたは,健康な者たちにとっては,病いの苦しみであったのです.あなたは,生きとし生けるものたちにとっては,死の苦しみであったのです.

神々の王なるインドラよ,そして,私の父でありし人よ.あなたは,若きものたちにとっては,老いでありました.あなたは,健康なるものにとっては,病でありました.そして,生きとし生けるものたちにとっては,死であったのです.

すなわち,神々の王,インドラよ.あなたこそは,人々にとって,飢えと等しき老いをもたらすものでありました.あなたこそは,人々にとって,虱と等しき病をもたらすでありました.あなたこそは,人々にとって,古き垢と等しき死をもたらすものでありました.

神々の王なるインドラよ.あなたは今,戦士としての栄光に包まれていますが,あなたもまた,我が父のように,いつかは老いることはないのでしょうか.あなたもまた,我が父のように,いつかは病むことはないのでしょうか.あなたもまた,我が父のように,いつかは死ぬのではないでしょうか.

あなたは,人々に老いをもたらし,また,自らも老いていきます.インドラは,今や,人々にとって,老いた神々の王にほかなりません.あなたは,人々に病をもたらし,また,自らも病むに至るのです.インドラは,今や,人々にとって,病む神々の王なのです.

あなたは,人々に死をもたらし,また,自らも死に至るでありましょう.インドラは,今や,人々にとって,死すべき神々の名にほかなりません.

いかなる人も老いるのです.神々も,そして,その王であるあなたもまた,私の父のように老いるのです.しかし,私は,老いることの苦しみの滅する法を求め,その道を歩むのみなのです.

いかなる人も病むでしょう.神々も,そして,その王であるあなたもまた,私の父のように病むのです.しかし,私は,病むことの苦しみのない法を求め,その道を歩むのみなのです.

いかなる人も死ぬでしょう.神々も,そして,その王であるあなたもまた,私の父のように死ぬであリましょう.しかし,私は,死ぬことの苦しみのない法を求め,その道を歩むのみなのです.私は,いまだに,老,病,死の苦しみの集まりの滅する道に歩み,人々とともに静かな安らぎの岸に至る者であり続けたいのです.」

 

[ブラフマンとの対話]

今となっては昔のこと,私は,ただ独りで道を求める出家修行者から,このように聞いたのでございます.これは,ゴータマと,神々の長ブラフマンとの対話なのでございます.なお,ブラフマンは男性名詞でございまして,女性名詞をブラフマニーと申しますが,ここでは,なべて,ブラフマン,と呼んでおりますことに御注意ください.

さて,月がまだ残る夜半であります.ゴータマは,じっと菩提樹の下に座しております.神々の母,ブラフマンが登場いたします.街道を,白い巨象にのって,滑るようにやってまいります.そして,巨象から降りて,静かに菩提樹の下に歩み至るのでありました.みれば,月光よりも白い宝冠を頂き,夜の闇より黒い絹のサリーを纏っているのでありました.

ゴータマには,どこかで確かに見たことのある懐かしい顔なのですが,どうしても思い出すことができません.ゴータマを育ててくれた,その母親がわりであった叔母に似てもおります.また,別れ捨て去った妻だとも思えるのです.どこかに若く健康なスジャータの面影もあります.ゴータマは,これは,生まれてすぐに亡くした母,マーヤーだ,となぜか強く直感するのでありました.しかし,沈黙のままであります.

ブラフマンはゴータマに静かに呼びかけます.

「ゴータマよ」

ゴータマは沈黙のままです.またブラフマンはゴータマに呼びかけます.

「ゴータマよ」

さらに沈黙があり,ブラフマンは,ついに自ら語りはじめるのでした.

「ゴータマよ.

なぜ,答えぬのか.なぜ,なんじだけは,私の呼びかけに答えぬのか.

まぁよい.答えずともよい.

我は,万物の母である.すなわち,ブラフマン,と人々は我が名を呼ぶのである.なんじは,我を知らぬかもしれぬが,実は,知ってもおるのだ.我は,神々の母にして,大地のはじまりであり,終わりであるからである.すべての事物は,わが懐よりいでて、わが懐に帰るのみなのだよ.

我は,世界のはじまりを語ろう.なんじを生み出せし者こそは,我である.我は,世界の終わりを語ろう.なんじを受け取る者こそは,我である.我は語ろう,我が懐よりいでし者である,なんじを,再び,我が懐に取り戻すために.我が,なんじに語り伝えざりし物語を,秘密の,古えの物語を語ろうではないか.

我こそは,無明であった.我は,なんじの父なる,神々の王の渇愛を受け入れ,なんじを孕み,生んだのではなかったか.我こそは,慈しみである.我こそは,なんじの母なるマーヤーに代わり,なんじを養育したのではなかったか.

我こそは,悲しみである.我は,なんじが無残に,飢え,虱涌き,そして,垢じてみて死なんことを悲しみ,スジャータなる娘によって,汝を救わしめたのだ.

ゴータマよ.

なぜ,なんじは,母を捨てる.我は,なんじを生みし者,我は,なんじを育みし者,我は,なんじを救いし者なり.我は,太古であり,自然であり,混沌であり,虚無であり,無明である.

しかしまた,渇愛を受け入れ,そして,なんじらを生み出すものである.そのように,自らが生み出せし者を,慈しむものなのだ.また,死にゆく者を,悲しむものでもあるのだ.なんじの道の果てには,苦しみの滅することはない.我がもとにこそは,永遠の平安あらん.そして,永遠の逸楽あらん.

ゴータマよ,

今,死地を脱出せし上は,いと速く,苦難への道を捨てよ.我が,慈しみと悲しみの故郷へ帰りなさい.我が,永遠の逸楽の懐へ帰りなさい.我は,永遠になんじを待つのみなのだよ.なんじは,我が懐よりいでしものなるがゆえに,我が懐に帰るであろう.」

 

−無明と混沌への決別−

ゴータマは,ブラフマンにこのように答えたのでありました.

「神々の母にして,万物の母なる神,ブラフマンよ.

いかに私は,私の母を愛したことでありましょうか.しかし,その愛は,苦しみではなかったでしょうか.私の母は,つとに死んだのであり,その対象の全くない私の愛は心の苦しみでありました.

いかに私は,私の叔母を愛したことでありましょうか.しかし,その愛は,苦しみではなかったでしょうか.叔母の愛は,私を溺れさせ,私は,そこから脱するために心を労しもしたのでありました.

いかに私は,私の妻を愛したことでありましょうか.しかし,その愛は,苦しみではなかったでしょうか.そして,私の愛は,妻に生みの苦しみも死の恐怖をも味わわせたのでありました.また,結局,妻の愛は,私に向かうのではなく,その子に向かうことにもなったのでした.

あなたの愛がスジャータをして私を救わせたのなら,私は,それには深く感謝したいと思います.しかし,その愛は,また苦しみでもあるでしょう.私は,いまや飢えと虱と垢に苦しむことはありませんが,いまだに道の半ばにあって悩み苦しみ続けているのですから.

そのように,神々の母にして,万物の母なる神,ブラフマンよ.あなたの愛は,私を生み出したのですが,ともに,私の苦しみをも生み出したのです.そのように,あなたの愛は,全てを生み出したのですが,それとともに,この世に,老,病,死の苦しみの全てをもまた,生み出したのはないでしょうか.

げに,渇愛とは無明であります.渇愛は,自らを破滅させるに至るまで,その行き着くところを知らぬのです.無明は苦しみの根源であります.げに渇愛は混沌にほかなりません.渇愛は,無知であって,盲目であり,無秩序を喜びます.無秩序は,苦しみを産み出し,混沌のうちにただ生きることは苦しみではありますまいか.

げに,渇愛は虚無であります.渇愛は,飢えや渇きと等しく,人に,その全てを捨てて,自らを破滅に向かわしめるのです.虚無とは苦しみの根源ではないでしょうか.

神々の母にして,万物の母なる神,ブラフマンよ.なぜ,私は,あなたの懐から出たのでしょうか.苦しみの原因こそは,私を産み出した無明ではないでしょうか.苦しみの原因こそは,混沌なのではないでしょうか.苦しみの原因こそは,虚無ではなかろうか.苦しみの根源は,渇愛ではないでしょうか.

無明をして,明らかにする,これが知恵の光であり,道ではないでしょうか.混沌をして,秩序あらしめる法を求める,これが道ではないでしょうか.虚無をして,より充実せしめること,これが道ではないでしょうか.渇愛をして,充足した愛たらめして,幼きを慈しみ,老いたるを悲しむに至る,これが道ではないでしょうか.

しかし,私はいまだおよそ,苦しみの原因のなんたるかを,自らにおいて確実には知らないのです.いまだ,苦しみの滅する道の,その半ばにして,倒れんことのみを恐れるのです.無明のなんたるかを確実に知らず.混沌のなんたるかを確実に知らず.虚無のなんたるかを確実に知らず.渇愛のなんたるかを確実に知らないでいるのです.

神々の母にして,万物の母なる神,ブラフマンよ.スジュータは,若くて健康です.だか,やがては老いるでありましょう.私の妻は健康でありました.しかし,やがては病むでありましょう.私の叔母は死からいまだ遠いのです.しかし,やがては死ぬでありましょう.

私の母は,若くして,死んだのでした.私の母は,病まずして,死んだのでした.そのように,神々の母にして,万物の母なる神よ.あらゆる母たちもまた,老い,病み,死ぬのです.万物もまた,老い,病み,死ぬのです.それらの母であり,神であるあなたもまた,無明から渇愛によって生じたからには,老い,病み,死ぬ他はないのです.」

 

−四つの真理を求めて−

ゴータマは再びこのようにブラフマンに語り続けるのでありました.

「あなたは,世の母の尽きぬ限りは,繰り返し繰り返し,老い,病み,死ぬでありましょう.あなたは,世の万物の尽きざる限り,繰り返し,繰り返し,老い,病み,死ぬでありましょう.あなたは,全ての神々の母であって,万物の母であるがゆえに,繰り返し,繰り返し,世の母の,老,病,死の苦しみを受けることでありましょう.世の万物の,老,病,死の苦しみを受けるでありましょう.

およそ,この世に生を受けたものは,必ず,老い,病み,死に,その苦しみを受ける,と私は聞いたのでした.また,実際に,老いの苦しみを見たのです.実際に,病むことの苦しみを見たのです.実際に,死ぬことの苦しみをも見たのです.自ら.飢えによって老いる苦しみを体験もいたしました.虱によって病む苦しみを体験もいたしました.異物にまみれ垢によって腐って死ぬ苦しみを体験しようともしたのでありました.

老いは苦しみであります.病むことは苦しみであります.死ぬことは苦しみであります.その,苦しみの集まりの滅する道を,私は歩もうとして,母への渇愛を捨てたのでありました.叔母の渇愛を棄て,妻への渇愛をも棄てたのでありました.このように,あらゆるモノへの渇愛を,いずれは棄てていくことでしょう.

私は,二度と再びは,老いることの苦しみのない道を歩みたい.私は,二度と再びは,病むことの苦しみのない道を歩みたい.私は,二度と再びは,死ぬことの苦しみのない道を歩もうと思うのです.

そのような道を,歩み終えて初めて,私は,あなたの懐に帰ろうのです.全ての人々がそのようであってこそ,人々が幼き者たちを慈しみ,人々が去りゆく者たちを悲しみ,誰もが,また二度と再び,老いる苦しみのない道,二度と再び,病むことの苦しみのない道,二度と再び,死ぬことの苦しみのない道を歩むとき,あなたじしんもまた,た,二度と再び,老いる苦しみのない道,二度と再び,病む苦しみのない道,二度と再び,死ぬことの苦しみのない道を,歩むことでありましょう.

その時こそ,神々の母にして,万物の母なるあなた,私の母よ,私の叔母よ,私の妻よ.そして,私を救ってくれたスジャータよ.およそ,万有を産み出した自然であるあなたよ.この私を,その懐に,受け入れてくれるように,私は願うのみなのです.」

 

[菩提樹の下で]

今となっては昔のこと,私はこのように,独りで覚りを求める修行者から聞いたのでございました.これは,引き続き,ゴータマの悩みと独白でございます.

引き続いてまだ夜であります.ゴータマはただ独り菩提樹の下に座っているだけです.もちろん,インドラもブラフマンもおりません.それらは,父の希望や,叔母の愛を捨ててきたことへの回想シーンであり,そのヴィジョンであり幻影にすぎないのでありました. ゴータマはこのようにつぶやくのでありました.

「そのように,私は,父の希望である,インドラへの道を捨てた.そのように,私は,叔母や,妻への渇愛,ブラフマンへの道も捨てた.ただ一つ,老い,病み,死ぬことの,その苦しみの滅する道,を選んだのであった.

その道は,険しい.その道は,遠い.私は,いまだ,道の半ばであるのに,ただ一人,老いたる者のように疲れ,ただ一人,病みたる者のように悩み,ただ一人,死に近い者のように迷っている.人は全て,老い,病み,死ぬ,その苦しみの滅するところ,そこへ至る道は,まことにあるのだろうか.

色,かたち,そして名あるものどもが,生成変化運動消滅することは,限りがない.その生成変化運動消滅の,滅するところ,そこへ至る道は,まことに,あるのだろうか.この大虚空の広がりには,限りがない.その大虚空の滅するところ,そこへ至る真実の道は,まことにあるのだろうか.

これは我がものである,との思いは限りがない.その思いの滅するところ,そこへ至る真実の道は,まことにあるのだろうか.これは我がものではない,との思いもまた限りがない.その思いの滅するところ,そこへ至る真実の道は,まことにあるのだろうか.

色,かたち,名あるものたちの,滅するところ,そして,滅するのでもないところ.そして,我がものとの思いの,滅するところ,そして,滅するのでもないところ.そこへ至る真実の道は,まことにあるのだろうか.むしろ,ないのではないか,との疑いが,私を苦しめるのである.」

ゴータマは,さらに沈思黙考するのでありました.まだまだ夜の闇は深いのです.

 

−一筋の白き道−

今となっては昔のこと,私は,独りで道を求める修行者から,このように聞いたのでございます.ゴータマの目覚めはこのようであった,と.

ゴータマは,菩提樹の下に座っております.その菩提樹は,街道の目印として,また,休憩場所として,道から少し離れた,小高い丘の上に植えられたのでした.時を経て大きく育ち,昼はさわやかな木陰を作るのですが,今は夜であり,闇のなからさらに黒くその鬱蒼とした陰を見せているだけであります.ゴータマの座る場所からは,地平から地平へ続く街道がほの白く見えております.その街道を,星明りの下,隊商がゆっくりと通っていくのでありました.当時の隊商たちは,昼間の酷暑を避けて,夜移動することが多かったのでした.

月はすでに落ちております.折しも,街道の地平に没するあたりから,明星が昇ってきます.気のせいか,少し道が明るくなったようであります.多分,夜明けが近いのでありましょう.ゴータマの中で,何かが変わりはじめたようでありました.そして,何かに気づいたようすであります.また,ゴータマの独白がはじまるのでした.

「世の人々は,かくのごとく,来たり,過ぎ去るのみ.世の人々は,かくのごとく,生まれ,老い,病み,死ぬのである.世の人々は,かくのごとく,繰り返し,来たり,過ぎ去る.世の人々は,かくのごとく,繰り返し,繰り返し,生まれ,老い,病み,死んでいく.

私たちは,どこから生まれてきたのだろうか.誰が,いったいそれを知ろうか.私たちは,死んでからどこへ行くのだろうか.誰が,いったいそれを知ろうか.かくて,私たちは,どこから生まれるかを知らず,また,死んでからどこへ行くかも知らないのである.かくてこそ,老い,病み,死ぬことを恐れ,苦しむのだ.そのように,人々は,生まれ,苦しみに老い,苦しみに病み,苦しみに死ぬ.そのように,人々は来たり,過ぎ去るのだ.そのように,私は,飢え,渇き,悩み,恐れ,そして,迷い,ようやくここに辿りついたのだった.

しかし,なにかが違う.この目の前の風景は,それと,何かが違うのだ.そうか,そうだったのか.」

ゴータマは歌うように語りはじめるのでありました.

「旅は苦しみである.危険に満ちている.しかし,知恵ある隊商たちよ,あなたたちは,知っている.どこから来たり,どこへ至るのかを.旅は苦しみである.危険に満ちている.しかし,知恵ある隊商たちよ,あなたたちは,知っている.どの道が安全で,すみやかに目的地に達するかを.

旅は苦しみである.危険に満ちている.しかし,知恵ある隊商たちよ,あなたたちは,知っている.どこに,菩提樹の木陰があり,どこに泉があるかを.

旅は苦しみである.危険に満ちている.しかし,知恵ある隊商たちよ,あなたたちは,知っている.どの星影を目指して行けば,そこに,旅の目的地,苦しみの旅の終わり,そして,大いなる静かな安らぎの場所があるのかを.

ああ,私が探し求めたものの全てが,既に,目の前にあったのだ.」

ゴータマは,さらに歌うように繰り返すのでありました.

「大いなる菩提樹の陰よ,その木陰に,旅人は,苦しみを捨て,憂いなく休らうであろう.菩提樹の陰よ,旅人の静かな心の安らぎよ.さやけき星の影よ,その下に,いつか,旅人は苦しみの旅を終え,憂いなく,静かに休らうであろう.

さやけき星の影よ,旅人の静かな心の安らぎへの,道のしるべよ.あなたの光は,どこから来たり,どこへ至るのか.その光こそ,色,かたち,名あるものの尽きるところ,そして,大虚空の尽きるところより,今,ここ,にまで至る.

一筋の白き道よ,苦しみの旅の始まりと終わりよ,静かな安らぎの場所へ導くものよ,一筋の白き道よ.あなたは,どこから来て,どこへ至るのか.わがモノとの思いの,尽きるところより来たり,わがモノでもないとの思いもまた,尽きるところへ至るであろう.そして,そこにこそ,静かな安らぎがあるのだ.

大いなる菩提樹の陰よ,私は,今こそ,迷いなく,静かに安らかに,その下に座す.大いなる菩提樹よ,さやけき星の影よ,そして白き道よ.あなたたちこそ,かくも探し求めた,私の,ただ一筋の白き道,希望への道であったのだ.」

 

[「四つの真理と八つの正しい道」の物語]

今となっては昔のことでございます.私は,ただ独りで道を求める修行者から,このように聞いたのでありました.彼は,ブッダの法の縁って起こるの物語,すなわち,仏教のはじまりの物語をするつもりだったというのです.

彼は,菩提樹,明星,そして,白き道,の縁起物語はいたしましたが,車輪のことは未だ語ることがなかったのでありました.それは,初転法輪,若き日のゴータマの修行の完成という場面で語られる予定だったのですが,残念ながら,当時の彼には,そこまで辿りつく気力と,時間の余裕が全くなかったようでございました.彼のイメージでは,
菩提樹:人生の静かな安らぎの場所,その象徴,

明星:人生の目的,その象徴,

白き道:人生そのもの,その象徴,

だったと思うのです.じゃ,車輪は,というと,そうですね,人の担うべき重荷を,代わって担うものの象徴でしょう.すなわち,法の車輪を転ずるとは,人々の人生の苦しみを軽減し,そして滅するに至る,その方法を説く,という意味だったハズでしょうね.

かくのごとく,若きゴータマは,苦悩の果てに,確からしい何か,をようやくつかんだようでありました.それは,やがては,その師であったアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタに伝えられ,そして五人の修行者たちにも語られることでありましょう.彼にあったら,ぜひ,この話しのつづきを聞いておきたいものだと思います.


法の輪を回せ

[鹿の園への旅立ち]

今となっては昔のことでありますが,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.一つの確信らしきものえた若き日のゴータマは,その確信をココロの中で何度も何度も,深く反芻しながら,独りで菩提樹の下に座しております.いまや,日は高く昇り,菩提樹はその鬱蒼とした涼しい陰をゴータマの上に落としているのでありました.

ふと瞑想からさめますと,眼前には,数日前の雷雨でできた小さな水たまりがあります.そこには小さな生き物たちが湧き元気に泳いでいたのですが,いまや,高く昇った灼熱の太陽に焼かれて,そのささやかな水たまりはすでに干上がりつつあり,そこに住む小さな生き物たちもその熱に焼かれて次々に死に絶えていくのでありました.

これをみると,ゴータマには,自らの確信した内容を,一刻もはやく,ウッダカ・ラーマプッタに報告してみたい,その批判を聞きたい,という思いがさらに募るのでありました.

その夕方,日が傾くと,あちこちの宿屋が木陰に休らっていた隊商たちが集まりはじめました.ゴータマは,菩提樹の陰からでて,街道にほとりに立ちました.そして,その隊商たちの長であるとおぼしき人に呼びかけるのでありました.

「旅の人よ,

もしや,アーラーラ・カーラーマという人の消息をご存じないでしょうか.」
商人は呼びかけられて,ゴータマに気づき,相手を修行者と認めて一礼していいました.およそ法を求める修行者や法を説く遊行者は,無条件で尊敬されるのが当時のならわしであったのでした.

「修行者のかた,

私は,アーラーラ・カーラーマは歳老いて,すでに死んだ,と聞いております.」
ゴータマは,深く頷き,また尋ねるのでありました.
「旅の人よ,

それでは,ウッダカ・ラーマプッタとよばれた仙人はご存じでしょうか.」

「修行者のかた,

私は,ヴッダカ・ラーマブッタもまた,アーラーラ・カーラーマと踵を接するように死んだ,と聞いたのです.なんでも,彼らは,兄弟弟子であったそうですね.アーラーラ・カーラーマは理論においてすぐれており,ウッダカ・ラーマプッタは,実践行為の方面においてすぐれていたとも聞きました.彼らは,わたしたち旅をこととする商人にとっても,新しい学問の師と呼ばれていたのですが,惜しいことをしたものです.」

ゴータマは,これを聞き暫く沈思いたしましたが,また尋ねていうのでありました.

「旅の人よ,

それでは,彼らの弟子であったコンダンニャと呼ばれる人のことについてお聞きになったことがありますでしょうか.私は,実はアーラーラ・カーラーマと,ウッダカ・ラーマプッタの教えを受けた者であり,コンダンニャたちの後輩でもあることから,彼らの消息を知りたいのです.」

商人はいいました.

「修行者のかた,

彼らは,閑静な修行の地を求めて,都市ベナレスを離れ,今はサールナート,つまり鹿の園,と呼ばれるところで,集団で住みはじめたそうです.」

といいつつも,商人は,ゴータマをジロジロと眺めるのでありました.バラモンの苦行者の姿ではなく,どこか高貴らしい面影が残っており,しかも頭を丸めており,ボロをつづりあわせたシロモノではありますが,洗濯の行き届いた布を纏っていることが奇異に思えたのでありました.しかし,バラモンらしくなく,その若くて清潔そうな姿がかえって商人には気に入ったのでした.

「修行者のかた,

私は,今,サールナートを通って,北へいくところなのです.もし,コンダンニャさんたちのいる場所へ行きたいのであれば,一緒に行きませんか.」

ゴータマが静かに黙っているので,商人はさらに語りかけるのでした.

「私には,あなたのご案内ができます.商人は正直がその商売の種ですし,まず人を値踏みしますし,その損得を重んじますから,ハッキリといいましょう.私には,あなたの若くて清潔そうな姿が,まったく苦行者らしくない姿が,とても気に入ったのです.私はまた,高名なアーラーラ・カーラーマ,ウッダカ・ラーマプッタが,新しい思想を語りはじめた,ということを聞きており,それがどうも気になっていたのでした.みれば,あなたは私と同年配のようで,話しが合いそうです.ご一緒しながら,彼らが獲得した新しい知識についてお教えいただければ,私には,あなたの面倒をみてお世話をする価値がある,と思うのです.さらにハッキリいいますと,これは取引なのです.」

 

−旅のなかまたちと−

今となってはすでに昔のことでありますが,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,旅の商人たちの後につき,サールナートへ向かって旅だったのでありました.商人たちが進めば,ゴータマも進みます.商人たちが止まれば,ゴータマはそこから少し離れた人気のない場所,大樹の下や塚間を尋ね,そこに座すのでありました.件の商人は,自らたちが食べ終わった後,飲み物と食物をゴータマのところに運んできます.そして,ゴータマがそれを食べ終わるのを待って,話しをせがみ,その話しにじっと聞き入るのでありました.

ゴータマは,アーラーラ・カーラーマから学んだことを,商人に説きました.しかし,商人は首をかしげていうのでありました.

「あなた語る法はあまりにも深遠であり見がたい.あまりにも日常をかけ離れており,それが正しいか正しくないかは私にはまったくわからない.私は今ようやく貧困から立ち上がったばかりで,富を求めて,旅から旅にさすらうのみであって,そうした法の目覚めにいつ到達し,いつそうした法の下に生きることができるか,皆目わからない.あなたのいうことは,正しいのであろう,たぶん正しいのであろうが,私にはその正しさが皆目わからない.」

ゴータマは,ウッダカ・ラーマプッタから学んだ説を,商人に説きました.しかし,商人はまた首をかしげつついいうのでありました.

「あなたの語る法はあまりにも困難な道であってまったく行いがたい.あまりにも日常を離れており,それが正しいか正しくないかすら,私にはわからない.私は,未だに旅から旅へ富を求めてさまようのであり,そうした法の目覚めにいつ到達し,いつそれを行うことができるのかわからない.」

ゴータマがスジャータとの出会いとその対話について語ったときにはじめて,商人は,腹をかかえて笑い,そして楽しそうにいうのでありました.

「それはよくわかるなぁ.私が,旅から旅へ,富を求めて,さまよいさすらうのも,そうした娘と出会い,妻にし,その愛を得て楽しみ,その子どもたちに囲まれて,静かに安らかに死にたい,というその希望のみによるのだからなぁ.」

このような話しをするうちに,ゴータマと商人は,すっかりうちとけたのでありました.商人は,ゴータマの知的誠実さ身体的清潔さ,つまり堅実な生活態度に少しずつ惹かれるようになり,サールナートについたときには,別れを惜しんで,このようにいうのでありました.

「修行者のかた,あなたのえたという真理であり,法とは,きっと正しいのであろう,その道も必ずや解脱に至る道なのであろう.それこそまったくの真理であり,真実であり,真に正しい道なのかもしれない.しかし,私にとってそれらはあまりにも精妙であり見がたくまた行いがたいのだ.私は,貧困からわずかに身を起こしたのみであって,未だに,旅から旅へ富を求めてさすらう.あなたの法とやらはまことに知りがたく,まことに行いがたいのだ.

しかし,あなたこそはいつかは,真の解脱者と呼ばれ,聖者と呼ばれるかもしれないなぁ.この世界において,人々が真に求めるものは三つあって,法(ダルマ)と富(アルタ)と愛(カーマ)がそれであるという.そして,法こそがその最上である,と私は聞いたことがある.知的誠実さと身体的清潔さ,そして日々たゆまぬ努力こそは,法を求めるにおいても,富を求めるにおいても,むろん,愛を求めるにおいても,そのもっとも近道である,と私は古老たちに聞いたことがあった.今,あなたの姿をみて,それをしみじみと思い出すのだ.

もしや,あなたのいうことが正しければ,あなたは,真に法に目覚めた人,と呼ばれるに至るであろう.私がずっとあなたの名を尋ねなかったのはそのためだ.真に法に目覚めた人,という評判が聞こえてくれば,私は,それをきっとあなただと思うであろう.商人は,世評を重んじて,それを売り買いするのだから,私はそれを先買いしておきたいのだ.

あなたが名声をえた,と思ったときには,まっさきに私に声をかけてくれよな.そのときに,幸いに富を積むことができていたとすれば,私はあなたの最初の在家の帰依者となろうと思うのだよ.そのことによって,はじめて私は,未来永遠の富を積むことになるだろうさ.商人は,未来永遠に失われることのない富のためにこそ,現在において富を積もうすとするのであって,未来永遠の富のために現在の富を棄てて顧みないのが,その商売のコツの中のコツなのだからなぁ.」

 

−再会−

今となってはすでに昔のことでありますが,私は,ただ独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.サールナート,鹿の園と呼ばれる場所に着いたゴータマは,コンダンニャをその筆頭とする,修行者たちのところへやってきたのでありました.ゴータマの異形を見て,コンダンニャたちは,当然,警戒しそれを避けようといたします.しかし,ゴータマはコンダンニャにさっそく呼びかけます.

「長老であるコンダンニャよ.」

そう呼びかけられて,コンダンニャははたと驚きました.

「おまえはいったい誰か.私には,おまえのような異形の修行者に長老と呼びかけられる覚えはない.」

ゴータマは,さらにいいました.

「私は,かつてあなたにお会いしたことがあります.覚えていらっしゃいますか7年前のことを.」

そういわれて,コンダンニャはしみじみとゴータマの顔を見るのでありました.そして,はっと気がついて,懐かしげにいうのでありました.
「うむ,そういえば思い出した.覚えているとも,あなたは,確かにそのときシャカ族の王子であってゴータマと名乗っていたのであった.そういえば,あなたは,出家修行者となり,アーラーラ・カーラーマに入門し,またウッダカ・ラーマプッタに師事したと聞いたのである.そうすれば,私にとっては後輩にあたることになるだろう.

しかし,見れば,あなたのその姿は何だろう.あなたは,アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタの弟子であったはずだろう.その法を求め,実践する道の人であることを忘れたのであろうか.」

ゴータマは答えました.

「長老コンダンニャよ,

私を覚えていていただいてありがとうございます.あなたとは,シャカ族の王子として最初にお会いしてから,すでにもう7年が経ったのでした.

私は法を求め続けてきて,しかも,それを実践する道の人であることを棄てたわけではまったくありません.むしろ,アーラーラ・カーラーマの法を深く反省分析し,また,ウッダカ・ラーマプッタの道をより現実的なものとして実践しようとしてきただけです.

確かに,この7年の間に,私のライフ・スタイルは,あなたたちとまったく異なるものになってしまいました.私は,あなたたちと異なり,ただ独りで法を求め続けたあげくに,飢えと病に苦しみ,ついに,在家の人たちの喜捨によって生きる他はなかったのでした.しかし,それゆえにこそ,多く学んだこともあり,あなたたちが知り得ぬ法や,あなたたちが体験できぬ行いをも,深く経験することができたのかもしれません.

わたしたちは,すでに世間では,自由思想家であり,新しい思想家である,と呼ばれてその関心を集めはじめております.今,私のいうことに少し耳を傾けていただき,私が学びえたこと,そして体験しえたことが,真の法,真の道,というに値するものかを,あるいは批判し,あるいは確かめていただきたいばかりに,ここに来たのです.」

 

[コンダンニャたちとの対話]

−四つの真理とは−

今となっては昔のこと,私は,ただ独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.コンダンニャは,ようやく警戒心を解き,ゴータマのいうことに耳を傾けるようになったのでした.これは,ひきつづき,コンダンニャとゴータマの対話なのでございます.

ゴータマは,続けていうのでありました.

「長老コンダンニャよ,

わたしたちは,四つの尊い真理,を知らないがゆえにこそ,かくも長く,迷いの生活のうちにあったのではないでしょうか.」

コンダンニャはようやくここに至って,ゴータマとの出会いを思い出してその深く志すところを知りましたので,ゴータマにいいました.

「ゴータマよ,

四つの尊い真理,とはなんであるか.わたしたち全員は,それを聞こう.わたしたちの前で,その思うところを存分に語るよい.」

ゴータマは,歌うがごとく語りはじめるのでありました.当時は,法を得たと称するものは,それを詩として暗唱しうるかたちに形成し,それを万人に語り伝えるのがその役目であったからであります.

「修行者たちよ,

四つの真理とは何でありしょうか.四つの真理とは,かくのごときものなのであります.この世のあらゆるイノチあるモノどもは,老,病,死の苦しみに燃えているのであります.これがつまり,「苦しみ」という真理なのであります.

この世の苦しみは,色・かたち・名あるモノどもが,無明という原因に縁って集まって起こるのです.これがつまり,「集まり」という真理なのです.この世の苦しみは,色・かたち・名あるモノどもが,無明という原因に縁って集まって起こるのですから,その原因である無明が滅すると,苦しみもまた滅するのです.これが,「滅する」という真理なのです.

この世の苦しみは,色・かたち・名あるモノどもが,無明という原因に縁って集まって起こるのですから,その原因である無明が滅すると,苦しみもまた滅するのです.したがって,この世の「苦しみ」という真実をそのままに直視し,「集まり」という原理によってその原因をつきとめ,「滅する」という方法によってその原因を滅ぼし尽くせば,その果てに,迷いの生活からの解脱,つまり,静かな安らぎに至る道があるのです.これが,「道がある」という真理に他ならないのです.」

 

−八つの正しい道−

これを聞いて,コンダンニャは胸をうたれ,深い沈黙に落ちたのでありました.引き続き,コンダンニャの次席にありましたアッサジ長老が進み出て,ゴータマに問いかけるのでありました.

「ゴータマよ,

みごとであった.私は,アッサジであり,法の実践を重んじるものである.四つの真理は確かに聞き届けた.しかし,その道はいかなるものなのであろうか.道というからには,それを歩み終えねば道にならぬのであるから,私はあくまで,その実質と実践のなんたるかを問おうというのである.」

ゴータマは答えました.

「長老アッサジよ,

四つの真理,における道とは,八つ正しい道,からなるのであります.」

アッサジは,これに満足せずにさらに問うのでありました.

「ゴータマよ,

しからば,その八つの正しい道のなんたるかを,わたしたちの前で,存分に語ってほしい.わたしたちは,それが,真に正しい道であるか,真に正しく行いうるか,真に正しく行うに値するかを検討したいのだから.」

ゴータマは,また歌うように語りはじめるのでありました.

「修行者たちよ,

八つの正しい道,とはかくのごときものなのであります.正しい見解,正しい思惟,正しい言葉,正しい行い,という生活の原則がそれであり,また,正しい生活目的,正しい生活努力,正しい生活思想,正しい生活態度,がそれら生活原則の実践の極致なのであります.

正しい見解とは,かくのごときものなのであります.四つの真理を法として正しく理解することがそれであります.

正しい思惟とは,かくのごときものなのであります.四つの真理を法として正しく思惟することがそれであります.

正しい言葉とは,かくのごときものなのであります.四つの真理を法として正しい言葉で記憶し,それを正しく語ることがそれであります.

正しい行いとは,かくのごときものなのであります.四つの真理を法として正しく行うことがそれなのであります.

正しい生活目標とは,かくのごときものであります.四つの真理を自らの生活の正しい目標として定めることがそれであります.

正しい生活努力とは,かくのごときものであります.四つの真理を自らの生活の目標として定め,その実現に向かって努力することがそれであります.

正しい生活思想とは,かくのごときものであります.四つの真理を自らの生活の目標として定め,その実現に向かって努力しているか,を日々に反省し,誤っているならば,速やかに修正することがそれなのであります.

正しい生活態度とは,ついに,かくのごときものなのであります.四つの真理を自らの生活の目標として定め,その実現に向かって努力をし,日々に反省し誤りを修正することによって,ついにゆるぎない確固たる生活態度に至ること,がそれなのであります.

かくのごとく八つの正しい道を歩み終えて,四つの真理を自らにおいて体現するに至れば,静かな安らぎの境地があるでしょう.それがわれわれにとっての,四つの真理と八つの正しい道の尽きるところであり,すなわち解脱,なのです.」

 

−四つの境地−

これを聞き,アッサジもまた胸をうたれ,深く沈黙するのでありました.しばらく沈黙のあと,アッサジの後ろに控えていた,一人の修行者がつと進みでて,ゴータマに問うのでありました.

「はじめまして,ゴータマさん.

私は,サーリプッタと申します.もとはといえば,懐疑論者であるサンジャヤ・ベーラティプッタの弟子でありましたが,アッサジ長老の清楚な行いにひかれて,私はこのサンガに入ったのでありますから,あなたとは法の友にあたりましょう.しかし,私は,アーラーラ・カーラーマの教えを受けることがなかったので,それについて伺いたいと思います.」

ゴータマは,サーリプッタに語りかけていうのでありました.

「アーラーラ・カーラーマは,私にこのように説いてくれたのでありました.色・かたち・名あるモノどもには,限りがないのである,色・かたち・名あるモノどもには限りがない,との思いをなすべきである,と.

また,このようにも彼は説いたのでありました.色・かたち・名あるモノどもを容れる大虚空も限りがないのである,色・かたち・名あるモノどもを容れる大虚空には限りがない,との思いをなすべきである,と.」

サーリプッタが沈黙に落ちると,つづいて,アッサジの後ろに控えておりました,もう一人の修行者が進み出て,またゴータマに問うのでありました.

「はじめまして,ゴータマさん,私は,モッガラーナと申します.サーリプッタとは永年の兄弟弟子でありました.私は,ウッダカ・ラーマプッタの教えについて伺いたいと思うのです.」

ゴータマは,モッガラーナに語りかけていうのでありました.

「ウッダカ・ラーマプッタは,私にこのように説いてくれたのでありました.色・かたち・名あるモノどもは,全て,我がモノではないのであるから,色・かたち・名あるモノは,全て,我がモノに非ず,との思いをなすべきである,と.

また,このようにも彼は説いたのでありました.色・かたち・名あるモノどもは,全て,我がモノにあらずとの思いもまた,我がモノではないのであるから,色・かたち・名あるモノどもは,全て,我がモノに非ずというも思いもまた,我がモノに非ず,との思いをなすべきである,と.

かくのごとく,色・かたち・名あるモノ全てが,我がモノとの思いを棄て去り,ついに,色・かたち・名あるモノどもの全てが我がモノに非ずとの思いもまた棄て去ったところに,いずれは,静かな安らぎの境地が出現するであろう,と.」

 

−五人の比丘(ビク)−

しばらく,ゴータマと,それに向かい合った四人の修行者たちは,深い沈黙のうちに,それぞれの思想を反芻しあうのでありましたが,ややあって,コンダンニャが,アッサジに語りかけるのでありました.

「法の友であるアッサジよ,

私はすでに老いはじめたのかもしれない.ゴータマは,新しいライフ・スタイルを持ち込んで,わたしたちを驚かせたが,彼のいうことはきわめて正しいように思える.われらの師であったアーラーラ・カーラーマも,ウッダカ・ラーマプッタも,もう過ぎ去ってしまった.わたしたち自身が,自らと,彼らから伝えられた法によって,自らの運命を切り開かなければならない時代がきたのかもしれない.

いまや,時代は音をたてて変わりつつあるようである.古く伝え聞いたような戦乱の時代がまたやってくるのかもしれない.また新しい苦しみの時代がくるのかもしれない.わたしたちが伝え聞き,自らも実践しようとしてきた法を,世間に広く問わねばならぬ時代が,ついにやってきたのかもしれない.

ここは,ひとつ,ゴータマのいうことを聞き,わたしたちじしんが,そのライフ・スタイルを変え,人々の中に積極的に立つ必要があるのかもしれないなぁ.

アッサジよ,わが法の友よ,

おまえはどう思うか.」

アッサジは答えました.

「長老コンダンニャよ,

私にはまったく異存はありません.ゴータマのように頭を丸めて,その身体は清潔であって,人々に虚心に語りかけ,また人々の苦しみ悩みを積極的に聞くならば,人々は,わたしたちの語ることにもっと耳を傾け,わたしたちの行いにも共感を示すかもしれません.

古いタイプの苦行者として,世間に尊敬さるよりはむしろその極端な言説を恐れられ,世間に好意的に受け入れられるよりはその行動を不潔なものとむしろ忌み嫌われて,ただ供養と称するものを受け取るだけでは,自称バラモンと何ら変わりがない,ということは深く感じはじめていました.

私は,私なりにサーリプッタやモッガラーナとともに,そうした古いタイプのバラモンにはなるまい,と努力はしてきたつもりですが,結局は,サンジャヤ・ベーラティプッタを憤死させ,その門下の恨みを買っただけでありました.もとより,サーリプッタ,モッガラーナは私と同意見であり,異存はありますまい.ここはひとつ,ゴータマを法の友として迎え,彼とともに,より人々に接することにしたい,と私は思うのです.」

サーリプッタも,モッガラーナも深く頷くのでありました.ゴータマは,これを聞きこの様子を見て深く感動し,コンダンニャたちにいうのでありました.

「長老コンダンニャよ,

あなたは,あまりにもすみやかに私の意図を理解されました.やはりあなたたちこそは,アーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタのその法への志を継ぐ者であり,真の自由思想家であって,真に目覚めた人でありましたね.」

このようにして,ついに,コンダンニャ長老を中心とした出家修行者(沙門(シャマナ)),あるいは比丘(ビク)の集団,サンガがはじめて成立したのであった,その様子はこのようであると彼は歌うのを,その昔に私は聞いたのでした.

「法の輪よ,回れ.

くるくると回れ.

人々の重荷を負い,くるくると回れ.

人々の苦しみを負い,くるくると回れ.

人々の重荷のなくなる日まで,人々の苦しみの滅する日まで,

くるくると回れ.

人々が,その善き目的地,静かな安らぎの場所に至るまで,

くるくると回るがよい.

法の輪よ,回れ,くるくると回れ.さあ,みんなで法の輪を,回そうよ,

くるくると回そうよ.

さあ,みんなで行こう,法の輪を,くるくると回しながら.

その法の輪の止まるところ,そこが,私たち道の人の目的地,
静かな安らぎの場所.

さあ,みんなで行こう,法の輪を,くるくると,回しながら,

法の輪が,止まるところまで.

法の輪の,回転が止むところ,法の輪の,ついには朽ちて倒れるところ.

そこにこそ,私たちみんなの,そして,人々の,苦しみの滅するところ,

万人に静かな安らぎの場所があるように,

さあ,行こう,道の人たちよ,みんなで,法の輪を回しながら.」


四つの真理と八つの正しい道

[法の輪が回り初まるとき]

−中道とはなにか−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,ついに,コンダンニャたちと共同生活をはじめることができたのでありました.それはまさに,このような次第であったのでした.

「もし,あなたが,賢明であって協同しつつ行いを正しくする明敏な同伴者を得たならば,一切の危難に打ち克つことができるであろう.こころ喜んで,思いや想いそして念いをおちつけて,彼とともに歩め.」

彼らは,過去のバラモンのような苦行一辺倒でもなく,かといって,決して逸楽に過ぎるのでもないような,中道と呼ばれることになるライフ・スタイルを求め,それを彼らの間で議論し,また,このように語り合いつつ,実践し,自らの身において実験もしたのでありました.

