ティマイオスの夢

−プラトンの自然学−

©雪山童子&老いたるモグラ

[はじめに]

プラトンの『ティマイオス[1]』という対話編には「自然について」との副題がついています.プラトンに「自然学」という学問があったということに驚く人のほうが多いのではないでしょうか.彼は,むしろ反・自然であるイデアの世界の実在を説いたということにおおかたの哲学史の教科書ではなっているからです.しかし,彼は『ティマイオス』において,その登場人物であるティマイオスとクリティアスの口を借り,現代では自然と呼ばれる私たちの住む世界の,その創造の「神話」を語ろうとするのです.

 

当時のギリシア人,とくにポリスにあって自由市民と呼ばれた人たちにとって,神的である,とは不死であり永遠であるようなモノども一般のことにほかならず,そうした神的なモノどももまた,自然のうちなるモノどもなのでした.古代の人びとの多くは,必ずしも自然の外なるモノ,自然を超越しておりそれを外から支配するモノとして神的なモノを考えたわけではなかったのです.

 

ギリシアの市民たちは,外部からはいかなる束縛も受けない自由人たることを欲したのでありましたから,むしろ,自然がおのずから神的なモノどもをも生み出したのであって,あるモノが神的であるということにおいては,それを永遠不変であるような自然の中の「何か」として考えたのでした.それは,私たちがある種の科学法則が永遠不変でありうる,と考えることとほとんど同様のことだったのではないでしょうか.

 

しかし,ソクラテスはそれにあえて反逆を企てたのでした.すなわち,古代の人間的な神々ならぬ神霊(ダイモーン)なる神を立て,そのゆえに,不信のかどによって裁判にかけられて刑死したのです.プラトンはその遺志を継承し,すべてが生成消滅変化運動するこの自然のうちに生じたモノでは<ない>神,この宇宙の外にあってこの宇宙(コスモス)の作り手であって永遠不変であるような(彼にとっては真実の)神を立てようとするのでした.その理由は,<この>宇宙なる自然のうちにあっては,何ものも生成したからには消滅を免れぬからであったでしょう.<この>自然なる宇宙において永遠不変なモノが<ある>としたら,それは,この転変して常なき自然の「内において」生じたものではなく,この宇宙の「外から」もたらされたものである他はないと考えたのでしょう.

 

[神話について]

クリティアスはその父祖であったクリティアスから伝えられた神話をこのように語りはじめます.「エジプトのデルタ(三角州)の中に,ちょうどナイル河の分岐する頂点のあたりになるが,サイス州と呼ばれている一つの州があるのだ.そしてその州最大の都市がサイスなのだが−アマシス王もほかならぬここ出身の人だったのだ−その土地の人々がかれらの都市を開いた守護神としているのは,エジプト語ではその名をネイトと呼ぶある神様なのであるが,これはギリシア語では,かれらの説によると,アテナだというのである[2]」といわれるように,ポリスの守護神でありそこにおいて神的とよばれたものどもとは,ポリスに住む人間たちの祖先でもあり都市の建設者でもあって,そこに住む人間たちに永遠に記憶されてしかも現在すべきものどもであったのでした.

 

しかし,現代の観点でこれをいえば,人間たちが都市を作りまた神を作ったのはあまりにも明らかではないでしょうか.すなわち,人間が自然のうちにおいて自然に創り出されたものであるならば,神もまた自然のモノに他ならないはずであって,自然によって作られた人間たちが,自分たちに似せて,その理想としての神々を作ったのが実相だったでありましょう.

 

プラトンはさらにエジプトの神官に語らせていうのです.「人類の滅亡ということは,いろいろな形でこれまでも多々あったことでもあり,今後もあるだろうが,その最大のものは火と水によって惹き起こされるのであって,ほかにも,無数の他の原因にもよる物もあるか,このほうはさほど大きなものではない[3]」.つまり,プラトンは人類の滅亡の原因を,この自然の必然的な運動のうちに求めているのです.