「修行者たちよ,

モノゴトを行うには,ふたつの側面がある.ひとつは逸楽にふけり,もうひとつは苦行や禁欲に走ることである.あるものは,明日は死ぬのであるからと,自暴自棄となって過食し過飲し,ついに死に至る.あるものはまた,二度とこの世に戻らぬことを期待して,一切の欲望を抑圧し苦行にふけり,ついに死に至る.これこそは,この世とあの世の虚妄なのであって,われわれは,この両極端には走らず,この世とあの世の虚妄を捨て去った中道を目指すのである.」

また,このようにも語り合い,実践し,自らの身体において実験するのでありました.

「修行者たちよ,

われわれの『我欲』,つまり,アートマンが働きつづけ,この世の逸楽やあの世の逸楽を求めつづける限りは,一切の苦行はむなしいのである.逸楽にふける欲望の火を鎮めない限りは,いくら苦行の日々を送ったとしても,その日々はむなしいのである.

われわれのが,われわれ自身の『我欲』,つまりアートマンを制御しえたとみ,われわれは無明と呼ばれる欲望から解放され,静かな安らぎの岸である解脱に至るのである.そのときには,われわれはこの世の逸楽もあの世の逸楽も求めることなく,むろん,この世の苦しみから解放されており,すなわち,この世とあの世の虚妄を棄て去って,静かな安らぎの岸にあるのである.さればこそ,われわれの身体が必要不可欠と求める限りの飲食を適切になし,寒暑を防ぎ,ついには,四つの真理と八つの正しい道,を自らに体現するにいたるのである.

修行者たちよ,

一切の欲望は,いずれは衰えていく.しかるに,自らの悪しき欲望に自らを溺れさせ,無明の中にあるものは,自らの欲望の虜になって自らを卑しめているにすぎないのである.むしろ,より善き人格の完成をもとめて,その人生の実現のために必要とされる不可欠の飲食をなすことは,自らを高める手段となるのである.

また,身体を清潔に保つことこそは,自らの道の実現にとって不可欠である.もし,自らに飲食なく,自らの身体を清潔に保つことができないのなら,そのココロを浄らかに保つことも不可能となり,知恵の光をそこに灯しつづけることも不可能になるのであるから.

修行者たちよ,

人が歩んではならぬ,ふたつの両極端があることを知るべきである.その一つとは,この世において無明という名の欲望に自らを溺れさせ,自らをその欲望の奴隷となして一生を終えることである.これは,この世における虚妄である.

他の一つとは,あの世においての果報をのみもとめる無明という名の欲望に自らを溺れさせ,この世においての苦しみのみと,あの世での逸楽をその目的として,その他に何の目的もない無意味な苦行に耽り,自らを無明の牢獄におき,その身を苦行の奴隷となして一生を虚しく終えることである.これこそは,あの世の虚妄にすぎないのだ.

この両極端は,人が決して歩んではならない道であり,この世とあの世の虚妄であるところの無明の,そのまったくの奴隷として生きることにすぎないのであって,われわれは,この世とあの世の虚妄,この世とあの世の無明を二つながら遥かに棄て去った中道を,いかなる束縛からも自由に,そして平和な静かな安らぎの充実のうちに歩むのみなのである.」
また,ゴータマとコンダンニャたちは,このように語り合い,実践し,自らの身体を使ってその共同実験をつづけたのでありました.

「修行者たちよ,

われわれが真摯に求める法(ダルマ)とは,いわゆる神々や精霊や霊魂などとは一切なんの関わりもないのである.あの世とこの世の虚妄を捨て去ってこの中道に生きるのみのわれわれが,死後の生活などにいったい何の関わりがありうるであろうか.いわんや,この世とあの世に虚妄である無明のその奴隷たることの証明にすぎないような一切の虚しい儀式や儀礼と,いったい何の関わりがあるであろうか.

われわれは,お互いがお互いにたいして賢明な友となり,お互いにたいしてお互いが協同しつつ行いを正しくする明敏な同伴者となろうではないか.そうすればこそ,中道を歩みつづけることができるのであって,われわれが歩む道における一切の危難に打ち克つことができるであろう.こころ喜んで,思いや想いそして念いをおちつけて,法の友とともに歩もうではないか.これが,われわれが,お互いに平等で自由な法の友であることであり,それがサンガなのである.

修行者たちよ,

いま人々は,絶えざる戦乱の悲しみのうちにあり,惨めであり,貧窮のうちある.この世は戦乱の悲しみという苦しみ,惨めであることの苦しみ,貧窮であることの苦しみに満ちているのである.この苦しみの原因を識別し,それを取り去ることが,われわれの求める法(ダルマ)であり,四つの真理と八つの正しい道,の目的であって,それがわれわれのサンガの存在理由であり存在根拠なのである.」

−道の人であるということ−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマとゴンダンニャたちは,このように語り合い,法を確かめあい,自らも実践し,共同でその身に実験を行ったのである,と.

「修行者たちよ,

われわれは,世の全ての苦しみの現実の様相を如実に観察し,その苦しみの集まりからその原因を的確に探り,その原因を確実に滅する方法を発見し,それをわれわれの道において滅ぼそうとするのである.かく,苦しみの集まりの滅する道のその果てにこそは,静かな安らぎと,自由な解脱があるであろう.

そうした道の人であることは,戦乱の悲しみと困窮と貧困に満ちたこの世にあっては,きわめて困難な道なのである.われわれもまた人々も,それぞれの適正があり,その能力にも行動力にも限界があるからである.しかし,多くの道があるにもせよ,道の人であることは,あえて分類するならば三つの道に分けることができるであろう.われわれは,それぞれの能力の可能性の赴くところにおいて,自由に自在にこれらの道を進もうではないか.

われわれには,三つの道があるであろう.すなわち,浄らかな道,正義の道,そして,善行の道がそれである.」

 

−浄からな道−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.ゴータマとコンダンニャたちは,そのサンガにおいて,法の友として語り合い,その法を確かめあい,実践し,また,その身において共同で実験したのであった,と.「修行者たちよ,

四つの真理と八つの正しい道,において浄らかな道に生きる,ということはどのようなことであろうか.

浄らかな道に生きる,ということは,殺さず,傷つけず,盗まず,つまり,他者の自由を直接に侵害することのないことであって,まず,あらゆるモノに対して無危害である,ということがそれである.また,嘘をつかず,酒等の薬物をもって乱に入ることなく,また異性に対して邪なることがない,人々のその意に反してそのココロを支配し悩ませることのないことである.つまり,こころの面で他者に対して無危害であることがそれである.

この道を行けば,浄きココロの人,浄き行いの人,浄らかなる道を歩む人,法(ダルマ)に生きる人,知恵の光のうちにある人,目覚めた人,真実の人と呼ばれるに至るであろう.

 修行者たちよ,

法(ダルマ)に依って,内なる法を灯火として生きる,ということはいかなることであろうか.法とは,あらゆる人々において,自らの行為の基準でなければならないのである.なべて人は,法に依ってその行為の是非善悪を判断してこそ,はじめて善く生きることができるのである.

むろん,この世の多くの苦しみにあって,人は不可避にも過つのである.あらゆる人は法において過ちうるのである.しかし,その過ちにも二通りの種類があるのであって,その一つは,法を自らのうちに保つことのないものの過ちと,他の一つとは,法を自らのうちに保つものの過ちがそれである.

法を自らのうちに保つことのないものは,法における過ちに気づくことがない.これが無明のうちにあるということである.法を自らのうちに保つことのない人は,自らの無明のうちにありつづけ自らの過ちによって自らを滅ぼすに至る.

他方,法を自らのうちにおいて保つものは,自らの過ちをその法における過ちと認識し,機会を与えられれば,自らの過ちを正すに至るであろう.すなわち,自らのうちに法を保つこと,これが,無明を離れており,自らが自らを照らす知恵の光のうちにあり,法の道において浄らかである,ということなのである.

修行者たちよ,

われわれは自らに問おうではないか.われわれは法を保っているか,われわれは無明を離れているか.自らのうちに保つ法を自らの行為を照らす灯火となしえているか,自らが自らを照らす知恵の光の中にいるのであろうか,そして,浄らかな道に歩みつつあるのであろうか,と.」

 

−正義の道−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.ゴータマとコンダンニャたちは,法を語り合い,確かめあい,また実践し,もろともにその法を自らに課して,それをその身に実験し続けたのであった,と.

「修行者たちよ,

四つの真理と八つの正しい道,において,正義の道とはいかなる道であろうか.

まず,世間の苦しみの実情に対する正しい見解がそれである.この世は,土牢のようなものであり,苦しみの原因であるところの,多くの束縛に満ちていることに気づくべきである.この土牢は,あまりにも暗く,法の灯火にも,知恵の光にも照らされることなく,人々は,この土牢において虜囚であることにすら気づかないのである.人々は,無明の中にかくも長くあり続けたので,自らを束縛する儀礼や儀式による差別というココロの牢獄がいかに悲惨であるか,というそのことにも未だに気づかぬのである.

正しい見解とは,このココロの牢獄を照らす,法の灯火である.知恵の光は,そのココロにおいて,正義,と呼ばれる法を保つことにおいてのみ生じるのである.あらゆる人々には,正義と自由を求めるココロがあるのであって,それに法と呼ばれる知恵の光を灯すことこそが正義の道なのである.

人々はかくも長く無明という闇にとざされて正義と呼ばれる法をすら疑うに至ったのであった.しかし,希望がないわけでもない,一筋の灯火が,次々と多くの灯火ときなって大広間を照らすに至るように,われらが法の灯火は,人々の自由を求めるココロ,平等を求めるココロにおいて灯火となり,それこそが人々の人々に対する善意の光となり,ついには,全世界を照らすに至るであろう.

われらは,世間の実情に対する正しい見解をもち続けようではないか.このように正しい見解を思いつづけ,語りつづけ,ついには,それが世間共通の知識となり,法となれば,われわれは正義の人であり,正義の道にあって,真に目覚めたものとなり,正義の道を歩む人となるであろう.

修行者たちよ,

しからば,正しい見解とは何であろうか.この世の苦しみは無明からはじまり無知から起こるのである.正しい見解とは,無明とは何であるかを見極めるところからはじまる.無明のうちにあってもっとも悪しきものとは無知につけこむ邪見なのである.

邪見とは,世の苦しみの現実を見ることなく,かえって空虚な迷信や空虚な儀式や空虚な儀礼によって,人々のココロを束縛し,苦しみ悩ませることである.正しい見解とは,こうしたあらゆる邪見を棄て,一切の虚妄を棄てることであり,それが正義なのである.

虚偽,迷妄,迷信,超自然力を説いて,人々を苦しみ悩ませるのが邪見である.事実や経験に基づかぬ,たんなる憶測を説いて人々のココロに暗闇という牢獄を作り,そのうちに人々を陥れて苦しみ悩ますのが邪見である.一切の邪見を疾く棄て去って,ココロの牢獄からついに自由に解放されることをあくまで希望しようとする,これが正しい見解を保つことなのである.

修行者たちよ,

四つの真理と八つの正しい道,において,さらに正義の道とは何か,それなる道において,正しい思惟とは何であろうか.

正しい思惟とは,正義の実現を常に思うことである.四つの真理と八つの正しい道のその果てを,正義の実現という目的に思い定めることなのである.正義の実現においてこそ,人々の苦しみの集まりの滅する道があるだろうからである.およそ,正義の道のその果てにおいて,邪見,無知,無明に戻ることは一切ありえないのである.

修行者たちよ,

それでは,正しい言葉とは何であろうか.正しい言葉であるとは,真実のみを語ることであり,嘘をつかないことであり,他者の悪口をいわないことであり,中傷を慎むことであり,仲間に対して罵詈雑言を投げつけないことであり,全ての人々に慎み深く親切に語りかけることであり,無意味な冗談にふけらず,多くの人々がさらに多くの知識を共有すべく,分別と節度をもって,しかも,相互により高い知識に合意する,という目的をもってかたりあうことである.

正しい言葉は,畏れや恐怖を与えることや,また恩恵を施すことによっては生じない.自らの行いを支配者がどう思うであろうか,とか,私がこれを行えばわが身にとっていかなるマイナイが生じるであろうか,といったことを顧慮していては,正しい言葉は生まれない.正しい言葉なる法は,正義を求めるココロ,正しい言葉における自由を求めるココロから,はじめて生じうるのであって,身分の上下や損勘定からは生じないのである.

それでは,正しい行いとは何であろうか.正しい行いとは,その全ての行為が,他の人たちの身体の自由とココロの自律を尊重している,ということに他ならないのである.

全ての人々は,その自由な身体と自律的なココロをもって,自然なる世界に働きかけ,日々の糧を得なければならないのであり,それには多様な方法があるが,悪しき行いとは,もろもろの他者の自由や自律を侵害し,しかも危害を与えることがそれなのであって,善き行いとは,もろもろの他者の自由と自律を尊重し,しかも無危害であることが最低の条件なのであって,さらには,その行為の結果が自己と他者にとって善きものを創造する,ということこそが正しい行いなのである.

正しい生活とは何か.このように,正しい見解のみと,正しい思惟のみと,正しい行いのみによって,自他の生活を確固なるものにすることが,正しい生活なのである.
修行者たちよ,

語り合おうではないか.四つの真理と八つの正しい道,正義の道とは何であるかを.そして,正しい努力とは何であろうか,と.

正しい努力とは,無明から遠ざかろうとすることである,自らの内なる知恵の光によって無明のなんたるかを知ろうとし,無知から離れようとすることなのである.すなわち,無明という暗闇,無知という牢獄から自由であろう,とすることなのである.

正しい努力には,四つの要素がある.すなわち,虚偽や迷妄や迷信を信じるような邪見に陥らぬことがそれである.もし邪見が起こったとしても,それをよく反省し,制御することがそれである.さらに,邪見を破り無明に陥らず無知から遠ざかり,あくまで知恵の光と正義を求めようとするココロを起こすことである.そしてついに,正義を求めるココロを大きく育み,確固たるものとすることなのである.

さらに,正義の道を語り合おうではないか.その道において,正しい想念とは何であるかと.

正しい想念とは,注意深くあることであり,思慮深くあることである.ココロに忍び込もうとする邪見にたえず目を光らせており,これこそは我がモノにあらずして,悪しきところより,無明より,無知の暗闇から来るモノである,と自らのココロをたえず監視の目から話さずに,思慮深く正しい見解につき,たえず思慮を巡らして,その実現への想いを深めること,たえず正義の法に目覚めていることがそれなのである.

修行者たちよ,

四つの真理と八つの正しい道,そして正義の道を歩むものにとって,五つの障害がある.それは,貪欲であり,悪しきモノへの想いであり,怠情を好む無気力であり,正義なる法への疑念であり,正義の実現の道を歩むにおける不決断がそれである.

これらの障害を一つ一つ確かめて,それを滅ぼそうとすることが,正しい精神統一なのであり,それをなし終えてはじめて正しい生活態度が完成するのである.正しい精神統一とは,たんなる瞑想やら妄想やら,しかも邪見やらにふけることではさらさらないのであり,座りこんでただ考えるフリをして実は眠っていることでもなく,自らのココロのうちなる悪しき障害を明瞭に識別し,それを滅ぼす努力をすることであり,正義の道を,その実現にむけて歩み続けようとする確固たる生活態度のことにすぎないのである.」

 

−善行の道−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマとゴンダンニャたちは,このように語り合い,法を確かめあい,自らも実践し,共同でその身に実験を行いつつ,ついに道の人,と呼ばれるに至ったのである,と.

「修行者たちよ,

四つの真理と八つの正しい道,その第三の道である,善行の道について語りあおうではないか.善行の道とは何であるか,と.

善行の道とは,つまり,法をココロのうちに保ちその身体に戒を保ち続ける人であることがそれである.人々の中において,法を語ることを喜び,自らの利害にはこだわることなく,無明という欲望から自由であり,真実の法を自らに体現することに努力し,その努力にあって忍耐ある人であり,法の真実を知ってそれを語って倦むことのない人であり,来るべき幼きものたちを慈しみ,そして過ぎ去るべき,老いたるものたちを悲しむ人であり,ともに苦しむ人であり,あらゆる苦難に苦しむ人たちとともに苦しみ,できうればそれを助けようとする人である.

修行者たちよ,

持戒とは,善行を好むことであり,邪な行為から離れることである.すなわち,悪しきことを嫌い,善きことを好むことである.まちがった行いを恥じ,正しい行いを求め,誤りを反省し,自らの良心に背くことを深く畏れ,しかし,正しい行いを自由になすことをまったく畏れることがない,それが持戒である.

離欲とは,この世のあの世の虚妄にすぎない快楽と苦行の放棄であって,喜捨とは,自らのココロと身体を善きことのために惜しむことがないことであり,精進とは,自他のために善きことへの努力であり善きことをなそうとする意志の不退転の継続である.

忍耐とは,悪しきものどもの誘惑に対して抵抗し抜くことであって,運命を耐え忍び機会を待つことであり,悪しきモノどもにたいしてはそれを憎しみによって報いることがないことなのである.悪しきものは憎しみによって滅びることなく,忍耐によってはじめて滅ぼすことができるからである.

真実とは嘘をつかぬことであって,常に真実をのみ語ろうとすることである.決意とは,法の目標,正義という目標を実現しようと志すことである.悲しみとは,苦しみのうちにあるものへの共感であり,四つの真理と八つの正しい道によって,苦しみを軽減しようとする意志なのである.慈しみとは,四つの真理と八つの正しい道において,かならずしも法の友ならずとも,すべて生まれくるもの苦しみに想いを馳せて,ついにその苦しみを滅しようとする,その意志なのである.

捨心とは,なんら無関心のことではない.このモノは我が物であるとの想いを離れていることである.また,このモノは我がモノに非ずとの想いもまた離れていることなのである.世間を縛る暗闇の牢獄であって邪な価値観にすぎない,この世の虚妄とあの世の虚妄を,遠く離れており真実の法に目覚めていることがそれなのであって,それは真実の法を実践し,あくまで自らの善行の生涯を完成しようとする不退転の意志なのである.

善行の道においては,善き行いと思うことどもを,全力を尽くして実践しなければならぬ.これがわれわれ修行者にあっては,もっとも困難な道である.しかし,これを実践しようとする人は,たとえその道において倒れ,老い,そして病みて死すといえども,完全な人であった,修行完成者であった,と呼ばれるに至るであろう.」

 

−法の輪が回り初まるとき−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマとゴンダンニャたちは,このように語り合い,法を確かめあい,自らも実践し,共同でその身に実験を行ったのでありましたが,ついに,合意に達することができたのでありました.彼らのうちにあって若く健康であり,記憶力と弁説にすぐれたゴータマが,それらを,まとめて暗唱することを任されましたので,彼は,コンダンニャたちに呼びかけてこのようにいうのでありました.

「修行者たちよ,

われわれは,かくも長き間,四つの真理を知らず,八つの正しい道を行わなかったために,くりかえされる苦しみと悩みのうちにあったのでした.しかし,四つの真理はついに発見され,八つの道は歩まれはじめたのですから,われわれは,再び迷いの生存に陥ることはないでありましょう.

修行者たちよ,

四つ真理はわれわれの知るところとなり,われわれは,八つの正しい道を,浄らかなる道,正義の道,善行の道において歩むことでありましょう.

浄らかな道こそは,われわれの道の基本ともなりましょう.浄らかな道は,貪りや,情欲という名の無明に対する無知や,殺生や,盗みや,邪な渇愛や,虚偽や邪見から遠く離れている,ということでありましょう.浄らかな道は,このような無明や邪見から遠く離れて,無明の闇や邪見なるこの世とあの世の虚妄を,知恵の光で照らして,滅ぼし尽くした果てにあるのではないでしょうか.」

コンダンニャたちは,異口同音にいうのでありました.

「善きかな,ゴータマよ,

なんじは,四つの真理において法の輪を回しつつ,八つの正しい道にあるのである.」

ゴータマは,続けて語るのでありました.

「修行者たちよ,

われわは,四つの真理を知らず,八つの正しい道を,善行の道において歩むことがなかったためかくも長き間,人々は苦しみと悩みのうちにあったのでした.しかし,善行の道はすでに発見されたのですから,われわれは,その道を歩こうではありませんか.

われわれは喜捨を説きましょう.喜捨は,困窮者の中にあって,われらの法を説くことでありますが,世の困窮の苦しみをついに滅して,この世の善性を高めるでありましょう.われわれは慈悲を説きましょう.悲しみや慈しみは,あらゆる生まれくる幼きものの苦しみと老いて過ぎ去るものの苦しみを滅し,人々が善く生きることを勧めるでありましょう.われわれは離欲を説きましょう.離欲は,世の苦しみの原因である無明と無知から離れ,人々が私心によらずお互いのために生きることを勧めるでありましょう.われわれは捨心を説きましょう.捨心は,我がモノとの想いを離れ去るがゆえに,人々が我がモノとの想いを離れてよりお互いのために生きることを勧めることでありましょう.

あらゆる人間は愛によって生きています.しかし,われわれはもっと先へ進もうではありませんか.愛よりさらに広範な,慈悲こそが,苦しみの滅するにおいては不可欠なのではないでしょうか.人々の間においてだけではなく,人々をつつむ環境にあるイノチあるモノ全てを慈しみ悲しむことがそれであります.あらゆるイノチあるものにあって平等であって,いかなる憎しみからも遠く離れており,自らが欲するところは他にも与えて,自らが欲しないところは他に与えない,それが慈悲なのですから.」

コンダンニャたちは,また異口同音にいうのでありました.

「善きかな,ゴータマよ,

なんじは,四つの真理において今,法の輪を回す.なんじは,いま善行の道を歩もうとするのである.」

ゴータマは,またコンダンニャたちに語りかけるのでありました.

「修行者たちよ,

浄らかな道,善行の道を,わたしたちは歩みはじめたのです.しかし,この道も,知恵の光に照らされねばなりません.知恵の光に照らされた道とは,つまり,正義の道が,それではないでしょうか.

本能的に行うのがよいことであるとも,悪いことであるとも,必ずしもいえません.もしそうなら,赤ん坊はよいことばかりや悪いことばかりをしていることになるでしょう.オギャーと泣いたり,足をバタバタさせる以外に,赤ん坊はなにをなしうるでしょう.本能は,結局,自らの存続のための不可欠な欲望を満たすのみであって,人々にとってよいことも悪いこともできはしないのです.

われわれは,四つの真理と八つの正しい道に,知恵の光に照らされた,正義の道に歩もうではありませんか.喜捨も,正義なく知恵の光なくしては,喜捨たりえません.慈悲も,正義なく知恵の光なくしては,慈悲たりえません.四つの真理と八つの正しい道は,正義なく知恵の光なくしては,真理たることも正しい道たることもないのです.

世界を観察し,その苦しみのありさまを知恵の光において如実に見ましょう.その苦しみの集まりの原因を,智恵の光に照らして正しく推論しましょう.その苦しみの集まりの原因を滅する方法を,知恵の光をもって発見しましょう.そして,その苦しみの集まりの原因を滅する道を,知恵の光で照らし,その正しい道,浄らかな道,善行の道,人格の完成に至る道,真実の人となるに至る道を歩きましょう.

苦しみの原因である悪のなんたるかを知り,その苦しみを滅する善のなんたるかを知りましょう.悪しきを滅ぼし,より善を行うことが法です.その法への目覚めという知恵の光なくんば,四つの真理はついに照らされることなく,八つの正しい道は完成しないのですから.」

コンダンニャたちは,異口同音にいうのでありました.

「善きかな,ゴーマタよ,

今やわれわれは,真実の法(ダルマ)である叡知を覚り,目覚めたものとなったのである.いまや,法は得られた.その知恵の光により四つの真理を覚り自らの内なるものとして,その知恵の光によって八つの正しい道を照らしつつその道を歩もうではないか.」

ゴータマは,ついに歌うように語りはじめるのでありました.

「われわれは,いまや,苦しみのなんたるかを知る.

われわれは,いまや,苦しみの集まりのなんたるかを知る.

われわれは,いまや,苦しみの集まりの滅するところを知る,

われわれは,いまや,苦しみの集まりの滅する道,を知る.

われわれは,いまや,無明を離れ,無知の苦しみを脱して,知恵とよばれる光明のもとにあるのである.われわれは,知恵の光に照らされた,正しい道を見るのである.

苦しみの原因である悪しきコトどものなんたるかを知り,それを離れよう.

苦しみの滅する道である善きコトどものなんたるかを知り,それを行おう.

さすれば,われわれは叡知に照らされた正義の道に,浄らかなる道に,善行の道に歩みはじめることになろう.
かくて,われわれは,四つの真理と八つの正しい道にあって,法の輪を回し続けるもの,真に道に目覚めた人,真実の道の人となるに至るであろう.」

コンダンニャたちはまた,異口同音に歌うように語るのでありました.

「善きかなゴータマよ,

いまやわれわれ五人は,真の正しい道に目覚めたもの,真実の道の人たちとなったのである.われわれは,いまここになんじとともに,法の輪を回しはじめよう.

四つの真理という知恵の光に照らされた,八つの正しい道に,法の輪よ回れ,法の輪よ,今こそ回り初めるがよい,さぁ,くるくると回れ!」

 

[モッガラーナとの対話]

−道を求め,道を発見し,道に歩む−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.モッガラーナは,ゴータマが説いた四つの真理と八つの正しい道について,それを賛嘆しつつまた尋ねるのでありました.

「ゴータマさん,

あなたは実にみごとに四つの真理と八つの正しい道を説かれました.

私は,バラモンでありましたので,真実の法に至るまでには,階段をのぼるように着実に向上せねばなりませんでした.あたかも,クシャトリアにとって弓を射る訓練の場合がそうであるように,バラモンにおいては,数を数える場合がそうであります.まず,1かける1がなんであって,1かける2がなんであって,1かける3がなんであって,とこのように一歩づつ,一つ一つの知識を経験的事実として確かめつつ,その数えるという技術に習熟して,より高い段階に進み,ついには,あらゆる数を数えることにおける普遍である「数える」という真実の法に到達し,「数える」という知識技術において,法に歩むという真の自由,を獲得するのであります.

あなたが,四つの真理と八つの正しい道,という法を求め,そして発見し,その道に自由自在歩むに至った過程もまたこのようであったのでしょうか.」

ゴータマは,モッガラーナを讃えていうのでありました.

「モッガラーナさん,おみごとです.

あなたは実に,四つの真理と八つの正しい道,を真摯に求め,それを発見し,それなる道に歩む,という方法を明らかに示されました.真実の法は,実に,そのように求められ,発見され,そこに歩まれるのであります.

しかし,真実の法,すなわち確実な知識や技術は,バラモンたちが神々から示されたといわれる天啓聖典にはまったく見いだすことができません.かえって,これら天啓聖典といわれるシロモノとは,実は,人々の妄想や空想が奇怪なカタチを得たにすぎない虚妄であり,世を惑わす邪見にすぎないのです.

私は,まず現実の人間の,その生活の状態を如実に観察することから,人々が生まれおちたときからすでにもっているといわれる本能の働きや,そして人々が無意識のうちに形成してきた歴史や風俗や習慣,いわゆる「おきて」といわれる現実の生活形態やその思想を深く洞察することによってはじめて,四つの真理と八つの正しい道,なる真実の法を発見したのでありました.この法とは,すでに人々がその本能や風俗や習慣において無意識のうちに実践している「そのこと」のエッセンスにすぎないのであり「より善く平和に生きるための確実な方法」にすぎないのです.

犬は傷ついたとき,いち早くその傷口を認識し,その傷口を嘗めて清潔に保ち,できうればじっと節制して体力の回復を待つのです.また,戦士とても,矢に射られたときには,すみやかにその矢を抜き,止血してその身体の苦しみの原因を滅ぼしてから,その傷口を清潔に保ちつつできるだけ節制して,そのすみやかな回復を待たねばなりません.そこに,いかなる神々の意志の介入がありえましょうか.

人々は必ず老い,病み,死の苦しみを受けるのです.そこにおいて,バラモンのような呪術者や祈祷師を呼んだところで,どんな効果が期待できましょう.彼らは,神々に祈ると称して,犠牲を捧げますが,これは,殺生にほかなりません.彼らは,神々に捧げると称して,供物をとりますが,これは,盗みにすぎません.彼らは,神々に祈ったから病が癒えたと称する.しかし,これこそは虚偽であり,神々をかえって汚す涜神の行為ではないでしょうか.四つの真理と八つの正しい道,の他には,人々の老,病,死の苦しみの滅する道はありえないのです.」

モッガラーナは,賛嘆していうのでありました.

「ゴータマさん,おみごとです.

法は求められ,たしかに発見されました.あなたはバラモンを超えた真のバラモンであり,万人にとってその人生の師である,といわれるに至るでしょう.

幸い,わたしにはバラモンとして習い覚えた確実な法があり,わたしたちは,あなたの法を,より普遍化し,法として確立し,人々に幸いをもたらすものとしてそれを説きましょう.いっしょに法の輪を回しましょう.あらゆる人々の苦しみの集まりが滅し終えるときまで.」

 

[サーリプッタとの対話]

−ニルヴァーナとは何か−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者から,このように聞いたのでありました.サーリプッタは,ゴータマが説いた四つの真理と八つの正しい道について,それを賛嘆しつつまた尋ねるのでありました.

「ゴータマさん,

おみごとです.あなたは,四つの真理と八つの道,を説くことにおいて,かつてわが師であったサンジャヤ・ベーラッティプッタをはるかに超えられました.

サンジャヤ・ベーラッティプッタは,瞑想のみにおいて,ニルヴァーナ,つまり解脱の境地に至ることをその最高の目標としておりました,すなわち,あるのでもない,ないのでもない,あるのでもないのでもない,ことがそれであって,それはまた,わがモノとう想いのないこと,わがモノという想いのないのでもないこと,無所有であり,思うのでも思わないのでもない,という非想非非想処とよばれる境地,いわば判断停止,と呼ばれる心理状態がそれなのでありました.

しかし,私としては,それがたんなる空想や妄想に等しいのではなかろうか,とその実質を疑っておりました.いくら,瞑想によって解脱を求めえたとしても,現実の老,病,死の苦しみを避けることはできないのです.また,懐疑論者は,真実を求めるあまりに,いかなる場合にも,果てはその師の説をすら疑うことがその努めであったのです.

それが幸いしてか,アッサジ長老のつつましやかな実践行為を見たときに,ハタと気づき,モッガラーナとともにこのサンガに集い,あなたの明快な説に接することになったのでした.実践行為を欠けば,いかなる善き瞑想も,たんなる空想,ついには妄想に堕すにすぎないのはあまりにも明らかです.

私の関心は,真の解脱にあり,真のニルヴァーナとは何か,でありましたが,あなたのお話を伺って,ついに疑いの霧は晴れました.私なりにニルヴァーナとは何か,を考えてまとめてみましたので,お聞きいただけるでしょうか.」

ゴータマは頷き,その話しを促しましたので,サーリプッタは歌うように語るのでありました.

「修行者たちよ,

貪欲こそは唾棄すべきであり,憤懣も唾棄すべきものである.この貪欲と憤懣を捨て去るためにこそ,われわれに法を知る眼,法を見る眼を与えるところの,四つの真理と八つの正しい道,つまり中正なるナーガの道であるところの,中道があるのである.

中道とは,すなわち,正しく見ること,正しく思惟すること,正しく語ること,正しく行うこと,正しく暮らすこと,正しく努力すること,正しく心を配ること,そしてそれらを正しく生活に集中し,それらの全てを正しい生活態度に統一することであって,八つの正しい道,とよばれる法がそれなのである.

怒り,悪意,妬み,吝嗇,貪欲,偽善,欺瞞,傲慢,得意,怠情,これら,われわれの平和な生活を苦しめ悩ます種となる,悪しき要素を全て厭い,捨て去ろうではないか.これらの悪しき要素を捨て去るためにこそ,中道があり,四つの真理と八つの正しい道があるのである.

四つの真理と八つの正しい道こそは,われわれに法を知るココロの眼,法を見るココロの眼を生じさせるのである.法を見る眼を得てこそ,真実の法への目覚めがあり,真実の法なる知恵の光のもとにあるのであって,法の眼を得てこそ,われわれにココロの安らぎがあるのである.これが,われわれがかくも長く迷いの中にあって求め続けていた解脱であり,われわれが目指していたココロの安らぎであり,ニルヴァーナなのである.」

ゴータマは,賛嘆していうのでありました.

「サッリプッタさん,おみごとです.

あなたは,すみやかに,四つの真理と八つの正しい道を理解され,その法を体得されました.あなたはすでに法の眼を得られました.

もともと,われわれが発見した法とは,われわれの無明と無知いう暗闇に覆われているだけだったのであり,知恵の一筋の光明さえあれば,おのずからそれは光りはじめるものであったのでした.その知恵の光こそは,われわれわれが平和に苦しみなく暮らす法,というその現実のうちに,厳然と存在し続けていたのでありました.それは,自然の法であり,人々の自由で,平和で,平等な,そしてつつましやかな暮らしそのものであったのでした.

今われわれにおいて,あなたは懐疑というココロの闇をうち滅ぼす法の将軍であり,法将と呼ばれるにふさわしいのです.いまや,法の輪は回りはじめました.さぁ,もろともに法の輪を回しましょう.」

 

[アッサジとの対話]

−業とは何か−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.今は五人の等しき法の友の一人となったアッサジは,ゴータマにこのように問いかけるのでありました.

「ゴータマよ,いまや,なんじは四つの真理と八つの正しい道,を見事に説き終えたのである.ついては,わたしに代わって,カルマ(業)の法を説いてはくれぬか.

私は,世界の人々の苦しみは,悪しき行いから起こり,世界の人々の楽しみは善き行いから起こると確信しているである.そうした単純な想いから,私は,あらゆる悪行から遠ざかり,善き行のみを我が身によって行おうと身を砕き,ココロを修めてきたにすぎないのである.

しかし,こうしたカルマ(業)の法則を理路整然と説くことは今のわたしにはきわめて困難となった.老いた私には,四つの真理と八つの正しい道は,深遠でみがたく,修行のみに心身を砕いてきたわたしの声もすでにまた震えるのみである.私にはいまや沈黙にあって,その行いによって法を表すしかほとんど術はないのである.」

ゴータマは,しばし沈思黙考して,やがて語りはじめるのでありました.

「修行者たちよ,

全ての世の苦しみは,悪しき行いから縁って起こる.全ての世の楽しみは,善き行いから縁って起こるのである.これが,縁って起こる,という法なのである.

およそ,人が人を殺すにあたっては,そこにイノチを失うという苦しみが現に起こるのである.人が人から盗むにあたっては,そこにモノを失うという苦しみが現に起こるのである.人が人に嘘をつくにあたっては,嘘をつかれて我が身の拠り所を失うという苦しみが現に起こるであろう.人が人に乱をなせば,そこに現に乱にある苦しみがあるであろう.人が人に邪をなせば,そこに現に人が邪に悩むという苦しみがあるであろう.つまり,悪しき行いは,必ずや苦しみをもたらす.また,苦しみとは,悪しき行いに縁って起こるのである.

これが,これあれば,かれあり,これなければ,かれなし,という法である.これが,縁って起こる,悪しきコトをなせば,それに縁って苦しみが起こる,というカルマ(業)における法であり,因果の法なのである.

およそ,人が人のイノチを助けるという行いに縁って,そこに人がイノチを得るという楽しみが現に起こるのである.人に人がモノを喜捨することに縁って,人がモノを得るという楽しみが現に起こる.人が人に真実を語れば,それに縁って真実の知識を得るという楽しみが現に起こる.人が人に平安を与えれば,それに縁って平安にあるという楽しみが現に起こる.人が人に正義をなせば,それに縁って一切が静かな安らぎのちにあるという楽しみが現に起こるのである.

これこそが,これあれば,かれあり,これなければ,かれなし,これこそが,縁って起こるという法である.善きことコトをなせば,それに縁って現に楽しみが起こる,というカルマ(業)における法,因果の法なのである.」

アッサジはここにゴータマを深く賛嘆していうのでありました.

「善きかな,ゴータマよ,

世のあらゆる苦しみは,悪しき行いから縁って起こるのであり,

世のあらゆる楽しみは,善き行いから縁って起こるのである,

これあれば,かれあり,これなければ,かれなし,これが,あらゆる世界の現象は,カルマ(業)に縁って起こる,という縁起の法であり,世界の苦楽は,カルマ(業),つまり人々の行いの如何に縁って起こる,という法なのだ.

われわれは,もろもろの悪しき行いを捨て,世の苦しみを滅しようではないか,

われわれは,あまたの善き行いのみをなし,世の楽しみを増そうではないか,

さすれば,われわれは,浄きココロの人と呼ばれるに至るであろう,

これが,われわれが,真の目覚めた人の歩む道にあって,

法の輪を回しつつ,浄らかな道に歩むということなのである.」

 

[コンダンニャとの対話]

−自然法と人間法−

今となっては昔のこと,私は,ただ独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.いまや,五人のビクと呼ばれる修行者の一人となったコンダンニャは,ゴータマにこのように問いかけるのでありました.

「ゴータマよ,

四つの真理と八つの正しい道に目覚めた今こそは,わたしには過去の自由思想家たちのいうこと,その意図するところがようやく理解できるような気がするのである.

ハクダ・カッチャーヤナは,一切の事象に原因などはなく,事象はそれ自身において原因なくして起こる,と説いたのであった.つまり,彼は,バラモンの信じる神々の支配する宿命などをまったく信じたくはなかったので,自然の事象が,それ自身において自由に偶然に生じる,という虚無論,つまり,無因無果を説いたのであったろう.

それにたいして,マッカリ・ゴーサーラは,あらゆる事象に原因はあるが,その原因は,人間の行為に一切関係なく,自然のうちなる法則,自然の必然性,自然のわれわれに課す宿命に見いだすべきである,と説いたのであった.つまり,自然の法則と現象は,われわれが介入できるわけではない,という諦めと,諦観と,宿命論,つまり有因有果を説いたのであったろう.

さて,ゴータマよ,

四つの真理と八つの正しい道,という法において,なんじはこれら自由思想家の二つの極端である虚無論,宿命論をいかに批判し克服しようとするのであろうか.むしろいまや,古い説を積極的に懐疑し,批判し,その批判の対象がたとえ同じ自由思想家であったとしても,積極的に克服する必要があるのだ.遠慮なくそれを語るがよい.」

ゴータマは,思慮深く答えるのでありました.

「修行者たちよ,

無因無果論も,有因有果論も,二つの両極端にすぎません.われわれはここにおいても,中道を歩くべきでありましょう.原因も結果も,あるのでもなく,ないのでもなく,あるのでもないのでもない,のです.これは,決して,懐疑論ではありません.むしろ,断定なのであり,決疑論であり,これは真実であり,迷いの生存を遠く離れており,しかも,そのままに真実の生存のうちにある,ということなのであります.

あらゆる現象や事象は,わたしたちイノチあるモノが,他のイノチあるモノや,他のイノチなきモノに働きかけて生じるのではないでしょうか.わたしたちが見ることによって,あらゆるモノが見え,わたしたちが聞くことによってはじめて,あらゆるモノが聞こえるのです.つまり,あらゆる現象や事象は,わたししたちイノチあるモノが,他のモノたちに働きかけるコトによって生ずるのです.これが,縁って起こる,という法なのです.

すなわち,自然の事物とは,自然の事物たちが「その内なる自由において行為する」という法則に縁って起こり,人々の間における人工的事物とは,人間が「その内なる自由において行為する」という法則に縁って起こるのです.そこにいかなる不思議も神秘もないのです.もし,わたしたち人間が自然の中にあって,自由でありたいなら,あらゆる事象は人間的自由な行為の結果であり,自然的自由な行為の結果でなければならないのであります.

むろん,われわれは,あらゆる自然的自由の法則や,あらゆる人間的自由の法則を未だ完全に知っているわけではありません.しかし,われわれがはたらきかける自然と,自然にはたらきかけるわれわれがある限りは,われわれはそれなる法を発見するでありましょうし,四つの真理と八つの正しい道,という法において,われわれはすでに,それを発見しえたのでありました.

われわれの目標は三つあります.いずれ,われわれは,自然の自由の法則とその中にある人間の自由の法則を発見するであろう,という人間の真理を求める合理性の原則がそれであります.われわれは,そうした法則の探求にむけて自らを解き放つことが必要なのです.それが人間の真理探求の自由,という法則です.さらに,真理探求の自由を抑圧し支配し隷属させようとするところの,あの世とこの世の虚妄や迷信や邪見を取り除くべく,破邪顕正を求める言論の自由平等こそがそれなのであります.われわれは,人々の苦しみの滅する道に,あくまで合理的に行動しようとする人間なのであり,真理を求めるにおいて自由な人間なのであり,それゆえに,言論の自由を愛し求める人間なのであります.」

コンダンニャは,ついにゴータマを賛嘆していうのでありました.

「善きかな,ゴータマよ,

四つの真理と八つの正しい道は,自然の自由の法則と,人間の自由の法則において,その先駆けとなるであろう.真実の法は求められ,見いだされ,人々はその道に歩むであろう,苦しみの集まりの滅する道へ.

さぁ,もろともに法の輪を回そう.真実の人が歩むべき道を歩もう.法の輪の回り終えたところに,われわれ真の人間たちにとっての静かな安らぎの場所があるであろう.」


ヴィハーラの誕生

[ヴィサータとの対話]

−八つの願い(ヴィハーラの原点)−

今はとなっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ヴィハーラとは,当時の寺院のことであり,同時に,施薬院でもあり施療院だったのでもあって,今でいう病院のその起源にもなったといわれております.ゴータマたちは,各地にあったといわれるこうしたヴィハーラたちを,雨期においては安居の場所として,乾期にはそれらを転々として活動していたのでありました.

ゴータマは,そのときにシュラーヴァスティーのジェータ林に住しておりました.ヴィサーカは,シュラーヴァスティーの裕福な商人の妻でありましたので,多くの子どもたちや孫たちがいたのでありました.ヴィサーカがゴータマを食事に招いたとき,昨夜から激しい雨が降り続いたため,ゴータマはその衣が濡れないようにとその衣を脇にかかえて,ヴィサーカの家に赴いたのでありました.そのゴータマが食事を終えると,脇に持していたヴィサーカは,ゴータマにこのように問いかけるのでありました.

「人々の人生の師であるゴータマよ,

私には八つの願いがあります.その願いを受け入れていただきたいと思ったので,私はあなたを食事に招いたのでありました.」

ゴータマはいいました.

「ヴィサーカさん,

ご存じのとおり,私は総ての世間的願いを既に捨て去った身であります.私が自らにおいて可能な正しい生活に関することは受け入れることができますが,私に不可能なことはまったく受け入れることはできません.まず,その八つの願いが正しいものであるか否かをうかがってからにいたしましょう.どうぞ,その願いをお話ください.」

うながされて,ヴィサーカはこのように語りはじめるのでありました.

「人々の人生の師であるゴータマよ,

私の八つの願いとは,ごくごくあたりまえの,ごくごくつつましやかなものにすぎないのでございます.私は私のイノチのある限り,雨期においてサンガに集うみなさまの衣服をさしあげたいと思うのでございます.この町に入ってこられ,またこの町から出発される出家修行者のかたがたに,病気に倒れられ,またその出家修行者を介護する出家修行者のかたと,食事を給し続けようと思うのでございます.さらに,病人には薬を,サンガには乳粥を届けて,出家修行者のかたがたに水浴用の衣をさしあげたい,と思うのでございます.これが私の八つの願いなのです.」

ゴータマは八つの願いを聞き終わり,ここに感嘆していうのでありました.

「ヴィサーカさん,

実にすばらしい.あなたは,世の人々の願いと私たちの願いを,みごとに言い当てられたのです.出家修行者といえども,畢竟,この世とあの世の虚妄の苦しみから逃れてきたものたちにすぎないのですから.

この世は,老,病,死の苦しみに満ちております.この苦しみの現実を直視し,この苦しみは,悪しき行いと悪しき生活環境から起こる,と覚り,これら悪しき生活から逃れ離れ,浄らかなココロとなり,ついには,浄らかな道,善行の道,正義の道に歩む人になろう,と志すものたちの集まりがすなわちサンガなのであります.

しかし,このサンガにあるといえども,病に倒れ,志半ばに死すひとたちがなんと多く,その死は,わたしたちの胸を痛ましめることでありましたでしょうか.

あなたのおっしゃる八つの願いのとおり,最小限の食,そして,清潔な衣と,静穏な住環境こそは,わたしたちのサンガのいわば存続条件なのであります.つまり,自らの心身の病を浄らかに癒しえてこそ,わたしたちは世間において,総ての心身の病を癒すことができるのであって,わたしたちは,ついには,医師たちのその師である医王と呼ばれうるのであります.

ヴィサーカさん,

まことに見事な願いであり,私といたしましては,満腔の謝意をもってそれを受け入れたいと思います.わたしたちの願いは,あなたの八つの願いにおいてついにかなうでありましょう.そして,このサンガは,わたしたちの病を癒す安住の場所となり,それは,世間のあらゆる心身の病を癒す場所,ヴィハーラ,と呼ばれる場所の,その原点となることでありましょう.」

 

[アジャータサットゥ王との対話]

−はじまり−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,マガダ国のラージャグリハ,小児科医として名高いジーヴァカの,マンゴー林に滞在していました.当時は,ビンビサーラ王と妃ヴェーデーヒの子,アジャータサットゥ王が,マガダ国の新国王になったばかりなのでありました.

満月の夜のことです.王は,ウポーサタのため,臣下や妃たちを従え,高楼に登って月を眺めておりましたが,つい沈思黙考するところがあり,鬱々として楽しまないようすでありました.ウポーサタというのは,当時のインドの習慣で,月に四回あり,特に,新月と満月の日には,戒律を読み上げて自己反省をするのがその常であったのです.

王は,周りの人々に尋ねました.

「今夜は,とりわけ月の光が清らかであるが,こうした夜は,いかなる人々の話しを聞いてココロは晴らすのがよいのであろうか?」

満座の人たちは押し黙ったままです.王はすこしイライラして,ジーヴァカに向かっていいました.

「ジーヴァカよ,

お前までが,なぜ黙っているのか? お前は,王子たちにとってよき医師であって,彼らの多くの危機を救ってきてくれたではないか.いま,わが王国もまた多くの問題をかかえているのであるが,この際,そなたには何かよいよい知恵はないのか?」ジーヴァカは答えました.

「王よ,

私は,遊女サーラヴァティの子であったにもかかわらず,王子アバヤによって,あなたの友として育てられ,この王国にひとかたならぬご恩を受けております.私は,あなたにはいわば義理のイトコ同士にあたるのですから,あなたと同様に,この王国の危機を憂えぬことがどうしてありえましょうか.幸いに諸国に医術を学んで帰ることができ,王の王子たちの病気をみてまいりまして,いささかのご恩がえしができつつあることを喜んでいるのみなのであります.

しかし,王よ,

わが王国の病気は,すでに一介の小児科医にすぎない私の手の届かぬところにある,と見受けられます.むしろ,王よ,あなたを苦しめる王国の危機とは,あなたのココロの悩みにあるのではございますまいか.」

王はいささかギクリとしましたが,それあらぬ態でさらに尋ねました.

「そうかもしれぬ.だからこそ,子どもたちの病気を癒す知恵が,この王国に役立つのではないか,と思い問いかけたのであったのだが.」

ジーヴァカは答えました.

「王よ,

幸い,ゴータマとよばれる修行者が,わがマンゴー林に安居しております.彼は,私が小児科医であるような身体の医師ではなく,むしろココロの医師なのである,と自称しております.この者と面会してウポーサタの夜を過ごすことになさってはいかがでしょう.」

ココロの医師と聞いて,アジャータサットゥ王は興味を覚えました.アジャータサットゥ王は臣下に命じました.

「乗り物を用意せよ.ジーヴァカのマンゴー林にいるという沙門ゴータマと,ウポーサタの夜を過ごすことにしよう.」

意外なことに,ジーヴァカのマンゴー林は,人気のない寂しい塚間を通る道の果てにあるのでした.アジャータサットゥ王は,つい不安になり,疑心暗鬼に陥らざるをえないのでした.

「ジーヴァカよ,

なんとここは,塚間ではないか.おまえは,沙門を紹介するといっておきながら,私を騙すのではあるまいな? ついに,おまえまでが,この私を裏切るのではあるまいな?」

ジーヴァカは涼しい顔で答えます.

「王よ,

私はあなたとともに先王に育まれてきたのであり,決して,あなたを裏切ることはいたしません.あなたの王子たちを誠実に育んでいるだけの私があなたを騙すはずもありません.およそ,医師というものは,いつも老,病,死と向かい合うことをその修行にしていることをお考えください.このマンゴー林全体は,あなたの兵によって守護されております.勇気をもって,この暗闇をお進みなさい.ほらもう,現に,あそこに一筋の光明が見えるではありませんか.」

暗闇を進みながら,さらに,王はいいます.

「ジーヴァカよ,

なんとここは寂しいことであろう.おまえは,ココロの医師と称する修行者を紹介するといいながら,私を騙すのではあるまいな.ついに,生まれた時からの友人であるはずのおまえまでが,この私を裏切るのではあるまいな.」

ジーヴァカは,このように王を勇気づけるのでありました.

「王よ,

老,病,死に対するたたかいはもとより孤独です.さらに,みずからのココロの苦しみとという暗黒には,ただ一人で立ち向かわねばなりません.戦士としての勇気をもってお進みください.ゴータマと呼ばれる修行者は,たった一人であなたを待っているにすぎないのです.ほら,あそこに明かりに向かって静かに座っている一人の人影がそうです.」

とやこうや会話しつつ,アジャータサットゥ王とジーヴァカは,ゴータマの一人で座す精舎に入ったのでありました.ゴータマと,アジャータサットゥ王との対話は,さて,この後,いかがあいなりますことでありましょうか.

 

−プラーナ・カッサパ−

さて,王は,足を洗って堂に進みいりました.沙門ゴータマの静かに座す姿をみて感嘆してジーヴァカにいうのでした.

「なるほどなぁ,ジゥヴァーカよ,おまえが紹介するほどの人物だから,余程の修行をしてきたのであろう.その座る姿の端正なることはどうだ.わが王子である,ウダーイ・バッダもこのように落ち着いた姿に育ってくれたらなぁ,と思うよ.」

ゴータマはこれを聞いて,にこやかに王に呼びかけました.

「王よ,

あなたの慈しみが王子に向かうように,その王国にある万人にも向かいますように.」

王はこれを聞いて,少し不愉快そうな顔をしましたが,さあらぬ態にて,ゴータマの前に進みでて,合掌礼拝し,座を占めて語りかけました.いかなる王侯も,出家修行者に敬意を表するのが当時の「おきて」でありましたから.

「ゴータマよ.

私はアジャータサットゥ王である.ジーヴァカとともに,以後,お見知り置きをいただきたい.

さて,ウポーサタの夜でもあり,わが友ジーヴァカに勧めにもより,ここに来た次第である.修行の邪魔をして悪いが,いささかの問答をしてもよいものであろうか.」

「王よ,

望むところであります.およそ,人のココロを苦しませるのはその悪しき行いでありましょう.その行いをコトバではっきりと表現し,その行いを深く反省し,その反省をコトバによって明確に表現し,それを実行しなければ,人のココロの苦しみは滅することがないのですからね.」

王は,驚いていいました.

「ゴータマよ,

私はそれとは全く正反対のことを,今までさんざん聞いてきたのであったのだが.」

「王よ,

それでは,それこそがあなたのココロの,苦しみの原因であるかもしれません.それをお語りになれば,あるいは,そのココロの苦しみを,滅する方法が見いだせるかもしれませんね.」

王は語りはじめました.

「ゴータマよ,

私は以前,おまえの同業者である一人の沙門から,このように聞いたのであった.彼は『王が自らなすにおいても,他者をしてなさしむるにおいても,切り殺すにしても,殺害するにしても,煮たり焼いたりして殺すにしても,切り刻んで殺すにしても,衆生を悩ますにしても,憂えしめるにしても,泣き叫ばせるにしても,殺生し,偸盗し,淫逸し,妄語し,垣根を越えて却奪し,放火し,道を遮って悪をなしにしても,王よ,どんなことを行おうと,悪をなすことにはならない.王よ,もし利剣をもって一切の衆生を切り刻んで,肉のミンチにして世間にばらまいたとしても,これは悪をすることにはならない.また,罪に対する報いもない.ガンジス川の南岸で衆生を切り刻んでも,また悪の報いがあることはない.ガンジス側の北岸でおおいに布施を行って,一切の衆生に施して人を等しく利したところで,幸福という報いがあるわけでもない.』というのであった.」

「王よ,

それは,プラーナ・カッサパの説であり,一面においては,この戦乱の世の習いそのものでもあり,道徳否定論としてよく知られています.しかし,それは果たして世の真実の姿でありましょうか,

王よ.

人々を殺害すれば,その人々が現に大きな苦しみを受けます.その苦しみは,その人々を苦しめるだけではなく,さらに怨念や憎悪となって人々に受け継がれ,殺害者の苦しみとして帰ってくることが現実に観察されるではありませんか.

また,人々に布施を行えば,その人々が現に楽しみを受けます.その楽しみは忠誠や正義を愛するココロとなって人々に受け継がれ,布施者に忠誠や正義となり幸福となって帰ってくることが現に観察されるではありませんか.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,どのように行動されたのでしょうか?」

王はいささか苦々しげに答えました.
「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思ったのだが,戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は修行者でもあり,いくら不愉快な説であったとしても,戦乱の世においては一面の真実ではあり,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.悪しき行いには,現に苦しみがあり,善き行いには現に楽しみがあります.プラーナ・カッサパにとっても,沙門であるがゆえの言論の自由という楽しみがあり,重ねて王の慈悲があったことでもあり,それこそが,出家修行者であることの果報であったのです.

王よ,

その他には,どんな説があなたのココロを悩ませているのでしょう?」

 

−マッカリ・ゴーサーラ−

王はまた語り出すのでした.

「ゴータマよ,

私は以前,おまえの同業者である一人の沙門から,このように聞いたのであった.彼は『王よ,布施の効果もなく,施与の効果もなく,祭祀の効果もなく,また善悪もなく,善悪の報いもなく,今世もあることなく,また後世があることもなく,父もなく,母もなく,天なく,化して生まれるものもなく,衆生もない.世に,沙門やバラモンの平等の行者もなく,また今世,後世に自ら作り出し他人に示す何ものもない.諸々の有をいうものは全てみな虚妄である.』というのであった.」

「王よ,

それは,マッカリ・ゴーサーラの論であり,悪しき意味での決定論であり,また虚無論として知られています.たしかに,世のありさまは諸行無常でありまして,真に恒常的にあるモノを見いだすことはきわめて困難です.

しかし,殺害などの悪しき行いには,現に苦しみが伴い,布施などの善き行いには,現に楽しみがともなうのが観察されるのです.これあれば,かれあり,これなければ,かれなし.悪しき行いがあれば,苦しみがあり,悪しき行いがないならば,苦しみもない.これが,真の決定論であり,法であり,縁って起こる,といわれる因果関係であり,業(行い)の論理ともいえましょう.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,どのように行動されたのでしょうか?」

王はこれも,いささか苦々しげに,ちょっと恥ずかしげに答えました.

「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思えたのだった.しかし,やはり法を知らぬ戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は沙門でもあり,いくら決定論であり虚無論とはいえ,それは戦乱の世においては一面の真実ではあり,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.悪しき行いには,現に苦しみがあり,善き行いには現に楽しみがあります.マッカリ・ゴーサーラにとっても,修行者であるがゆえの言論の自由という楽しみがあり,重ねて王の慈悲があったことでもあり,それこそが,出家修行者であることの果報であったのです.

王よ,

その他には,どんな説があなたのココロを悩ませているのでしょう?」

 

−アジタ・ケーサカンバラ−

王はうながされて,さらに語り出すのでした.

「ゴータマよ,

私は以前,おまえの同業者である一人の沙門から,このように聞いたのであった.彼は『四つの要素を受け取って今生きている人も,そのイノチが終われば,地の要素は地に帰し,水の要素は水に帰し,火の要素は火に帰し,風の要素は風に帰し,かくのごとく肉体はみな腐って崩壊し,諸々の根源は空に帰る.もし人が死ぬとき,その死体はベッドに横たわり,それを塚に置いて,火でもって,その骨を焼けば,鳩のような色の骨が残るのみである.あるいは変じて灰土となるのみである.あるいは愚者でありあるいは賢者であっても,そのイノチが終わればその肉体はみな腐って滅び去るのみであって,断滅して残るものは何もない』,というのであった.」

「王よ,

それは,アジタ・ケーサカンバラの論であり,要素論であり断滅論として知られています.たしかに,身体は,色・かたち・名あるモノ,それを受容するコト,それを想起するコト,それをコトバとして形成するコト,そして,コトバとして形成された記憶,という,五つの要素からなりたっており,世のありさまは諸行無常でありまして,真に恒常的にあるようなモノを見いだすことはきわめて困難です.

しかし,殺害などの悪しき行いには,現に苦しみが伴い,布施などの善き行いには,現に楽しみがともなうのが観察されるのです.これあれば,かれあり,これなければ,かれなし.たった一つの死によっては,その一人の苦しみが終わるだけであって,衆生の苦しみ,多くの人々の苦しみは終わることはありません.

悪しき行いの記憶が残れば,苦しみが残り,悪しき行いの記憶がなければ,苦しみもないでありましょう.これが,真の要素論であり,断滅論でもなく,決定論でもない.これが,法であり,縁って起こる,といわれる因果関係であり,業(行い)の論理ともいえましょう.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,彼に対しては,どのように行動されたのでしょうか?」

王は,こんどはちょっと驚いて,いささか苦々しげに答えました.

「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思えないのでもなかった.しかし,やはり真実の法を全く知らぬ戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は法を求める修行者でもあり,いくら極端な断滅論であるとはいえ,それは戦乱の世においては一面の真実を含むとも思えたし,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.悪しき行いには,現に苦しみがあり,善き行いには現に楽しみがあります.また,悪しき行いの記憶は断滅することなく,人々に苦しみを与えつづけるのです.善き行いの記憶は断滅することなく,人々に楽しみを与え続けるのです.

アジタ・ケーサカンバラにとっても,沙門であるがゆえの言論の自由という楽しみがあり,重ねて王の慈悲があったことでもあり,それこそが,沙門であることの果報であり,出家修行者であることの果報であったのです.

王よ,

こうした極論の他には,どんな論説があなたのココロを悩ませているのでしょう?」

 

−パクダ・カッチャーヤナ−

王はうながされて,また語り出すのでした.

「ゴータマよ,

私は以前,おまえの同業者である一人の沙門から,このように聞いたのであった.彼は『王よ,権力に実体があるわけでもなければ,努力した人に報いがあるわけでもなければ,権力もなく,善い生活に至る確実な方法があるわけでもない.原因があるわけでもなければ,因果関係が現にあるわけでもなく,衆生はただ生に執着するのみであって,その生に原因もなければ,因果関係があるわけでもなく,衆生はただ浄らかであるのみである.一切の衆生のイノチあるモノの全ては主体的な権力をもつものではなく,したがって自由であるはずもなく,怨讐があるわけでもなく,ただ運命のまにまに,六つの生を巡って苦楽を受けるのみなのだ.』というのであった.」

「王よ,

それは,パクダ・カッチャーヤナの論であり,要素論であり無因無果論として知られています.たしかに,身体は,色・かたち・名あるモノ,それを受容するコト,それを想起するコト,それをコトバとして形成するコト,そして,コトバとして形成された記憶,という,五つの要素から縁って起こるのです.この世のありさまは諸行無常でありまして,苦しみのみ多く,真に恒常的にあるようなモノ,静かな安らぎを見いだし,解脱に至ることはきわめて困難です.

しかし,現に,わたしたちには自由意志があり,自由意志に基づく行動の自由もある.殺すこともできれば,逆に,布施を与えることもできる.殺害などの悪しき行いには,現に苦しみが伴い,逆に,布施などの善き行いには,現に楽しみがともなうのが観察されるのです.コトの善悪は,わたしたちの自由意志と自由な行動に伴うのであって,これあれば,かれあり,これなければ,かれなしであって,因果法則は現に成立しているのであります.

悪しき行いを原因として,現に苦しみという結果がもたらされる.善き行いによって,現に楽しみという結果がもたらされる.これが,真の要素論であり,無因無果論でもなければ,恒常的な原因が恒常的な結果を引き起こすという意味での有因有果論でもない.これが,真実の法であり,縁って起こる,といわれる因果関係でもあり,善き業(行い)を勧める論理ともいえましょう.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,彼に対しては,どのように行動されたのでしょうか?」
王は,こんどはちょっと後悔したように,恥ずかしげに答えました.

「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思えないのでもなかった.しかし,やはり真実の法を全く知らぬ戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は法を求める修行者でもあり,いくら極端な無因無果論であるとはいえ,それは戦乱の世においては一面の真実を含み,ほとんど信じられるとも思えたのでもあるし,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.苦しみには,悪しき行いという原因があり,楽しみには,善き行いという原因があるのです.

パクダ・カッチャーヤナにとっても,修行者であるコトを原因として,言論の自由という結果があり,それに重ねて王の慈悲があったことでもあり,それこそが,出家修行者であることの果報であったのです.

王よ,

こうした極論の他には,さらにどんな論説があなたのココロを悩ませているのでしょう?」

 

−サンジャヤ・ベーラティプッタ−

王はうながされて,さらにまた語り出すのでした.

「ゴータマよ,

私は以前,おまえの同業者である一人の修行者から,このように聞いたのであった.彼は『王よ,

出家修行者に現に果報があるだろうか.あるといえば,あると答えるほかはない.このことは実であって,また異なるのでもあるし,異なるのでもなく,異なるのでないのでもないのであるから.

出家修行者には現に果報がないのだろうか.ないといえば,ないと答えるほかはない.このことは実であって,異なるのでもあるし,異なるのでもなく,異なるのでないのでもないのであるから.出家修行者には現に果報はあるのかないのか.あるのかないのかといれわれば,あるのかないのか,と答えるほかはないであろう.このことは実であって,また異なるのでもあるし,異なるのでもなく,異なるのでないのでもないのであるから.

王よ,

出家修行者には,果報があるのでもないのでもないのだろうか.あるのでもないのでもないと問われれば,あるのでもないのでもない,と答えるほかはないであろう.このことは実であって,異なるのでもあるし,異なるのでもなく,異なるのでないのでもないのであるから.』というのであった.」

「王よ,

それは,サンジャヤ・ベーラッティプッタの論であり,懐疑論として知られています.実は,私の法の友であるサーリプッタやモッガラーナも,そうした懐疑論を学んだことがあるのです.しかし,善き行いをすれば,浄らかなココロとなり,過去の悪しき行いによる苦しみを滅して静かな安らぎに至る,という法を知って,私たちの法の下に集うに至ったのでした.

彼のいうことは,論理的な真理,コトバのみの世界での真理たるにすぎません.むしろ,現実には,私たちは善き行いをするべきか,悪しき行いをするべきかの選択をいつも迫られているのですから.

悪しき行いを原因として,現に苦しみという結果がもたらされる.善き行いによって,現に楽しみという結果がもたらされる.これが,真の要素論であり,無因無果論でもなければ,恒常的な原因が恒常的な結果を引き起こすという意味での有因有果論でもない.これが,真実の法であり,縁って起こる,といわれる因果関係でもあり,善き業(行い)を勧める論理を実践することによって,静かな安らぎに至る道を歩む他はないのです.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,彼に対しては,どのように行動されたのでしょうか?」

王はこんども,ちょっと後悔したように,恥ずかしげに答えました.

「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思えないのでもなかった.しかし,やはり真実の法を全く知らぬ戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は法を求める修行者でもあり,いくら極端な懐疑論でわけのわからぬコトでもあり,それは戦乱の世においては一面の真実を含み,なんとなく真実らしいとも思えたのでもあるし,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.私たちは,日々善悪の決断を迫られる他はなく,苦しみには,悪しき行いという原因があり,楽しみには,善き行いという原因があるのです.悪しき行いを滅して,浄らかなココロを形成し,静かな安らぎに至る,という確固たる目標こそが,出家修行者であるコトの本義なのです.

サンジャヤ・ベーラッティプッタにとっても,修行者であるコトを原因として,言論の自由という善き結果があり,それに重ねて王の慈悲があったことでもありました.それこそが,出家修行者であることの果報であったのです.

王よ,

こうした懐疑論の他には,さらにどんな論説があなたのココロを悩ませているのでしょう?」

 

−ニガンタ・ナータプッタ−

王はうながされて,また語るのでありました.

「ゴータマよ,

これが最後の話しであるが,私は以前,おまえの同業者である一人の沙門から,このように聞いたのであった.彼は『王よ,私は一切を知るものであって,一切を見るものでもあり,ことごとく知り尽くして知らないものは何もないのだ.あるいは行き,あるいは住し,座るにおいても,臥すにおいても,悟りのうちにあることにおいて,その行為において欠けるところが何もない.私の知識は全て常にこのとおり,ありのままにそのまま現前しているのである.』というのであった.」

「王よ,

それは,ニガンタ・ナータプッタの論であり,彼は勝者と自称しております.常住坐臥において,五戒を保つ理想的な行為者,行者,法の体現者であることを主張するのであります.しかし,彼とても,人間であるならば,老い,病み,死なぬことがありましょうか.老い,病み,死ぬ時においても,法の体現者であり,あくまでも勝者である,と言い続けられるものなのでしょうか.諸行無常,すべて人は,老い,病み,死ぬのである,という法に勝るようなモノがありましょうか.

悪しき行いを原因として,現に,老,病,死という苦しみという結果がもたらされるのです.善き行いによって,現に,老,病,死の中にあっても,静かな安らぎ楽しむという結果がもたらされるのです.これが,真の要素論であり,無因無果論でもなければ,恒常的な原因が恒常的な結果を引き起こすという意味での有因有果論でもない.これが,真実の法であり,縁って起こる,といわれる因果関係でもあり,善き業(行い)を勧める論理を実践することによって,たとえ,老,病,死の中にあっても,静かな安らぎに至る道を歩むという法なのです.

王よ,

さて,そのような説についてあなたはどうお思いになり,彼に対しては,どのように行動されたのでしょうか?」

王は,こんどはまったく驚いて答えました.

「ゴータマよ,

私も一瞬,そのように思えないものでもなかった.しかし,やはり真実の法を全く知らぬ戦士の習いとして,すぐに語るべきコトバをもたず,ただ,相手は法を求めてそれを完成した勝者と称する修行者でもあり,いくら傲慢とはいえ,それは戦乱の世においては一面の理想でもあり,そうした身になってみたい,とも思えたのでもあるし,そうした説を持つからといって,その人を殺したり,縛って鞭打って追放したりするわけにもいかない,と思い止まった次第なのであった.」

「それはよいことをなされました.苦しみには悪しき行いという原因があり,楽しみには,善き行いという原因があるのです.悪しき行いを滅して,浄らかなココロを形成し,静かな安らぎに至る,という確固たる目標が,出家修行者であるコトの本義なのです.

ニガンタ・ナータプッタにとっても,修行者であるコトを原因として,言論の自由という善き結果があり,それに重ねて王の慈悲があったことでもありました.それこそが,出家修行者であることの果報であったのです.」

 

−修行者であることの果報とは−

さて,今度は,ゴータマが,王に尋ねていうのでありました.

「王よ,

もしあなたの召使が頭を剃って,三つの衣のみとなり,出家修行者となって,道を修めて,平等の法を実践しているといたしましょう.はるかに向こうからその人が来るのを見たときに,あなたは『これは,私の召使である』というのでしょうか?」

王は答えていいました.

「いいえ,ゴータマよ.

私は彼の来るのを見たら,立ち上がって迎え,どうぞともにお座りください,というでしょう.」

「それでは,それこそが,出家修行者であることの現実の果報なのではありませんでしょうか?」

王は沈思黙考するのみでありました.

「王よ,

もしこのように尊敬すべき人が,私の発見した法である『四つの真理』のなんたるかを知り『八つの正しい道』を実践し体得するならば,自らの過去を知り,自らの未来を予見し,無知の暗闇を滅ぼし,大いなる知恵の光を得て,現在の運命を甘受していささかも苦悩することがないでありましょう.それは,正しい法を何度も繰り返し想起して完全に記憶しており,それ正しく実践して倦むことなく,思いをそれに正しく専念して退くことがなく,法において静かな安らぎを楽しむことができて,放逸な思いにふけることが全くないからなのです.

こうしたココロの静かな安らぎを楽しむことができる,そのことこそは,出家修行者の現在の果報ではありますまいか?」

王は,深く頷きつつ言うのでありました.

「ゴータマよ,

まったくその通りであって,それこそが出家修行者の現実の果報でありましょうね.」

そして,ついに堰をきったように語り出すのでありました.

「ただ願わくば,ゴータマよ,

私の過去の悔いを受け止めていただきたいのであります.私は,ココロを癒す医師である,とジーヴァカからあなたのことを聞いてここにやってきたのでした.

私が悶々として楽しまないゆえんは,一時かっとして愚かな怒りに狂い,頭の中が真っ暗となり,ほとんど正気を失うに至った,そのことによるものなのです.

私の父であったマガダ国王であるビンビサーラ王は,法によって治世を行いかつ公正でありましたから,私にも厳正至極でありました.私は王国を支配したいという欲望に迷い,反乱を企図し,それが暴露されて戦闘となり,それに勝利しました.その処罰を恐れるあまり,武門の習いとはいえ,実の父である王を幽閉し,ついに殺してしまったのでした.

今夜はウポーサタでもあり,ゴータマよ,私の過去の悔いを受け止めていただければ,私の苦しみはいつかは消えるのではないか,ということがそれなのです.」

 

−法を見る眼−

しばらく沈黙があった後,ゴータマは口を開きました.

「王よ,

あなたは一時の怒りに正気を失うほど愚かでありましたが,いま,それを深く悔悟なさっておられます.あなたは,欲望に迷って自らの父を殺害されました.それを悔いて深く反省するものは,自らの善性を立派に取り戻したといえましょう.ここに,あなたの悔悟を快く受け入れて,ともに苦しむことにいたしましょう.」

王は誓うのでありました.

「ゴータマよ,

今こそ,私は『四つの真理と八つの正しい道』なる法に帰依し,その法に発見者であるブッダに帰依し,またブッダの集いに帰依いたしましょう.そして,正しい法のうちにある在家信者となることを誓いましょう.今からイノチのある限りは,人を殺すことなく,人から盗むことなく,人を欺くことなく,淫逸にふけることなく,酒を飲んで乱に入ることもありますまい.ただ願わくば,ブッダおよびブッダの法の集いにある方々は,私の誓いを受け入れられんことを.」

ゴータマはジーヴァカにいいました.

「ジーヴァカさん,

アジャータサットゥ王は,過去の罪科を悔悟することによって,その重荷から解き放たれました.もし,アジャータサットゥ王が父を殺していなかったら,この座において,全てを浄らかに見る眼を得たでありましょう.しかるに彼は,今自らの罪を悔悟し,その重荷からわずかに解き放たれたのみなのです.

つまり,今後のすべては,王の誓約による善き行い如何によることになります.ジーヴァカさんは,今後とも,王の誓約を守ることにおける証人になっていただきたいのです.そうすれば,王は,先王に勝るとも劣らない名王たられるでありましょうし,そのときにこそはじめて,王は法の眼を得て,すべての過去の悪行という重荷を棄てられるでありましょう.」

王はジーヴァカにいいました.

「よかった,よかった.ジーヴァカよ,

私はあなたのおかげで,このウポーサタにおいてはじめて,現にココロの安らぎという大きな利益を得たのである.あなたは,先にブッダの教えを私に聞かせてくれたばかりか,私をブッダのところへ伴い,悔悟によってそのココロの重荷を降ろさせてくれた.あなたは,私にとって肉体を癒す医師であるし,ゴータマは,ココロを癒すすばらしい医師であった.深くあなたに感謝するとともに,ゴータマをわがココロの師として,彼に対しても感謝の念を忘れることはあるまい.」

かくして,王は,名医ジーヴァカとともに,ゴータマの保護者となったのでありました.修行者であることの果報とは何か,という一場の風景がこれであり,実は,これであるのでもなく,また,これでもないのでもない,のであります.

 

−ジーヴァカの物語−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.

ジーヴァカは,ラージャグリハの娼婦であるサーラヴァティのその息子でありました.父なしごであったジーヴァカは,生まれるとすぐ,籠にいれられたまま,ごみ捨て場に棄てられたのでありました.

ゴミ捨て場を管理する役人が困っているときに,そこへ運良く,アバヤ(無畏)という王子が通りかかりました.王子は,何事かと尋ね,赤ん坊が棄てられている,と聞くと,「彼は生きているのか,死んでいるのか」と尋ねたのでありました.役人は,「生きております」と答えたので,生きている(寿命,ジーヴァカ)と名付けられたのでありました.

さて,ジーヴァカは,幸いにアバヤ王子に育てられることになりました.ジーヴァカは成長するにおいて,ついに自らの出生の秘密を知り,自らに与えられた名のごとく,多くの人々を生かす者となろうと決心し,王子の許しを得て,タクシラの大学へ行き,7年間にわたって医術を学んだ,といわれます.学び終えてラージャグリハに戻り,子どもたちを癒す名医となったのでありました.

ジーヴァカは,ビンビサーラ王の「瘻」を治したともいわれますし,富商の開頭手術を行ったとも,臓器の位置の異常に悩んでいた青年を癒したともいわれますから,外科にも堪能であった,と思われるのです.また,ゴータマ・ブッダにも仕えて,彼のサンガに訪れる沙門たちを癒したともいわれるのであります.ビンビサーラ王亡き後に,王の縁者として,アジャータサットゥ王やその王子たちの侍医としても活躍したのでありました.このように,ゴータマたちが形成したサンガとよばれる修行者たちの集団は,当時の医術とは深いかかわりがあったのでした.


ヴィハーラの風景から

[バラモンとの対話]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.さて,彼がシュラーヴァスティーのジェータ園に安居していたときのことです.その東方のウッタラヴァティーには,多くのバラモンが住んでいたのでありましたが,彼らはニガンタと呼ばれる苦行者のところで,汚物やその他の異物で身体を汚して,やがては仙人とよもばれ,聖人とも,聖仙ともよばれようと思っていたのでありました.

ニガンタのいるガンジス河のほとりへ行く途中で彼らは,渇きと飢えに襲われましたが,折よくとある在家のひとたちが彼らを哀れみ,飲食を提供してくれて,彼らにいうのでありました.

「バラモンのみなさん,

私たちは,ゴータマと呼ばれる修行者からこのように聞いたのです.供犠はかえって殺生であり盗みであり,むしろ不幸の源にすぎないのであって,昼も夜も常に負債となって,かえってその人を苦しめるのみなのであると.悲しみや苦しみから逃れ,身体における苦しみと悲しみの原因となる要素を滅するためには,四つの真理と八つの正しい道,というダルマによるべきであり,そのダルマの実践によってこそ,この世とあの世の虚妄から解放されるのであると.」

これを聞いたバラモンたちは驚き疑い,まずは,ゴータマと呼ばれる修行者に会うことに決し,シュラーヴァスティーに行くことにしたのでありました.そこにおいてゴータマは彼らにこのように語ったといわれるのであります.

「バラモンたちよ,

螺髪であって裸でいようとも,わずかの木の葉で身体を覆うとも,また,かもしかの皮をまとおうとも,汚物をつけて石の上で臥そうとも,その外面を飾るだけのことにすぎず,自らのココロと,その行いが実に浄らかでなければ,その負債と重荷を増やすだけであって,自らがついに自らに担うべき悩みと苦しみからは決して逃れることがないであろう.

しかし,イノチあるモノと争わず殺さず,イノチあるモノを火によって無残に滅ぼすことがなく,また,それらと戦って勝利を得ようとも思わずに,この世に対する善意のみによって自らを律して生きようとする者にとっては,悪意や憎しみが生ずることがない.

功徳を求めると称して,死後の報いを得ようとしてなされる供犠とは,あの世で果報を得ようとする無明とよばれる虚妄に仕えるにすぎない.また,現に,この世においては,殺生であり盗みであることに他ならないのであって,この世においてますます罪を重ねることに他ならないのである.むしろ,あの世とこの世の虚妄からはるかに離れて,自らの意志によって善きことのみを行うことこそが,解脱への道である.

バラモンたちよ,

悪しき行いを捨て去って,善き行いに専念するがよい.法を知る者に正しく敬礼するがよい.法を知るものと語ることを喜び,法の友である年長者を尊び敬い,法において安らかに住するものにおいては,四つの幸いがあるであろう.すなわち,ココロの浄らかさであり,その強さであり,イノチの長さであり,その静かな安らぎがそれである.」

 

[パセーナディ王との対話]

−幸運と不運−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように伝え聞いたのでありました.沙門ゴータマがシュラーヴァスティーにあって,人々に法を説きつつ安居していたのでありましたが,そこへコーサラ国王であったパセーナディ国王が訪れて,皮肉をこめつついうのでありました.

「ゴータマよ,

今日は,あなたの関心をひくかもしれないおもしろい話しをもってきたのだよ.私は,役人から聞いたのであるが,過去,あなたの説法を聞いた二人の商人がいたのであった.

その一人は,あなたの説法を聞いて,宿屋に帰り,ふとあなたの話しを思い出して酒を慎んでそのまま寝たという.もう一人の商人は,同じあなたの説法にむしろ反発したのであろうか,途中の酒場でたらふく酒を飲んで,ついに泥酔し道端で寝込んでしまったのであった.その次の朝早く,商いに出発した謹直なほうの商人の車が,道端の暗がりに寝ていた商人をひき殺してしまったのであった.

しかし,それは予期せぬ偶然な事故であることが明白だったので,商人はとがめられずに,他の都市にいって偶然にも馬祭りにあって,その商売は大当たりし,大いに成功し繁栄したというのである.一方は,路傍に無残に死して,他方は幸運にもイノチながらえてついに繁栄するに至ったのである.

神々が定めた運命の分かれ道とはこのことであろう.まことに,人が繁栄するにあたっては,あなたがから聞いた法などによるのではさらさらなく,むしろ,神々の定めたまいし,その運,不運こそがものをいうのではあるまいか.」

ゴータマは,王に静かにいうのでありました.

「パセーディナ王よ,

人の運命を定めるのは,神々ではなく,自らのココロにすぎないのではありますまいか.自らのココロこそは,全ての自らの運命を支配する主人であり,自らのココロこそがその生涯の行いの根本原因なのではありますまいか.

ココロの中に,無明につきしたがうという悪しき想いがあれば,その行いは必ずや悪しきものとなり,それが老,病,死の苦しみの種となり,原因ともなるのです.ココロに邪たろうとの想いがあれば,その行いも邪であります.ココロに乱に入ろうとする想いがあれば,その行いもまた乱に入るのです.

そうした悪しき行いから生まれる罪は,車輪が動けば,そこに現にその轍が生じるように,その人にいっしょについてまわるだけなのです.そのココロこそは,その人の人生における行為の全ての根本であり,その人の運命の主人なのであります.その人生を支配し,不幸や災いを招く行いとは,実にその人のココロに縁って起こるのであります.

ココロに善き想いがあればこそ,そのコトバは善く,その行いも善いのであります.そのような善い行いこそは,その人生を善きモノのするのであって,そうした浄きココロを原因とする,慎み深く善き人生の果てには,静かな安らぎである真の幸福が待つのであります.あたかも,影がその人につきしたがうように,浄きココロには善き行いが,善き行いには静かな安らぎという幸いがつきしたがうのです.」

[ガンダーラ王との対話]

−知恵と慈悲−

今となっては昔のこと,私は,独りで法の覚りを求める修行者からこのように聞き伝えたのでありました.ゴータマがガンダーラを訪れた時のことであります.そこに,独りの乞食行をこととする沙門がおりましたが,すでに老いて,業病にかかっておりました.彼のあるところには,全てが汚れるというので,誰も近寄ろうともせず,誰一人として彼も助けようとはしなかったのでした.しかし,ゴータマだけは,彼に近づき,その身体を洗い清潔にし,食を勧めるのでありました.ガンダーラ王はこれを聞いて,奇異な想いがあり,ゴータマに会ってこのように尋ねるのでありました.

「ゴータマよ,

あなたは知恵ある人,法を求める人と聞いた.かの修行者は若いときに愚かであったので,業病にかかり,その悪しき汚れを恐れて,誰も近寄ることがなかったのである.あなたは賢明な人であるのに,まるでかの乞食の卑しい奴隷であるこのように,その身体を洗い,食事を給したということであるが,それこそは卑しい行いであり愚かな行いなのではないだろうか.」

ゴータマはこれに答えて静かにいうのでありました.

「王よ,

真実の法に住するとは,たんに法を法として理解する知恵ある人であるばかりではなく,その法において浄らかな行いという実践があってこそ,法に住するといわれるのであります.四つの真理と八つの正しい道とは,知恵ある人が,自らの意志において浄らかな行いをなすべき法であります.

人々の苦しみの原因を知り,その苦しみの滅する道を洞察する知恵であるとともに,人々の苦しみの中にあって,その苦しみをともにし,その苦しみの滅する道をもろともに歩く勇気があってこそ,道の人である,といわれるのであります.人々悪しきの行いというココロの苦しみの原因を知る知恵とともに,人々のカラダにおいてその苦しみの集まりの原因を滅ぼし尽くして,人々の苦しみの滅する道を歩む,という医業においてもまた,人々の現実の苦しみは滅するのではありますまいか.あらゆる人は,そのココロを浄らかにすることだけではなく,そのカラダをも浄らかに保つべきでありましょう.

悪しき汚れとは,たんなる不潔にすぎないのであって,それを洗浄することが善き行いであり浄らかな道なのです.孤独と飢えは苦しみであって,彼とともにあって適切な飲食をすすめることが,苦しみの滅する道,回復の道,静かな安らぎに至る道なのです.

四つの真理を覚り,八つの正しい道を歩き終え,ついに人格完成者となることは,出家修行者であろうとも在家であろうとも,いかなる信仰をもつ人であろうとも,貧しき人,助ける人も見守る人もない人たちとともにあることであって,困窮にともに苦しみ,孤独にともによく耐えて,幼きをともに慈しみ,老いたるをともに悲しむ人であることではないでしょうか.人々の貧窮とともにあり,人々の孤独とともにある,これをもって愚痴なる人というべきではなく,知恵と慈悲ある人,正義の人,浄らかな人,善行の人であるというべきではないでしょうか.」

 

[法(ダルマ)とは何か]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求め,その道に歩む修行者からこのように聞いたのでありました.

彼のいうところによれば,法(ダルマ)とは,個人的な信仰の対象となるモノでもなく,一人だけの確信として密かに秘めておくようなものではなく,むしろ,積極的にオープンなものであければならず,公共的なものであって,むしろ,社会的なものである,というのでありました.

それは人々が共有すべき生活の知恵のその本質にすぎないのであって,行動規範であり,社会正義であり,その畢竟意味するところは,正しい人間関係であるにすぎない,というのでありました.人一人がそれぞれ自己を満足させて終わるだけのものであるような信仰とは,いまや,社会においてまったく不要なのであって,むしろ,人と人が関係しあう限りは,その自由意志によって同意可能な,共通の法が必要となるのである,と彼はいうのです.

お互いに関係しあうような二人以上の人間がいたら,好むと好まざるとにかかわらず,そこには法があるであろうし,それから逃れることはできないのです.つまり,法なくしては社会は成立しないのであって,むしろ,人間関係の総体であるところの社会は,法に縁って起こるのである,と.