 

「というのは,おおソロンよ,かつて水による最大の破壊にみまわれる以前に,現にアテナイ人の国であるところのあの都市国家が,戦争にかんしても最強であれば,またあらゆる面で卓抜した法秩序を持っていたことがあるのだ[4]」.つまり,市民たちの国家の法でありその秩序であるとは,おのずから生じたモノどもである市民たちのじしんのうちにあったのであり,それが当時の人びとの「自然の法」でもあったのでした.

 

[<ある>ということと<なる(生成する)>ということの差異]

ティマイオスは「この万有について,それがどのように生成したのか,あるいはまた,それはもともと生成したことのなかったものなのかどうかを,何とかして論じようとしているのですから[5]」と,この自然なる宇宙の起源を語りはじめるのでした.すなわち自然を語るにおいては「まず第一に次のような区別を立てなければなりません.つまり,常に<ある>もの,生成というものをしないものとは何なのか.また,常に生成していて<ある>ということの決してないものとは何なのか,ということです[6]」とティマイオスはいうのです.また「すなわち,前者は,常に同一を保つものなので,これは理性(知性)の働きによって,言論の助けを借りて把握されるものであり,他方,後者はまた,生成し消滅していて,真に<ある>ということのけっしてないものなので,これは思わくによって,言論ぬきの感覚の助けを借りて思いなされるものなのです[7]」とも.

 

しかし,これは私たちが素朴に日常的に親しんでいる自然観とはまったく正反対ではないでしょうか.私たちが真に<ある>と思っているのは,生成運動変化消滅しつつあって,また直接に感覚を経由してはじめて知覚されうるような「この・自然・現象そのもの」なのでありまして,それらは,「この」本や,「この」コンピュータや,「この」一個のリンゴであったりする具体的な個体であり個物といわれるモノなのです.また,私たちが自然の存在を「感じる」のは,例えば,森林浴の場合における森の「風」であったり,せせらぎの水の「流れ」であったりするような「動的なプロセス」であり「現象」においてなのです.

 

これに対して,言論や知性や理性においてとらえられたものは,むしろ架空のモノであり静的なモノに他ならないのでありまして,たとえそれがコンピュータ・シミュレーションの場合におけるように動的に見えたとしても,それは畢竟ヴァーチャル・リアル(架空現実)なモノであるにすぎず,決して自然必然な存在とはみなされえないのです.ところがそれに対して,プラトンは静的であり言語的方法によってしか捉えられぬ「何か」を<ある>と呼び,真なる存在とするのです.確かに,<ある>と呼ばれる言語的な<ある>とは,永遠に自己同一に<ある>他はないのですから,ひょっとすると,言語の自己同一性,コトバのもつ(と人びとに思われている)その自己同一性こそがプラトニズムの正体なのではなかったでしょうか.

 

「さらにまた,生成するものはすべて,何か原因となるものがあって,それによって生成するのでなければなりません.何故なら,どんなものにしても,原因となるものなしに生成することは不可能だからです[8]」とティマイオスはいうのです.つまり,プラトンは無からの創造,原因なしに生成が起きるような事態をはっきりと否定します.

 

「ところがさて,何を製作するにしても,その製作者が,常に同一を保つもののほうに注目し,その種のものを何かモデルに用いて,当の製作物の形や性質を仕上げる場合には,そのようにして作り上げられるものはすべて,必然的に立派なものとなります[9]」が,これは当然のことです.何を作るにしても,その基本となるべき構想や設計図がシッカリしていないと,どんなモノも立派に美しくは仕上がりません.例えば,ギリシア彫刻やパルテノン神殿を思い浮かべればいいでしょう.こうした長い時を経て自己同一であるようなモノどもには,静的な完全さ,完成したカタチ,そして静謐さや厳粛さが明らかに認められるのです.

 

さて「宇宙は,生成の出発点というものがまったくなくて,常に<あった>ものなのか,それともある出発点からはじまって,生成したものなのかということです[10]」が問題となるでしょう.これにたいしてティマイオスは「[しかしそれは]生成したのです.何故なら,それは見られるもの,触れられるもの,身体を持ったもの(物体性を備えたもの)であり,すべてこうしたものは感覚されるのですが,この感覚されるもの,つまり思わくによって,感覚の助けを借りて捉えられるものが,生成するもの,生み出されるものであることはすでに明らかにされたことだからです[11]」と,私たちが生きるこの自然や宇宙が,感覚しうるのもとして「現に・ある」ことをハッキリと認めます.

 

「ところがまた,生成したものは,何か原因のあるものによって生成したのでなければならないと,われわれは主張しています[12]」ということになりますと,この宇宙が永遠不変であって美しく自己同一的であるということと,生成した,ということとは矛盾しないでしょうか.「つまり,宇宙の構築者は,モデルのうちのどちらのものに倣って,この宇宙を作りあげたのか.同一を保ち,恒常のあり方をするものに倣ったのか,それとも,生成したものに倣ったのかということ[13]」が問題になります.ということで,「さて,もしこの宇宙が立派なものであり,製作者がすぐれた善きものであるなら,この製作者が永遠のものに注目したのは明らかです[14]」とティマイオスは,永遠のものに象って,宇宙の外なる製作者がこの宇宙を創造した,というのです.

 

ところで,現代の生物学は興味深い事実を発見しました.あらゆる生命体の設計図はゲノム情報なのであって,それはかなり長い間不変に止まる「しくみ」をもっていて,それは連綿として伝えられる,ということなのです.ゲノム情報は,細胞から細胞へコピーして伝えられ,そのコピーの過程は驚くほど正確でかつ不変である,ということです.つまり,生物はそれじしんにおいてそれが「何であるか」を語るコトバをもち,それによって自己同一性を保つ,ということが続々と判明しつつあるのです.むしろ,自然に生きるモノたちは自らのうちに自らを形成する原理をもっているのであって,自然の「外から」の製作者を全く必要としないのです.自然とは,「自ずから然(し)かるべく」生じたモノなのであって,自然のうちにあってイノチあるモノとは,全て自らのうちに自らをカタチ作る原理を内包するモノなのです.

 

「そこで,このようにして生成したのですから,宇宙は,言論と知性(理性)によって把握され同一を保つところのものに倣って,製作されたわけなのです[15]」とティマイオスはいうのですが,これは現代においてもなんら間違いではありません.つまり,あらゆる生命体がもつゲノム情報とは,イノチあるモノが,それじしんをこの自然において語り出だすコトバ,イノチあるモノをイノチあらしめるコトバなのです.現代科学技術は,エネルギーの流れの局所的「ゆらぎ」が,ネゲントロピー(=情報)を作り出し,それによって秩序やカタチが生成されること,つまり,自ずから生じた設計図に書き込まれた情報に従って構築された製造プロセスによってあらゆる事物が生産されることとして,万物の生成過程を説明しようとしています.

 

さて「すなわち,『生成<なる>』ことに対する『有<ある>』の関係が,『所信』[にすぎないもの]に対する真実についても成り立つのです[16]」とティマイオスはいうのですが,これはつまり,自己同一性の高ければ高いほど,その真実度が高い,というのです.現代の私たちは,これを自然法則の再現性が高ければ高いほど,その法則性の真実らしさ,原理性が高い,というカタチで見出すのです.およそ真理であるとは現実の生活において私たちが繰り返し体験しうる事実たちをこそ,その根拠としていることをけっして忘れてはならないのです.

 

[善きものと悪しきもの −秩序と無秩序−]

「すなわち,神は,すべてが善きものであることを,そして,できるだけ劣悪なものは一つもないことを望み,こうして可視的なもののすべてを受け取ったのですが,それらはじっとしていないで,調子外れに無秩序に動いていましたから,これをその無秩序な状態から秩序へと導きました[17]」とティマイオスはいうのです.しかし,現代の私たちは,可視的なものが必ずしも無秩序に動いているわけではないことを知っています.むしろ,動的なプロセスが自然の内なる「何か」によって統合されることによって,混沌から秩序が「自ずから(自然に)」生成されるのです.自然はもはや自然の「外」なる善き創造者をまったく必要としていないのです.