人間社会が存続するにおいては,三つの選択肢があるといわれます.まず,共通の価値基準であり行為規範であるところの法をまったくもたぬ社会は,アナーキーそのものではあって,まったくの自由ではありましょうが,あくまで自由放恣であることによって,それぞれが殺し合うこともまた自由であり,お互いの自由はそれぞれの自由をついにその自由において滅ぼすことでありましょう.二つめは,法による専制でありますが,これは,お互いがお互いの告発者となって滅ぼしあうことによって,ついにその自由を滅ぼすでありましょう.法において自由であり,自由な個々人の選択において立てられた法であるような,第三の道を選ぶべきです.無法なるアナーキーでもなければ,単なる法の専制でもない,その中道である正しい法によってのみ,人間の自由は存続するでありましょう.

しからば,法とは何か.法とはそのまま知恵の光なのであって,邪見や迷信や虚妄から遠く離れていることです.また,法とは慈悲であって,邪見や迷信や虚妄から遠く離れているがゆえに,人々の生活実感とその共感のうちにあり人々の苦しみのうちにともに住むことなのであります.

法は正義を,その高き理想とするのであり,また同時に慈悲として,人々の共感という現実に,その根を深く下ろしているのです.法とは,人々の慈悲をその現実となし意味となし,社会正義をその意義となし理想とする,と彼はいうのであります.

 


ヴィハーラから最後の旅へ

[ボッタパダとの対話]

今はとなっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,シュラーヴァスティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園に安居していたのでありました.たまたま,遍歴行者であるポッタパダが,王妃であるマッリカの建てた公会堂に多くの弟子たちと寄宿していたのであります.

有力な遍歴行者であるポッタパダは,ゴータマの安居を訪れて尋ねるのでありました.

「ゴータマさん,

あなたは,世間において,真実を覚った人であって,法を見る眼を生じた人であるといわれております.しからば,お伺いいたしますが,世界は,はたして永遠でありましょうか.それとも,永遠ではないのでありましょうか.真実はただ一つでありましょうから,いったい,永遠であることと,永遠でないことの,いずれが真実なのでありましょうか.」

ゴータマは答えるのでありました.

「ポッタパダさん,

私は,法を見る眼を得てからは,そんなことについては意見をいったことはまったくありません.それらはいずれであっても,私の覚った真実と私が見る法にはまったく関わりがないことだからです.」

これに気をよくしたポッタパダと,その弟子たちは,ゴータマに口々に非難をあびせるのでありました.いわく,世界に限りはあるのか,それとも,世界に限りがないのか,霊魂と肉体とは同じものなのか,それとも,同じでないものなのか,真理を体得したものは死後も再び生き延びるのであろうか,それとも再び生き延びることはないのであろうか,死後再び生き延びることもありまた生き延びることもないのであろうか,あるいは,また生き延びないのでもなければまた生き延びないのでもないのであろうか,と.

ゴータマは,これらの一つ一つに,同じように答えるのみなのでありました.そこで,ポッタパダはついに勝ち誇っていうのでありました.

「ゴータマさん,

あなたは,なぜこうした深遠な問いにお答えにもならないし,意見をおはきにならないのでしょうか.あなたの覚った真理とあなたの得た法の眼とやらは,こうした深遠な真実以外において,いかなる真理を覚り,また法を見るというのでありましょうか.」

「ポッタパダさん,

あなたの問う真実らしさとは,私の知る真実や私の見る法においては,何の役にたたないのです.それらは,真実でもなく法でもないからなのです.およそ,正しい行いに役に立たず,欲望から遠ざかることにも,浄からであることにも,ココロの静寂やココロの安らぎや,真の智恵の光や,真実のモノの見かた考えかたや,真実の解脱でありニルヴァーナに到達するにおいても,それらは全く役にたたないからなのです.ですから,私はそうしたことに意見を述べることはなかったのでした.」

ポッタパダたちは口々に怒っていうのでした.

「ゴータマさん,

それでは,あなたのいう真実であり,法である,とはいかなるものでありましょうか.」

ゴータマは静かに答えていうのでありました.

「ポッタパダさん,

私の知るところの真理とは,四つの真理のみであり,私がそこにおいて歩む法は,八つの正しい道のみなのであります.私が意見を申し述べるのは,この四つの真理と八つの正しい道に役立つ限りについてのことのみなのです.

四つの真理とは,苦しみの現実を如実に見ることです.苦しみの現実のその原因であるところの悪しきモノを見いだすことです,苦しみの現実のその原因であるところの悪しきモノを見いだして滅するという法なのです.苦しみの現実のその原因であるところの悪しきモノを滅ぼし尽くして,静かな安らぎであり解脱に至るような現実の道が,それなる法なのです.」

 

[サーリプッタとマハーコッティタとの対話]

今はとなっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,シュラーヴァスティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園に安居していたのでありました.たまたま,その弟子であったマハーコッティタが法を説くことにおいてたくみであって法将と呼ばれたサーリプッタと交わした対話であります.マハーコッティタは,ある日の夕方,彼を悩ませていた瞑想から立ち上がり,サーリプッタに問うのでありました.

「法の友でありわたしたちの長老でもあるサーリプッタさん,

私にはどうしても自分では解決できそうもない疑問があって,それを尋ねにまいりました.私はいま真実の覚りを求めていますが,なかなか法を知る喜びには達することができません.およそ最初の法を知る喜びにおいては,なにが離れて,なにがそのままに留まるのでありましょうか.

また,わたしには視覚や,聴覚,嗅覚,味覚,触覚があり,それぞれがそれぞれの機能をもっており,相互に識別しあっておりますが,これら五種の感覚の基礎となり,それらを統御するものは何なのでありましょうか.」

サーリプッタは答えました.

「マハーコッティタよ,

あなたの五種の感覚を統御するのはすなわちココロである.真実の覚りをもとめるココロにおいては,まず,情欲,悪意,無気力,不安,そして疑いの五つがあなたから離れる.そして,それらの反対であるところの正確な観察眼,深い反省,そして熱意,満足,そして集中するココロがあなたのうちに留まるのである.

五感のハタラキは,生命力から生じるのである,生命力とは熱(ラジャス)から生じるのである.また熱は生命力に依って制御されるのである.生命力はまたココロによって制御されるのである.

例えをあげて説明しよう.灯火の場合に,炎は明かりを生じ,明かりは炎をあからさまにするであろう.それと同じように,熱は生命力を生じて,生命力は熱を制御するのである.生命力はココロを生じて,そのココロによって生命力は制御されるのである」

「法の友でありわたしたちの長老でもあるサーリプッタさん,

それでは,お教えください.肉体が死して無感覚な丸太のように打ち捨てられるとき,何が肉体を離れていき,何が留まるのでしょうか.また,修行完成者があらゆる煩悩を滅ぼし尽くして,まるで死体であるかのように無感覚であるように見えるとき,何が肉体を離れており,何が留まっているのでしょうか.」

「マハーコッティタよ,

肉体が死すときには,生命力が去り,熱が去り,ついに意識が去るのである.死体にあっては,身体,コトバ,ココロの形成力が停止するだけでなく,生命力は消失し,熱は冷えて,感覚のハタラキも,意識のハタラキも終わる.

修行完成者においては,呼吸も感覚も,その知覚も完全に制御されて,静かに安らいでいるのみなのである.むろん,生命力も,熱も平静のまま保たれる.その意識は,世界をそのまま映す静かな水面のごときであり鏡のようである.身体は枯木のようであり,死したるモノ,イノチなきモノであるかのごときであるが,そのココロはきわめて浄らかであって自由自在なのである.」

このようにサーリプッタはいったといわれます.彼は,サンガにおいては,法の将軍と呼ばれましたが,ゴータマより先に死にました.また,その法の友であったモッガラーナも対立する教派に暗殺されたといわれています.

 

[アーナンダとの対話]

−はじめに正しい見解に至れ−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,シュラーヴァスティーのジェータ林にあるアナータピンディカの園に安居していたのでありました.ゴータマの甥であるアーナンダが修行者としてサンガに参加して間もない頃のことでございました.

アーナンダは,ゴータマに問いかけるのでした.

「わが師ゴータマよ,

私は八つの正しい道を実践し歩み終えることを志して,サンガに参加いたしました.しかし,この道は遠く,まことに行いがたいのを感じております.私はいまだ正しい見解にすら到達することができません.これでは,その先が思いやられてなりません.まず,正しい見解に早く到達するにおいては,いかなる努力をなすべきなのでしょうか.」

ゴータマは,このように諭し勇気づけるのでありました.

「アーナンダよ,

八つの正しい道において,正しい見解がもっとも貴いのであって,それゆえにもっとも見がたく行いがたいのだ.正しい見解を正しく思惟しえて,それらをみずからのモノの見かたと考えかたの基本となすことこそ,浄らかなココロから縁って起こる浄らかな行い,つまり正しい生活の総ての端緒であり入門の鍵なのだ.知恵の灯火なくして無明の闇を歩めば決して正しい道を歩くことができないであろう,それと同じことなのだ.

無明の中にあって法の灯火を知らず,自らを無知のままに放置していることこそが一切の悪行の根源であり,それがあらゆる世の苦しみの原因なのである.正しい見解によって,この世の総て事物は,イノチあるモノの行いに縁って起こる,という法を知らねばならぬ.これあればかれあり,これなければかれなし,という因果の法を如実に知ることこそが,正しい見解なのである.

邪な見解からはじめれば,邪な思惟が,邪な言動となり,それが邪な生活にあって,邪な注意,邪な努力へと進めば,ついに邪が瞑想を支配し,ついには,いかなる人間の認識をも邪なるものなり,それはすべての行いの結果を単なる偽善となし終えて,それらはかえって世の苦しみの種となるであろう.かくのごとく,人々の邪な行為,コトバ,考えかたは,総て,邪な見解から縁って起こるのである.こうした邪な行為,コトバ,考えかたによってあらゆる苦しみが起こるのであることを知って,こうした邪な見解を滅ぼすべきである.

正しい見解においては,まず,現在の自らを顧みて,自らにおいていかなる行為,いかなるコトバ,いかなる考えが実現可能なのか,何が実現不可能か,をまず知るべきである.実現可能な行為,コトバ,考えかたから,自らが最善と思う行為,コトバ,考えかたをまず選べ,それを法の友に問うて確かめよ.さらに,それを広くサンガに問うて,これが正しい行いである,これが正しいコトバである,これが正しい思惟である,と確かめつつ,一歩一歩,着実に歩むがよい.それが正しい見解に至る道である.」

 

[娘たちとの対話]

−正しい生活−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求め,その道に歩む修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマは,バッディヤという町のジャティヤ林に寄宿していたのでありましが,その地における富裕な商人であったメーンダカのその孫のウッガハに招待されて,その家を訪れたのでありました.

清潔な食事でゴータマをもてなしたウッガハは,食事が終わったあと,その娘たちを引き連れてきて,このようにいうのでありました.

「あらゆる人々の人生の師であるゴータマよ,

私の娘たちは,やがて嫁にまいることでしょう.他者の家にあるおいては,多くの苦労があることでしょうが,そうした苦しみの集まりを滅する道を,娘たちに説いてやってはくれませんか.」

ゴータマはいうのでありました.

「ウッガハさん,

私は若き修行者であったときに,スジャータという娘にイノチを救われ,彼女に深く教えられたことがあります.それをそのままにあなたたちに伝えましょう.自らの内なる想いに忠実に,自らを律し,他者には優しくあること,すなわち,正しい生活にいたる道がそれなのです.

それでは,娘たちよ,

私たちの母や父が私たちのためにと選んでくれた人たちの中から,自らに納得できる夫を選びましょう.彼には,いつまでも慈しみの念を保ちつつ,遅く寝て早く起きましょう.喜んで家事に精を出し,何事も優しくし,穏やかな声で話しかけましょう.

職人たちの仕事をよく理解し,いい加減な仕事をよく見分けられるようにいたしましょう.夫の家業を決して軽んじず重んじて,手工芸であれば,それが毛糸であろうと,木綿であろうと,手際よくいたしましょう.

年長者たちを敬い,重んじ,その人たちがお見えになれば,席をすすめ水をさしあげましょう.病人の具合も理解できるようになりましょうし,子どもたちや老人人たちを上手に介護できるようになりましょう.家族のために,硬軟の食事を,うまく作りわけるようになりましょう.不幸にあっては,夫とともにそれによく耐えて,悲しみをともにいたしましょう.

夫が持ち帰ってくる金銀や穀類の良否を見分けられるようになりましょう.金銀は安全に仕舞い,ドロボウに入られたりしないようシッカリ戸締りをして,馬鹿騒ぎであるだけの饗宴やインチキな祭祀や,ましてや残酷な犠牲などに無駄遣いしないようにいたしましょう.

このようにして,正しい生活態度が家族において確立するに至れば,そこに,私たち総ての家族の,あらゆる世の苦しみや災いから遠く離れた,静かな安らぎがあることでありましょう.」

 

[バーラドヴァージャとの対話]

−幸いに至るまでその田畑を耕せ−

今はとなっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマはマガタ国ダッギナギリ地方のエーカナーラという村に滞在していたのでありました.豪農でありバラモンであるバーラドヴァージャはきわめて富裕であって,種を蒔く時に五百丁の鋤を牛たちにつけて土地を耕したといわれるのであります.さて,ゴータマは,托鉢にふさわしく衣服をととのえ,バーラドヴァーヴァジャが多くの使用人たちに食事を配っている場所に立ったのでありました.

バーラドヴァージャは食事を配りつつゴータマのところまでくると,立ち止まっていうのでありました.

「ゴータマと呼ばれる出家修行者よ,

私は自ら耕さずにいるものたちに食事を与えたくはない.およそ,食事を得るにおいては,まず額に汗して土地を耕し,そこに種を植え,穀物を育て,収穫をえてはじめてよく食べることができるのだ.いまあなたは,耕さずして食事を得ようとしている.私には,とてもそれが正しい道に生きることであるとは思えない.人は,食べる前に,まず耕し,そこに種を植え育て,収穫をえてはじめて食事を得るべきではないのだろうか.」

ゴータマは答えていうのでありました.

「バーラドヴァージャさん,

私もまた,食べる前に,まず土地を耕し,種を植え育て,その収穫を得て,はじめて食らうものなのであります.」

バーラドヴァージャは,さらに苦々しげにいうのでありました.

「ゴータマさん,

しかし,私はあなたがそれ耕すという土地も,それを耕す牛たちも,彼らにつける軛も鋤も,彼らを制御する突棒も見ないのだ.それなのにあなたは,自らを,土地を耕すものであり,種を蒔くものであり,耕作するものであると称しているあなたは,法に目覚めた人でも,正しい人でもなく,むしろ虚偽を語って,人々から食事を得ようとするだけの人,いわば社会的寄生虫なのではなかろうか.」

ゴータマはこのように答えるのでありました.

「バーラドヴァーヴァジャさん,

私の正しい見解こそは,その種子であります.わが節度ある正しい行いは種子にとっての雨であります.わが正しい知恵はココロを耕す鋤であり軛であります.わが過ちへの恐れこそはココロを耕す鋤棒なのであります.わが正しき想いは軛を縛る紐であります.わが注意深さは鋤刃であり突棒であります.自らのコトバとその行いに気をつけて,食事を節制し,明瞭でかつ正しき知識に至り,万人にとっての幸いをその収穫とするため,私は,かくのごとく,わがココロを休みなく耕すのであります.

わが正しい努力こそは,たくましい牛であります.それは,その境界で引き返すことなく,わがココロを耕し続けて,あらゆる苦しみの集まりの滅する道の,その果てにいたるまで私を運んでくれることでありましょう.かくして,私は,人々のあらゆる老,病,死の,その苦しみの集まりの滅する道の果ての,静かな安らぎに至る幸い,という法がもたらす収穫を人々にもたらそうとするのみなのです.」

 

 

[晩年のヴィハーラの風景から]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでありました.ゴータマのヴィハーラとはこのようなものであった,と彼はいうのでありました.

ゴータマが従者であるアーナンダを連れて,ヴィハーラを歩いておりますと,一人の出家修行者が赤痢にかかり,その糞便にまみれて横たわっているのにきづきました.ゴータマは,アーナンダにいいつけて水をもってこさせると,ゴータマは自らその出家修行者の身体に水を注ぎそれを洗いました.洗い終えると,ゴータマは頭をもち,アーナンダはその足を支えて,その出家修行者を寝床に横たえて安楽にさせたのでありました.それが終わると,ゴータマは,出家修行者を集めていうのでありました.

「修行者たちよ,

わたしたちは,世間における虚妄の生活の総てを捨ててここに集う法の友であり,すなわち兄弟なのである.わたしたちにはわたしたちを世話してくれる母や父もないのである.老いて病み,困ったときにお互いが,お互いの世話をしないというのならば,誰がわたしたちの世話をしてくれるというのであろうか.私がいかなかったら,あの法の友は,そのまま糞便にまみれて病のままに打ち捨てられていたであろうが,それを正義の道というのであろうか.善行の道というのであろうか,浄らかな道というのであろうか.

修行者たちよ,

もし,あなたたちの中に彼の師があるのであれば,その師が彼の病の癒えるまで面倒を見るべきである.もし師がいないのであれば,先輩や同輩が,先輩や同輩がいないのなら,その弟子たちが,彼の面倒を見るべきである.誰もが,彼の師でも弟子でもなくのなら,私がその面倒をみるべきである.しからずんば,わたしたちはみな不義の人,悪行の人,汚辱にまみれた人と呼ばれるであろう.」

また,ゴータマがラージャグリハの森にある栗鼠飼育所に住んでいたときのことであります.そこで壺作りの小屋に寄宿しているヴァッカリという名の出家修行者が病に苦しんでおりました.ヴァッカリは,ゴータマに人をやって次のようにいわせました.

「人々の人生の師であるゴータマよ,

ヴァッカリなる出家修行者が病んでおり,明日をも知れません.彼を憐れんで,一度お目にかかってはいただけないでしょうか.」

ゴータマはさっそくヴァッカリのともに赴きました.ヴァッカリはゴータマがやってくるのをみると,無理に身を起こそうとするのでありました.ゴータマは彼にいうのでありました.

「法の友ヴァッカリよ,

やめなさい,動き回ってはならない.いまは静かに横になっていなさい.私はその横に座ろうではないか.

さて,あなたは苦しみに耐えているのでしょうか.苦痛は和らいでいるのでしょうか.苦痛が静まる兆候はあるのでしょうか.」

ヴァッカリはいうのでありました.

「いいぇ,人々の人生の師であるゴータマよ,

私には我慢できないほどの苦しみが次々と襲ってくるのです.苦痛は休まるどころか,あなたに会ってもっと強くなってきます.」

ゴータマは尋ねるのでありました.

「法の友ヴァッカリよ,

あなたは何かココロに疑いを抱いているのでしょうか.あなたは何かココロにやましいことがあるのでしょうか.あなたには,まだ何かココロに残ることがあるのでしょうか.」

ヴァッカリは答えるのでありました.

「いいぇ,人々の人生の師であるゴータマよ,

私には,もうわがココロに疑いはありません.私にはココロに何のやましいこともありません.ただ,わが人生においてたた一人の生涯の師であったあなたの,そのお姿をもうみることがないであろう,という恐れだけが私をいつまでも苦しめるのです.」

ゴータマはいうのでありました.

「法の友ヴァッカリよ,

おやめなさい.私とても老いた.すでにあなたと等しき,老い,病み,死すべきモノにすぎないのです.ついには滅び去るモノを見たところでなんになるだろうか.むしろ苦しみを増すばかりでありましょう.

私があなたの師であり法の友であったその証拠とは,あなたには,法を見いだす眼が生じた,法を見る知恵の光が生じた,というそのことのみにあるのですよ.その法の眼をもってあなたの内なる法を如実に見なさい.

法を見るものは,私を見る.自らのうちなる法を見て,その法において住すれば,あまたの苦しみを耐え忍ぶことができ,静かな安らぎに至るでしょう.」

 また,ゴータマが鹿の園のベーサカラ園にある鰐の棲息地であるバッギ族のところに住んでいたときのことです.ナクラピターという老人が,ゴータマを訪れて,このようにいうきでありました.

「人々の人生の師であるゴータマよ,

私は年老いて,病み,あと幾ばくかの寿命を残すのみになったのです.いまや,人々の師となられたあなたや,出家修行者のかたがたとお会いすることも容易ではありません.つきましては,私の残るわずかばかりの生涯の励ましとなるようなコトバをうかがおうと思ってやってきたのです.」

ゴータマは,ナクラピターにいうのでありました.

「ナクラピターさん,

まことに,あなたの身体は老い,病み,疲れており,そのココロの重荷になっています.束の間の身体の健康を取り戻そうと,かえってそのココロを労するのは愚かなことです.むしろ,身体は老いて病みつつあるが,ココロはまだ老いもせず,病みもしまい,とそのココロを修め統一することです.ココロの健康を保ちつつ,常時,ココロの静かな安らぎにあり,全世界を映す鏡のような智恵の光のうちにあることこそ,既に,老い,病みつつある身にとって最も肝要なことなのではないでしょうか.」

 

−そして最後の旅へ−
また,ゴータマはカピラヴァストゥのいちじく園に住んでいたのでありました.ゴータマは,シャカ族のもとへ,その最後の旅にでようとしていたのでありました.それを惜しむシャカ族出身であったマハーナーマという者が,ゴータマのところに行き,このように語るのでありました.

「シャカ族の人々の師であるゴータマよ,

私はあなたがシャカ族の故地へそろそろ旅たたれると聞きました.この地におけるシャカ族出身者たちは,とくに,老いたるモノたち,病にあるモノたちは,あなただけを頼りにして生きておりますのに.

せめて,彼らを慰め,励ます言葉をお教えください.私はそれらを記憶し,彼らにそのコトバを語り聞かせ,彼らの慰めともなり,励ましともなりとうございます.」

ゴータマは,マハーナーマにこのようにいうのでありました.

「善きかな,マハーナーマよ,

老いに苦しむものたち,病に苦しむものたち,ついに,その死に苦しむものたちには,このように伝えてほしい.四つの真理と八つの正しい道,それのみが,私が見いだした法,生涯において語り続けた法,人々がずっと語り伝えるであろう法,であったと.

四つのすぐれた真理とは,苦:世の苦しみの現実に如実に見つめ,集:その苦しみの原因である悪しきモノの集まりを見いだし,滅:その悪しきモノどもを滅するべき方法である,道:八つの正しい道に歩む,というきわめて単純なことにすぎないのである.

自らのうちなるこの法に住しなさい.この法の発見者である自らに住しなさい,この法を発見し継承する人々であるサンガとともに,法の友とともにありなさい.この法を見る人は私を見るのであり,この法に住する人は,私とともに住するのである,と知りなさい.

老い,病み,死すときにおいて,その母や父にあいたがっている人がいたら,その父や母は,すでに,四つの真理と八つの正しい道,にあり,この法を見るものは父母を見るのである,といいなさい.あなたを慈しみ育てたのは,この法なのであるから,と.

老い,病み,死すときにおいて,その子らにあいたがっている人がいたら,その子らは,すでに,四つの真理と八つの正しい道,にあり,この法を見るものは,子らを見るのである,といいなさい.あなたを悲しみ見送るのは,この法なのであるから,と.」


「四つの真理」の継承者たち

[ミリンダ王とナーガセーナとの対話]

−イノチあるモノの部分と全体−

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求め,その道に歩む修行者からこのように聞いたのでありました.

法の輪は時を超えて回り続けて,これは,2世紀の後半に,西北インドを支配したバクトリア王国にあって,ギリシア人であったメナンドロス王,インド名でミリンダと呼ばれた王と,当時の説一切有部に属し,アビダルマに堪能な学僧であったといわれるナーガセーナとの対話であります.王は,ナーガセーナにこう問いかけていうのでありました.

「ナーガセーナよ,

私はインドにおいては,人は再生する,といわれると聞いたのであった.昔,ギリシアにおいても,ピタゴラスという教師は,再生を説いたといわれる.しかし,いまや,ギリシアにおいても,そうした古い教えを信ずるひとたちも少なくなった.ギリシア人の間においては,むしろ,人は再生しない,という考えかたのほうが有力なのであるが,おまえたちの考えはどうであろうか.」

ナーガセーナはこれに答えていいました.

「王よ,

もし再生するのではない,といわれれば再生するのであります.再生するといわれれば,再生しないのであります.」

王は驚いてナーガセーナにいうのでありました.

「ナーガセーナよ,

あらゆる人間は,あらゆる問いにたいして詭弁ではなく正直に答えるべきであろう.人は再生するか再生しないかのいずれかであって,再生するのならば必ずや再生するのであって,再生しないのなら必ずや再生しないのである.再生しかつ同時に再生しないということはありえないのである.再生するのに再生しないと答え,同時に,再生しないのに再生すると答えるならば,それで虚偽であり詭弁である他はないのである.」

ナーガセーナは涼しい顔で答えるのでありました.

「王よ,

これは詭弁でも虚偽でもありません.実例で示すことができます.ある人がマンゴーを事実において盗んだといたしましょう.しかし,あくまでマンゴーを盗んだことはない,といいはったといしたましょう.

さて,しからば,王は,このものを,マンゴーを盗んだ罪で罰されるでありましょうか.」

王は断固として答えました.

「ナーガセーナよ,

むろん,罰するであろう.人は悪しきコトを行えば,その行いによって罰されるべきである.それが法であり,正義であるからである.」

ナーガセーナはまた尋ねるのでありました.

「王よ,

そのものは飢えと渇きにかられて,マンゴーの部分である一個の『実』を盗んだだけであったといたしましょう.彼は,渇きにかられて一個のマンゴーの実を盗むような軽微な行為が罪であるとは全く思わずに,マンゴー全体であるところの『木』を盗んだことはない,と主張しているといたしましょう.その際において,王ははたして,その者をマンゴーの全体であるその『木』を盗んだ者として罰されるでありましょうか.」

王はまたしても断固として答えるのでありました.

「ナーガセーナよ,

むろん,罰しはしないさ.彼が飢えと渇きにかられて一個のマンゴーの『実』を盗んだのであれば,マンゴーの一個の実を盗んだことによってのみ罰されるべきであって,たったそれだけならその飢えと渇きに免じて無罪放免がいいところであろうな.

つまり,彼は,マンゴーの一つの『実』を盗んだことによって罰せられることはあっても,マンゴーの『木』を盗んだことによっては決して罰せられるべきではないのである.人はそのなさざることによって決して罰せられるべきではなく,それが正義であり法なのであるから.」

これを聞いて,ナーガセーナは莞爾としていうのでありました.

「王よ,

実にお見事であります.王は慈悲と正義の人であり,法に生きる人であります.私が先程お答え申し上げたことは,いまや,詭弁でもなく虚偽でもないことが,王の断固たる言明によって,実に正しく示されたのであります.

なんとならば,一人一人の人間,個々の人間が再生するか,と聞かれたら私は,決して再生しない,と答えるでしょう.しかし,人間全体が再生するか,と聞かれたら私は,現に再生する,と答えるのみなのです.

あらゆる人々は,個々人としては,生まれ,老い,病み,死んでいきます.しかし,死した人が生まれ変わるとは,私は全く見たことも聞いたこともありません.個々人は再生することはありません.

しかし,個々の人々は生まれては,老い,病み,死んでいくにもかかわらず,人々の全体は,むしろ,生まれもしなければ,老いもしなければ,病みもせず,死にもしないではありませんか.個としての再生はまったく認められないが,イノチあるモノ全体として見れば,それは日々再生し続けている,ということではないでしょうか.

つまり,人は再生するか,と聞かれればそれは実に再生しないのであります.人は再生しないか,と問われればそれは実に再生するのであります.」

 

−行為という部分と,人生という全体−

引き続き,ミリンダ王とナーガセーナはこのように語りあったのでありました.ナーガセーナは,また,ミリンダ王にこのように挑発的にいうのでありました.

「王よ,

私はまた,そのマンゴーを盗んだ人を罰すべきでない,と問われれば,罰すべきである,と答えるのです.また,そのマンゴーを盗んだ人を罰すべきである,と問われれば,罰すべきでない,と答えるのであります.」

ミリンダ王は,また不審に思いつつ尋ねるのでありました.

「ナーガセーナよ,

おえまは,私こそは正義の人であり,慈悲の人であるといったがあれは全くの嘘であり,詭弁でもあったのか.人はその悪しき行為において断固として罰せられるべきであって,それが正義である.しかし,渇きや飢えにかられて,つまり自己を生き延びさせるためにやむをえず行った些細な行為はむしろ罰せられるべきではない,それが慈悲である.」

ナーガセーナはまたまた莞爾として答えていうのでありました.

「王よ,

実にお見事です.私の申し上げたことは,いまや,王の断固たる言明によって実証されたのではないでしょうか.

およそ,人は,その悪しき行為という人生という全体のそのホンノ部分において罪せられるのであって,その罪は,その行為という人生のホンノ小さな部分のみにおいて,罰せられるべきなのです.つまり,マンゴーを盗んだ人の人生全体が罪とせられ罰せられるべきか,と問われれば,私は否,罪として罰すべきものは,その悪しき一部の行為であって,その人の人生の全体ではない,と答えるのです.すなわち,些細な罪において,法は,その人の人生全体を罰すべきではない,と私は答えるのであります.

しかし,人々の悪しき行為が全く罰せられることがないならば,人々は相互に悪しきを行い,その苦しみは耐えがたいものになるでしょう.マンゴーを盗んだ人を罰すべきでないか,と聞かれたら,私は,断固として罰すべきである,と答えるでしょう.およそ,人々のあらゆる悪しき行為は人々の苦しみの種であって,必ずや滅ぼされねばならないのであり,悪しき行いにたいしては,反省という罰を与え,そして,善きことをなす機会をも与えるべきでしょう.それが,正義なる法であり,慈悲なる法なのではありますまいか.

慈悲なる法と正義なる法とは,ともにあるのであって,人々のその生涯を罰するべきではなく,その悪しき行為のみを罰するのであって,人々を罰すべきであるといわれれば,私はその悪しき行為を罰すべきであって,人々を罰すべきではないのである,と答えるのです.人々を罰すべきではない,といわれれば,人々の悪しき行為は断固として罰すべきであり,人々の苦しみの原因である悪しき行為を滅ぼすのが正義なる法であり,慈悲なる法である,と私は答えるのみなのであります.つまり,正義と慈悲とは,決して矛盾しないのであります.」

 

−霊魂の相続と断滅−

引き続き,ミリンダ王とナーガセーナはこのように語りあったのでありました.ミリンダ王は,ナーガセーナに,ついにこのように尋ねるのでありました.

「ナーガセーナよ,

おまえたちの師であったブッダは,霊魂でありギリシアではプシケーと呼ばれるものを否定したとよくいわれる.しからば,人は死んだあとどうなるのであろうか.私には,人はその霊魂によって生きているのはあまりにも自明に思えるのだ.しからば,生きているモノ全てに認められる霊魂とは,イノチあるモノが死んだあとは,消滅するのであろうか,それとも存続するのであろうか.」

ナーガセーナはまた,挑発的に答えていうのでありました.

「王よ,

霊魂とは,植物にあっては,その生命力でありイノチそのものでありましょう.動物にあっては,生命力でありまたその原動力でもありましょう.人間にあっては,生命力であり,その原動力であり,また生命を制御しその活動を制御するそのココロのことでもありましょう.実に,あらゆるイノチあるモノどもは,その霊魂においてはじめて生きていることが明瞭明白に認められるのです.

しからば,あらゆるイノチあるモノが死ぬとき,その霊魂は存続するか,と問われれば,私は存続しない,と答えるでありましょう.他方,あらゆるイノチあるモノが死ぬとき,霊魂は断滅するか,と聞かれれば,私は決して断滅しない,と答えるでありましょう.」

王は,苦笑いしてまた聞くのでありました.

「ナーガセーナよ,

こんどばかりは言い逃れも詭弁もできまいな.あらゆるイノチあるモノが霊魂によって現に生きていると認めるのであるからには,それが生きていないときに,それが存続している,といえば,死体のどこにイノチがあるか,といわれよう.それが断滅するというならば,一切のイノチあるものの存続する道理は全くなく,イノチあるものの存続は全く偶然に他ならないモノに成り果てて,イノチなきモノとイノチあるモノの区別は全く失われるであろう.霊魂といわれるイノチあるモノの原理とは,相続するか,断滅するか,のどちらかでありまたそのいずれかである他はいのであって,生きている死体であるような怪物や,死んだ生きモノにすぎない幽霊やらの類の,そうした中間のモノなどは,たんなる迷信や虚妄のたぐいとしてはありえても,真実なる現象としては,決してありえないのである.」

ナーガセーナはまたまた,莞爾として答えたのでありました.

「王よ,

きわめてお見事です.あなたの断言がいまやまた,私の答えを完璧に実証し根拠づけるものとなったのであります.

およそ,イノチあるモノのその原理が霊魂であります.イノチなきものに霊魂はなんら認められないのです.イノチなく横たわる死体が,いかに生きておりましょうか.つまり,霊魂が死後も存続するか,と問われれば,それは全く存続しない,と答える他はありません.

しかし,イノチあるモノの全ての,その法であり原理であり,生きているというそのコトの普遍性がそもそも霊魂なのでありますから,霊魂なる法がもし断滅するならば,全てのイノチあるモノの生命力,活動力,そしてココロまでが,あらゆるイノチであることの全てが,そこにたちどころに失われるでありましょう.しからば,イノチあるモノの死後に霊魂が断滅するか,と問われれば,それは決して断滅しないのである,と断固として答える他はないのであります.

すわなち,霊魂はイノチあるモノの死後も相続するかと問われれば,それはまったく相続しないのであります.かたや,霊魂はイノチあるモノの死後は断滅するかと問われれば,それはまったく断滅しないのであります.これがブッダの教えであったのです.」


空と慈悲

[諸行無常と空]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求め,その道に歩む修行者からこのように聞いたのでありました.

法の輪は時を超えて回り続けて,これは,310〜390年頃に生きたといわれる,アサンガ(無着)の説いたところなのであります.アサンガは,大乗仏教の始祖といわれるナーガールジュナの空観を受けて,またアビダルマ仏教の伝統を受け継ぎ,ついに瑜伽行唯識派の始祖となった人であるといわれております.

アサンガはこのように語ったといわれます.

「一切の事物は,多くの原因と,それらを統一体として生成させる諸条件の,それらの集まりから縁って起こるのであって,これなる世界の現象において,モノそれ自体と呼ばれうるような,独立したモノは,見いだせもしないし,まったく存在しもしないのである. イノチあるモノの,その集まりが縁って起こるというその統一性を失うとき,それらは,生じたモノとは異なるモノとなり滅していくのである.

あらゆるイノチあるモノどもは,四つの要素であるところの,土,水,火,風たちから,縁って起こるのであって,その縁って起こるところの集まりが滅びるとき,イノチあるモノどもは老い,病み,死ぬのである.

これが,全てのイノチあるモノが縁って起こる,という法であり,もろもろのイノチあるモノ,形成されたモノどもは一時的に存在するにすぎず,無常であるのであって,それが諸行無常,と呼ばれる法なのである.」

イノチあるモノの存在は,必ずや一時的なのであります.つまり,過去に生きていたモノは,今は生きておりませんし,未来も生きておりません.ある未来において生きているモノは,過去に生きていなかったでありましょうし,今も生きてはいないのです.今生きているモノは,過去は生きていなかったでありましょうし,未来も生きていないでありましょう.

奇異に感じられるかもしれませんが,これは,人が生きている,ということの本質に関わるのです.ある人の一生において,赤ちゃんであったときの人,壮年であるときの人,老年であろうときの人を考えましょう.赤ちゃんの状態の人と,壮年の状態の人と,老年の状態の人が,たとえ同一人物の名をもって呼ばれたとしても,それを同じ人であるとは誰もいわないのです.義経という歴史上の人物の,その赤ちゃんの時の髑髏が「存在しえない」ということとまったく同じことで,これは事実にすぎません.

つまり,空観とは,人は,生まれたからには,次第に老い,病み,死に至る,つまり時々刻々と変化していく,イノチあるモノは無常であり,一時的である,という事実を如実に見ることにすぎないのです.イノチあるモノは無常であるということ,諸行無常であるということ,それが空観の正体にすぎないのです.

空,というコトバは,ニヒリズムや虚無論を表すとしてずいぶん誤解されてきました.しかし,空,とは,イノチあるモノは生まれたからには老い,病み,死ぬ,つまり諸行は無常である,という自然のうちなる法則にすぎないのです.人は,明らかに,自然のうちなる法則によって生まれ,老い,病み,死ぬのです.いまや,それを否定する人はいないでありましょう.

それなる自然のうちなる法則を,ナーガールジュナやアサンガは,空,と称したにすぎないのです.つまり,空,というのは,空虚でも虚無でもなく,自然のうちなる法則そのものの姿,自然の法のその真実の姿であり,それはいわば,広がりも長さもないが,内容がある「点」のようなものであり,それはつまり,あらゆる自然の事物とその現象を記述し,つまりあらゆる自然法則を記述するコトバであり,自然が自らを自らにおいて語るコトであり,そのコトバであるコト,にすぎないのであります.

 

[一切法空]

今となっては昔のこと,私は,独りで覚りを求め,その道に歩む修行者からこのように聞いたのでありました.西暦150年頃から250頃に活躍し後に,大乗仏教の始祖,といわれるに至った人物,ナーガールジュナ(龍樹)はこのように言ったといわれるのです.

「個々のイノチあるモノどもは,全て,老い,病み,死ぬのであるが,

イノチあるモノどものその全て,イノチあるモノであるコトの普遍性は,

老いもしなければ,病みもしなければ,死にもしないのである.

個々のコトバ,わたしたちが日常に発する全てのコトバは,

生じて,暫くは住し,そして滅していくが,

コトバの全であるコト,あらゆる色・かたち・名あるモノたちが,

コトバにおいて,色・かたち・名あるモノと呼ばれるコトの普遍性は,

生じることもなければ,暫くも住することなく,滅することもない,

それが,空であるコト,と呼ばれるのだ.

 

去ることもなく,来ることもなく,

生ずることもなく,滅することもない,

増大することもなければ,減少することもなく,

浄らかでもなければ,浄らかでないのでもない,

そのように,空,とは全ての事物の生成運動変化消滅を,

遠く離れているが,しかし,全ての事物の生成運動変化する,

そうした全ての自然においてイノチあるものどもが,

生成消滅変化運動するその事態,そのものでもあるのだ.

 

四つの真理と八つの正しい道の果ては,
空,という真実の覚りの,そのうちのその静かな安らぎのうちにあるが,

空とは,自然のイノチあるモノの普遍性と永遠性を表すコトバにすぎないのであって,

その実質とは,私たち自身が,この日常を慈悲ぶかく善く生き抜くことそのものなのだ.

 

この法(ダルマ)を語り続けた人,
若き日にはゴータマと呼ばれた人,
善き道の人であったと讃えられた人,

サーラの樹間に倒れ死した人,
最後のブッダと呼ばれた人を,

私は,今,深く敬したてまつるものなのであります.」

 

[自然の事物の本質は空である]

今はすでに昔のこと,私は,独りで覚りを求める修行者からこのように聞いたのでございました.アヴェロキティシュヴァーラ(世界を自由自在に観察する者)という名の修行者が,自然の事物の本質は何であるか,を探究していたところ,世界を構成する五つの要素(色,受,想,行,識)は全て空である,と明らかに知ってはじめて,一切の苦しみを滅することができたのでした.それを,当時,ブッダたちの法を知る第一人者でありましたサーリプッタ長老に語っていったことは,このようであったといわれるのです.

「尊敬すべき長老であるサーリプッタさん.

色かたち名あるものは,空であるがゆえに,壊れることはないのです.事物を受容するはたらきとて,空であるがゆえに,何も受容することはないのです.事物を想起するはたらきも,空であるがゆえに,何も知ることはないのです.事物のイメージを形成するはたらきも,空であるがゆえに,何一つつくりだすことはないのです.事物を識別するはたらきも,空であるがゆえに,何を覚るということもないのです.

尊敬すべき長老であるサーリプッタさん.

色かたちあるものは,空と異なるものではないのです.空とは,色かたち名あるものと異なるものではないのです.色かたち名あるものの本質とは,すなわち空なのです.空であることは,すなわち,色かたち名あるもののことなのです.色かたち名あるものを受容するはたらきも,それを想起するはたらきも,それを形成するはたらきも,それを識別するはたらきもまた,このようであります.

尊敬すべき長老であるサーリプッタさん.

世のものごとのすべては,空という自然の事物の本質が織りなす風景なのです.ゆえに,生ずることもなく,滅することもないのです.垢つかず,いわんや,浄らかなのでもないのです.増加することもなければ,いわんや減少することもないのです.

あらゆる自然の事物の本質は,空なのです.ゆえに,過去もなく,未来もなく,いわんや,現在もないのです.

このように,世にあるとある全てが空であるからこそ,色かたち名あるものは実体ではありえないのです.ゆえに,色かたち名あるモノを受容するはたらきも実体なく,それを想起するはたらきも実体なく,そのイメージを形成するはたらきも実体なく,識別するはたらきももちろん,実体ではありえないのです.受容器官である眼も耳も鼻も舌も身体も意識も実体なく,色かたちも音も香りも味わいも触れられる事物も実体がないのです.見られるものの世界も,意識されるものの世界とても実体がないのです.かくして,世の中において私たちが知らないものとてもなければ,知らないものが尽きることもないのです.

ゆえに,およそ,いのちあるモノ全てが実体としてはありえないのですから,老いることも死ぬこともなく,老いること死ぬことが尽きることもないのです.苦しみなる真理も,苦しみの集まりなる真理も,苦しみが滅するという真理も,苦しみが滅する道という真理もないのです.得られるものは何もないがゆえに,これ以下の智慧もなく,また,さらにそれ以上の智慧に到達することもありえないのです.

修行者は,この事物の本質を明らかに知る智慧に至ることによってはじめて,ボーディサットヴァ,すなわち,世界を自由自在に見る者であって,かつ自然の事物の,その本質の真の観察者,となりえます.そうなると,心に障るものは何もないのです.心に障る何もないがゆえに,何かを恐れるということがないのです.あらゆる,さかしまな思いや夢や幻や苦しみや悩みを完全に離れていること,これが,修行者たちが目指す,究極のニルヴァーナ,完全な悟り,そして静かな安らぎという平和のうちにある,ということなのです.

過去,未来,そして現在のブッダたちもまた,この自然の事物の本質を知るがゆえに,ついに完全な悟りの境地に至ったのです.この事物の本質の名であり,そしてカタチづくるモノこそは,大いなるコトバ,明らかなるコトバ,この上ないコトバ,比べるもののないコトバ,すなわち「空」というコトバなのです.

あらゆる世の苦しみを取り去り,真実であり,虚しくないのですから,この自然の事物の本質を,いまこそ語ろうとするのです.すなわち,このコトバを讃えましょう.すなわち,世界の全ての,事物の本質は「空」であるという,そのコトバを.

さぁ,この自然の事物の,全ての本質を知る,といわれる知恵の大いなる乗りものに乗り,この激しい自然の事物の流れをわたりましょう,この流れをみんなでわたりましょう,みんなで,あの静かな安らぎの岸にわたりましょう.あの静かな安らぎの岸にわたり終えた人たちこそ,善き人であり,全ての苦しみを滅し終えた人,幸いにあたいする人,人格完成者であるブッダ,と呼ばれるに至るのですから.」


「四つの真理」の現代

[仏教徒とは何か]

−自らを律する−

人が自己をもっており,その自己を自由であらしめようとするならば,自らを律して,自らの無明と無知を克服することを学ぶべきである.自らこそは自らの主であって,自らの他のモノを主としてはならない.自らを律して,自らを克服すれば,自らは自らの主となるのである.

快楽を追い求めることなく,諸感覚をよく統御し制御しえた人,飲食において節制し,自らの可能性をよく信じて他者を自らの主人とすることのない人,自らの善き意志によって進む人は,岩山が風になびかぬように,何ものにも打ち倒されることはないであろう.

もし,人が自らを愛しいモノと思えば,無明と無知から遠ざかり,悪しき欲望に支配されることのないよう,自らをよく見守るべきである.まず,自らを律し終えてはじめて,他者を導くことができるのである.およそ自らを律する堅実な人は,他者によって支配されることがない.

実に,自己は制御しがたいのである.他人の善意の教えに自らしたがう者は,ついに自らをよく律し終えて,ついに,他者にたいしても善意の教師になるであろう.

自らの行った悪しきコトを滅ぼす人は,自らを浄らかにするのである.自らの悪は自らのみが浄らかにすることができるのみなであって,他者の悪を浄らにすることは誰にもできはしないのである.

まことに,自らこそが自らの保護者である.他の誰が,なんじの浄らかなココロを守ることができようか.自らの浄きココロをも守るものは,なんじ自身の他にはいないのである.

 

−知恵ある友とともにあれ−

正しく,賢くあるべきである.そして正しき友,賢い友,善き友を選べ.さすれば,自らも善き友となるであろう.

悪しきを避け,悪しきを批判できる友をえたならば,その人とともにあるべきである.悪しきをともにしようとし,悪しきを勧めるような友は友ではない.そうした人からは遠ざかるべきである.

善きことを行い,善き友からは親しまれ喜ばれるべきである.そのようにして,浄きココロの人には,浄きココロの人と呼ばれ,善き人にのみ,善き人と呼ばれるべきである.

悪しきを静かに批判し,悪しき人からはむしろ疎まれるべきである.ココロの悪しき人に,善き人とよばれるべきでもなく,ココロの卑しい人に,浄きココロの人と呼ばれるべきでもないのである.

法において楽しむ人は,浄きココロの人となり,静かな安らぎの岸という幸せに至るであろう,万物の生成流転のさまを映しつつ,しかも波風なき鏡のような,静かな湖面のようなココロとなるであろう.

人は,法においてはじめてその友を得るであろう.法とは知恵ある友であり,浄きココロであって,それが最も善き友なのである.

 

−貧困と富−

貧困は悲しみと苦しみを生む.貧困からは脱するべきである.しかし,富を積むことが必ずしも幸せを生むとは限らない.多くの富のうちにあってしかも不幸であるよりは,貧困のなかにあっても満ち足りていること,これがむしろ幸いである.高い生活水準をもとめるよりは,高い文化水準にあることがむしろ幸いなのではなかろうか.

飢えは最悪の病である.健康は最高の幸いである.満ち足りたココロは最大の富であり,浄きココロは最高の財産なのである.浄きココロを得て,満ち足りており,静かな安らぎにある人こそは,幸いである.

われわれは,自分を憎む人を憎まずに生きうることの幸いを思うべきである.病む人のうちにあっても,ココロ病むことのなく生きうることの幸いを思うべきである.貪欲な人々のうちにあって,貪欲ならずして生きうることの幸いを思うべきではなかろうか.

人に正しい法を説くことの幸いは,富を与えることの幸いにまさるのではなかろうか.人々が無明を滅ぼす明らかな知恵の光をえれば,人々は法とともにあること,知恵の光のうちにあることの幸いのなんたるかを知るからである.

貧困への勝利は富における敗北とともにあることを知るべきである.貧困への戦いの勝利は富との戦いとの敗北を生み,敗北は憎しみを生む.憎しみは苦しみを生む.勝利と敗北から遠く離れてつつましやかに,貧困と富の両方から遠く離れてあることの,中道にあることのその幸いを思うべきではなかろうか.

 

−バラモン階級で「ある」ということと出家修行者に「なる」ということ−

出家修行者であって仏教徒である人を比丘(ビク)と,出家修行者を沙門(シャマナ)ともいう.出家修行者はバラモンとは明らかに異なる.

バラモンとは神々に仕えるものたちであり,その祭祀を司るものたちのことである.神々は人々の運命を支配し,運命は人々の誕生から結婚,そしてその老,病,死にいたるまでを司るとされたのであって,バラモンは神々に仕えることによって,人々の運命を知り,その誕生から,老,病,死にいたるまでを支配し,その儀式を司るものと考えられたのであった.

しかし,出家修行者とは,神々の意志からも,神々の定めたという運命からも自由独立に歩むのであって,自らの行いによって自らの人生をつくり出すことのできる自由な人間たち個々人のことなのである.

バラモンは神々によってバラモンで「ある」ことを既に定められているにすぎず,これに対して,出家修行者とは,神々に支配されることなく自由独立であるような人間が,自らの自由意志によって「なる」ものなのである.

バラモンは神々に定められたその運命によって階級なのでありカーストに属するのみなのであるが,出家修行者は,神々からもその定めたといわれる運命からも自由独立であって,この世のあの世の虚妄を離れており,自らのその意志によってはじめて出家修行者なのであり,自らのその行いによってはじめて出家修行者なのである.

「四つの真理と八つの正しい道」とは,自らの内なる法であり,その自然なる法なのであって,それに目覚めたものたちが,自らの意志によって,自らの行いの悪しき部分を滅ぼし,自らの善き行いによって,浄きココロとなり,その老,病,死の苦しみの原因も滅することを決意し,その道に歩もうとするにすぎないのであって,その法とともに歩むものは,総て等しく出家修行者と呼ばれるのである.つまり,神々からも神々の定めた運命からも,自由独立に,善く生きようとする人たちの平等な集まりがサンガと呼ばれるのである.仏教徒であることの条件はただこの三つのみなのである.

自らのうちなる法を敬して,静かな安らぎのうちに住しましょう,

自らのうちなる法の発見者を敬して,静かな安らぎのうちに住しましょう,

自らのうちなる法の発見者を総て等しき友として敬し,静かな安らぎのうちに住しましょう.

 

[ナーガの道]

蛇の毒がひろがるのを薬で制するように,
怒りを制する修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

池に生える蓮華を水にもぐって折りとるように,
愛欲の根を絶った修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

奔り流れる妄執の流れを涸らして,
余すところのない修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

激しい流れが弱い葦の堤を壊すように,
驕慢を滅した修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

無花果の樹の林の中に花を求めても得られないように,
もろもろの事物に堅固なものを見いださない修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

内に怒ることなく,
世の盛衰の外にある修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

想いを焼きつくし,
心の内をよく整えた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
この妄想を越えた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
「世間の一切は虚妄である」と知った修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
「一切は虚妄である」と知って貪りを離れた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
「一切は虚妄である」と知って愛欲を離れた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
「一切は虚妄である」と知って憎悪を離れた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

疾過ぎず遅過ぎず歩きつつ,
「一切は虚妄である」と知って迷妄を離れた修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

悪い習慣がいいさかもなく,
悪の根を抜き去った修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

この世に再び帰り来る縁となる煩悩と,
そこから生ずるものを何も持たない修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

人々をこの生に縛る縁となる愛執と,
そこから生ずるものを何も持たない修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.

五つの蓋いを捨て,悩みなく,疑惑を離れ,
苦しみのない修行者は,
この世とかの世の虚妄をともに棄て去って,
真実の道に生きるのです,
蛇が旧い皮を脱いで捨てるように.


おわりに

 

[現代の医療に生きる「四つの真理」]

 四つの真理とは,苦しみ(苦諦),集まり(集諦),滅する(滅諦),道がある(道諦),という一連の四つを意味しています.それらは,そのカタチをかえて厳然と現代に生き続けているのです.たとえば,現代医療の現場を例として,見直してみましょう.

苦:老・病・死の苦しみの現実を直視せよ→患者さんの自覚症状を聞き,その症状を自分でも冷静に観察して客観的に記述せよ.これは,問診や検査にあたります.

集:老・病・死の苦しみには,その要素の集まりのうちに原因がある→病気の身体は多くの器官や組織の相互に関係づけられた集まりであるから,その中に必ず病気の原因があるはずであると考え,その原因を,問診や生理学的検査のデータから科学的仮説形成を行ってつきとめ,診断として確定する.これは,診断法にあたります.

滅:老・病・死の苦しみには,その要素の集まりのうちに原因があり,その原因を滅する方法がある→病気の原因(病因)が特定できたので,その病因を確実に滅ぼすに至るであろう治療法(投薬,手術)を計画する.これは,治療法にあたります.

道:老・病・死の苦しみには,その要素の集まりのうちに原因があり,その原因を滅する方法があるから,これら一連の方法(苦・集・滅)を実践する道がある→患者さんの自覚症状の問診からはじまり,その苦しみを検査,診断,治療に至る一連の過程(プロセス)によって取り除き,回復させる.つまりQOLQuality Of Life,生活の質,あるいは日常生活)の回復,という臨床医学の究極の目的と方法論がこれにあたります.

 このように,「四つの真理」は,ゴータマとよばれたブッダがそれを説きはじめてから,約2500年の歳月を超えていまもなお現代に確固として生き続けていて,人々の生活に平穏と安らぎを与えているといえるのです.つまり,「四つの真理」とは,現代の人々を支える医療と呼ばれる社会システムの倫理でありその方法論でもあった,ということが私の結論であり意見です.さらに「四つの真理」は,今や医療だけでなく,あらゆる人々にとってその必要欠くべからざる存続基盤である,あらゆる社会的システムや社会のインフラストラクチャを考えるときに,その方法論的基盤となりうるのではないでしょうか.

仏教を信仰されるか多くのかたには,現代科学技術というシステムを支える論理や倫理と,宗教である仏教は,まったく異質であるべきであると考えられる人も多いかもしれません.こうしたことの是非を確かめるために,ゴータマと呼ばれる人物のその一生を再構成してみよう,というのが私の最初の動機でした.

 

[現代科学技術に不可欠な「四つの真理」]

現代では,医療だけでなく,現代科学技術そのものが巨大な社会システムであって,人間社会を支える不可欠なインフラストラクチャでありその生活基盤となっています.それらを支える,いわば現代科学技術の論理と倫理が,「四つの真理」なのです.たとえば,そうした社会システムの一つにトラブル(問題)が発生したときのことを例として考えてみてください.

苦:苦しみのその現実を如実に観察せよ→社会システムのトラブル(問題)の実態を正確に把握し,また,そのトラブル(問題)が何であるかを正確に定義し,関係者に周知する.つまり,問題点の認識にあたります.

集:苦しみの現実においては,その要素の集まりのうちに原因がある→社会システムのトラブル(問題)の原因は,システムが要素の関連づけられた集まりであるからには,その何かの要素にトラブルの原因があるであろう,とその原因を推定し追求し,それを発見する.つまり,問題点からその問題の原因を推定し仮説することにあたります.

滅:苦しみには,その要素の集まりのうちに原因があり,その原因を滅する方法がある→トラブル(問題)の原因が発見されたら,必ず,その問題の解決法があるはずであり,その解決法を発見し,その実施を詳細にわたって計画し策定し周知する.つまり,仮説された問題点を解消するりための解決法の策定にあたります.

道:.苦しみには,その要素の集まりのうちに原因があり,その原因を滅する方法があるから,これら一連の方法(苦・集・滅)を実践する道がある→トラブル(問題)の現状を認識し,その原因を追求し,トラブル(問題)解決法を策定,それを実施し,その結果を評価し,これをトラブル(問題)が解決し終えるまで繰り返す.つまり,問題点の解消策の実践,修正改善,そしてまた実践,といった一連の過程(プロセス)を,その社会システムが存続する限り繰り返す,いわば社会システムのライフ・サイクルのその全体にあたります.

このように,「四つの真理」とは,あらゆる社会システムをより安全なものとして構築し,管理し,それを無事に運営し,そして絶えず改善していく,というあらゆる現代科学技術システムに共通な方法論そのものであるといえるのです.

 

B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』]

 私はこのことに気づいたときから,現代科学技術を現に支えている方法論を,人類が意識しはじめた最初の発見者の一人であったであろう,ゴータマとよばれたブッダの一生を再構成してみたい,それが,現代科学技術という巨大システムを支える論理的基盤であり,倫理的基盤となるのではないか,と思っていました.しかし,なかなかそうしたものをまとめる機会を得ることができず,散在する経典たちからその部分を抽出し,それらを私の空想によって補うにとどまっておりました.

しかし,「B.R.アンベードカル『ブッダとそのダンマ』山際素男訳,光文社新書,2004年」に接してあらためてその内容に驚きもし,また勇気づけられもしたのでした.アンベードカルは,1891年から1956年まだ,インドの植民地時代から独立への激動の時代を生きた,いわば社会改革者でしたが,その一生は,「四つの真理」に確固として裏付けられていたのであって,それは,当時のインドにおける社会システムの諸問題を直視し,その社会問題の諸原因を識別し,その問題解決法を政治家として提案し,そしてそれを社会運動として実践する,ということの繰り返しであったろうと思われます.

私は,この著作から最も多くの素材を採用させていただき,それらを,現代科学技術というシステムの中の一技術者としての問題意識において整理し,ゴータマと呼ばれたブッダの一生として再構成しようとしたのでした.ただ一つ,彼の著作の意に反しているかもしれないと恐れることは,ゴータマと呼ばれるブッダを,救国の英雄としてでも超人としてでもなく,ただ一個の人間,現代のどこにでもいそうな人間,として描かせていただいた,ということがそれでありましょうか.

 

[現代医療の倫理と「四つの真理」]

 また,「四つの真理」は,現代の医療における倫理というきわめて重要な問題にもあらためて光をあてるでしょう.現代医療の倫理の原理は,以下の四つであるといわれます.

1)自律性の原理

2)無危害性の原理

3)善行の原理

4)(社会的)正義の原理

自律性の原理は,いかなる医療も,人間の自由と自律という人権を侵害してはならず,いかなる医療行為といえども,十分なインフォームド・コンセントによる同意を得てなされねばならぬ,ということであり,無危害性の原理は,いかなる人格もその意に反して危害を与えられてはならない,ということであり,善行の原理とは,医療行為は善意にもとづいてなされねばならず,その善意の結果がQOLの回復という結果をもたらさねばならない,ということであり,正義の原理は,いかなる医療行為も医療を受ける側の民族や性差や貧窮にかかわらずまったく平等であらねばならぬ,ということであって,これらが「四つの真理と八つの正しい道」においていかに構想され実現されようとしてきたか,はこれまで説かれてきたとおりです.むろん,いかなる社会システムもこうした原則によって管理運営改善されてこそ,社会に不可欠なインフラストラクチャであり続けることでありましょう.私が,「四つの真理」を巡る物語を,現代科学技術システスを支える論理的基盤であり倫理的基盤を考察するためのそのよすがとしたいと思った最大の理由がこれでした.

 

[参考資料]

素材として利用させていただいた基本文献としては,

  中村元訳『ブッダ最後の旅 −大パリニッヴァーナ経−』岩波文庫,1980.

  中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫,

  中村元『ゴータマ・ブッダT,U』中村元選集(決定版)第11巻,第12巻,春秋社,1992

があり,その学恩を深く感謝するとともに,しかし,ほとんどを現代の科学技術の様相において私が考えた「四つの真理と八つの正しい道」に即するように書き換えさせていただきましたので,それら改変の責任の全ては私にあることはいまさらの言をまちません.


[付録1]

中正なるナーガの道(中論頌)

 

[イノチあるモノの縁って起こるコトにおける戯論の止滅 −八不の論証−]

この世においては,

いかなるイノチあるモノも生ずることなく,

いかなるイノチあるモノも滅することなく,

いかなるイノチあるモノも常住することなく,

いかなるイノチあるモノも断滅することなく,

いかなるイノチあるモノも同一であることなく,

いかなるイノチあるモノも異なることなく,

いかなるイノチあるモノも去ることなく,

いかなるイノチあるモノも来ることがないのであって,

かくのごとく,八つの否定と呼ばれる戯論の止滅,めでたい真理であるところの「縁って起こる」という法を説いたブッダを,多くの法を説いた者のうちで最もすぐれた人として,私は尊敬したてまつるものであります.

 

[イノチあるモノの縁って起こるコトを論ずる]

もろもろの色・カタチ・名ある事物は,どこにおいても,いかなるモノであっても,それ自らから,また他のモノから,また,自他の両者からも,また,原因が全くないのに生じたものとしてあることは,決してありえないのである.

 

もろもろの「縁って起こるコト」つまりイノチあるモノであることにおいては,それに四つの条件があるといわれる.原因に縁っておこるコト,認識に縁って起こるコト,事象が継続し縁って起こるコト,事象が縁って起こることを補助するコト,がそれである.これ以外には第五の縁って起こるコトは全くありえないといわれる.

 

イノチあるモノである,という結果を生ずるに至る形成作用とは,こうした四つの縁って起こるコトを自らのうちに所有することによってあるのではない.むしろ逆に,縁って起こるコトとは,結果を生ずるに至る形成作用を自らのうちに所有しないものでもないのである.縁って起こるコトとは,結果を生ずるに至る形成作用を,自らのうちに所有するものでも,保有しないものでもないのである.

 

これらのモノに縁ってそれなるイノチあるモノが起こるという意味で,これらのモノがそれなるイノチあるモノの縁であると人々はいう.しかし,それなるイノチあるモノが生じない限りは,これらのイノチあるモノが,どうして縁でないのではない,ということがある」とか「縁って起こるイノチあるモノである」とか「縁って起こらないイノチあるモノである」とかがありえようか.

 

[イノチあるモノが過ぎ去るコト,その老・病・死の過程を論ずる]

まず「すでに過ぎ去ったモノ」は過ぎ去ることはないし,「未だに過ぎ去るコトのないモノ」も過ぎ去ることはない.さらに,「すでに過ぎ去ったモノ」と「未だに過ぎ去るコトのないモノ」を離れた,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」も過ぎ去りはしないのである.

 

過ぎ去るという運動の過程があるところには「過ぎ去るコト」がある.そして過ぎ去るという運動の過程は「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」に付随してあるのと等しく,「すでに過ぎ去ったモノ」にも「未だに過ぎ去ることのないモノ」にも「過ぎ去るコト」があるとアビダルマ論者たちはいうのである.

 

しかし,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」に,どうして「過ぎ去るコト」がありえようか.「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」に二つの「過ぎ去るコト」はありえないのであるから.

 

「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」に,「過ぎ去るコト」があると考える人は,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」は過ぎ去るがゆえに,「過ぎ去るコト」がなく,しかも,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」がある,という誤謬,自己矛盾が付随するであろう.

 

「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」に「過ぎ去るコト」がある,と主張するならば,二種の「過ぎ去るコト」があるという誤謬が付随してくるのである.すなわち,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」を成り立たせるような「過ぎ去るコト」と,それに新たに述語として付加される「過ぎ去る」という動詞に付随する「過ぎ去るコト」の,二つの「過ぎ去るコト」が付随することになるのである.

 

二つの「過ぎ去るコト」が付随するならば,さらに二つの「過ぎ去る主体」が付随するであろう.なんとなれば,「過ぎ去る主体」を欠いた「過ぎ去るコト」は成立しえないからである.

 

「過ぎ去る主体」を欠いたならば,「過ぎ去るコト」じしんは成立しえない.また,「過ぎ去るコト」がありえないならば,どうして「過ぎ去る主体」が存在しうるというのであろうか.

 

まず,「過ぎ去る主体」は過ぎ去ることはない.「過ぎ去らない主体」もまた過ぎ去ることはない.それでは,「過ぎ去る主体」でもなく,また「過ぎ去らない主体」でもなく,両者とは全く異なったいかなる第三の主体が,実に過ぎ去るのであろうか.

 

まず,「『過ぎ去る主体』が過ぎ去る」ということがどうして成立うるのであろうか.「過ぎ去るコト」なしには,「過ぎ去る主体」は成立しえないのであるから.

 

「『過ぎ去る主体』が過ぎ去る」というのならば,二つの「過ぎ去るコト」があるということになってしまう.すなわち,その「過ぎ去るコト」に基づいて「過ぎ去る主体」と呼ばれる「過ぎ去るコト」と,その「過ぎ去るコト」に基づいて「過ぎ去る主体」である人が過ぎ去るところのその「過ぎ去るコト」である.

 

「すでに過ぎ去ったモノ」において「過ぎ去るコト」は始まらない.「未だに過ぎ去るコトのないモノ」においても,「過ぎ去るコト」は始まらない.「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」においても,「過ぎ去るコト」は始まらない.いったい,どのようなモノにおいて「過ぎ去るコト」が始まるのであろうか.

 

「過ぎ去るコト」が始まるにおいては,そこで「過ぎ去るコト」が始められるような,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」などは存在しない.またそのような「すでに過ぎ去ったモノ」も存在しない.「未だ過ぎ去るコトのないモノ」において,どうして「過ぎ去るコト」が始まるのであろうか.

 

「すでに過ぎ去ったモノ」にも「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」にも,「未だに過ぎ去ることのないモノ」においても,過ぎ去るコトの開始が認められないのであるならば,「すでに過ぎ去ったモノ」,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」そして「未だに過ぎ去るコトのないモノ」がどうして考えられようか.

 

まず,「過ぎ去る主体」は過ぎ去ることはない.「過ぎ去らない主体」もまた過ぎ去ることはない.それでは,「過ぎ去る主体」でもなく,また「過ぎ去らない主体」でもなく,両者とは全く異なったいかなる第三の主体が,実に過ぎ去るのであろうか.

 

まず,「『過ぎ去る主体』が過ぎ去る」ということがどうして成立うるのであろうか.「過ぎ去るコト」なしには,「過ぎ去る主体」は成立しえないのであるから.

 

「『過ぎ去る主体』が過ぎ去る」というのならば,二つの「過ぎ去るコト」があるということになってしまう.すなわち,その「過ぎ去るコト」に基づいて「過ぎ去る主体」と呼ばれる「過ぎ去るコト」と,その「過ぎ去るコト」に基づいて「過ぎ去る主体」である人が過ぎ去るところのその「過ぎ去るコト」である.

 

「すでに過ぎ去ったモノ」において「過ぎ去るコト」は始まらない.「未だに過ぎ去るコトのないモノ」においても,「過ぎ去るコト」は始まらない.「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」においても,「過ぎ去るコト」は始まらない.いったい,どのようなモノにおいて「過ぎ去るコト」が始まるのであろうか.

 

「過ぎ去るコト」が始まるにおいては,そこで「過ぎ去るコト」が始められるような,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」などは存在しない.またそのような「すでに過ぎ去ったモノ」も存在しない.「未だ過ぎ去るコトのないモノ」において,どうして「過ぎ去るコト」が始まるのであろうか.

 

「すでに過ぎ去ったモノ」にも「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」にも,「未だに過ぎ去ることのないモノ」においても,過ぎ去るコトの開始が認められないのであるならば,「すでに過ぎ去ったモノ」,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」そして「未だに過ぎ去るコトのないモノ」がどうして考えられようか.

 

注「これは運動の否定ではなく,運動プロセス(過ぎ去るコト)の『実在』の否定なのである」

 

[色・カタチ・名あるモノどもの集まりを論ずる]

まず第一に,「過ぎ去る主体」が無事に静止していることはない.また,「過ぎ去らない主体」が無事に静止していることもない.では,「過ぎ去る主体」でもなく「過ぎ去らない主体」でもないところの,両者と異なるいかなる第三者がそこに,なにゴトもなく静止してあるといえるのであろうか,

 

「過ぎ去るコト」なくしては,「過ぎ去る主体」が成立しえないときに,まず「過ぎ去る主体」が,なにゴトもなく静止していることがどうして可能であろうか.

 

「過ぎ去る主体」は「今,現に過ぎ去りつつある場所」から離れて無事に静止しているのではない.また,「過ぎ去った現場」から離れて,なにゴトもなく静止していくわけでもない.このように「行くコト」,「活動を起こすコト」,「活動を停止するコト」等は,「過ぎ去るコト」の場合と同様であると理解されるべきである.

 

「過ぎ去るコト」なるモノがすなわち「過ぎ去る主体」である,というのは正しくない.また「過ぎ去る主体」と「過ぎ去るコト」が別れて異なっているというのも正しくない.

 

もし「過ぎ去るコト」なるモノがすなわち「過ぎ去る主体」であるならば,「行為の主体」と「行為そのもの」が同一となってしまうのである.

 

また,もし「過ぎ去る主体」と「過ぎ去るコト」が別れて異なっていると分別するならば,「過ぎ去る主体」がなくても「過ぎ去るコト」があることになるであろうし,また「過ぎ去るコト」がなくても,「過ぎ去る主体」があることになるであろう.これは全く理に合わない.

 

同一であるにしても,異なるにしても,成立することのありえないこの「過ぎ去るコト」と「過ぎ去る主体」の二つは,どうして個々に成立しうるだろうか.

 

「過ぎ去るコト」によって「過ぎ去る主体」であると呼ばれるのであるならば,その「過ぎ去る主体」はその「過ぎ去るコト」をなすことはありえない.なぜならば,「過ぎ去る主体」は,「過ぎ去るコト」以前に成立しているのではないからである.実に,行為の主体がないときに,いったい何が行為されるであろうか.

 

「過ぎ去るコト」によって「過ぎ去る主体」であると呼ばれるならば,その「過ぎ去る主体」は,その「過ぎ去るコト」とは異なる他の「過ぎ去るコト」によって過ぎ去ることはないのである.一人の「過ぎ去る主体」において二つの「過ぎ去るコト」は成立しえないからである.

 

「過ぎ去る主体」が実在するモノであるならば,実在するであろう「過ぎ去るコト」と,実在しない「過ぎ去るコト」と,実在しかつ実在しない「過ぎ去るコト」の三種の「過ぎ去るコト」のいずれによっても過ぎ去ることがないであろう.また「過ぎ去る主体」が実在しないようなモノであるにしたところで,かくのごとく三種の「過ぎ去るコト」のいずれによっても過ぎ去ることができないのである.

 

また「過ぎ去る主体」とは,それが実在し,かつ実在しないモノであるあるとしても,かくのごとく三種の「過ぎ去るコト」のいずれによっても,過ぎ去るコトがない.それゆえにこそ,「過ぎ去るコト」と「過ぎ去る主体」と「過ぎ去ったモノが行くべき場所」のようなシロモノは全く存在しないのである.

 

注)つまり,これは,あらゆる過程は,ただ言語空間に空虚な普遍者として「ある」のみなのだ,むしろ,個別者としては存在しないのである,という主張であり,ナーガールジュナの主張は虚無論でもなければ言語否定論でもない.

 

[認識するモノ(主体)と,認識されるモノ(対象)がある,というコトを根拠にナーガールジュナを論難する]

モノの色・カタチを「見る」というハタラキ,モノの音を「聞く」というハタラキ,モノの匂いを「嗅ぐ」というハタラキ,モノの味を「味わう」というハタラキ,モノに触れてそれらを「感じる」というハタラキ,モノの色・カタチ,名によってそれらを「思う」というハタラキ,これらは,六つの認識能力と呼ばれており,色・カタチ・名あるモノたちが,これらを認識するハタラキの対象なのです.

 

およそイノチあるモノたちは,こうした認識能力を以て,世界の色・カタチ・名あるモノどもを認識して生活しているコトは自明であるのに,なぜ,あなたはことさらに,それらの認識対象や認識能力をもってして,それらはコトバであって実在しないのであるとか,それらをコトバの本質である空である,と戯論をもって答え,私たちの法を論難しようとするのでしょうか.

 

[論難に答えて,主体と対象の関係について論ずる]

実に「見るハタラキ」は,自らを見ることがない.自らの色・カタチを全く見ることのないモノが,どうして「色・カタチを見る」といえるのであろうか.

 

「火は自分自身を焼き尽くすことはできないが,自ら以外のモノならば焼き尽くすことができる」という「火のたとえ」とは,「もともとも眼とは自らを見ることはないが,自ら以外のモノならば見ることができる」という,眼のハタラキを証明することにおいては十分ではない.この「見るハタラキ」と「火のたとえ」とは,「今,現に過ぎ去りつつあるモノ」と「すでに過ぎ去ってしまったモノ」と「未だに過ぎ去るコトのないモノ」において,すでに論破されてしまっているからである.

 

何ものをも見ていないときには,「見るハタラキ」とは,決して存在しないのである.「見るハタラキ」が見るというのならば,どうしてこのコトが理に合うのであろうか.

 

「見るハタラキ」が見るのでは決してない.「見るハタラキでないモノ」が見るのでも決してない.「見るハタラキ」をモトとして理解することを排除し終わったことによって,「見る主体」の成立しえないことも説明された,と理解すべきである.

 

「見るハタラキ」を欠いていたとしても,欠いてないとしても「見る主体」なるモノはそれ自体としては存在しないのである.「見る主体」が存在しないから,「見られるモノ」も「見るハタラキ」も,ともにコトバによって仮説されたモノなのであって,それ自体としては存在しないのである.

 

母と父に縁って子が生まれる,といわれるように,眼とその対象の色・かたちに縁って認識作用が生ずる,とあなたたちは説くのである.

 

「見られるモノ」と「見るハタラキ」とが,コトバであって,それ自体として存在しないのであるから,識などの四つの要素はそれ自体として存在するのでは全くないのである.ゆえに,そうしたモノへの執着とは,いったいどうして存在しうるのであろうか.

 

「聞くハタラキ」,「嗅ぐハタラキ」,「味わうハタラキ」,「触れるハタラキ」も,そして「思うハタラキ」も,「聞く主体」,「聞かれる対象」なども,「見るハタラキ」について論じられたことを適用して,同様に説明されたと知るべきである.

 

色・カタチ・名あるモノどもの原因である地・水・火・風・空を離れた,色・カタチ・名あるモノどもは認識されないのである.また,色・カタチ・名あるモノどもを離れた,地・水・火・風・空なる原因もまた認められないのである.

 

もし,色・カタチ・名あるモノどもが,色・カタチ・名あるモノどものその原因を離れているのであるならば,色・カタチ・名あるモノどもは,原因なくして生じたということになるであろう.しかし,原因を持たないモノどもなどは,どこにも存在しないのである.

 

これに反し,もし,色・カタチ・名あるモノどもを離れた,色・カタチ・名あるモノどもの原因なるモノが,それ自体として存在するのであれば,結果をもたらさない原因があるということになるであろう.しかし,結果をもたらさない原因それ自体というモノは存在しないのである.

 

色・カタチ・名あるモノどもがすでに存在するならば,色・カタチ・名あるモノどもの原因なるものは,そもそも成立しえない.また,色・カタチ・名あるモノどもが存在しないのであれば,色・カタチ・名あるモノどもの原因なるものも成立しえないのである.

 

さらに,原因を持たない,色・カタチ・名あるモノどもなどは,全く成立しえないのである.それゆえに,現に成立している色・カタチ・名あるモノどもについては,その原因についていかなる分別的思考をなしたところで,それは無意味であろう.

 

結果が原因に似ている,ということは成立しえない.結果が原因に似ていないこともまた成立しえない.


色・カタチ・名あるモノを受容するハタラキと,想起するハタラキと,コトバの形成作用と,それによって形成されたコトバによる記憶と,これらココロのハタラキにの全てにおいて,いかなる点においても,色・カタチ・名あるモノとその原因についての関係と同じ次第が成立するのである.

 

およそ,コトバの本質であるところの空なる法において論破がなされているときには,誰かがその論破に反駁を述べたとしても,その反駁は反駁にはなっていないのである.論破ししんが,論破されているものと等しいということが生じてくるからである.

 

およそ,コトバの本質であるところの空なる法において解説がなされているときには,誰かがその解説に非難を述べたとしても,その非難は,全てが非難とはなっていない.非難じしんが,非難されていることと等しいということが生じてくるからである.

 

[世界の相を論ずる]

虚空であるという相が存在する以前には,いかなる虚空も存在しない.もし,虚空であることの相より以前に虚空が存在するならば,その虚空は虚空であることの相のないものであり,虚空は無相であるという誤りが付随するであろう.

 

何であろうとも,相を持たないものはどこにも存在しないのである.無相なるモノは存在しないのであるから,どこに相が出現するのであろうか.

 

相は相を有しないモノのうちに出現することはないのである.相はすでに相を有するモノのうちに出現することはない.また,相は,相を有するモノと相を有しないモノの両者に異なる他のいかなるモノのうちにも,出現することはない.

 

相が出現することのないときには,相を持つモノは存在しない.相を持つモノが存在しないときには,相は出現することはない.

 

それゆえに,相を持つモノそれ自体(可相)は存在しない.したがって,相を持つモノそれ自体において,相を出現させるモノ(能相)それ自体なるモノもまた存在しないのである.

 

およそ,あらゆるイノチあるモノが存在しないとき,いかなるイノチなきモノが存在するのであろうか.イノチあるモノでもなく,イノチなきモノでもないようないったい何ものが,世界の事物の有無を知るのであろうか.

 

それゆえに,虚空は,イノチあるモノでもなく,イノチのないものでもなく,相を持つモノそれ自体でもなく,いわんや相を持つモノ(可相)それ自体に相を出現させるモノ(能相)それ自体でもありえない.その他の五つの要素である地・水・火・風・識も,虚空の場合と全く同様である.

 

しかるに,もろもろの世界の現象する相のうちに,イノチあるモノとイノチなきモノの差別を見る愚者たちは,経験されるもろもろの事象の全てが,静かな安らぎのうちにあるという吉祥なるさまを見ることがないのである.

 

[貪るコトと貪るモノとを論ずる]

もし,「貪るコト」より以前に,貪りを欠いた「貪るモノ(=主体)」が存在しうるとすれば,それなる「貪るモノ」に縁ってはじめて「貪るコト」は存在しうるであろう.

 

しかし,「貪るコト」以前に,貪るコトを欠いた「貪るモノ」などは存在しないであう.「貪るコト」というモノそれ自体,「貪るモノ」というモノそれ自体についても,これと同じ次第が成立するであろう.

 

ところで,「貪るコト」と「貪るモノ」が同一時に生起することはありえない.なぜなら,もうそうだとすれば「貪るコト」と「貪るモノ」は相い依ることなく存在するモノとなるであろうから.

 

「貪るコト」と「貪るモノ」とがもし同一であるならば,両者の結合はありえない.なんとなれば,モノはそのモノ自体とは結合しえないからである.またその両者がもつ異なるモノであるならば,その両者が結合することがどうして起こりうるであろうか.

 

もし,両者が同一なるがゆえに結合が成立するのであれば,随伴者がいなくても結合は成立するであろう.また,両者が異なるがゆえに結合が成立するのであれば,やはり随伴者がいなくても結合は成立するであろう.

 

あるいはまた,もし両者が異なるがゆえに結合が成立するのであれば,「貪るコト」と「貪るモノ」とが互いに異なったモノであることがどうして成立するのであろうか.なぜなら,その二つのモノは,すでに結合しているのであるから.

 

あるいは,もし「貪るコト」と「貪るモノ」とが異なるモノとして,すでに別々に成立しているのならば,その一方で,これら両者の結合を,あなたは何のために想定する必要があるのだろうか.

 

「別々には成立していない」と考えて,あなたは両者の結合を願うのであろう.ところが,両者の結合を成立させるために,あなたはさらに両者が異なるモノであると考えているのである.

 

しかるに,両者の異なることは成立しないから,両者の結合は成立しない.両者のいかなる結合において,あなたは結合を考えようとするのか.

 

こうしたわけであるから,「貪るコト」が「貪るモノ」とともに成立することはありえない.また,両者が別々に成立することもありえない.つまり「貪るコト」と「貪るモノ」の関係と同様に,一切のモノゴトは,ともに成立することもないし,また別々に成立するということもないのである.

 

[イノチあるモノの三つの相を論ずる]

もし,イノチあるモノが「生ずるというコト」が形成されたモノであるならば,そこには,生まれ,住し,滅する,という三つの相があるであろう.またもし,イノチあるモノが,形成されたモノではないとすれば,どうして,そこに形成されたモノを形成されたモノとするに足る三つの性質が存在するのであろうか.

 

さて,生ずる,住する,滅するという三つの相がそれぞれ異なった別々のモノであるならば,これらの三つの相は,形成されたモノとしての相であることにおいては十分ではない.また,それらの相が合一するならば,それらの三つの相は,同一時に同一場所にあることになるが,どうしてそのようなことが可能であろうか.

 

もし,生ずる,住する,滅するという三つの相に,さらにそれらを成立させるための他の形成された相である生ずる,住する,滅するということがないならば,それらの生ずる,住する,滅するという三つの相は,形成されたモノではなくなってしまうであろう.

 

[「生生」によりナーガールジュナを論難する]

およそイノチあるモノを生起させる「生生」と呼ばれる「生ずるコト」は,すなわち「本生」すなわち,生命の本質という原理を生ずるのであって,「本生」はよく「生生」を生ずるといわれるのです.あなたは,事物の本質をコトバであり空である,と説くことによって,この生命の原理をすら完全に否定するに至るでありましょう.

 

[論難に答えよう]

あなたの説によって,もし,生生が本生を生ずるのであれば,そのもとである本生によって,未だに生じてはいない生生が,どうしてその本生を生ずるのであろうか.

 

あなたの説によって,もし,もとの本生によって生じられるその生生が,そのもとの本生を生ずるのであるならば,その生生によって未だ生ぜられていないそのもとの本生が,どうしてその生生を生ずるのであろう.

 

あなたの説によって,もし,未だ生じてないもとの本生が,生生を生じるのであれば,現に生じつつあるこの本生は,欲するがままに生生を生ずるであろう.

 

[さらに「灯火」の譬えによってナーガールジュナを論難する]

灯火がそれ自身と他のモノとをともに照らすように,「生ずるコト」もまた同様に,それじしんと他のモノを生じさせるのです.あなたは,「生ずるコト」をコトバの本質である空にすぎぬ,とすることによって,生命の本質である法の存在をすら否定するに至るでありましょう.

 

[さらに論難に答えよう]

灯火のうちにも,灯火のある場所においても,闇は存在しないのである.闇が存在しないのなら,灯火は何を照らすというのであろうか.なぜなら,照らす光はすでに闇を滅ぼしてしまっているのであるから.

 

現に生じつつある灯火によって,どうして闇が滅ぼされるのであろうか.なぜなら,現に生じつつある灯火は未だに闇には到達していないのであるから.

 

あるいはもし,灯火が闇に到達していなくても,灯火が闇を滅ぼすのであれば,ここに存在する灯火は全世界の闇を滅ぼすであろう.

 

もし,灯火がそれじしんと他のモノを照らすのであれば,闇もまたそれじしんと他のモノをその闇で覆って暗くするであろうことは疑いないのである.

 

[再び論難に答えよう]

この「生生」と呼ばれる未だ生ずるコトのないモノが,どうしてそれじしんを生じさせることがあろうか.また,もし,すでに生じたモノが,それじしんを生ずるモノだとすれば,すでに生じたモノが,どうしてその上にさらに生ずるのであろうか.

 

今,現に生じつつあるモノも,すでに生じたモノも,未だに生ずることのないモノも,決して生じないのである.このことは,今,現に過ぎ去りつつあるモノ,すでに過ぎ去ったモノ,未だ過ぎ去るコトのないモノによって,すでに説明されている.

 

この,今,現に生じつつあるモノが,生ずるコトのうちに現出しないときに,他方では,いかにして生ずるコトに縁って,今,現に生じつつあるモノがある,といえるのだろうか.

 

縁によってイノチあるモノは,いかなるモノであってもその全てが,その本質において静かに安らいでいるのである.それゆえに,今,現に生じつつあるモノたちは,静かに安らいでいる.生じるコトじしんも静かに安らいでいるのである.

 

もし,何らかの未だに生じていないモノがどこかに存在するのであれば,そのものは生起することであろう.しかしそうしたモノが存在しないのに,どうしてそのモノが生起するのであろうか.

 

もしこの生ずるコトが,今,現に生じつつあるモノ,を生じさせるのであるならば,その生ずるコトをさらに,いずれの生ずるコトが生じさせるのであろうか.

 

もし,他の生ずるコトがこの生ずるコトを生じさせたのだとすれば,それは無窮となってしまうであろう.またもし,他の生ずるコトがなくても,この生ずるコトがあるとすれば,一切はみな原因なくして生ずるコトであろう.

 

要するに,今,現にイノチあるモノとして存在しているモノが,更に生ずるコトは理に合わない.また,現にイノチあるモノとして存在しないモノが生ずるコトも理に合わない.今,現にイノチあるモノとして存在し,かつ存在しないモノが生ずるコトも理に合わない.このことは以前にすでに論証しておいた.

 

今,現に消滅しつつあるイノチあるモノが生ずるコトはありえない.今,現に消滅しつつないようなイノチあるモノはありえない.

 

すでに住したモノは,もはや住するコトがない.未だに住したコトのないモノが住するコトはない.また,生ずるコトのないモノが,どうして住するコトがあろうか.

 

今,現に滅しつつあるイノチあるモノが住することはありえない.また,今,現に滅しつつないようなイノチあるモノはありえない.