 

しかしプラトンは,この宇宙の万物においてその善き製作者を想定しています.このような神的な創造者を必ずしも必要としないという点で,当時プラトンに対立していた自然の論理が古代の原子論だったともいえましょう.

 

「ところがまた,理性は魂を離れては,何ものにも宿ることはできない[18]」とティマイオスはいうのです.理性とは,現代でいえば言語処理能力であり,推論能力のことであると考えられるようになりました.ここでいう「魂」とは,プシュケーと呼ばれ,心魂と訳されることが多くなりました.それは,イノチあるモノ一般がもつ,環境を認識しそれに適応して生き遂げる認識能力であり行動能力を含む広い概念です.自然のうちなるイノチあるモノのうち,シンボル操作能力や,とりわけ言語処理機能にすぐれた動物種が人間と呼ばれるようになったのです.

 

「というのは,じっさい,理性の対象となる生きもののすべてを,かの宇宙のモデルが自己自身のうちに包括して持っていることは,ちょうど,この宇宙が,われわれや,その他可視的なものとして構築された限りのすべての生物を包括して持っているのと,同様だからです[19]」とティマイオスはいうのです.しかし,いまや事態は逆なのであって,あらゆる生命体は,自らのモデル,つまり自らの設計図を自らのうちに,ゲノム情報として,イノチあるモノが,世界に対してみずからを語るコトバ,として持っている,ということがよりはっきりしてきたのでした.私たちという個体は,それじしんが一つの宇宙でありコスモスなのであり,それを秩序づけて生成する原理は,みずからのうちなるコトバであるゲノム情報なのではないでしょうか.

 

[宇宙は一つであるか多であるか]

プラトンは,宇宙が一つの生き物であるかのごとくにいうのです.すなわち,「何故なら,およそ理性の対象となる生きものすべてを包括しているものが,いま一つの[自分と同じような]別のものと併存していて,それら二者のうちの一つだということはありえないでしょうからね.もしそうだとすると,それら二者を包括する生きものが,さらにまた別個にあるべきだということになり,前二者は後者の部分にすぎないことになるでしょう[20]」というのですから.

 

しかし,いまやあらゆるイノチあるモノを包摂するような普遍的な生きものなどはいない,ということがますます明らかになってきています.イノチあるモノたちの全ては,それじしんのうちに,それじしんの多様なゲノムを持つことによってそれぞれに生き遂げてきたのです.むしろ,イノチあるモノの普遍性とは,あらゆる生命体が自らのうちなるゲノム,自らを世界に対して語り出すコトバをもち,それを世界に展開して生き遂げるのである,というそうしたイノチあるモノの原理そのものにあるといえるのではないでしょうか.いまや,宇宙は,そしてイノチあるモノの世界は多様であり多元になりつつあるのです.プラトンが私たちの外にあって,この自然を形成した原因であって,世界において単一であり普遍であると考えた原理は,あらゆるイノチある多様なモノたちに内在する自然法則となりつつあるといえるでしょう.

 

[宇宙の原理は数である]

プラトンが想定した宇宙の原理とは何だったのでしょうか.ティマイオスは「ところで,生じたものと言えば,これは物体的なもの,可視的・可触的なものでなければなりません.ところが,火を欠いては,どんなものもけっして可視的なものとはなりえないでしょうし,また,何か固体のものがなくてはどんなものも可触的とはなりえず,土なしにはなにものも固体とはなりえないでしょう[21]」といい,質料としての火や土をきちんと認めます.火はみずから光を発「する」ことによって明るく「ある」のであって,明るく「ある」コトによってはじめて,それは見られるモノとなります.土はみずから凝固「する」ことによって固く「ある」のであって,固く「ある」ことによってはじめて,触れられるモノとなるのです.ここでは,火や土などの質料の能動性,つまり,その発光性,凝固性が,それぞれの可視性,あるいは可触性の原理であることがすでに意識されているといえるでしょう.

 

「こうしたことから,この万有を構築するにあたって,神はこれを,火と土から作ろうとしたのです.ところが,二つのものが,第三のものなしに,二つだけでうまく結び合わさることはできません.というのは,一種の絆のようなものがその両者の中間にあって,それらを結合させるものになってくれなければならないからです[22]」とティマイオスは続けます.つまり,二つの異なるモノを結合するためには,それらの間に働く関係性を成立させるべき原理が必要とされるのです.

 

その関係性の原理とは何でしょうか.「絆のうちでもっとも立派なものといえば,それは,自分が結び合わせる当のものを,さらに自分自身とも最大限に一体化させるものがそれでしょうし,またそのことを,その本性上,最も見事にやってのけたるのが,比例というものなのです[23]」とティマイオスはいうのです.比例とは,みずからがみずからに対する関係である,というわけです.

 

ratio()が理性的であること(rational)の語源であるわけは,理性とはみずからがみずからに関係することであるといわれるそのゆえんなのです.つまり,数学「する」とか「算術する」とか「幾何学する」ということが,理性「する」ことの代表格とされるゆえんであり,それは数を入力とし,数を処理して,ついに数を出力する,つまり計算「する」ことであり,それは,数みずからが数みずからに対して関係づけられていることを表すのです.理性をもつ,ということは「計算する」ことができる能力をもつことであると考えられていたのです.

 

この比例関係について,ティマイオスは「というわけは,三つの数のうちで,任意の立法数なり平方数なりの間に中項となるものがあって,初項対中項が,中項対末項に等しく,また逆に,末項対中項が,中項対末項に等しいという関係が成り立っているとすると,その場合はいつでも,中項は初項にも末項にもなり,また末項と初項は,両者とともに,今度は中項ともなるのでして,このようにして,すべては必然的に同じものだという結果になるでしょうし,お互いとの関係で同じものになるのだとすると,そのすべては一つだということになるだろうからです[24]」といいます.この比例関係は,a^2ab b^2,あるいはa^3a^2bab^2b^3を考えてみればよくわかるでしょう.

 

つまり,数学の世界においては,数とは自己同一であって完全でありまた永遠不変であり,数たちは関係しあって数の体系と呼ばれる「一つのシステム」つまり永遠不変な世界,イデアのみで成立するいわばコトバの世界,言語空間を形成しているというのです.そして,そうした言語空間におけるロゴス的存在である数との関係においてはじめて,現実の事物が形成されうるということになるでしょう.近・現代における数学的自然観,自然は数学によって記述される,つまり自然は計算可能である,とする観点の源泉がここにあるといえるのではないでしょうか.

 

「さて,この万有の身体が,仮に面だけのもので,何の奥行きもないものとして生じるべきであったとすれば,中項は一つだけで充分,自分とともにある諸項と,さらに自分自身とを結び合わせることができたでしょうが,実際には立体的なものであるのが,宇宙の当然のあり方でなくてもならなかったのですし,また,立体の場合は,けっして一つの中項がではなく,いつも二つの中項がこれらを結び合わせるのです[25]」.世界は3次元であるがゆえに,4つの数的原理が必要である,ということです.

 

「まさにこのようなわけで,神は,火と土との中間に水と空気を置き,そして,それらが互いに,できるだけ比例するように仕上げました.つまり,つまり,火対空気が空気対水に等しく,また空気対水が水対土に等しいように仕上げたのでして,こうした可視的で可触的な宇宙を,結び合わせ,構築したのでした[26]」.つまり,火,空気,水,土という四元素である質料の根拠を,3次元という空間の次元の数から説明しようとします.私たちはこうした数によって宇宙の秩序を形成しようとするプラトンを簡単に笑うわけにはいきません.例えば,量子力学における殻(shell)モデルのように,世界中のありとあらゆる原子は数学的秩序にしたがって階層的な秩序において形成されている,と説明されるのですから.