 

およそ,一切のイノチあるモノは,常に老い,病み,死ぬという相をもつのであるから,いかなるイノチあるモノが,老い,病み,死ぬという相なくして住するのであろうか.

 

住するコトの更に住するコトは,他の住するコトによっても,またそれじしんによっても成立しえない.それはあたかも,生ずるコトの生ずるコトが,それじしんによっても,また他のモノによっても成立しえないようなものである.

 

未だ滅しないモノは滅しない.すでに滅してしまったモノも滅しない.今,現に滅しつつあるモノも滅しない.

 

まず,すでに住しているモノの滅することはありえない.次に,未だ住していないモノの滅することもまたありえないのである.

 

実に,ある状態は,それと同じ状態によっては決して滅せられることはない.また,ある状態は,それと異なる状態によっても決して滅せられることはない.

 

一切の事物であり法であるモノの生ずるコトが起こりえないならば,同様にして一切の事物であり法であるモノの滅することも起こりえないであろう.

 

まず,イノチあるモノとして現に存在しているモノの滅することは起こりえないであろう.なんとなれば,あるモノがイノチあるモノであってしかもイノチのナイものであることは,一つのことにおいて起こりえないからである.

 

イノチなきモノとして現に存在しないモノの滅することもまた起こりえない.それは,あたかも第二の頭を切断することが起こりえないようなものである.

 

滅するコトは,それじたいによってはありえない.滅するコトは他のモノによってもありえない.それは,あたかも生ずるコトの生ずるコトは,それじたいによっても他のモノによってもありえないようなものである.

 

以上のように,生ずるコト,住するコト,滅するコトとがすべて成立しないがゆえに,形成された事物は成立しえないのである.また,形成された事物が成立しえないのであるから,いかにして形成されないモノが成立しうるであろうか.

 

あたかも幻のようである.あたかも夢のようである,あたかも蜃気楼のようであるとして,あらゆるイノチあるモノの生ずるコト,住するコト,滅するコトが説かれているのである.

 

[「行い」を論ずることにおいて論難に答えよう]

すでにイノチあるモノである行いの主体が,すでにイノチあるモノとして行うコトをさらに行うコトはない.未だにイノチあるモノとしてなっていないような行いの主体もまた,未だにイノチあるものとしての行いを試みることはないのである.

 

すでに実在する行いであるデキコトにおいては,そのハタラキはもはや存在しない.そして,すでに実在する行いは,そのハタラキが既にないのであるから,それを行う主体を有しないモノとなるのである.

 

もし,未だにイノチのあるモノとして実在しない行いの主体が,未だに実在しない行いを行うというのであれば,行いとはいかなる原因をも有しないモノになるであろう.また,行いの主体も,原因を有しないモノとなるであろう.

 

原因としての行いが存在しないならば,行いの結果は存在しないし,ゆえに,原因としての行いもまた存在しない.行うコトが存在しないのなら,行いのハタラキも,行いの主体も,その行いの手段もまた存在しないことになろう.

 

行いのハタラキが存在しないのなら,法にかなった行いも,非法な行いも存在しない.法にかなった行いも存在しないし,非法な行いが存在しないならば,それから生ずるであろう果報もまた存在しない.

 

果報が存在しないのであれば,解脱に至る道も,天界に至る道も成立しない.こうして,一切の行いは無意味になってしまうであろう.

 

すでにイノチあるモノであって,またイノチなきモノであるところの行いの主体は,行いであって行いでないような行いをなすことがない.なんとなれば,互いに矛盾するイノチあるモノとイノチなきモノ,行いであるコトと行いでないことが,どうして一つのモノでありえようか.

 

イノチあるモノの行いにおいては,イノチなきモノであるような行いはなされない.イノチなきモノの行いにおいては,イノチあるモノであるような行いはなされない.あなたの説においては,一切の誤謬が付随して起こるのである.

 

イノチあるモノである行いの主体は,未だに実在しないような行いをなすことがない.また,すでに実在し,かつまた未だに実在しないような行いをなすことがない.それは,すでに述べたもろもろの理由によるのである.

 

未だにイノチあるモノとして実在しないような行いの主体もまた,すでに実在する行いをなすことがない.またすでに実在し,かつまた未だに実在しないような行いをなすこともない.それは,すでに述べたもろもろの理由によるのである.

 

すでにイノチあるモノとして実在し,かつ未だにイノチあるモノとして実在しないような行いの主体もまた,実際の行いをなすことがない.それもまた,すでに述べたもろもろの理由によって知られるであろう.

 

行いに縁ってはじめて,行いの主体があるのである.また,行いの主体に縁ってはじめて,行いがなされるのである.その他の原因を,私たちは全く見ないのである.

 

このように,行いと行いの主体を分離独立させて思考することを棄てることによって,おなじように,モノゴトに執着する主体とモノゴトに執着するコトを分離独立して思考することを棄てることができよう.行いと行いの主体については,この考察にもとづき,その他のもろもろのコトをも考えるべきであろう.

 

[「感受するハタラキの主体」を論ずる]

見るハタラキや,聞くハタラキなど,また,色・カタチ・名あるモノどもを受容するハタラキの主体が,これらのハタラキより先に,それらのハタラキから離れて独立に存在する,とある人々は主張するのである.

 

なぜならば,イノチあるモノとして存在しないモノにおいて,いかに見るハタラキなどがありえようか.それゆえに,それらは,見る,聞く等の感受するハタラキ以前に,それに先行し,かの定住して確立しているイノチあるモノが独立してあるはずである,と.

 

それでは,見るハタラキや聞くハタラキなどよりも,またもろもろのイノチあるものが,色・カタチ・名あるモノどもを受容するハタラキなどよりも,それ以前に先行し,かの定住して確立しているモノが独立してあるコトとは,何によって想定されるのであろうか.

 

またもし,見るハタラキなどがなくてもかの定住して確立しているモノが完全に独立して存在するのであれば,その定住し確立しているモノが全くなくても,見るハタラキ等が現に存在しているコトは,全く疑いがないのである.

 

あるデキゴトによって,ある主体が想定され,ある主体によってあるデキゴトが想定されるのである.デキゴトがないのに,どうしてその主体があるだろうか.主体がないのにどうしてそのデキゴトがあるのだろうか.

 

すなわち,一切の見るハタラキ等より以前にそれに先行して存在するような何ものも存在しない.見る主体とは,見るハタラキによって,それと時を異にし,それを想定する機会に応じて出現せしめられるにすぎないのである.

 

もし,一切の見るハタラキよりも先行して存在するような主体が存在しないのであれば,どうして見るハタラキ等の一つ一つよりも前に先行して存在するイノチあるモノが現にありえようか,とある人々はいうのである.

 

しかしもし,かれがすなわち見る主体であり,聞く主体であり,色・かたち・名をもるモノどもを現に感受する主体であるのならば,かれは,見るハタラキよりも以前にそれに先行して存在することになるであろうが,このようなことは理に合わない.

 

またもし,見る主体と聞く主体と感受する主体とが,それぞれ互いに異なる別個のモノであるならば,見る主体が存在しているときに,それとは別に聞く主体もまた存在することであろう.そうだとすると,主体であるアートマンが多数あるということになってしまうであろう.

 

もし,また見るハタラキや聞くハタラキなど,およそ感受するハタラキなどが,地・水・火・風・空などの諸要素から生じてくるのだとするにしても,それらの諸元素のうちには,イノチあるモノの主体であるアートマンなどは存在しない.

 

およそ,もし見るハタラキや聞くハタラキなど,およそ感受するハタラキがそれに属するところの主体であるアートマンが存在しないのなら,これら見るハタラキもまた存在しないのである.

 

およそ,見るハタラキなどより以前にも,同時にも,また以後にも存在しないような,そのようなアートマンについては,イノチあるモノとしてあるとも,イノチあるものでないともいえないのである.

 

[アートマンを論ずる]

もし,アートマンが,イノチあるモノの五つの構成要素である色・受・想・行・識なる五蘊と同一であるならば,アートマンは,生と滅とを有することになるであろう.もし,アートマンがこれら五蘊と別異であるならば,アートマンは五蘊としての性質を全くもたないモノになるであろう.

 

アートマンが存在しないときに,どうしてアートマンに属するようなモノが存在するであろうか.アートマンと,アートマンに属するモノとが消滅することによってはじめて,人は,この身体は我がモノであるとか,自我なるアートマンがこの世の現象から離れて存在する,という思いから離れることになるであろう.

 

この身体は我がモノであるとか,この世の現象から離れてアートマンが存在するという思いをもろともに棄てるものは,この世の真実を見るであろう.この身体は我がモノであるという思いと,この世の現象からはなれてアートマンが存在するという思いを,もろともに棄てることができる人はまことに希有である.

 

外なるモノに対しても,内なるココロに対しても,これは我がモノであるとか,これがアートマンである,とかいう観念が滅したときにはじめて,あらゆるモノやココロに対する執着や差別は取り除かれるのである.執着するココロである煩悩が滅することによって,この身もまた滅するのである.

 

悪しき行いの結果である業と,ココロの煩悩が断滅せられることによって解脱がある.悪しき行いの結果である業と,ココロを苦しめる煩悩とは,モノとココロを分離し差別しそれに執着する思考から起こるのである.それらの差別や執着とは,戯論から起こるのである.しかし,戯論は,一切の事物の本質はコトバであり,空である,と覚れば滅せられるのである.

 

もろもろのブッダは,アートマンがあると仮説もし,アートマンがない,とも説き,アートマンはなく,アートマンがないのでもない,と説いたのであった.

 

ココロの対象であるモノが滅するときには,コトバの対象もまた滅する.しかしコトバにおける真理である,空,とは生ずることもなければ滅することもないのであり,実にニルヴァーナのごとくである.

 

一切はそのように真実である,一切はそのように真実ではないのである,一切はそのように真実でありまた真実でないのである,一切はそのように真実ではないしまたそのように真実でないのでもないのである,これがもろもろのブッダの教えである.

 

他に依って知られるのでもなく,静かに安らいでおり,戯論によって戯論されることなく,いささかも現実と分離されずして,多義でもない,これが真実であるコトに他ならない.

 

これあるがゆえにかれがあるならば,実に,かれはこれではない.また,かれはこれと異なるのでもない.それゆえに,常住するのでもなければ,断滅するのでもない.

 

もろもろの事物は,同一のモノではなく,別異なるモノでもなく,断滅するモノのでもなく,常住するモノでもない.これが,世の人々の師であったもろもろのブッタの教えである.

 

もろもろのブッダが生ずることもなく,またもろもろのアラハットたちが存在しないときにおいても,もろもろの一人で覚りをうる人々である独覚者たちの智慧が,これこれが我がモノであるとの執着を離れており,これこれが我がココロのアートマンであるなどの差別をしないことにより起こるのである.

 

[「火と薪」の譬えにおいて「行」と「業」を論ずる]

もし,「薪がすなわち火である」というのであれば,行いの主体と行いの結果である業とは,同一であることになるであろう.またもし,「薪と火は全く別異のモノである」というならば,薪を離れて火というモノが存在する,ということになるであろう.

 

もし,「薪と火は全く別異のモノである」とするならば,火は,薪という燃える原因をもたないモノになり,永久に燃えているコトが可能になるであろう.さらに,薪に火をつけることは無意味となるであろう.また,火は薪を燃やす作用を全くもたないモノになるであろう.

 

かくして,火は,他のモノに依存することがないから,燃える原因をもたないモノとなり,常に燃えており,火をつける努力も無意味となる,という誤りが付随するのである.

 

もし,この燃えつつあるモノが薪であるというならば,その薪がただ燃えつつあるのみであるとき,その薪は何によって燃やされうるのであろうか.

 

もし,「薪と火は全く別異のモノである」とするならば,薪は火によって到達されることはないであろう.火によって到達されないモノは燃えないであろう.燃えないモノは消えないであろう.消えないモノは自らの性質を保ったままで持続するであろう.

 

もし,薪とは全く別異のモノである火が薪に到達するのであれば,それはこの人がかの人に至り,またかの人がこの人に至るようなものである.

 

もし,火と薪の両者が互いに離れた別のモノであるならば,薪と異なる火は,随意に薪に到達するであろう.

 

もし,薪に依って火があり,また火に依って薪があるのであれば,いずれが先に成立していて,それに依って火があり,あるいは薪があるのであろうか.

 

もし,薪に依って火があるのであれば,薪はすでに成立している火を重ねて成立させることになるであろう.また,火のない薪も存在するということになろう.

 

このモノが,他のかのモノに依って成立するのに,他のかのモノによってこのモノが成立している.もし,他のかのモノに依るこのモノが,他のかのモノより先に成立するものであれば,このモノとかのモノとのいずれが,いずれに依ってあるというのであろうか.

 

他のかのモノに依って成立するこのモノは,未だに成立していないはずなのに,どうして他のかのモノに依るのであろうか.またもし,すでに成立しているこのモノが他のかのモノに依存するとすれば,このモノが新たに他のかのモノに依存することは理に合わない.

 

火は薪に依ってあるのではない.火は薪に依らずしてあるのでもない.薪は火に依ってあるのではない.薪は火に依らずしてあるのでもない.

 

火は薪以外の他のモノからくるのではない.しかし,火は薪の中には存在しないのである.この薪が火として燃えるという事実に関し,その他のことは,今現に去りつつあるイノチあるモノ,すでに過ぎ去ったイノチあるモノ,未だ過ぎ去ることのないイノチあるモノについての論考において,説明され終わった.

 

さらに,火は薪ではない.また,火は薪とは,異なる別のところにあるのでもない.火は薪を所有するのではない.また,火のうちに薪があるのでもない.また薪のうちに火があるのでもない.

 

イノチあるモノの主体であるとされるアートマンなるモノと,その執着の対象である身体というモノとの,全ての関係が,瓶や衣などとともに,火と薪の譬えにおいて,ここに残りなく説明されたのである.

 

アートマンとは身体を有するモノであると考えたり,しかも,もろもろのイノチあるモノがそれぞれ別異であるとして,これまた説き立てるような人々については,ブッダの教えの意味に精通している人々であると考えることは,私にはできないのである.

 

[「生死」を論ずることによって論難に答えよう]

偉大な師であった人,ブッダは,イノチあるモノの生死の始まりは知られない,と説いたのであった.実に,生死の繰り返しは無始無終であり,イノチあるモノの生死には始まりもなく,また終わりもないからである.

 

イノチあるモノの生死に始まりもなく終わりもないのに,どうして,その中間が存在するというのであろうか.それゆえに,イノチあるモノにおいて,その前もその後も,その中間である同時も成立しえないのである.

 

もしイノチあるモノの生まれるコトが以前にあって,老・病・死が以後にあるのであるならば,老・病・死のないモノが生まれるコトがある,ということになるだろう.すると,不死なる人が生まれるということにもなるであろう.

 

もし,イノチあるモノの老・病・死が前にあって,その後に生まれるコトがあるのであれば,その老・病・死は,原因のないモノとなるであろう.未だ生まれることのないモノにおいて,どうしてそのような原因のない老・病・死があるのであろうか.

 

さて,生まれるコトが老・病・死とともに同時にあるということは,理に合わない.もしそうであるならば,今現に生まれるモノが即刻に老い・病み・死ぬということになるであろう.また,生まれるコトと,老・病・死との両者は,原因を有しないモノとなるであろう.

 

以前である,以後である,同時である,というコトの起こりえないような生まれるコトと老・病・死において,どうして人々は,それら,生まれるコト,老いるコト,病むコト,死ぬコトを,まるで実体であるかのごとくに妄想して議論するのであろうか.

 

生・老・病・死の繰り返しにおいては,その本当の始まりが存在しないばかりではなく,その原因とその結果,モノの本質と本質をもつモノ,感受するモノと感受されるモノ,および,いかなるモノであろうと,その前に,究極の始原といわれるようなモノは全く存在しないのである.

 

[「苦しみ」を論ずる]

イノチあるモノの苦しみとは,本人自らによって作られたモノである,他者によって作られたモノである,両者によって作られたモノである,また,無原因である,とある人々は主張する.しかし,イノチあるモノの苦しみがこのように作られるというのは正しくない.

 

もし,苦しみが本人自らによって作られるのであれば,苦しみは,縁ってあるのではない,ということになるであろう.この色・受・想・行・識なる五つの要素である五蘊が縁となって,かれなる五つの要素があるにもかかわらず.

 

もし,これらの要素が,かれなる要素と異なるのであれば,あるいは,これらの要素が,かれなる要素と別の他のモノであるならば,これら他のモノによって作られる苦しみがあるであろう.なぜなら,かれなる要素は,他のモノであるこれなる要素によって作られることになるのであるから.

 

もし,苦しみが,自らなる個人の本質といわれるプトガラなるモノによって作られるのであれば,苦しみを作るところの,プトガラなるモノが,苦しみを離れて別に存在しうるはずがあろうか.

 

もし,苦しみが,他人なる個人のその本質であるといれるプトガラから生ずるのであれば,そしてその苦しみが,自らのプトガラに与えられるのであれば,そのような自らのプトガラは,苦しみを離れて,どうして存在しうるであろうか.

 

もし,苦しみが,他者のプトガラから生ずるのであれば,その苦しみを作って,しかも他人に与えるという,いかなる他者のプトガラが,その苦しみを離れて,別に存在しうるのであろうか.

 

苦しみが,本人自らによって作られるということが成立しないのなら,どこに他人によって作られた苦しみが存在するであろうか.なぜなら,他人が作る苦しみとは,その人にとっては,本人自らによって作られる苦しみに他ならないのであるから.

また,苦しみとは,その苦しみそれ自体によって作られたモノではない.なぜなら,イノチあるモノがそれ自体から作られるということはないのであるから.また,他人の苦しみが他人の苦しみ自体から作られたモノでないならば,他人の苦しみがどうして存在しうるであろうか.

 

もし,一人一人によって作られた苦しみが存在するのであれば,自他の両者によって作られた苦しみもまた存在するであろう.しかし,苦しみが,他人によって作られたものでもなく,本人じしんによって作られたモノでもないのであるからといって,原因のない苦しみなどが,いったい,どこにあるであろうか.

 

イノチあるモノの苦しみが作られることについて,これら四種類の,自らが作るコト,他が作るコト,自他が共に作るコト,原因なく作られるコトの成立は認められないばかりではなく,世界の諸事象の成立についても,これら四種類のデキゴトの成立はありえないのである.

 

[「もろもろの形成されたモノ」である一切の諸行を論ずる]

およそ,ココロによって執着されたモノどもは虚妄である,とブッダは説いた.もろもろの形成されたモノどもであるところの一切の諸行とは,ココロによって執着されたモノである.ゆえに,それら一切の諸行とは,虚妄である,と愚かにも説く人がいる.

 

もし,およそココロによって執着されたモノどもの全てが虚妄であるならば,それらのモノどもに執着することはありえないであろう.ところで,このコトはブッダによって説かれたが,それは,一切はコトバの本質であり空なのである,というコトを明らかにするためであった.

 

もろもろの事物について,モノの恒久不変な本質が存在しないコトが成立する.なぜなら,もろもろ事物について,生成運動変化消滅するコトが認められるからである.かといって,モノの本質をもたないモノは一切存在しえないのである.なぜなら,もろもろのモノには,コトバの本質であるところの空である,という事態が成立しているからである.

 

もし,そのモノの恒久不変な本質が存在しないのならば,何ものにおいて,生成運動変化消滅するコトがあるであろうか.また,もしモノの恒久不変な本質が存在するならば,何ものにおいて,それが生成運動変化消滅することがあるであろうか.

 

モノの本質は,生成運動変化消滅するコトがない.また,他のモノにおいても生成運動変化消滅するというコトは当てはまらない.なぜなら,青年は未だに老年でないから老いることがなく,老年はすでに老年であるから老いることがないのであるから,と説く愚かな人がいる.

 

もし,モノそれ自体なるモノに生成運動変化消滅するというコトがあるならば,例えば,乳そのモノは乳であるコトを棄てずしてヨーグルトになるであろう.また,乳とは異なる何ものかについて,それが水であるコトを棄てずして,ヨーグルトになるようなコトもありうるであろう.

 

もし,何か不空そのモノのであるようなモノが現にあるとすれば,その否定であるところの空そのモノであるようなモノも現にあるであろう.しかるに,不空そのモノであるようなモノは現に存在しない.どうして空そのモノであるようなモノが現にあるであろうか.

 

一切のモノどもへの執着を脱するために,すぐれた人であるブッダによって,コトバの本質である空,が説かれたのであった.しかるに,人がもし,一切の諸行は虚妄であると信じたり,一切の諸行は現に生成運動変化消滅することがない,というような愚かな空見を抱くならば,すぐれた人であるブッダは,そうした人々をして「癒されない人々」である,と呼んだのであった.

 

[「関係するコト」を論ずる]

見るモノ,見るというコト,見られるモノ,これらの三つは,おのおの,見るモノと見るハタラキ,見るハタラキと見られるモノとをとってしても,また全体としても,相互に結合して一体化するには至らないのである.

 

貪るモノ,貪るコト,貪られるモノもまた,同様に見られるべきである.その他のもろもろの煩悩も,またその他の諸領域も,これらの三つの関係と同様であると見られるべきである.

 

このモノとかのモノという互いに異なったモノが結合して一体化するとしよう.しかし,見られるモノなどの三つは,互いに異なるモノではない.したがって,それらは結合して一体化するには至らない.

 

ただたんに,見られるモノなどが互いに異なるモノであることがありえないばかりではなく.いかなるモノにとっても,いかなるモノとも異なるモノであることはありえないのである.

 

互いに異なるモノであるこれとかれにおいては,これは,かれに縁ってかれとは異なるモノになっているのであって,かれがないなら,かれと異なるモノではありえない.したがって,かれに縁ってこれがあるのであるから,これなるモノはかれなるモノと異なるモノではありえないのである.

 

この瓶は,かの瓶とは別のモノなのであるから,この瓶とかの瓶とは異なったところが全くないにしても,異なるモノであると思われるかもしれない.しかし,この瓶は,かの瓶なくしてはかの瓶と別のモノであるコトはありえないのであるから,かの瓶と異なるモノではありえないのである.

 

異なるというコトは,すでに,異なるモノのうちには存在しえない.もちろん,異なるコトが,異ならないモノのうちには存在しない.このように,異なるというコトは,どこにも存在しないのであるから,異なるモノも存在しない.いわんや,同一であるようなモノも存在しないのである.

 

このモノがこのモノじしんと結合して一体化することはありえない.異なるモノである二つのモノが結合して一体化するコトも理に合わない.すなわち,今,結合しつつあるモノも,すでに結合したモノも,これから結合するモノも,ありえないのである.

 

[「イノチあるモノその自体」を論ずる]

イノチあるモノそれ自体が,因と縁によって生ずるということはありえない.因と縁によって生じたイノチあるモノそれ自体とは,形成されたモノである,ということになるだろう.

 

また,どうしてイノチあるモノそれ自体が,そもそも形成されたモノでありえようか.イノチあるモノそれ自体が,作られたモノではないモノであって,他のモノに依存しないモノなのであるから.

 

自らのイノチあるモノそれ自体なるモノが存在しないのなら,どうして他者のイノチあるモノそれ自体なるモノが存在するであろうか.なんとならば,他者のイノチあるモノそれ自体が,他者のイノチあるモノそれ自体であるからである.

 

さらに,自らのイノチあるモノそれ自体と,他者のイノチあるモノそれ自体を離れて,どこにイノチあるモノが成立しえようか.なんとならば,自らのイノチあるモノそれ自体や,他者のイノチあるモノそれ自体が現にあるときにこそ,イノチあるモノが成立するのであるから.

 

イノチあるモノそれ自体なるモノが成立しないならば,イノチあるモノの否定もまた成立しないのである.なんとならば,イノチあるモノの壊滅をこそ,人々は虚無と呼ぶのであるから.

 

自らのイノチあるモノそれ自体と,他者のイノチあるモノそれ自体,そして,イノチあるモノと,そのイノチあるモノの壊滅である虚無を見る人々は,ブッダにおける真理を見ることがないのである.

 

「カーティヤーナへの教え」という経において,イノチあるモノそれ自体があるとか,イノチあるものそれ自体がない,という論の両者が,すなわち,イノチあるモノそれ自体とか,その全てがイノチなきモノである虚無とは,ブッダによって否定されたのであった.

 

もしも,モノの本質がイノチあるモノであるならば,そのモノには虚無ということはありえないであろう.なんとならば,モノの本質が変化するということはありえないからである.

 

モノの本質が現にイノチのないモノであれば,何ものにおいて壊滅がありうるであろうか.またモノの本質が現にイノチのあるモノであるならば,何ものにおいて壊滅があるであろうか.

 

モノの本質にはイノチあるモノがある,というのは常住に執着する偏見であり,モノの本質にはイノチあるモノがない,というのは断滅に執着する偏見である.ゆえに,善知識たらんとする者は,モノの本質にはイノチあるモノそれ自体があるとか,イノチあるモノそれ自体がないのである,という偏見に執着してはならない.

 

その本質においてイノチのあるモノそれ自体は,存在しないのではない,というのは常住に執着する偏見にすぎない.以前にそれなるモノが存在したかもしれぬが,今は存在しない,というのも断滅に執着する偏見にすぎないのである.

 

[「輪廻と解脱」を論ずる]

もし,もろもろの形成されたモノである一切諸行の輪廻について論ずるならば,それが常住であれば,生死なく,輪廻もしないことになり,また無常であるならは,やはり輪廻しないことになるであろう.あらゆるイノチあるモノどもについても,この次第は同じであろう.

 

もし,個人を個人たらしめるプトガラが輪廻するというのならば,それを五つの要素である五蘊に探し求めてみるがよい.身体のあらゆる領域や構成要素のうちにおいて,その五つの要素にそれを探し求めても,プトガラなる個人を個人たらしめるモノは何ら存在しないのである.しからば,世の何ものが輪廻するのであろうか.

 

ブトガラを構成しまた執着の対象でもある五蘊から,他の五蘊へと輪廻していく者は,その中間において,生きているモノである形態すらを一切もたないモノになるであろう.では,生きているモノでなく,それが執着する対象である五蘊を持たぬモノとはいかなるモノであろうか.また,それは生死を離れて,どのように輪廻するのであろうか.

 

かくして,もろもろの形成されたモノである一切の諸行において,ニルヴァーナは決して起こりえないであろう.また,イノチあるモノどもにおいても,ニルヴァーナは一切起こりえないのである.

 

もろもろの形成されたモノである一切の諸行は,生成運動変化消滅の相を有するのであるから,輪廻に束縛されもせず,解脱すらもしないであろう.現にイノチあるモノ全ては,輪廻に束縛されることもなく,解脱すらもしないであろう.

 

もし,五蘊に執着することがすなわち生死であり,輪廻への束縛であるとするならば,すでに五蘊に執着して生死するモノが,さらに輪廻に束縛されることはありえないし,五蘊に執着することのないモノも,すでに生死を離れており,輪廻に束縛されることはないのである.しからば,いかなる状態にあるモノが輪廻に束縛されるというのであろうか.

 

もし,輪廻に束縛されるモノより以前に,それに先行して輪廻の束縛があるのならば,その輪廻の束縛は,束縛可能なあらゆるモノどもを束縛するであろう.しかるに,そのような束縛は存在しないのである.他のコトどもは,今現に過ぎ去りつつあるモノ,すでに過ぎ去ったモノ,未だに過ぎ去るコトのないモノを論ずるにおいて,説明され終わったのであった.

 

また,すでに生死にあって輪廻に束縛されたモノどもは,解脱するコトがない.未だ輪廻に束縛されないモノが解脱することもない.もし,すでに輪廻に束縛されたモノが,現に解脱しつつあるのであるならば,輪廻の束縛と解脱が同時であることになるであろう.

 

我こそは五蘊に対して執着のないモノとなって,ニルヴァーナに入るであろう,私には必ずニルヴァーナがあるであろうと,という類の見解を有する人には,ニルヴァーナに執着するという大きな囚われがあるのみである.

 

ニルヴァーナは必ずある,と想定することもなく,生死の束縛はない,とことさら生死を否定することもない,そうしたところでは,いかなる生死,いかなる輪廻の束縛,いかなるニルヴァーナがあるというのであろうか.

 

[「業と果報」においてナーガールジュナを難論する]

自らを制し終えており,他者を守り利益する慈悲のココロとは,すなわち法にかなった行いであり,業なのであり,それがこの世とかの世において,果報を受ける種子なのです.

 

あらゆる行為の結果である業においては,ココロの中で思うコト,ココロの中で思ってから表面に現れたモノがある,といわれ,またその行いには多くの区別がある,とすぐれた人であるブッダによって説かれたのであります.

 

そのうちで,ココロの中に思うという行為は,意志に関するだけのモノである,と伝えられております.それに対して,ココロの中で思ってから表面に現れたコトといわれるモノには,身体に関するモノと,コトバに関するモノがある,と考えられております.

 

コトバによる行いと,身体を使った動作と,煩悩からいまだに離れていないココロの内部の行いと,同様に煩悩から離れている他のもろもろの内部の行いと.

 

また,善い果報をもたらす功徳ある善き行いと,悪い報いをもたらす悪徳である悪しき行いと,さらに,それらを支配するココロのハタラキと,これらの七つモノが,業と呼ばれる法(ダルマ)なのであります.

 

もし,その行いの結果である業が,果報が熟するときに至るまで持続して住しているならば,それは常住であるということになるでしょう.しかし,行為の結果である業が滅び去ってしまったならば,すでに滅び去ってしまったモノが,どうして果報を生じるでしょうか.

 

芽にはじまる植物の相続性は,種子から現れ出て,それから果実が現れ出るのであれば,その相続性は,種子がなくしては現れ出ないでありましょう.

 

種子から一つの植物への相続が起こり,またその相続から果実が生ずるのです.先に種子があって,それに基づいて果実が現れ出るのですから,それゆえに,種子は,断滅するのでもなければ,また常住するのでもないのです.

 

ココロからココロへの相続性が現れて出て,その相続性から果報が現れ出るのです.その相続性とは,先にココロがあってこそ現れ出るのです.

 

ココロからココロへの相続が生じて,その相続から果報が生じるのです.先に,ココロの行いの結果,つまり業があってはじめて,果報が生ずるのです.ココロに淵源する行いの結果である業は,断滅するのでもなければ,常住するのでもないのです.

 

十種の白く浄らかな行いの結果である業の道こそが,法にかなった行いを成立させる手段なのです.法にかなった行いの,この世とかの世とにおける果報とは,五つの欲の享受である,といわれております.

 

もし,このような分別がなされるのであれば,そこには多くの過失があり,それゆえに,こうした分別は成り立たない,とあなたは言い立ててきた.

 

それを正そうとして,もろもろのブッダ,一人で覚りを開く人,さらにはブッダの法を聞いてそれを忠実に守ろうとする人々によってほめたたえられる分別を,私は説こうとするのです.

 

行いの結果である業の果報を保ちつづけ,業が消えてもなおその果報を失わない不失法とは,借金の証文を有するようなものなのであります.業とは,こうした借金を有するようなモノなのであります.その不失法とは,その領域に関していえば,四種類なのであって,それぞれ欲界,色界,無色界,無漏界にわたっております.また,その本性にかんしていえば,無記なのであって,善でもなく,悪でもないのです.

 

これなる不失法である業とは,四つの真理である苦・集・滅・道の段階においてただちに断滅せられるモノではなく,道を発見したあとでいくども反復し,修習する段階においてようやく断滅されるのであります.それゆえに,不失法においてはじめて,もろもろの業は果報を生じるのであります.

 

もし,不失法である業が,道を発見したことによってただちに断滅されるのであれば,あるいは,業の転移によって断ぜられるのであれは,業の破壊という誤りが付随するでありましょう.

 

また,現に,ココロにおいて個人の記憶の相続が烏滸な,また,個人の記憶の相続によって果報の生起があり,果報は業に基づくのですから,業とは,断滅することなく,また常住することもないのです.

 

しかるに,この不失法という原理であるダルマにおいては,現在において,二種類であるすべての業の一つ一つについて,一つ一つ生ずるのです.そして,それは,業の果報が熟したときにも,なお存続しているのであります.

 

その不失法とは,果報の享受を終えて,あるいは死んだあとで滅するのです.そのときに,煩悩のないモノは無漏として,煩悩のあるモノは有漏として,区別されるのです.

 

[「空」を宣説することによって論難に答えよう]

ブッダによって説かれた,業は消滅しない,業とは不失法である,という原理とは,業とはコトバによる行いの結果であり,畢竟はコトバの本質である空に帰する,といわれるゆえんなのあって,断滅することなく,輪廻のうちにあるのであって,しかも常住ではない,といわれるそのゆえんなのである.

 

なぜ,業は生じないのか.業とは固有の本質をもたないモノなのであるから.またそれは,生じないのであるから,滅することもないのである.

 

もし,業がそれ自体として存在するならば,それは疑いもなく常住であろう.また,業は,形成されたモノではないということになるであろう.なんとならば,常住なるモノは,形成されるコトがないからである.

 

もし,業が形成されたモノでないならば,人は何をしなくても,清浄でない行いの報いを受けることになるであろう.この説においては,清浄な行いを実行しないのに,清浄でない行いの報いを受けるという誤りが付随するであろう.

 

それは,一切の世の中のコトバに依る諸活動と,全く矛盾することになることは疑いないのである.また,善をなした人と悪をなした人の,区別が全く立てられないことになるだろう.

 

もし,業が確立してあるモノであるから,業はそれ自体において存在するのであるというならば,果報を受け終わった業が,さらになお新たな果報を受けるということになるであろう.

 

この業とは,煩悩をその本質としているのであり,もろもろの煩悩とは,その本性においては真実には存在しないのであり,コトバの本質である空なのである.もし,それらの煩悩がその本性において真実に存在しないのであるならば,どうして業が,その本性において真実に存在するであろうか.

 

もろもろの業と,もろもろの煩悩とは,もろもろの身体が存在するためのもろもろの縁なのである,とブッタによって説かれている.もし,業ともろもろの煩悩がコトバの本質である空であるならば,身体に関して,いまさら何を説く必要があるのであろうか.

 

現にイノチあるモノどもは,無知に覆われており,妄執に束縛されているのである.かれらは,業の報いを受けるモノどもである.また,かれらは,業の原因であるその行いの主体であると異なるのでもないし,また,それと同一なのでもない,とあなたは言い立てるかもしれない.

 

かれらの業とは,縁に依って生起したモノではないし,縁に依って生起したモノでないモノから生起したモノでもないのである.それゆえに,行いの主体なるモノもまた存在しないのである.

 

もし,業が存在せず,行いの主体であるモノもまた存在しないのであるならば,業から生ずる報いが,どうして存在するのであろうか.また,報いが存在しないのであるならば,業の報いを受けるモノが,どうして存在するのであろうか.

 

あたかも,ブッダは,神通力を具えているので,その神通で現出される人を幻出し,その幻出された変化人が,またその変化人を幻出するようなものである.

 

そのように,業の原因であるところのコトバに依って行いをなすモノとは,最初の変化人のありかたを示しているにすぎない.したがって,最初のコトバによる行いの主体によって形成されたにすぎないいかなる業とても,いわば変化人によって幻出された他の変化人のようなモノなのである.

 

もろもろの煩悩も,もろもろの業も,またもろもろのコトバを根源としてそれを行う主体も,その業によるもろもろの報いも,すべては蜃気楼のようなありかたをしており,陽炎や夢のごとくである.

 

[「三時」を論ずる]

もし,現在と未来が,過去に依ってあるならば,現在と未来は,過去のうちにあるであろう.

 

もしまた,現在と未来が,過去のうちにないならば,現在と未来は,どうして過去に依ってあるのであろうか.

 

さらに,過去に依ってないのならば,現在と未来が成立することはありえない.それゆえに,現在と未来なるモノは存在しないのである.

 

このような観点に基づき,順次,現在に依らなければ,未来に依らなければ,という観察がなされるべきである.そしてまた,上と下とその中間とにおいても,また一つであるコトから派生する数においても,同様になされるべきである.

 

現に住していない時である過去の未来は全く認識されえない.住しており,しかも現に認識されうる時である現在は,いかなるモノとしても存在しない.いわんや,認識されえない時である過去と未来とが,どうして知られるのであろうか.

 

もし,なんらかのモノに縁って時があるのであれば,そのモノを離れてどうして時が存在するであろうか.しかるに,いかなるモノも存在しないのである.どうして時が存在しうるであろうか.

 

[「原因と結果」を論ずる

もし,イノチあるモノの原因と,もろもろの縁って起こるコトとの和合によってはじめて,イノチあるモノという結果が生じるのであれば,しかも,その結果が和合のうちにあるとすれば,結果はどのようにして和合によって生ずるのであろうか.

 

もし,イノチあるモノの原因と,もろもろの縁って起こるコトとの和合によってはじめて,イノチあるモノという結果が生じるのであれば,しかも,その結果が和合のうちにないとすれば,結果はどのようにして和合によって生ずるのであろうか.

 

もし,イノチあるモノの原因と,もろもろの縁って起こるコトとの和合によってはじめて,イノチあるモノという結果が生じるのであれば,その結果は和合のうちに認識されるはずであろう.しかし実際には,その結果は和合のうちに認識されないのである.

 

もし,イノチあるモノの原因と,もろもろの縁って起こるコトとの和合のうちに結果がないのであれば,もろもろの因ともろもろの縁とは,もろもろの因縁ならざるモノどもと全く等しくなってしまうであろう.

 

もし,イノチあるモノの原因が,イノチあるモノという結果に,その原因となるモノを与え終わって消滅するのであるならば,与えられたモノと消滅したモノという,二つのイノチあるモノの原因であるようなモノが存在する,ということになるであろう.

 

もし,イノチあるモノの原因が,イノチあるモノという結果に,そのイノチの原因となるモノを与えずに消滅するならば,その原因がすでに消滅し終わってから生じたであろうその結果は,無原因のモノとなるであろう.

 

またもし,イノチあるモノという結果が,和合とともに現れ出るのであれば,生ずるモノと生ぜられるモノとが同一時のモノである,という誤りが付随するであろう.

 

またもし,和合するコト以前に,それに先行してイノチあるモノという結果が現れ出るのであれば,その結果は,因と縁とを離れた,無原因のモノとなるであろう.

 

もし,イノチあるモノの原因が消滅した,まさにそのときにイノチあるモノという結果があるのであれば,イノチあるモノの原因がそのまま転移したことになってしまうであろう.また,その先にすでに生じ終わったはずのイノチあるモノの原因が再生した,という誤りが付随することになろう.

 

すでに消滅してしまっているモノが,どうしてすでに生じている結果を生じうるであろうか.また,すでにイノチあるモノとしての結果と結合している,イノチあるモノの原因も,どうしてイノチあるモノという結果を生じうるであろうか.

 

また,イノチあるモノという結果と結合しない,このイノチあるモノという原因が,いずれの結果を生じうるであろうか.なんとなれば,イノチあるモノの原因は,イノチあるモノという結果を見ないで,イノチあるモノという結果を生じるのではないし,またイノチあるモノという結果を見終わってからイノチあるモノという結果を生じるのでもないからである.

 

そもそも,過ぎ去った結果が,実に,過ぎ去った原因と相い合することは決してありえない.また,それが未だに生じないモノや,すでに合しているモノと相い合することも決してありえない.

 

そもそも,現に生じている現在の結果が,未だ生じない原因と相い合することは決してありえない.またそれが,過去のモノや現在に生じているモノと相い合することも決してありえない.

 

そもそも,未だ生じない未来の結果が,現に生じている原因と相い合することも決してありえない.またそれが,未だに生じないモノや,すでに滅びたモノと相い合することも決してありえない.

 

相い合することがないのに,どのようにして,イノチあるモノの原因は,イノチあるモノという結果を生じうるのであろうか.また,相い合することがあるときに,どのようにしてイノチあるモノの原因が,イノチあるモノという結果を生じうるのであろうか.

 

もし,イノチあるモノの原因が,イノチあるモノという結果について空であるならば,どのようにして,イノチあるモノという結果を生じうるのであろうか.またもし,イノチあるモノの原因が,イノチあるモノという結果について不空であるならば,どのようにしてイノチあるモノという結果を生じうるのであろうか.

 

不空なるイノチあるモノという結果は生起しないであろう.不空なるイノチあるモノという結果は消滅しないであろう.不空なるイノチあるモノという結果は,不生であり,不滅である,ということになるであろう.

 

空であるイノチあるモノとしての結果は,どのように生起するのであろうか.空であるイノチあるモノとしての結果は,どのように消滅するのであろうか.空であるそれもまた,不生であり,不滅である,という誤りが付随するのである.

 

そもそも,イノチあるモノの原因とイノチあるモノとしての結果が同一であるということは,決してありえない.そもそも,イノチあるモノの原因とイノチあるモノとしての結果が異なることも,決してありえない.

 

もし,イノチあるモノの原因とイノチあるモノの結果が同一であるならば,生ずるモノと生ぜられるモノが,一体になってしまうであろう.またもし,イノチあるモノの原因と,イノチあるモノの結果が異なるならば,そのイノチあるモノの原因はイノチあるモノの原因ならざるモノになってしまうであろう.

 

イノチあるモノそれ自体としてすでに実在している,イノチあるモノとしての結果を,イノチあるモノの原因は,どのようにして生ぜしめるのであろうか.イノチあるモノその自体としては実在していない,イノチあるモノとしての結果を,イノチあるモノの原因はどのように生ぜしめるのであろうか.

 

また,イノチあるモノとしての結果を生じないモノが,イノチあるモノの原因となることはありえないのである.そして,イノチあるモノの原因が成り立たないならば,何ものについて,イノチあるモノという結果が生じるのであろうか.

 

もろもろの因ともろもろの縁が和合して,みずからのイノチあるモノそれ自体を生ずることがないならば,たとえ,それが和合しても,どうしてイノチあるモノという結果を生ずることがあろうか.

 

和合によって形成されたイノチあるモノとしての結果は存在しない.和合によって形成されたのでもないイノチあるモノとしての結果もまた存在しない.イノチあるモノとして形成された結果が存在しないのに,もろもろの和合がどうして存在するのだろうか.