 

「そして,以上のような理由によって,また以上のべたような数にして四つのものを材料にして,この宇宙の身体は,比例を通じて整合されて生み出され,またそのところから親和力を得たのでして,その結果,それは,自己同一的な一体をなして結合し,これを結合させた当事者以外の何ものによっても解かれえないものとなったのでした[27]」.つまり,数的比例関係こそが,あらゆる事物を自己同一に保つ原理である,というのです.

 

現代の私たちは,ゲノム情報に書きこれまた遺伝子情報が,mRNA情報に転写され,そのmRNA情報がタンパク質なる機能物質に翻訳されて,そうしたタンパク質たちのネットワークがイノチあるモノの秩序を成立させている,ということを知るに至りました.確かに,イノチあるモノの自己同一性を成立させている原理は,数でありまたコトバであり,つまりは情報なのでした.そして,イノチあるモノが自己同一性を保っているという現実の事態は,多くの物質や細胞が関係しあった,動的なプロセスのその関係づけられた集合の統合されたその結果だったのでした.

 

[宇宙という「一つのイノチあるモノ」は完全か]

プラトンは,宇宙とは一つの完全な生き物であるというのです.「ところで,これら四つのものの一つ一つどれについても,その完全な全部をこの宇宙の組織は取り入れました[28]」.プラトンは土,水,火,空気なる四元素が世界の構成要素であり質料(素材)であるとします.これらは,数的比例から成っており,宇宙の永遠不変な要素であると考えられたのです.そして「すなわち,火のすべてと水にしても空気にしても土にしても,それぞれのすべてから,構築者は宇宙を構築したのでして,どんなもののどんな部分も,また機能をも,外部に残すことはしなかったのですが,それは次のような意図があったからです[29]」.

 

宇宙製作者の意図とは何だったのでしょうか.それは「つまり,第一に,宇宙が,完結した諸部分からなる,最大限に完結して全体性を備えた生きものであるようにということ[30]」だったのです.宇宙全体は一つのイノチあるモノ,しかも完全な生き物として製作されたのでした.

 

「それに加えてまた,他に同種のものが生じようにも,その材料が残っていないために宇宙がただ一つだけのものになるようにということ[31]」が宇宙製作者の意図でもあったので,宇宙はそれじしんで自己完結した一者なのであるというわけです.しかも,「なおまたそれが不老無病であるようにということ[32]」が製作者の意図だったのでした.

 

このように,プラトンの考えた宇宙は,永遠不変であり不老不死であるような生き物だったのでした.しかし,現代科学技術は,この宇宙が決して不老不死などではないことをすでに見出ししつつあるのです.ブラックホールがすべてをのみ尽くしたあとは,宇宙は熱的死をとげる他はないだろう,という仮説すら登場しているのですから.

 

また,プラトンの考えた宇宙とは孤立した一者なのです.「というのは構築者は,合成体というものについて,次のようなことを見てとっていたからです.すなわち,そのようなものは,熱いもの,冷たいものなど,すべて強力な機能を持ったものが,外部からこれを取り巻いて攻撃して来るようなことがあると,こうした外部のものがこれを時ならずして解体し,病気や老いを招いて衰えさせるものだということです[33]」.

 

プラトンは,老化や病気の原因が,イノチあるモノの「外から」来る,と考えていたのでした.しかし,現代科学技術においては,老,病,死は,外的な環境から起こるだけではなく,むしろその内部から来る要因もまた大きい,と考えられています.あらゆる生命体には,内的な,その外界に対する適用力,防御力,例えば,免疫力や自己治癒能力をもっており,それが何らかの外的/内的要因によって破綻すると,生命体は病気になるのではないか,といわれるようになりました.現代医療は,こうした生命体それじしんが持つ内部的な自己治癒力,自己再生能力を最大元に活用することによってはじめて成立しているといえましょう.

 

ティマイオスは主張します.「まさにこのような理由のために,またこのように推理したために,構築者は,どれもが完全なすべての材料から,一つの全体性を備えて完結した,不老無病のものとして,この宇宙を造作したのでした[34]」と.しかし,現代の天文学は,この宇宙が驚くほど巨大でかつ動的であり,混沌からの生成運動変化消滅の過程にあることを明らかにしつつあります.現代の生命科学は,あらゆるイノチあるモノは40億年という長い年月をかけて多様に進化してきたのであって,未だ完全であることからはほど遠く,ほとんど必然的に老い,病み,死んでいく,ということを明らかにしつつあるのです.

 

ティマイオスは「形としては,作り主は,宇宙に対して,それにふさわしく,またそれと類を同じくする形を与えました[35]」というのです.しかし,この宇宙が老,病,死をとげるとしたら,その「作り主」がそれと無縁であることがありえるでしょうか.この自然なる宇宙においては,すべて生成されたものはいずれ滅びることが観察されるのですから.

 

[宇宙はモナド(単子)である]

ティマイオスは宇宙のカタチについて,「ところが,すべての生きものを自分自身のうちに包括すべき生きものにふさわしい形といえば,それは自分自身のうちに,あらん限りのすべての形を含んでいる形でしょう.だから,構築者はこれを,中心から端までの距離がどこも等しい球形にまるく仕上げたのですが,これこそすべての形のうちで,最も完結し,最も自分自身に相似した[どの部分も相似した,つまり一様な]形でして,構築者は,相似しているもののほうが,相似していないものよりも,はるかに美しいと考えたわけです[36]」というのでした.つまり,それが球形であるというのでした.

 

プラトンは完全な3次元図形としての球体を宇宙のカタチに当てはめたのでした.ケプラーが楕円を発見するに至るまでは,宇宙が完全な3次元内の形状であるところの球体であろうことが,コペルニクスまでをふくめた人たちの宇宙のイメージの,その源泉になっていったのでした.

 

つづいて,ティマイオスは「そのもの(宇宙)は,眼というものを少しも必要としませんでした.外部には,眼に見えるものは何一つとして残されていなかったからです.それは聴覚の器官をも必要としませんでした.聞こえるものもなかったからです.また呼吸されることを要求して来る周囲の空気もなければ,またそれは,自分のうちへ入って来る食物を受け入れたり,すでに養分を吸収し去った後の食物を逆に放出したりするためのどんな器官をも持つには及びませんでした[37]」と,宇宙はその外部にむけたなんの器官ももたないことをいうのです.これは,後にライプニッツによって窓のない小宇宙である「モナド(単子)」として定義されるに至る予定調和のイメージではないでしょうか.つまり,この自然の中にあって,イノチあるといわれるモノは,その内部にすべての自己を展開する述語を持っている,ということがライプニッツのイメージでした.プラトンの宇宙は,それと全く同じように,みずからのうちにそのすべての述語,つまりその属性であり構成要素であり,機能でありを,全て含む一者であったのです.このモナドのイメージは,生命体とは,自らが自らを自然なる世界に適応しつつ展開するモノであることから,現代生物学においてはますます重要なものになりうるのではないでしょうか.

 

[宇宙の運動について]

プラトンが考えたこの宇宙の運動は,どんなものだったのでしようか.宇宙には,7つの運動があるといわれました.前後,左右,上下,そして回転運動の7つです.

 

さて,この7つの運動のうちで,宇宙の運動に割り当てられたのは何だったのでしょうか.ティマイオスはこれについて「作り主は,宇宙に対して,その身体に本来ふさわしい運動を,つまり七つの運動のうちでも,理性や知力にとりわけ深い関係のある運動を割り当てた[38]」といいます.理性や知力は,自己が自己に対する関係のみにかかわります.それはつまり自己同一性のみにかかわるのですから,その運動は永遠の円運動,回転運動でなければならないのです.実際に,幾何学的な円はどれだけ回転させても全く自分のカタチを変えません.