 

[「生成と壊滅」を論ずる]

イノチあるモノの生成を離れても,あるいは,その生成とともにあるにしても,イノチあるモノの壊滅はありえない.イノチあるモノの壊滅を離れても,あるいは,その壊滅と共にあるにしても,イノチあるモノの生成はありえない.

 

そもそも,イノチあるモノの生成を離れて,どうしてイノチあるモノの壊滅がありうるであろうか.もし,そのようなイノチあるモノの壊滅があるとすれば,生まれなくても死ぬ,ということがあるであろう.イノチあるモノの壊滅は,イノチあるモノの生成を離れては存在しないのである.

 

イノチあるモノの壊滅がどうしてイノチあるモノの生成と共に存在するであろうか.なんとならば,死ぬコトと生まれるコトとは,決して同時にはありえないからである.

 

そもそも,イノチあるモノの壊滅を離れて,どうしてイノチあるモノの生成がありうるであろうか.なんとならば,もろもろのイノチあるモノについて見ると,いかなるときにも無常性が存在しないというわけではないのであるから.

 

イノチあるモノの生成が,どうしてイノチあるモノの壊滅と共に存在するであろうか.なんとならば,イノチあるモノが生まれるコトと,イノチあるモノが死ぬコトは,決して同時にはありえないからである.

 

およそ,互いに共にあるにしても,互いに離れてあるにしても,存在することのない二つのモノが,一体,どのようにして存在するのであろうか.

 

壊滅したモノには生成はありえない.壊滅しないモノには生成はありえない.壊滅したモノには壊滅はありえない.壊滅しないモノには壊滅はありえない.

 

イノチあるモノを離れては,イノチあるモノの生成も,イノチあるモノの壊滅もありえない.また,これらの生成と壊滅を離れては,イノチあるモノはありえない.

 

空なるモノには,生成も壊滅もありない.また,空ならざるモノにも,生成も壊滅もありえない.

 

生成と壊滅が同一であるコトはありえない.また,生成と壊滅が異なるというコトもありえない.

 

あなたにとっては,生成も壊滅も現にみられている,と考えられるであろう.しかし,それらは,愚かな迷いによって,そう見られているにすぎないのである.

 

あるモノは,あるモノから生ぜしめられることはない.あるモノは,無から生ぜしめられることはない.無から無が生ぜしめられることはない.あるモノから無が生ぜしめられることもない.

 

あらゆる事物は,それじしんからは生じない.他のモノからも生じない.それじしんと他者の両者からも生じない.しからばそれは,一体なにモノから生ずるのであろうか.

 

モノ(法)の実在を承認する人には,そのモノは常住である,と考える偏見と,そのモノは断滅する,と考える偏見が付随して起こるであろう.なんとならば,そのモノは常住であるか,無常であるかのいずれかであろうから.

 

モノが実在する立場(法有)を承認している人々にとっても,断滅というコトもないし,また常住ということもないのである,といわれる.なんとならば,われわれのこの生存とは,原因と結果が生じては滅する,ということの相続なのであるから,といわれるからである.

 

しかしもし,イノチあるモノの原因とイノチあるモノとしての結果が,生じては滅するコトの相続が,われわれのこの生存に他ならないのであれば,消滅したイノチあるモノが,さらに再び生ずるコトは全くないのであるから,原因の断滅,という誤りが付随するであろう.

 

イノチあるモノそれ自体として,すでに実在するモノが非実在になるということは,全く理に合わない.また,ニルヴァーナの時には,イノチあるモノの生存の相続は静かな安らぎに帰するのであるから,生存の相続もまた断滅する.

 

最後のイノチあるモノが滅したときに,最初のイノチあるモノが生じるコトは,全く理に合わない.また,最後のイノチあるモノが未だに滅していないときに,最初のイノチあるモノが生じるというコトも,全く理に合わない.

 

今,現に滅しつつあるイノチあるモノと,今現に生じつつあるイノチあるモノとが,倶にあるということは全く理に合わない.今現に滅しつつあるイノチあるモノと,今現に生じつつあるイノチあるモノとは,その構成要素である五蘊において死に,その全く同じ構成要素である五蘊において再び生まれる,ということになるであろうから.

 

このように,過去・現在・未来,という三つの時にわたってイノチあるモノが相続するというコトは全く正しくない.そして,そうであるならば,どうして三つの時にわたって,イノチあるモノの相続である輪廻が存在しうるのであろうか.

 

[「修行完成者」を論ずる]

修行完成者とは,個人の構成要素である五蘊そのものではなく,それらの構成要素と異なるのでもない.修行完成者の中に,もろもろの構成要素である五蘊があるのでもなく,また,それらのもろもろの構成要素の中に,修行完成者があるわけでもない.修行完成者がそれらの構成要素を有しているわけでもない.こうしてみると,修行完成者とはいかなるモノなのであろうか.

 

もし,もろもろの構成要素である五蘊に依存して修行完成者が存在するのであれば,修行完成者はモノそれ自体としては存在しないのである.モノそれ自体として存在しないモノが,どうして他者におけるモノそれ自体として存在するであろうか.

 

およそ,他のモノに縁って起こるモノとは,無我である.無我であるようなモノが,いかに修行完成者でありうるのだろうか.

 

もし,自らのモノそれ自体が存在しないならば,どうして他者におけるモノそれ自体がありえようか.また,自らのモノそれ自体と,他者のモノそれ自体とを離れて,修行完成者とはいかなるモノでありえようか.

 

もし,個人のもろもろの構成要素である五蘊に縁ることなくして,なんらかの修行完成者なるモノが存在するならば,その修行完成者とは,今こそ,それら構成要素に縁って存在するであろう.それらの構成要素に縁ってはじめて,修行完成者が存在することになるであろう.

 

個人の構成要素である五蘊に縁らなければ,いかなる修行完成者も存在しない.また,それらに縁るコトなくしては存在しえないものが,どのようにして,それらに縁って起こるというのであろうか.

 

五蘊とは,未だに縁って起こるコトのないときには存在しない.それらに縁って起こるモノも,決して存在しない.そして,縁って起こることのない修行完成者も,決して存在しないのである.

 

およそ,縁って起こるコトについて,同一であろうとか,異なるであろうとか,いかなる五蘊に求めても存在しないような修行完成者が,どのように五蘊に縁って起こるコトによって,仮に説示されうるのであろうか.

 

さらに,縁って起こるコトの構成要素である五蘊も,そのモノ自体としては存在しないのである.そして,そのモノ自体としては存在しないモノが,どうして他のモノそれ自体として存在しうるであろうか.

 

このように,縁って起こるコトも,縁って起こるモノであるその主体も,ともに空である.では,空であるような修行完成者が,どのようにして空なるモノである五蘊によって,仮に説示されうるのであろうか.

 

「空である」といってはならない,かといって「不空である」とか,「空と不空のその両者である」とか,また「空と不空のその両者ではない」とかもいってはならない.しかし,それらはいずれも,仮に説示されているのである.

 

この静かに安らいる修行完成者の境地について,どうして,常住であるとか,無常であるなどの,四句が成立するであろうか.また,この静かに安らいでいる修行完成者の境地について,どうして有限であるとか無限であるとかの,四句が成立するであろうか.

 

しかるに,修行完成者は存在する,という深い執着に囚われている人は,ニルヴァーナに入った修行完成者については,修行完成者は存在しない,と考えて妄想するのみなのである.

 

しかし,修行完成者は,モノそれ自体としては,空なのであるから,その修行完成者について,入滅後においても存在する,とか,入滅後には存在しない,とかいう思考は成立しえないのである.

 

およそ,戯論を超越しており,不壊である修行完成者を,いろいろと戯論する人々は,すべて戯論に害されていて,修行完成者を見ることがないのである.

 

およそ,修行完成者の本性なるモノとは,すなわちこの世界の本性に他ならないのである.修行完成者とは,そのモノとしての本質をもたないモノなのである.この世界もまた,そのモノとしての本質をもたないモノなのである.

 

[「さかしまな見解」を論ずる]

貪るというコト,憎悪するというコト,愚かであるコトとは,思いから生ずる,と説かれている.なんとならば,それらは,浄らかであるコトと,浄らかでないコトと,さかしまな見解と,に縁って起こるからである.

 

浄らかであるコトと,浄らかでないコトと,さかしまな見解と,に縁って起こるそれらのモノゴトは,モノそれ自体としては存在しないのである.それゆえに,もろもろの煩悩は,真実のコトバによる観点からは,存在しないのである.

 

アートマンの存在と,非存在とは,いかにしても成立しない.それがないのに,もろもろの煩悩があるとか,煩悩がないとかが,どうして成立しえようか.

 

それらの煩悩は,だれかある人に属するモノとして存在している.しかるに,その人そのモノが成立しないのである.だれかある人がないならば,もろもろの煩悩は,いかなる人にとっても存在しないのである.

 

自らの五蘊をアートマンとみなす見解のごとく,煩悩は,煩悩に汚されているといわれる人について,その五蘊にそれを求めてみても,存在しないのである.

 

浄らかであるコトと,浄らかでないコトと,さかしまな見解とは,モノそれ自体としては存在しない.どのような,浄らかであるコトと,浄らかでないコトと,さかしまな見解とに縁って,もろもろの煩悩が起こるのであろうか.

 

色・カタチ・名あるモノと,音声と,香りと,味と,触れられるモノと,思考されるモノとが,貪りと憎悪と愚かさの,六種の対象であるといわれる.

 

色・カタチ・名あるモノと,音声と,香りと,味と,触れられるモノと,思考されるモノとは,たんにそれであるコトのみのモノであって,自らにおいてモノそれ自体としての性質をもたないのであるから,蜃気楼のありかたをしており,陽炎や夢のようなものなのである.

 

これら幻人のごときモノども,影像に等しいモノどもにおいて,どうして浄らかであるコトや,浄らかでないコトがありうるのであろうか.

 

浄らかであるコトに縁らなければ,浄らかでないコトは起こりえない.それに縁って浄らかであるコトが起こるとわれわれは説く.ゆえに,浄らかであるコトそれ自体は存在しない.

 

浄らかでないコトに縁らなければ,浄らかであるコトは起こりえない.それによって浄らかでないコトが起こるとわれわれは説く.ゆえに,浄らかでないコトそれ自体は存在しない.

 

浄らかでありみごとであるようなモノが存在しないのならば,どうして貪るコトが起こるであろうか.また,浄らかでないモノが存在しないのならば,どうして憎悪が起こるのであろうか.

 

もし,無常なるモノに関して,それを,常住である,と思う執着が,さかしまな見解であるならば,どうして空なるモノに関して,それを,常住である,と思う執着も,さかしまな見解ではないのだろうか.

 

もし,無常なるモノに関して,それを,常住である,と思う執着が,さかしまな見解であるならば,どうして空なるモノに関して,それを,無常である,と思う執着も,さかしまな見解ではないのだろうか.

 

何に縁って執着するのであろうと,いかなる執着でも,いかなる執着するモノであっても,いかなる執着されるモノであっても,それらは静かな安らぎに帰している.それゆえに,執着は,モノそれ自体として存在することはないのである.

 

正邪にかかわりなく,とにかく執着なるモノは存在しないのであるから,誰にとって,さかしまな見解が存在するのであろうか.また,誰にとって,さかしまでない見解が存在するのであろうか.

 

さかしまな見解をもつモノにとって,もろもろの,さかしまな見解は起こらないのである.また,さかしまな見解をもたないモノにとっても,もろもろの,さかしまな見解は起こらないのである.

 

今現に,さかしまな見解をもつモノにとって,もろもろの,さかしまな見解が起こることはない.あなたみずからが,よく熟慮されるがよい.何人にとって,もろもろの,さかしまな見解が起こるのであろうか,と.

 

未だ生じていない,さかしまな見解が,どうして起こりうるのであろうか.もろもろの,さかしまな見解が,未だ生じていないのに,どうして,さかしまな見解のうちにあるモノが存在しうるのであろうか.

 

事物は,それ自身からは生じない.他のモノからも生じない.それじしんと他のモのからも生じない.さかしまな見解をもつモノがどうして存在しうるであろうか.

 

もし,アートマンと,浄らかなるモノと,常住と,安楽とが,存在するのであれば,それらは,さかしまな見解ではないコトになるであろう.

 

もし,アートマンと,浄らかなるモノと,常住と,安楽とが,存在しないのであれば,無我と,浄からでないモノと,苦しみもまた,存在しないことになるだろう.

 

このように,さかしまな見解が滅するがゆえに,無明が滅するのである.無明が滅したときに,形成するハタラキもまた滅する.

 

もし,モノそれ自体として実在するような,なんらかの煩悩が,誰かに属しているならば,どうしてそれを棄てることができようか.誰が,モノそれ自体として実在するモノを棄てることができようか.

 

もし,実に,モノそれ自体としては実在しないような,なんらかの煩悩が,誰かに属しているならば,どうしてそれを棄てることができようか.誰が,モノそれ自体として実在しないモノを棄てることができようか.

 

[「四つの真理」によってナーガールジュナを論難する]

もし,一切の世界の事物が実体なく,たんなるコトバにすぎない,一切法空と説くならば,事物の生成も消滅も存在しないでありましょう.したがって,「四つの真理」もないことが,あなたの論理からは帰結することでありましょう.

 

「四つの真理」が存在しないのですから,「四つの正しい行い」つまり,四つの真理を完全に悟ることも,煩悩を断ずることも,その道を実践することも,ニルヴァーナを直接体験することも,その全てが不可能になることでありましょう.

 

「四つの正しい行い」が存在しないのですから,その修行の成果である「四つの果報」であるところの,聖者の流れに入ることも,人天のあいだを自由に去来することも,この世間を完全に離れて悟りに至ることも,完全なニルヴァーナに至ることも,その全てが不可能になり,こうした修行を行う人も一切なくなることでありましょう.

 

このように「四つの実践行為」を行う人々である修行者たちが,世間に全く存在しないのであれば,修行者の集いであるサンガもまた存在しないでしょう.また「四つの真理」が存在しないのですから,正しい法(ダルマ)も全く存在しないでありましょう.

 

法(ダルマ)もなく,それを伝える修行者の集い(サンガ)もないのであれば,どうしてブッダが存在しえましょうか.このように,一切はコトバであり,コトバにすぎず,その実体は存在しない,とあくまで説くのであれば,あなたは,われらが敬したてまつるべき「三つの遺産(法,修行者の集い,ブッダ)」の全てを破壊することになるのです.

 

世界の事物の一切はコトバにすぎず,その実体はなく,空であると説くものは,世界の事物が実際に在ると観察されること,実際に世界の事物に因果関係が厳然と認められること,世間において法(ダルマ),非法(ア・ダルマ)なる行為が認められること,そしてさらには,一切の世間の言語習慣をも含め,その全てを破壊するに至ることでありましょう.

 

[論難に答えよう]

ここにおいて,われらナーガの道を歩く者たちは答えよう.あなたは,コトバそのものである空,コトバのその本質である空を説く効用,および,コトバの意義を知らないだけなのではなかろうか.ゆえに,あなたは,このような論争をあえて行おうとするのであろう.

 

およそ,コトバにおける「二つの真理」に基づいて,もろもろのブッダの教えは説かれたのであった.その二つの真理のその一つは,世俗の実際の人々の欲望に覆われたカタチで使われる,いわば世俗のコトバとしての真実さであり,もう一つは,究極の論理(ロゴス)として説かれた,コトバの本質として意義のある真実さであり,真実のコトバとは何であるか,ということそのこと,なのである.

 

およそ,真実のコトバではあっても,世俗の言語習慣に依存せずには,これを説くことはできない.そして,真実のコトバ,コトバの真実であり本質である空に到達しえないのならば,ニルヴァーナの境地を体得することはできない.

 

不完全に観察されたにすぎないコトバの本質,空,とは,コトバの本質を知らない者どもを害するのみである.あたかも不完全に捉えられた蛇が,かえってその捕獲者を害し,未完成な呪術が,その呪者をかえって害するがごときである.

 

それゆえに,一切はコトバである,というその法(ダルマ)が,コトバの本質を知らない者どもによって間違って理解されることを慮るがゆえに,その教えを説示しようとするブッダのココロは押し止められたのであった.

 

また,あなたがコトバの本質である空を非難するとしても,私たちに過ちがあるわけではない.その非難は,コトバの本質である空には,全く当てはまらないのである.

 

コトバの本質として理にかなうものにおいては,あらゆるコトが理にかなうのである.コトバの本質として理にかなわないモノ,例えば,ダルマが実在するとされるモノどもにおいては,あらゆることが理にかなわないのである.

 

ゆえに,あなたは,おのれじしんに属する誤りを,わたしたちに向かって不当になげかけているのである.あなたは,まるで馬に乗っておりながら,その馬を忘れているかのようである.まずは,あなたの不当な論難に答える弁明としては,ここまでとしよう.

 

[中正なるナーガの道を論ずる]

もし,あなたが,もろもろの事物は,それじしん,かつそれ自体において実在する,ということを認めるならば,あなたは,もろもろの事物を,縁って起こることなきモノとみなしているのである.

 

あなたは,もろもろの事物を実在するとみなすことによって,原因と結果,行為主体と行為と作用,生起すること,滅すること,およそ,果報を受けることまでも破壊するに至るのである.

 

縁って起こることそのこと,それを私たちは,コトバであり,コトバの本質を表す空,として説くのである.コトバの本質である空であるとは,人々によって,これありと仮説されたモノゴトどもに他ならないのである.そして,そのようなコトバの本質であり,空であり,仮説されており,現にあるモノであるということ,そのことこそが,私たちにとって中正なる道,中道と呼ばれるのである.

 

いかなる事物であるにせよ,法(ダルマ)といえども,縁って起こることなくしては存在しないのである.それゆえに,いかなる事物も,またいかなる法(ダルマ)であろうといえども,コトバの本質である空を離れては存在しえないのである.

 

もし,一切の事物が,コトバの本質である空を離れて存在するならば,それが生起することも,また滅することもない,ということになるであろう.そして,あなたにとっては「四つの真理」そのものであるところの,苦しみという真理も,事物の集まりに苦しみの原因があるという真理も,事物の中における苦しみの真の原因を滅することができるという真理も,苦しみを滅し終えて静かな安らぎに至る道がある,という真理も,全く存在しないということになるであろう.

 

モノそれ自体として存在するような「苦しみ」が滅することはありえない.あなたは,モノそれ自体というような存在に固執することによって,事物の中に苦しみの真の原因があるのであり,それを滅ぼすことができる,という「滅する」という真理を破壊することになるのである.

 

もし,道がモノそれ自体として存在するのであれば,その道を習得することは成立しないのである.しかるに,道は現に習得されるのである.よって,あなたの説く道が,モノそれ自体として存在することはないのである.

 

[大いなる乗り物としての「四つの真理と八つの正しい道」を論ずる]

モノがそれ自体として存在するコトに固執する人にとって,モノそれ自体として習得されることがありえないはずの「四つの成果」を,どうして体得することができるのであろうか.

 

「四つの成果」が存在しないのならば,「四つの成果」に住している人たちもありえず,「四つの成果」に向かって進む人たちもありえない.そうした「四つの成果」を求める修行者がいないのであるから,正しい修行者の集いであるサンガも存在しないであろう.

 

また,「四つの真理」も存在しないのであるから,正しい教えもまた存在しないであろう.およそ,正しい法(ダルマ)や,正しい修行者の集い(サンガ)が全くないのに,どうしてブッダが存在しうるのであろうか.

 

あなたには,真実のコトバによる悟りに全く縁らないでもブッダがある,という誤りが付随して起こるのである.また,あなたには,真実のコトバを悟った人であるブッダに縁らないでも悟りがある,という誤りが付随して起こるであろう.

 

また,それ自身においてブッダというモノではない人には,ボサツとしての修行において,さらに悟りを求めて努力したとしても,悟りを体得することは全くないであろう.

 

さらに,いかなる人も,法(ダルマ)にかなった善き行いと,法(ダルマ)に背いた悪しき行いであろうと,決してなすことがないであろう.なんとなれば,真実のコトバであり,コトバの本質である空を離れているようなシロモノにたいして,何をなすことがありうるだろうか.モノそれ自体という不可思議なシロモノにたいしては,それにたいして何かがなされるということが全くありえないからである.

 

あなたの実有説によれば,法(ダルマ)にかなった善き行いや,法(ダルマ)に背いた悪しき行いがなくとも,果報が存在するのである.そしてまた,あなたの実有説によれば,法(ダルマ)にかなった善き行いや,法(ダルマ)に背いた悪しき行いに縁って起こるような果報は存在しないのである.

 

あるいは,あなたにとって,法(ダルマ)にかなった善き行いや,法(ダルマ)に背いた悪しき行いに縁って起こるような果報が存在するのであれば,それはいかにコトバの本質である空を離れて存在するのであろうか.

 

あなたが,縁って起こるコトや,コトバの本質である空を破壊するならば,あなたはまた,世間における一切の言語習慣をも破壊するに至るであろう.

縁って起こるコトや,コトバの本質である空を破壊するものにとっては,なすべきことは何もないことになるであろう.そこにおいて,およそ何事をも為す「はたらき」も起こりえないであろう.そして,行為する主体は,何の行為もなすことなくただ無為にあり続けるだけのことになるであろう.

 

モノそれ自体というモノの単一な存在があるだけであって,種々の多様な状態を全く欠くような世間というものは,およそ縁って起こることのないものになるであるから,生ずることもなく,滅することもない,常住にして不動なモノとなり果てるであろう.

 

もし,一切が,コトバの本質である空を離れて存在するならば,未だに悟りをえない者が悟りを得ることも,苦を絶滅されるという行為も,また,一切の煩悩を断ずることも存在しないことになるであろう.

 

このように,縁って起こることを知り,コトバの本質である空を観るものは「四つの真理」である「苦・集・滅・道」を正しく観るのである.

 

真実のコトバ,コトバの本質である空,を観るものは縁起を観るのである.縁起を観るものは「四つの真理」のなんたるかを悟るであろう.「四つの真理」を悟るものは「八つの正しい道」を歩み,そして,静かな安らぎに至るであろう.

 

[「ニルヴァーナ」という真理においてナーガールジュナを論難する]

もしも,一切のモノがコトバにすぎず,空と呼ばれるコトバの不変な本質に解消されるとするならば,何ものも生起することもなく,また何ものも滅することもないはずです.しからば,あなたは,何ものを断ずるがゆえに,また何ものを滅するがゆえに,ニルヴァーナが得られると考えるのでしょうか.

「論難に答えて「ニルヴァーナ」という真理を論ずる」

もし,一切の事物が,コトバの本質である空を離れてあるのならば,何ものも生起することもなく,また消滅することもないのである.しからば,何ものを断ずるがゆえに,また何ものを滅するがゆえに,ニルヴァーナが得られるというのであろうか.

 

一切を棄てることなく,新たに所得することも一切ない.断滅することなく,常住であることもない.滅することもなく,生ずることもない.これがニルヴァーナである,と説かれたのであった.

 

まず,ニルヴァーナとは,いかなるイノチあるモノでもありえない.あらゆるイノチあるモノには,老い,病み,死するという相があるのであるから,ニルヴァーナにも老,病,死があるという明白な誤りがつきまとうからである.

 

また,ニルヴァーナがイノチあるモノであるならば,ニルヴァーナはイノチあるモノによって形成されたモノであることになるだろう.なんとなれば,イノチあるモノによって形成されたモノでないものは,どこにも決して存在しないのであるから.

 

また,ニルヴァーナがイノチあるモノであるならば,ニルヴァーナは,どうして他のイノチあるモノに依存しないで存在しうるのであろうか.いかなるイノチあるモノも,他のイノチあるモノに依存しないでは存在しないのであるから.

 

もし,ニルヴァーナがイノチあるモノであるならば,どうしてニルヴァーナがイノチあるモノでないことがありえようか.およそ,あらゆるイノチあるモノがないところでは,イノチあるモノがないこともまた,決してありえないからである.

 

また,もしもニルヴァーナがイノチあるモノでないならば,どうしてニルヴァーナが他のイノチあるモノに依存しないであることができようか.およそ,他のイノチあるモノに依存しないであるような,イノチあるモノでないものはないのであるから.

 

イノチあるモノであるあらゆる個体は,五つの要素(五蘊)に依存しているのであるが,このように縁って起こり,生まれ来たりそして死に去るモノどもに全く依ることがない,それがニルヴァーナであり,ココロの静かなやすらぎである,とブッダは説いたのであった.

 

ブッダは,イノチあるモノと,イノチあるモノでないものとの,差別と執着を棄て去ることを説いたのであった.それゆえに,ニルヴァーナとは,イノチあるモノに非ず,またイノチあるモノに非ざるにあらず,というのが正しいのである.

 

もし,ニルヴァーナが,イノチあるモノでありかつまたイノチのあるモノでないもの,その両者であるならば,それでは,解脱もイノチあるモノであり,かつまた,イノチあるモノでないことになろう.しかし,これは自己矛盾であり正しくない.

 

もし,ニルヴァーナが,イノチあるモノでありかつまたイノチのあるモノでないもの,その両者であるならば,それではニルヴァーナは他に依らずに成立しているのではないことになるであろう.なんとなれば,両者は,他のものに依存して成立しているのであるから.

 

ニルヴァーナが,イノチあるモノでありかつまたイノチのあるモノでないもの,その両者でありえようか.なぜならば,およそニルヴァーナとは形成されたモノではないのであるが,およそ,イノチあるモノとイノチあるモノでないものの両者とは,形成されたものに他ならないからである.

 

ニルヴァーナのうちに,どうしてイノチあるモノでありかつまたイノチのあるモノでないもの,その両者がありうるだろうか.この両者は同一の場所にはありえないからである.それは,たとえば,光明と暗闇が同一の場所にはありえないようなものである.

 

「サンサーラとはすなわちニルヴァーナである −戯論の止滅−」

「ニルヴァーナはイノチあるモノでもなく,イノチあるモノでないのでもない」という命題は,イノチあるモノとイノチあるモノでないものが実際に成立して,はじめて成立しうるのである.

 

「ニルヴァーナはイノチあるモノでもなく,イノチあるモノでないのでもない」という命題が成立するならば,その「ニルヴァーナはイノチあるモノでもなく,イノチあるモノでないのでもない」という命題は,いかなる事実によって根拠づけられるのであろうか.

 

ブッダが死後も,イノチあるモノとしてあると解することはできない.また,ブッダが死後にも,イノチあるモノとしてないと解することもできない.いわんやその両者であるとも,また両者でないとも解することはできないのである.

 

「ブッダは今現に生きている」と解することはできない.「ブッダは今現に生きていない」とか,「ブッダは今現に生きてきるのであり,同時に生きていないのである」との両者であるとか,その両者でもないのである,と解することもできないのである.

 

あらゆるイノチあるモノが生じ,老い,病み,死んでいく世間の状態と,ニルヴァーナには,いかなる区別も存在しえないのである.また,ニルヴァーナとは,世間においてあらゆるイノチあるモノが生じ,老い,病み,死んでいくことと,なんの区別もありえないのである.

 

ニルヴァーナのその究極とは,世間においてあらゆるイノチあるモノが生じ,老い,病み,死んでいくことの究極なのである.この両者の間には,もっとも微細ないかなる間隙も全くありえない.

 

ブッダはその死後においても生きているのであるとか,世界は時間的に有限であるとか,世界は常住であるとかについて,あなたがたのものもろの愚かな見解とは,ニルヴァーナと,死後のその後の世界の時間的限界と,生まれる前のその前の世界の時間的限界とに依拠して立てられている妄想にすぎないのである.

 

一切の世界の,色・カタチ・名あるモノの本質はコトバであり,その本質は空なのであるから,何ものが限定されていないことがあろうか.また,何ものが限定されてあることがあろうか.何ものが限定されており限定されていないことがあるだろうか.また,何ものが限定されておらず限定されていないことがないことがあるだろうか.

 

世のいったい何ものが同一であることがあろうか,何ものが異なるモノであることがあろうか.何ものが常住であろうか.何ものが無常であろうか.何ものが無常にしてかつ常住であるような両者であるだろうか.また,何ものが無常でもなく常住でもないようなその両者であるだろうか.

 

ニルヴァーナとは,一切の世間の所得への執着が滅し終わり,戯論が滅し終わった,静かな安らぎであり,吉祥なる境地のことなのである.ブッダは,いかなる法も,どこにおいても,誰のためにも,説くことはなかったのである.


[付録2

          善き知識の完成を讃えて(唯識三十頌)

 

最初に,知識を持つモノの主体としてのアートマンを仮説しよう.このアートマンは,種々の本質を持つ.それらが転変して知識となっていくのである.その転変とは三つだけである.

 

まず,一つは,自らが成熟し育っていくコトであり,次に,思考するというコトによるものがそれであり,また環境世界の知識がつけ加わるコトによるものがそれである.そのはじまりはアーラヤ識と呼ばれるモノがそれであって,これが成熟して育ち,あらゆる知識のその種子となるのである.

 

未だにアートマン自らが知ることのない執着であるところの,思考する場所と判断作用からその知識ははじまる.色・カタチ・名あるモノに触れて,知識を形成しようというハララキは,受容するハタラキ,想起するハタラキ,思考し記憶するハタラキとして次々に起こるのである.色・カタチ・名あるモノを,次々と棄てては受け容れていく状態がこれである.

 

この知識を形成するハタラキは,なにものにも支配されることもなく,価値判断を離れている.接触することにおける感受するハタラキなどもまたこの通りである.この状態における知識は,常に転変しており,さながら暴流のようである.そうした知識の状態はアラハット(阿羅漢)の境地に至ってはじめて止滅するのである.

 

次は,第二の変化する知識の主体である.それはマナ識と呼ばれる.対象となるモノに依ってそのモノを縁起させるのがそのハタラキである.モノをモノとして思量することが,その本質であり,その特徴でもある.

 

マナ識は,知識人を悩ませる四つのモノを伴うのが常である.この四つの煩悩とは,アートマンに執着して離れることができないコト,アートマンを存在するモノとして見るコト,アートマンを得たとして慢心するコト,そして,そのアートマンに恋着するコトがそれである.また,その他の色・カタチ・名あるモノどもに執着するコトと倶に起こる.

 

マナ識は他の知識によって支配されえ,しかし,価値判断を離れている.この知識は,それが生ずるごとに,それに縛せられることになる.アラハットとニルヴァーナと,ブッダの道に歩む者には,この知識は生ずることがない.

 

次は,第三の変化する知識の主体である.その差異を分別すると,六種に分類される.それは,環境世界を理解するコトをその本質とも,現象ともするような知識なのである.善と,不善と,善でもなく不善でもない知識とがそれである.

 

このココロの状態は,普遍的な行いと,それぞれに縁って起こるところの特別な知識状態と,善と,煩悩と,それに付随する煩悩と,それ以外の不定な状態とに分類される.それぞれがみな三つの対応する知識状態を持つのである.

 

まず,最初の普遍的な行いとは,環境世界との接触である.これに縁って起こる知識状態には,欲望するコトと,その本質を理解するコトと,本質を思念するコトと,その本質に対する一定の見解を持つコトと,その本質を洞察する最終的な知識と,がある.縁って起こるところの知識状態が,同一でないからである.

 

善とは,いわく,そのコトバが真実であってその行動と乖離していないコト,自らの行いを反省するコト,他者に対して自らの行いを恥じるコト,貪るコトがない等の,三つの徳性とがある.行いが勤勉であるコト,ココロや行いが安定しているコト,そして,放逸でないコト,他者のために自らのモノを捨てる行いと,他者に危害を及ぼすことがないというコトが善性である.

 

煩悩とは,いわく,貪るコト,他者を憎むコト,誤りに固執するコト,高慢であるコト,猜疑心の強いコト,悪しき見解を持つコトがそれである.それ付随する煩悩とは,いわく,憤怒であり,怨念であり,何かに支配されており,悩んでおり,嫉妬であり,頑迷固陋であるコトである.

 

そして,騒がしいコト,阿諛追従するコト,他者に害を及ぼすコト,驕慢であるコト,自らを反省するココロのないコト,他者に自らの行いを恥じるココロがないコト,突発的な行いと,黙り込んでしまうコトと,コトバと行いが一致しないコトと,怠慢を決め込むコトがある.

 

さらに,放逸であるコト,モノ忘れをするコト,ココロが散乱しているコト,正しい知識に至ろうとしないコトがそれである.また,その他の不定な知識状態には,悔恨と,睡眠と,知らないモノを尋ねるコト,何をすべきかと伺いを立てることとがある.

 

知識の根本であるアーラヤ識に依って止まり,知識の転変を見ることにしよう.ここから,五つの知識は,縁って起こるのである.あるときは,他と倶に,あるときは,それじしんに依って知識は生起する.あたかも,波が,水から立ち現れるかのように.

 

ココロと記憶は,常に現に生起しているのである.想いのない場所に生まれるコトと,無心という禅定に入っている状態と,睡眠状態と,悶絶状態とは除いて.

 

このように,ものもろの知識は転変して,分別するコトとなり,分別されるモノとなるのである.これに依って,かれは存在するモノならず,といわれる.ゆえに,なべての事物は,ただ,知識するというそのコトに縁って起こるのみなのである.

 

すべてのもろもろの知識が転変し,このように,かのようにと,変化するがゆえに,それらの知識が自己を展開する力に縁って,このように,かのように,という分別が起こるのである.

 

もろもろの業(なりわい)の習慣が,知識に深く染みついているがゆえに,この内なるモノと,かの外なるモノという二つの知識の取得が起こるのであって,以前の知識が成熟して滅し終わると,また,次の知識が育ち成熟していく,という知識の相続が起こるのである.

 

かのモノであり,このモノであるという,モノに執着するココロによって,もろもろの事物がこの世に存在するに至るのである.このような,モノに執着するココロにおいては,そのモノ自体がそのココロによって所有されるようなコトは,実には全くないのであるのに.

 

このモノは他のモノに縁って起こる,と見る知識主体においては,分別は,他のモノに縁って起こるのである.善き知識人における,円やかな真実の覚りとは,こうした他のモノに依って起こる,という本質にあるのであって,それは,かのモノ自体や,このモノ自体という,モノ自体に執着するココロを遠く離れているのである.

 

ゆえに,この真実の覚りとは,このモノは他のモノに縁って起こる,というモノの本質と異なるのでもなければ,異ならないのでもない.世界が無常であると見るコトにおいては,この本質を見ないで,かれを見るようなモノであってはならない.

 

すなわち,この知識の三つの本質によって,この知識の三つの本質であるようなモノそれ自体の非存在を立てるのである.善き知識人であったブッダは,こうした意図をもって,一切の法には,モノそれ自体という本質は存在しない,と語ったのであった.

 

初めには,すなわち,一切の事物の現象においては,モノ自体としての性質がない,という.次には,自ずから生ずるかのごときモノたちにおいても,そのモノ自体という性質がない,という.後の本質を説くにおいては,前の,モノ自体という本質に執着するココロをもたないことによってはじめて,アートマンに対する執着を離れることができる,と説いたのであった.

 

これは,もろもろの法における最高の真理なのである.また,これがすなわち,全ての知識中の真実なのである.これが恒常的な真理であるところにはじめて,なべての事物は,ただ知識するというそのコトに縁って起こる,という真実がある.

 

つまり,善き知識人となろう,とする志を起こして,なべての事物は,ただ,知識するというそのコトに縁って起こる,という真実に住しょうと求めるに至るまでは,内なるモノと,外なるモノという区別に執着し,そこに安住して,なお,円やかで真実の覚りに至ることがないのである.現前にささやかな仮の真理を立てて,それを得たと思い込むにすぎず,実際に,なべての事物は,ただ知識するというそのコトに縁って起こる,という真実を覚ることがないのである.

 

もし,すべての事物が,ただ知識するコトに縁って起こるという知識の上に,さらに付け加えるべき知識が全く止滅するとしよう.そのときに,万法はただ知識するコト,それのみであるという真実に住することになるのである.このモノは,内なるモノであり,かのモノは外なるモノである,という分別を遠く離れ去るがゆえに.

 

自由自在であり,遮るモノが何もない,これは,外なる世界と,内なる世界という差別や区別,あの世とこの世という二つの虚妄を棄て去った境地そのものなのである.外なる世界と内なる世界という,二つの粗雑な思い込みを捨てるがゆえに,すなわち,世界は知識するコトの転変に縁って起こるという本質を覚るに至るのである.

 

これが,完全なるニルヴァーナであり,全ての苦しみという思いを離れており,善き知識人であるコトであり,恒常的であり,静かな安らぎであり,解脱する,ということなのであって,善き知識人であったブッダ,真実の人が発見したといわれる,その法なのである.

 

[参考]「感覚と,感覚の上に築かれた思想を,牢獄の格子としてではなく,窓として考える.われわれはいかに不完全にもせよ,ライプニッツの単子のように世界を映しうる,と私は考える.そして,物を歪めぬ鏡となることにできるかぎりつとめることが,哲学者の義務である,と考える.」(Russell『私の哲学の発展』)


<付録3>         パルメニデスの「夢」

 

[ブラトン『パルメニデス』とナーガールジュナ『中論』の類似性]

パルメニデスは,あらぬはあらぬのであり,万有は一者である,つまり,世界はノッペラボーのただ一者である,と主張したといわれるが,プラトンに登場するパルメニデスは,むしろ,万有は一でもなければ多でもなく,静止しているのでもなければ運動しているのでもない,大きくあるのでもなければ小さくあるのでもない,とまるでナーガールジュナの中論において宣説される,不一不異,不去不来,不増不減,を説くかのようである.これらを,空集合φ,つまり自己非同一な集合と,空集合を含む一者でありかつ空集合のみを要素として含む「点」であり論理的原子であるような集合,つまり1={φ}をつかって解釈してみよう.

 

引用は,「プラトン『パルメニデス』,プラトン全集4,田中美知太郎訳(ページ数/段落(アルファベット)はステファヌス版)」」による.

 

[バルメニデスの「夢」]

「たといその最小[部分]と思われるものをとってみても,まるで眠っているときにみる夢と同様,今まで一つと思われていたものが,突然いれかわって多となり,極小のものだったのが,たちまち入れかわって-今まで一つだったものがたくさんの断片(かけら)になって砕けると,それに対しては-[今度は]むやみに大きく見えたりするのだ(164D)」.これは,限定されていて実体として数えられるモノ,自己同一なモノは全く何もない,すべての事物が相対的であり刹那滅しており無秩序であり無限定(ト・アペイロン)な,まるで夢のような風景である.これをパルメニデスの「夢」とよぼうではないか.驚くべきことに,パルメニデスはこの風景を,その場では決してばかげたこととして,肯定も否定もしていないのである.その理由は後に論じてみよう.

 

[ソクラテスの解釈]

プラトンの対話編『パルメニデス』は,若き日のソクラステスと,エレアからの来訪者であるゼノンの出会いからはじまる.当時,パルメニデスは壮年をすぎた立派な老人として描かれ,ゼノンはその寵児であった,という設定である.ソクラテスは,万有は多ではなく一者である,というゼノンの主張を評価していう.「もし存在が多なら,果然それは似ていて似ていないことにならねばならない.しかし,それは不可能である.なぜなら,似ていないものが似ていることもありえないし,似ているものが似ていないこともありえないから,というのかしら(127E)」.

 

これはリンゴを数える行為を考えてみればよいであろう.数えられるリンゴが全く同じならば,それは区別できず数えられないであろう.また,全く異なるのであれば,それはリンゴとして数えることはできない.つまり,数えることができるためには,リンゴが相互に似ており,かつ,似ていない個体性をもつことが必要なのである.つまり,リンゴが多であるなら,似ており似ていないことが帰結するのである.

 

結局は,「そうすると,似ていないものが似ていることも,似ているものが似ていないことも,もし不可能だとすれば,存在が多であることきも不可能になるのではありませんか(127E)」.つまり,ありかつあらぬものはあらぬ,という矛盾律によれば,万有は多ではなく,多は存在することは不可能な事態なのであり,結局は一であるということが理論的には帰結するというのである.

 

ソクラテスはパルメニデスに問うのである.「あなた(パルメニデス)は御作のなかで,万有が一であることを主張され,それの根拠づけとなるものをみごとに上手なしかたで出されています.これに対してゼノンは,あらためてそれが多でないことを主張するわけで,自分のほうからも多くの大きな証拠づけとなるものを出しているのです(128B)」.

 

また,パルメニデスに対しては異論を唱える人たちもいたのであった.「かれら(パルメニデスに反対して多を唱えるひとたち)によれば,もし存在を一であるとするならば,その言説に対してはたくさんの笑うべきこと,自己矛盾となることを許容しなければならない結果になるというのです(128D)」.こうした議論(戯論)が両方とも正しいとすれば,万有は一でもなければ,多でもない,無限定なのであって,まさに,空であり,自己非同一の事物の集合にほかならない,ということになって,世界はまるでパルメニデスの「夢」のごときであるだろう.

 

[ソクラテスのイデア論]

ソクラテスは,自らのイデア論をパルメニデスに語っていう.「あなた(ゼノン)は,<似る>ということ(類似性)が何かの種目(形相)としてそれ自体で独立に存在することを認めませんか.またさらにこのようなものに反対の何か他のものすなわちまさにそれこそ<似ない>のであるというもの(不類似性)の存在を(129)」.また「そしてもし,万有が相反する二つのものを分取するとして,もしそれらがその二つ分取によって直接相互に似たり,似なかったりするものであるとしても,何の驚くことがありましょう(129B)」ともいうのである.例えば,リンゴという実体(個体)は,リンゴというイデア,スコラ哲学でいうところのリンゴ的形相を分有することによってはじめてリンゴであり,リンゴというイデアを喪失することでリンゴでなくなる,と考えることができるであろう.

 

ソクラテスにとって哲学(愛知の業(わざ))とは,「それはあなたがたが目に見える事物において詳論されたものを,論理によってとらえられる事物においても,そうあることを指摘する仕事なのです(130)」といわれるのであった.しかし,言語的存在者が,現実の事物を離れては独立して存在しえない,ということを「空」論は主張するのであった.言語的存在者は永遠に自己同一であろう.しかし,現実の事物においては,完全に自己同一なモノは何もないであろう.

 

バルメニデスはいう.「それなら,どうだね,形相は全体のままで,[分取する]多数の各々のうちに内在すると,きみには思われるかね,どこまでも一つのものではあるのだけれども(131B)」.つまり,イデアは1であるか多であるか,と彼はソクラテスに問うのであり,そうした議論は「例えばそれは,きみが帆布をひろげて多くの人間にかぶせてから,一つのものが多くのものの上に全体のままあると主張するのと似ている(131B)」.

 

ここで,一つの現代生物学の観点を紹介しておこう.一つの種に属する個体(実体)は,ほぼ同一のゲノム(言語的存在者)という生命体としての本質を持つはずである.つまり,個別的実体∈言語的本質,個別的実体は,その言語的普遍者であるところの種に帰属する,と書くことができるであろう.これが,同じ種に属する個体同志が似ており,かつ似ていない,ということであるにすぎない.個体はその種としての本質的情報であるゲノムを離れては個体として存在しえないし,むろん,ゲノムは個体を離れては生命体のその本質としての機能を発現しえないであろう.こうした現代生物学の知識を頭にいれて以下を読むと,また違ったイデア論の意義が見えてくるであろう.

 

[部分と全体,あるいは1と多]

パルメニデスは続けてソクラテスに問う.「すると帆布は,全体が各人の上にあることになるのだろうか,それともその部分が,それぞれちがった部分としてそれぞれちがった人の上になることになるのであろうか(131C)」.

 

これも,現代のゲノム細胞学の知識でカタがつくのではなかろうか.つまり,人体の構成要素でありその部分であるにすぎない個々の細胞は,人体全体において,ほぼ同一のゲノム情報を持っているのである.つまり,人体は60兆個の細胞という小さな「点」のような部分から成立している統一体なのであるが,その「点」のような個々の細胞は,人体全体がもつのと同じ情報(形相を形作る原因)を持っているのである.

 

幾何学でいえば,大きな三角形という形相は,小さな三角形という部分に分割できるが,そのそれぞれの三角形が,大きな三角形とまったく同じ形相をもつことと同様である.つまり,全体がもつ情報と,その原子的(それ以上は分割できない)構成要素がもつ情報は,まったく等しいのである.

 

すると,「してみると,(<>という単一の形相を考えるならば)もうひとつ別の<>の形相が立ち現れて,すでにこれまでにあった大自体とこれを分有している[もろもろの大なる]ものとの外側に並ぶということになるだろう.そしてまたこれらすべの上にもう一つ別の形相が現れ,今度はこれによってそれらのすべてが大であることになるだろう.そしてだ,きみ(ソクラテス)のいう形相なるものは,どれももはや一つではなく,むしろ無限に多い,ということになるであろう(132B)」.つまり,言語的存在者,つまり情報というものは,無限に,いくらでもコピーできるのである.

 

[イデア論から観念論への撤退]

ソクラテスは,イデア論からの撤退を図ろうとする.「これら形相のそれぞれはおそらく観念なのかもしれません.そしてそれが生ずる場所としては,心の中以外に適当なところは何もないのかもしれません(132B)」.つまり,イデアの本来の場所はココロの中の観念である,というのである.

 

パルメニデスはそれを許さない.むしろ,世界の中におけるイデアの「ありよう」を追求していうのである.「君(ソクラテス)の主張のごとくもし形相をその他のものが分有しなければならないのだとすれば,その[分有の]必然性によって,それぞれのものは観念から成ることになり,万物が観念することにならねばならない,ときみには思われるのかね,それとも万物は観念であるけれども,観念されるもの(志向される意味)をもたないということになるのかね(132B)」.

 

つまり,形相(カタチ)とは,なんらココロの中の観念などではなく,自らをカタチとして形成するところの情報であり秩序なのである.図形とは,「何か」によって「描かれる」のである.また「何か」が図形を描くのである.自然の造形,というのは比喩ではなく,事実なのである.自然のモノが秩序を作り出す「何か」があるのであって,秩序そのモノがあるわけではない.具体的には,円という図形を描くにおいては,円を描くことを知るモノ(主体)が,コンパスを手段(方法)として円という図形(対象)を描くことができるのである.主語(描く人)・対象(円という図形)を・述語する(描く)のであって,それは,主語となるモノと,対象となるモノとの動的な関係が述語されてあるコトなのである.

 

[自然のロゴス(言論,論理)の海原へ]

パルメニデスはソクラテスをむしろ,ココロの中の観念に自閉することなきよう,自然のロゴスの海原へといざなうのである.「つまり例の[論理上の]逸脱[無軌道]現象は,これを可視物のうちに,もしくは可視物への関連において観察すべきものではなくて,むしろ,言論(論理)によって最もよくとらえられ,種目(形相)であるとひとが考えるような,かのものについてこそ考察されるべきであるというのが,きみ(ソクラテス)の立場だったからね(135E)」とむしろソクラテスをはげますのであった.

 

 

イデアとは,むろん現実のモノそのものでもなければ,たんなるココロの中の観念そのものなのでもない.イデアとは,わたしたちが自然の中においていきる言語行為にかかわる,自然のロゴス(コトバ)だったのではなかったろうか.「点」が,現実には広がりがなくて見えないハズのモノでありながら,数学においては,あきらかに存在すると思念されるように,ロゴスとはピュシス(自然)のモデルであってはじめて世界に存在しうるのである.

 

パルメニデスはいう.「しかしそれに加えて,なお次のようなこともしなければならないのだ.つまりそれぞれの事物について,<もし・・・あるならば>という前提を立てて,その前提から何が帰結して来るかを考察するだけではたりないのだ.むしろまた<もし・・・あらぬならば>というのも,同じそのものについて前提してみなければならないのだ(135E)」.もし,あるならば,あるのかあらぬのか,もし,ないならば,あるのかあらぬのか,と考察せよ,というのである.これが本来の意味での積極的弁証法であったろう.

 

またいう.「そしてこれを一つにまとめていうならば,何であれ,それぞれの場合に,<ある>とか<あらぬ>とか,あるいは他に何か規程として受けいれられるものがあれば何でも,これを前提のうちにもしきみがおくとすれば,そこから帰結してくるものを,そのものじしんの関係において,また一つよりも多くのものに対する,あるいはそのすべてに対する関係においても同様に,考察しなければならないのだ(136B)」.つまり,自然の事物を自己同一性(自己との関係において),また自己非同一性(対立する他者との関係において)について考察せよ,というのである.

 

しかし,「わたし(パルメニデス)にしてもこの年で,論理の海原のこの広さ,この難所をもつところを,どのように泳ぎきるべきか,身に覚えがあるだけに,大いに恐ろしく思っているのだ(137)」ともいい,ロゴスを海原にたとえ,そこに難所が多いと自他を戒めるのでもあった.まさに,ロゴスの海原を越えて真理への道を指し示すものは,われらがその中に生きるこの自然であり,この現実であることを忘れないようにしようではないか.

 

[空集合φと「点({φ})」の弁証法]

パルメニデスは「つまり<1>そのものについて,<1あり>でも,<1ならず>でも,もしこれを前提とするとしたら,何が帰結しなければならないか,ということでもってだね(137B)」と,いい,肯定と否定の両面からのアプローチを行おうというのである.

 

「したがってそれ(1)には部分もありえないし,またそれじしんが全体であるということも許されないのだ(137C)」.彼は,1は,「点」である,といきっているのである.「点」要素は空集合であり,部分をもたない.他方,「点」は全くひろがりを持たないのであるから,世界全体ではありえない.

 

「しかし,全体とは何かね.それの部分が一つも欠けていないものが全体だろうね(p.137C)」.

この場合は,拡がりのある一つの全体を考えるのであろう.

 

「したがって,両者いずれの場合も,そのいずれの場合にしても,その一なるものは部分からなるということになるだろう.全体であっても,また部分をもつものであっても()」という.また「従って,両者いずれの場合においても,これは一なるものは多となって,一つではないことになるだろう()」ともいう.

 

ところで,一つの拡がりは拡がりのない「点」から成立しうるのだろうか.これは,現代数学におけるトポロジーの縮約(contraction),一点コンパクト化,と等価な概念なのではないだろうか.例えば,円盤は,点に縮約できて,円盤と点とは同相であって,つまり同じトポロジー(位相)をもつといわれる.ひろがりのある面積のある円盤の位相幾何学的に等価なモデルが,ひろがりのない「点」である.

 

「それから,もし部分をひとつももたないとすれば,それは始めもなければ終わりもなく,また中間もないものになるだろう(137D)」という.これは,「点」であり,集合論のコトバで書けば{φ},つまり1,ということになるだろう.また「したがって,1なるものは,始めも終わりもないとすれば,限りのないものとなる()」のである.空集合が自己非同一なモノの集合と定義すれば,また,宇宙の全ての事象は(その事象の時刻までを正確に考慮にいれれば)自己非同一であることから,1は,全ての宇宙の事象を含む,ということもできよう.むろん,この宇宙が現実的に無限とは限らないのではあるが.

 

「また(1)形もないことになる(137E)」.(パルメニデスによれば)例えば,円や線なる図形は,点という部分を持ち,1者ではないからである.

 

「それから,ほら見たまえ,それがこのようなものである以上,どこにも存在しないことになるだろう.なぜなら,他者のうちにも存在しえないし,自己自身のうちにあることもできないだろうからね(138)」.つまり,1者とは,限定されていない,無限定である,というわけである.しかし,空集合や「点」は,自己非同一なるモノども全体を一者として「限定する」のである.

 

「さあ,それなら見てごらん,それがそういう有様だとすると,止まっているとか,動くとかいうことができるのかどうか(138)」.無限定であれば,当然,生成することも消滅することも,変化することも,運動することもありえないのである.

 

「ところがしかし,われわれの主張では,それはまた何かのうちにあることも不可能なものなのである(139)」.つまり,1者とは無限定であるがゆえに,自己非同一であり,それじしんのうちにおいてすら「ある」のでは「ない」のである.1者は神的(永遠不変不動)ですらありえないことになり,ここにおいてパルメニデス(プラトン)は,1者を神的な存在と認めることにすら難点(論理矛盾)を見いだしているのである.

 

「自分自身とは異なるとすれば,1とは異なるということになり,それはまた一つではないことになるだろう(139B)」.無限定であることは自己非同一であるから,1ではなく,むしろ多であるだろう.すると,1が1ではなくなるのである.かといって1が多でもありえないだろう.

 

「すなわちかくのごとくして,1は自分自身に対しても,異なる他のものに対しても,異なるとか,あるいは同じであるとかいうことはできないことになるだろう(139E)」.1は驚くべきことに,自己同一であり,かつ,自己同一でないのである.1=1であり,かつ,11,となる.これはを,空集合φと,空集合から形成された論理的原子であって幾何学的二場点であるところの,1={φ},においてみてみよう.

 

φと{φ}とは,ロゴス的に記号として書けばその区別は自明であろう.しかし,現実においては,拡がりを全くもたない「点」が見えるはずもないし,それはその場に全く何もない状態,つまり空集合に等しいから,相互には全く区別がつけられないのである.つまり,空集合とは,集合論では自明に限定されて「存在している」のであるが,現実の事物を自己非同一なモノとして捉えると,それは,無限定でもありうる.

 

本来は自己非同一であるような事物を限定するには,それを自己同一である,とあくまで仮説する他はない.実際,素粒子論の世界では,あらゆる量子は,完全に自己同一な「点」粒子である,と仮説されているのであった.

 

「したがって,それは尺度となる単位を,それが一つであろうと,多かろうと,また少なかろうと,いささかも分有することがなく,また<>を分有することも全然ないのだから,見たところ,自分自身に等しいこともないだろうし,また,他のものに等しいこともないのだ.またさらに,自分自身なり異なる他のものに対して,より大であるとか,より少であるとかいうこともない(140E)」.つまり,不一不異,不増不減,である.

 

[時間について −刹那と永遠の間−]

「それ(1)は,時間のうちにも全然ありえないことになるのだろう? (141)」.つまり,不去不来である.当然のことながら,永遠不変であることもないのである.

 

「したがってまた1なるものは,時間を分有することもなく,なんらかの時間のうちにあることもないのである(141D)」.だからといって,これを時間の外に「存在する」とか,永遠不変な存在であると勘違いしてはならない.

 

「したがって,もし1なるものが時というものをどれだけでも分有することがないとしたら,それはいつか<なった>(生じた)とか,<なりつつあった>(生じつつあった)とか,いつか<あった>とか,また今<なってある>とか,<なりつつある>とか,<ある>とか,またこれから<なるだろう>(生じるだろう)とか,<なるようにされるだろう>(生じせしめられるだろう)とか,<あるだろう>とかいうことは,いっさいないことになる(141E)」.つまり,1者とは,限定された個体として生成運動変化消滅することはない,というのである.パルメニデス(プラトン)は,むしろ,普遍的な1者,自己非同一全体を定義する言語的存在者である{φ}を想定しているのではなかろうか.

 

[自然(ピュシス)において<1>が<ある>ということ]

「それなら,以上に言われた仕方の何かによらないで,他に何かが<ある>を分有する仕方があるだろうか(141E)」.パルメニデス(プラトン)は,とても常識的であって,日常的な個別者,事物としての何かが「ある」コト以外を考えていたわけではない.

 

「したがって,1はどんなにしてもあらぬ(=ない)ことになる(141E)」ともいうし,「したがって,また1<である>というあり方もしないことになる()」というのである.つまり彼にとって1とはきわめて非日常的なシロモノであって,むしろ,数学的とでもいう他はない存在なのである.

 

「ところで,もし何かがあらぬとすれば,そのあらぬもの<非有>にとって何かがあるということがあるだろうか,それが所有し,それに所属するような何かが(142)」と非有なるものに疑問を呈するのであるが,そもそも非有とは何だろう.それこそがパルメニデスの「夢」の正体であろうが,それはどのような姿を現すのであろうか.

 

「したがって,それには,名前もなければ,説明(もしくは命題)もなく,学問的知識のたぐいもなく,感覚や思いなしもつかないということになる(p.142)」.つまり,限定されて「ある」ようなものでないと,名もつかず,感覚されもしなければ,知識されえない,と彼はいうのである.結局,1は「現実の」自己非同一な個体や事象を「数える」過程で生ずる記号である他はないのである.むろん,「ない」というコトバは1を消滅させる機能をもつであろう.

 

[自然数の生成]

「するとそれは,<ある>とは<1>とは別の何かを指すという含みをもつのではないか(142C)」.今度は,「ある」コトの論議に移る.「ある」とは無限定を限定し,1を生じさせるのである.

 

「この前提の指示するところでは,1なるものは部分をもつものでなければならないことになるのではないか(p.142)」ともいい,また「そしてまさにこの(1は有を分有する)故に,<ある>ところの<1>は,多なるものだということが明らかになった(143)」ともいう.つまり,有るとは,生()る,なる動詞であって,個体を生じさせる生成演算子である,と考え,無いとは,凪()((波風が)無くなる),なる動詞であって,個体を生じさせる消滅演算子であると考えればよいのである.

 

「したがって,1ありとすれば,数[のすべて]もまたなければならないことになる(144)」という.1が「生()る」なら,2もあるし,このように,すべての数が生成されるであろう.

 

「さてところがしかし,数があるとすれば,多もまたあることになり,存在の無限の多があることになるだろう.あるいはまた,数は多いこと無限となり,また有()を分有することになるだろう(144)」.ここで,パルメニデス(プラトン)は,ついに,無限な数が「ある」という.自然数全体の概念に近づいたようである.

 

[「点」とは広がりの<ない>ものである]

「したがって,それ()はできるだけ小にも,またできるだけ大にも,ありとあらゆる仕方での存在に細分されてしまい,部分への分割が極度に行われることになる.そして有の部分は限りないものとしてあるということになる(144B)」.こんどは,「有」が,あらゆる多に分有されることをいう.これは,拡がりとして有るモノ,例えば線分,を考えているのである.

 

「それからまた,いいかね,この部分に分かれたこのものは,どうしてもその部分があるだけの数あるということにならねばならない(144D)」.これは,広がりのある線分を分割することを考えればよい.

 

「したがって,あるところの1だけが多としてあるのではなくて,1がそれだけ(単独)でも,有によってすっかり分割されて,多としてあることが必然なのだ(144E)」.結局,有る,というコトは,多としてあるのであって,一個として有る,とは∃なる量化記号として,まるで広がりのない「点」のようにしてあるにすぎないということになるのではあるまいか.

 

[広がりの<ある>線分は1者か多者か,自己同一か自己非同一か]

「したがって,有としての1(あるところの1)は,思うに一つであって多,全体であって部分,有限であってまた無限の多ということになる(145)」.これも,一つの拡がりのある線分を考えてみればよい.

 

「そうすると,限られたものであるからには,また末端となるものを持つことになる(145)」し,「そこで1なるものは,始めもあれば,また終わりもあり,中もあるということになりそうだと見られるのだろうか(同)」ということになる.要は,始まり,終わり,中間といった時間的関係を線分のように考えているのであろう.ついに,「それは直線形か曲線形か,あるいは何か両者の混合といったものかもしれないがね(145B)」というわけである.

 

「したがって,いまもし全体の部分がまさに全体のうちにあり,しかもその全体が1であり,またまさに全体こそが1なのであるとするならば,そしてその全部[の全体]が全体によって包まれ(取りかこまれ)ているのだとしたら,11によって取りかこまれていることになり,またそのようにして,1はすでにそれ自身がそれ自身のうちにあるということになるだろう (145C)」.例えば,自然数全体の集合,ωを考えてみよう.ωは自然数の全体であるが,その部分である偶数の集合の濃度は,自然数全体と一対一に対応し,またωでもある.敢えて書けば,部分=全体,である.つまり,広がりのある線分は,自己同一でありながら,自己非同一であるのである.「1つの」まとまった線分と考えれば,それは自己同一であり,「(連続)無限な」数の「点」の集合と考えれば,それは自己非同一なのである.

 

[一と無限]

「しかし,全体が,部分の複数のうちにも,なにか一つのうちにも,また全部のうちにもないとすると,それは何かちがったもののうちにあるか,あるいはもはやどこにもないことが必然となるのではないか(145D)」.例えば,一片の直線は,全直線と等しい濃度を持つはずであるが,この一片が全体であるはずはないのであるから,全直線という全体はどこにもないことになるだろう.

 

「したがって,1は,全体である限りにおいては,他のもののうちにあることになるけれども,全部分がすなわちそれである限りにおいては,自分自身が自分じしんのうちにあることになる.そしてこのようにして,1は自分が自分じしんのうちあるとともに,またちがった他のもののうちにあるということになる(145E)」.空集合も,ωも,1あり多であり,自己非同一であり自己同一なのである.

 

[運動と静止]

1というものの本来のありかたがこのようなものであるとすると,それは動いてもいるし,止まってもいるということにならねばならないのではないか(145E)」.自己非同一であれば生成運動変化消滅する.自己同一であれば,永遠不変不動である.自己非同一であり自己同一であれば,動いてもいるし,止まってもいるのである.

 

「したがって,異はいかなる場合にも同のうちにあるようなことはないのだとすると,およそ存在するもののうちにあっては,異がうちにふくまれているようなものは,たとえひと時でも一つも存在しないことになる.なぜなら,たとえどんな時間にもせよ,何かのうちにそれがあるとすれば,その時間だけは同のうちに異があることになるだろうから(145E)」.自らのうちに,自己同一な関係,および自己同一な関係を同時に含むような有限な時間はないはずである.そうすると,あらゆる生成運動変化消滅は,時「点」として起こるしかない.つまり,あらゆる生成運動変化消滅する事象は,「点」原子でなければならないであろう.ボスコヴィチらの「点」原子論との類似性に注目すべきである.

 

[同一と差異]

「同じ規定をもつ限りにおいては,[それと]ちがったような規定は受けいれないことになる.ところが,ちがった規定をもたないのは,似ていないことはないということになる.」(148c)

事物を異なる,と「規定する」行為それじしんは,全く異ならないのである.事物を異なると認識する行為じしんは,相互に異ならないのである.異なると「述語する」コトは,あらゆる人間にとって普遍的かつ同一かつ同質な行為なのである.数の「多」性は,「数える」という人間の本質的に「同一」な行為に根ざすのである.

 

「それからまた,次のことも必然だ,11以外のものとですべてが尽くされるのであって,それ以外はなにもないということだ(151)」.さて,1以外のもの,とは何であろうか.現代情報理論では,01のみ,つまりφと{φ}とから世界は成立しているといわれるのである.

 

[存在と時間]

「じつにこのようにして,今度は,見たところ,1は数の上で自分が自分に対しても,また自分以外のものに対しても,等しくもあり,少なくもあるということになるのである(151E)」という.また「ところが,その<ある>というのは,有を現にある時とともに分有していることではないか(同)」ともいうのである.つまり,<ある>ということは,述語する「行」為,つまり分類する,認識する,行動することにおける,全ての述語の述語であるとすれば,<ある>ことは時間を分有せずにはいられないのである.もし,<ない>ということが,否定するコト,消滅させることであれば,<ない>と否定する,消滅させるコトも,<ある>コトの一つではなかろうか.つまり,<ない>コトも<ある>のである.およそ無事であること,平和であることが,大変な努力のたまものであるがごとく.湖面が鏡のように「凪ぐ」ことがいかに稀であるかのごとく.

 

「したがってまた,1は年長になりゆく過程において<今>にぶつかるとき,自分じしんよりも年下で『ある』,ということにもなる(152C)」.1が<ある>といわれるからには,<ある>が1に先行する.また,「ある」が動詞である(時間を分有するということは生成運動変化消滅を記述するコトバであるということであるから動詞である),また,全ての述語の述語であるならば,生成するコト,消滅するコト,等のいかなる反対概念も「ある」コトに含まれるであろう.

 

「しかし,次の点はどうかね.1は自分自身の自然のあり方に反して生成したものであるというようなことがはたしてあるのだろうか.それともそんなことは不可能だろうか(153B/C)」とバルメニデスは疑問を呈する.

 

「ところがしかし,1は部分をもつものだということがさきに明らかにされたのだ.そして部分をもつものなら,始めも終わりも中ももっているとされたのだ(153C)」.1とは,αでありωである,と意識されているのである.自己非同一な事物のすべてであるところのφと,それらが限定されてある一者である「点」であるところの{φと}の間に,時間を分有するべきモノゴトの全てが存在するのである,と.

 

「しかし1は時間を分有し,年長にも年若にもなり行くことを分有するものである以上,<いつか何どき>を分有し,<それ以後><>を分有しなければならないのではないか,いやしくも時間を分有するからにはね(155D)」.いまや,1とは,人間がモノゴトを「数える」という行為から発生するからには,時間を分有するのは当然なのである.言語とは,自然の事物(むろん人々の行為もそれに含まれる)の生成運動変化消滅を記述するために,自然が発見した「自らが自らを認識する鏡」なのである.

 

「したがって,1はあったのだし,あるのであり,あるだろう.また成り行くこともあったし,いま成りつつあり,またなることもあるだろう(155D)」.つまり,人間が,モノを数えるという行為がある限り,このようであろう.

 

「そして何かが1にとって,また1のものとしてありうるだろうし,またあったのであり,あるのであり,あるだろう(155D)」.人間にとって数えられる自然の事物がある限り,かくのごとくであるだろう.

 

1もしありとすれば,11とともに多であり,また1でも多でもないのものとなり,時間を分有する限りにおいては,1である点で,有()を分有するときがあり,1であることでは,また逆に有を分有しないときもあるということが必然となるのではないか.」(155E)

1である」と事物を「1」に述語づけるコト,すなわち「数える」という行為は,事実この通りなのである.

 

「事物が<ある>ということは時間とともに<ある>ことである」

「すると,<ある>ということを分取するときと,それを手放す(すてる)ときというものも,時間としてあることになるのではないか.あるいは,もし同じものを時によって取ったり,すてたりするのでなかったなら,それを時によってもっていることがあり,ときによってもっていないことがあるというようなことが,どうして可能だろうか(156)」.つまり,<ある>という述語は,<分取する>という動詞だけではなく,<すてる>という動詞をその要素として含む,すべての述語の述語である,というのである.

 

「では,その有の分取を,きみは<生成>(なる)と呼ぶのではないか()」.「これに対して,有の放棄を,<消滅>(なくなる)と呼ぶのではないか()」.ある,というコトバは最後の動詞であり,生(あ)ると,凪(な)ぐ,というにすぎない.

 

「つまり,1は,どうも見たところ,有を取り入れたり,すて去ったりすることで,生じたり,消えてなくなったりするわけだ(156B)」.1とは,数える,という行為,生成消滅演算子を内属させる個体であり,実体であるわけである.

 

[時間性と刹那滅]

パルメニデスは,刹那滅性について言及する.「<たちまち>(忽然)というものだ.この<たちまち>は何か次のようなもの,つまりそれかから両者いずれへでも変化できるかのような,何かそういうものをさし示しているように思われるからだ(156D)」.つまり,これは時間軸上の時「点」ともいうべきモノ,無限小,とでもいうべき時間要素のことである.

 

「ところが,この<たちまち>というのは,本来的に何か奇妙な(所在なき)あり方をするものであって,動と性()の中間に座を占めて,しかもいかなる時間の[経過の]うちにもない(時間が少しもかからないような)ものなのである(156D/E)」.これは,時「点」であり,いわゆる無限小であり,現代風な記述でいえば,dt,にほかなるまい.

 

「そして動いているものが静止に変化し,静止しているものが,動に変化するには,まずこの<たちまち>に入り,またこの<たちまち>から出なければならないのだ(156E)」.これは,いわば時間の種子,であり,生成運動変化消滅することにおける元素ともいうべき,dt,/t,つまり,時間的な意味での生成消滅演算子である他はあるまい.

 

「そして,それが変化するとき,それはいかなる時間の経過のうちにもないだろう.また,その場合,動いてもいなければ,静止してもいないだろう(156E)」.

むろん,無限小の時間においては何事も変化しないだろう.むろん,ddt=0,なのであって,変化量それじしんは不変であって,変化するコトが変化するはずもない.

 

「<ある>から<なくなる>(消滅)へ変化するとか,<ある>から<なる>ヘ変化する場合,そこに動と性の中[]といった種類のものが生ずるのだろうか(157)」.事物が生成するとか生滅するというコトは,いわば言語的空想にすぎなのであって,<ある>とか<ない>とか,という原子的な述語があるだけなのだ.

[再び,1と多,全体と部分]

「したがって,1以外のものがもし部分をもつならば,また全体を分有し,1を分有することにもなるだろう(157D)」.多,例えば,2はそれじしんが言語的な1者なのである.

 

「したがって,1以外のものは完全な(欠けるところのない)全体として部分をもつ,1なるものでなければならない(157E)」.一つではない,二つとか,三つ等々のあらゆる多は,それじしんが,数えることにおいて,一つの完結した述語である.

 

「しかし実際に直接的に1であることは,1そのもの以外には不可能だと思う(158)」.2は言語的には1者であっても,実際には2個のモノであるからには,それは1個ではない.現実に,多を述語する,という行為の原子性と,多として述語されたモノの非原子性をいうのである.

 

「ところで,その1から異なるものというのは,多ということになるであろう.なぜなら,もし1以外のものが1でもなければ,1より多いものではないとしたら,それは無(ゼロ,何でもない)ということになるだろう(158B)」.つまり,1と多,そして,1と異なる無が意識されているのである.

 

「どうだね,それが1を分取する過程にあるときには,まだ1であるのでなければ,また1を分有しているのでもないものとして,分取しつつあるのではないか(158B)」.つまり「1・である」ということは,統一性を獲得する過程,一者として限定されてある過程を経るはずである,といっているのである.

 

「すると,それは1がそこに内在していないのだから,多々(プレーテー)としてあることになりはしないか(158B)」.非1であるということ,1者が1としての統一性を獲得する以前には,何か,複数の前個体的質料のようなものがある,と想定されているのである.

 

[自然ははたして無限定(ト・アペイロン)か1者か]

「それなら,このようにしてこの種目の片一方の本来自然のあり方を,いつもただそれ自体のままで観るとしたら,いつもわれわれが見るそれの範囲では,それは無限に多いということになるのではないだろうか(158C)」.無限定な何かが,数多性であることをいうのである.拡がりのない「点」は純粋な1者であるが,現実に「ある」1者は(図形にせよ物体にせよ)カタチ(形相)という拡がりを有する個体であり,それは,個体を形成する以前の質料ともいうべき何かから形成されているが,それは数多である,というのである.

 

「それたからまた,いいかね,部分としてのそれぞれ1つのものが部分となったとき,それはすでに相互に対しても全体に対しても,限界を持っていることになる.またその全体もその部分に対して限界を持つことになる(158D)」.現実の1者は部分を持ち限定されて「ある」のである.しかし,純粋かつ言語的な1者とは拡がりという部分をもたない抽象的な「点」である他はないのである.

 

「かくて,1以外のものは,1からも,これに共同する1以外のもの自身からも,どうも見たところ,何か別のものがそれら自身の間に生じ,それがそれら相互に対する限界をもたらす結果になったようだ(158D)」.つまり,現実に「ある」といわれる事物には,限界が「ある」のである.

 

「しかし1以外のものがそれ自身でもっている本来自然のあり方は,[むしろ]無限性をもたらすものなのだ(158D)」.本来無限定を統一にもたらす何かが,1である,と認識するコト,つまり数える,という人間の行為なのである.しかし,その1である,とする言語行為を純粋に表現しようとすれば,それは無限者であるかもしれない拡がりを切り捨てた「点」である他はないのである.「無限定」なはずの現実の事物は,言語空間のいわば「点」になるのである.空集合や0記号,あるいは,幾何学的「点」は,現実に私たちが認識する,行為する,というシステムと,私たちが認識する,行為するという活動をシステム化するというコトにおけるいわば,接「点」なのである.

 

11以外のものといえば,それですべてが言い尽くされたことになるからだ(159C/D)」.

1と,無限定な数多性,がここに対立概念として登場する.現代数学は,この無限定な自然の数多性を,空集合,自己非同一な事物の全体,φ,として定義するのである.そして,無限定な事物から何かが限定されて「ある」ことを,1者,{φ},と定義するのである.ω,あるいは,{ω}=ω+1,も同様な事態である.

 

「したがって,もし11以外のものと別であり,部分を持つことがないとすれば,11以外のもののうちに全体としてあるということもなければ,また全体の部分としてあることもないだろう(159C)」.つまり,限定された端的な1者である1とは,幾何学的な「点」である他はないのであるから,無限定な拡がりであるところの部分を全く持たず,(全く拡がりがないのであるから)無限定な全体(ひろがり)の部分としてあることもないのである.

 

「したがって,1以外のものは,どのようにしても1ではなく,自分じしんのうちに1を少しももたないということになる(125D)」.無限定な拡がりを1であるような「点」の集合,と考えることで,現代数学は,無限定を限定することに成功したのである.連続体の場合は,∂/x(微分する),∫dx(積分する),という形式的な演算子でありそれ以上は分割できない論理的単位を導入することによって,本来は無限定な空間を量子化(原子化)することに成功したのである.

 

「したがってまた,1以外のものは多でもないということになる(159D)」.1であることに概念的に真に対立するのは,無限定であることなのだから.

 

「しかし実際には,1以外のものは1でもなければ,多でもなく,また全体でもなければ部分でもないのである.とにかくどんなにしても1を分有していないからにはね(159D)」.無限定は統「一」性を欠いており,数えられない,のである.それは空集合そのものの特性である.

 

[一切法空:自然は人間の言語「行」為に「縁って起こる」]

「またしたがって,それは同じでもなければ,異なるものでもなく,動くのでもなければ静止しているのでもない,生ずるのでもなければ亡びるのでもなく,またより大とか,より小とか,あるいは等しいということもない.そしてこのような規定のほかのものを何ひとつ受けいれることはしていないのである(160)」.不一不異,不去不来,不増不減,不垢不浄である.つまり,1に対立して,無限定であるということは,あらゆる言語化しうる属性をそのうちに持つことが全くない.つまり,事物が全く述語されていない,限定されていない状態がそれである,といっていいだろう.

 

「じつにかくのごとくにして,1もしありとすれば,1[1以外のものも]同様に,すべてであるとともにまた無でもあることになる(160B)」.世界は,空集合(限定されていない,世界における自己非同一なモノの集合)と,1={φ},つまり,コトバ(人間が自然に働きかける,あるいは働きかけられる全ての活動を記述するシステム)によって限定しうる事象であり,統一体であり,個体であり,つまり事物を表現する論理的原子たちからなるのである.

 

「だがしかし,もし1があらぬとしたら,何が帰結しなければならないかというのを,その後につづいて考察すべきではないか(160B)」.1があらぬコトを仮説する,ということは,言語によって事物が限定できないとしたら,もし,人間にとってモノ数える行為が不可能であるとしたら,をいうのである.

 

「すると,(何かがあらぬという)今この場合も,1もしあらずとすればとひとが言うとき,その<あらぬ>ものというのは,それ以外ものものとは異なる別のものとして言っているのだということを明らかに示しているのではないか(160C)」.つまり,最初に何かが,言語によって限定されていることによって,その限定されていることの否定が可能になるのである.

 

「そしてわれわれは,かれが言おうとしているものを知る(理解する)のではないか.(160C)」.知る,ということは,言語的な限定作用を前提とするのである.

 

「したがって,まず第一に,かれは何か知られうる(理解のできる)ものを言葉にしているわけである.次には,それそれ以外のものとは異なるものとして語っているのである(160C)」といわれるのである.

 

「それでは,次のようにして,1もしあらずば,何があらねばならぬのかを始めから論じて行かなければならない.まず第一に,それがもたなければならぬ規定と見られるのは,それの知識(理解)が存在するということである(160D)」.まず,自然の「何か」について限定された知識が「ある」ことが議論の前提なのである.

 

[不一不異]

「それなら,また1以外のものがその[あらぬ]1とは異なるということも.もしそうでなければ,それが1以外のものと異なるということさえ言われないことにならねばなるまい(160C)」.つまり,1である(自己同一である),というコトが不可能ならば,この言語的に確定された世界において一体何が帰結するか,いわば帰謬法で確かめようとするのである.

 

「それらかさらにまた,11以外のものに対して等しいということもない(161C)」.ここで,すでに自己同一性が語られていることに注意しよう.

 

「かくて,不等性というものをも1は分有することになるのではないか,そしてその不等性への関係において,1以外のものが1に対して不等であるということになるのではないか(161D/E)」.1が,1であることにおいて,すでに不等性を有する,というのである.

 

「したがって,見たところ,1はあらゆるもの(非有)であるということになるようだね(162)」といい,また「したがって,<あらぬ>ことがまさに求められなければならないとすれば,その<あらぬ>ことを確保するためには,<あらぬ>もので<ある>ことを保持しなければならない.それはちょうど<ある>ものが,<ある>の完全な確保の手段として,かえって<あらぬ>もので<あらぬ>ということを保持するのと同じようなものである(162)」.つまり,<あらぬ(自己非同一)>ためには,<あらぬ>という事態が(自己同一的に)あらねばならぬ,というのである.空集合の定義(自己非同一な事物の集合が(自己同一的に)存在する仮説する,つまりφの要素と仮説されるx,はすべて自己非同一であり,すなわち,xx,であるにもかかわらず,あらゆる集合は自己同一であって,φ=φ,であらねばならぬ)がこれである.このことによって,はじめて,集合論として自己矛盾する空集合を,集合論のシステムに取り入れることが可能になるのである.φは,あらゆる自己同一的に「ある」モノの基底であって,しかし,非自己同一者の全体のまま,無限定(ト・アペイロン)な質料のような何か,として「ある」ということになる.

 

[極小の<あらぬ>と極大の<ある>の「中」間としての言語世界]

「なぜなら,このようにすれば,<ある>ものは最大限に<ある>ことになり,<あらぬ>ものも最大限に<あらぬ>ことになるだろうからね(162)」.空集合を極小元,それから構成されるあらゆる集合を極大元とする集合論の体系,すなわちあらゆる可能な言語空間(事物を述語づけるコトの可能性の全て),が完成するようなものであろう.

 

「つまり<ある>ものの場合は,それが有(あるもの)<ある>という,その<ある>を分有することとともに,非有では<あらぬ><あらぬ>を分有することによって,それが完全に<ある>ための条件をみたし,<あらぬ>ものの場合は,あらぬもの(非有)<あらぬ>の非有(あらぬ)を分有するとともに,[それが]あらぬもの(非有)<ある>というその<ある>を分有することによって,あらぬものもまたそれなりにあらぬことの完全性を期することができるというわけなのだ(162B)」.つまり,ありかつあらぬものはあらぬ,自己矛盾しており自己非同一な事物を非有である空集合を極小として,あらぬはあらぬ,いわば何でもありの,言語記述の全ての可能性を「ある」とする極大な全言語空間ができあがるだろう.

 

「すると,あるものにはあらぬことが,あらぬものにはあることが分有されてある以上,1にもまたそれがあらぬものであるからには,あるということが分有されていて,それがまたあらぬためだということにならねばならいのではないか(162B)」.つまり,非有が非有であるためには,非有にもまた自己同一性が認められねばならない,というのである.

 

「かくて有(あるということ)もまた1にあると見られる,それがもしあらぬならね(162B)」ともいう.そして「したがって,あらぬ1というのは,また動くものであることが明らかになったわけだ.とにかく<ある>ことから<あらぬ>ことへの変化をもっていることが明らかなのだからね(162C)」.あらゆる現実に生成運動変化消滅する事物は,あらぬ1,自己非同一においてはじめて了解しるうであろう.

 

「それからまた1はある1にしても,あらぬ1にしても,自分じしんから何か変異することはない.なぜなら,もし自分が自分自身とはちがうものに変異するとしたら,いまこの議論ももはや1についてのそれではなく,他の何かについてのそれとなっていただろう(162D)」.1を言語的存在者として了解しようとするならば,それは自己同一でなければならないであろう.

 

「したがって,見たところ,1はあらぬものとしては静止しているし,また動いてもいることになる(162E)」ともいう.

 

「そしてこのようにして,1がもしあらぬとすれば,生成し消滅するとともに,生成もしなければ消滅もしないということになる(163B)」.あらぬ1としての空集合φと,あり続ける1,つまり{φ},とが述べられている,と考えることもできよう.

 

「ところで,<なる>こと,<なくなること>というのは,有を分取すること,有をなくすことにほかならないはずだね(163D)」.現代では,<なる>=生成演算子,<なくなること>=消滅演算子として考えるわけである.

 

「まことにこのようにして,1はあらぬものである限り,どのようにしても何らかのあり方(所持)をするこということはないのだ(164B)」.つまり,空集合は,あらゆる属性,つまりあらゆる述語を全くもたないであろう.

 

[バルメニデスの「夢」:無限定なるモノははたして1者でありうるか否か]

「もっとそれでは,さぁ論じてみようではないか,1もしあらずとすれば,1以外のものは何の規定を受けいれねばならなくなるかを(同)」.1がない,ということは全てが非限定であり,非自己同一であるということであった.

 

「しかしながら,それらの集まりからできているかたまり(集塊)は,みたところ,それぞれに無限の多を含んでいるみたいなのだ(164C/D)」.パルメニデスの「夢」がはじまる.

 

「たといその最小[部分]と思われるものをとってみても,まるで眠っているときにみる夢と同様,今まで一つと思われていたものが,突然いれかわって多となり,極小のものだったのが,たちまち入れかわって-今まで一つだったものがたくさんの断片(かけら)になって砕けると,それに対しては-[今度は]むやみに大きく見えたりするのだ(164D)」.つまり,数えられるモノ,自己同一なモノは全く何もない,無秩序な夢のような風景である.アリスの夢の世界を空想される人もあるかもしれない.これをパルメニデスの「夢」とでもよぼうではないか.

 

「だから集塊がたくさんあることになるのではないだろうか.それの各々は一つに見えるけれども,とにかく1はあるべきでないとすると,実際は1ではないのだからね(164D)」.

また,このようにもいう.「また,それらの数もまた存在するかのように思わくされるだろう,それかがちょうどまた1と思われるならば,それらは[集まって]多を成すことになるからね(164D/E)」.

 

「そしてその一部は偶数,他は奇数というように見えるだろう.真実のところは1がもしあるべきでないなら,そうあるわけはないのだけれど(164E)」.多であるが,偶数であるか奇数であるかもわからない.つまり,<>であることを欠くから,多としても1としても数えられないのである.

 

「つまりひとが思考の上だけてとらえる存在なるものはすべて,くだけて細分されねばならないものだとわたしは思う.なぜなら,そこでとらえられるのはいつも[1のない]統一性を欠いたかたまり(集塊)なのだろうからね(165B)」.つまり,数えることのできない事物の集まりとは,パルメニデスの「夢」であり,「空」想的に事態にすぎないのである.

 

「それなら,とにかくこのようなものは,遠くからぼんやりして見ていれば,一つのものと見えるけれども,知覚から鋭く注意しながら考察するなら,その一つ一つが無限の多として現れることは必定なのだ,1はあらぬものとしてそこから取り除かれるとしたらね(165C)」.1が存在するとは,事物が正確に数えられることであり,無限定を限定することであり,それは,無秩序な事物を統一し,秩序づける原理なのである.

 

「それはつまり,1以外のものは,あらゆるもののいかなるものにも,いかなる仕方いかなる意味においても,決していかなる共同関係をもつことはなく,またあらぬものの何かが,1以外のものの何かのところに宿るということもないからだ.なぜなら,あらぬものには部分は一つもないからね(166)」.かくして,空集合の一意性が証明され,世界は無限定をただ一者として限定することからはじまる,というわけでもあろうか.

 

[言語「行」為は無限定を秩序づける]

「そこでまた,これをまとめて,1もしあらずば,何ものもあることなしと言えば,それは正しい言い方になるのではないか(166C)」.つまり,1={φ},とはあらゆる存在を秩序づける言語「行」為なのである.

 

「そしてまた,見たところ,1がもしあるとしても,またあらぬとしても,11以外のものとは,自分じしんに対する関係と相互の関係において,あらゆる仕方であらゆるものであるとともに,またあらぬのであり,そのように見えるとともに,そうは見えないことになるということも(166C)」.1(={φ})としてあるモノどもと,それ以外のあらぬもの(=φ)の関係は,かくして語り終えられたのであった.