 

「それだからこそ,作り主はこの宇宙を,同じ場所で,また,それ自身の占めている広がりの範囲内で,一様に回るようにし,こうして円を描いて回転運動をするようにしたわけでして,他の六つの運動は,すべてこれを取り除き,宇宙がこれらの運動に与って彷徨うということのないようにしたのです[39]」.つまり,惑星のように天球上を彷徨うかのような運動を排除して,純粋な永遠の回転,いわば天球の回転運動のみを永遠であるとしたのでした.しかし,後に地動説に明らかにされたように,実は,天球の永遠の回転運動とは,この地球の「自・転」運動にほかならなかったのです.むろん,この自転運動とても永遠不変ではありません.数年に1秒程度の「閏秒」が必要な程度ではありますが,地球の自転は確実に遅くなっていることを現代科学技術は明らかにしつつあるのです.

 

ティマイオスは「以上はすべて,<常にある>ところの神が,いつかあることになるはずの神について考えた推論でして,これにもとづいて,神は,なめらかで,均質で中心からどの方向への距離が等しく,材料となる諸物体が完結しているために,それ自身もまた全体性を備えて完結している一つの身体を作ったのでした[40]」というのです.プラトンは,ギリシア人たちが自然によって,自然から生成されたと信じた神々を超えて「常にありつつ」自然を「外から」創造し制作した神をイメージしたのでした.彼は,イノチあるモノ,ココロあるものが,みずからを形成しうる能力を内在している,という自然の「自己生成の論理」,自然は自らが自らにおいて自らを形成するという原理,当時の自然学者たちの理論をどうしても否定したかったようです.

 

[プラトンの魂(プシュケー)]

さて,いよいよ問題の「宇宙の魂」とやらに移りましょう.ティマイオスは語るのです.「そして,神は,その真中へ魂を置き,これを全体を貫いて引き延ばし,さらに外側から体の周囲を魂で覆い,こうして,円を描いて回転する,まるい,ただ一つっきりしかない宇宙を据えつけたのでした[41]」と.つまり,この宇宙は孤独な1者であって,魂を持っており,完全であって自立しており,いわば理性であり魂であるようなモノをもつ,生きた個体なのであって,分割しえぬモノ,つまりモナド(単子)なのでした.

 

そしてまた,「しかしこの宇宙は,すぐれた性質を備えているために,自ら自分と交わることができ,ほかには何ものをも必要とせず,自分で十分に,自分の知己たりえ友たりえたのです[42]」ともいいます.これは,『饗宴』にも登場する,自足しており自己同一で永遠不変であるがゆえに幸福であるような神あるいは原始人(いわゆる太陽族)のイメージでしょう.「しかし神は,魂と身体とでは,後者が支配さるべきものであるのに対し,前者はその主人のとなり支配する側になるものとして,これを生まれにおいても,力量においても,身体よりも,より先なるもの,より長老のものとして構成したのでした[43]」というのですが,これは,卵が先が鶏が先か,の議論に似ていはしないでしょうか.

 

現代科学技術の中で,例えば,コンピュータを例にとります.コンピュータというハードウェアつまり「身体」がなければ,そこにプログラムの類のソフトウェアつまり「魂」をいわば「吹き込む」ことができない,ということは誰もが知っているでしょう.他方,コンピュータ上で動くプログラムがないと,これまた(コンピュータ上で機能する)プログラムは全く作れない,というのも厳然たる事実なのでありまして,つまり,「身体」と「魂」はコンピュータが機能するにおいてはどちらが主人で奴隷であるということではなく,むしろ分離不能(分離してはその機能を発揮しないという意味)であって,統一されてはじめて機能することを誰もが知っているのです.コンピュータの歴史においては,その「身体」と「魂」は共に関係しあって進化してきたのが実際でした.自然においても,自然がそのうちに生命体をカタチづくる過程においては,「身体」と「魂」は全く分離不能だったのであって,それらはお互いに関係しあうことではじめて,ともに進化を遂げることができたのです.

 

さて,プラトンが魂と呼ぶモノは何だったのでしょうか.ティマイオスによれば,「そして,このように魂を構成したさいの材料と方法は,次のようなものでした[44]」.プラトンは,魂を構成するさいの「材料」はなんと「有」である,つまり「ある」ことそのことである,と考えたようです.ティマイオスは,「不可分で常に同一を保つ「有()」と,他方また諸物体の領域に生じる分割可能な「有」の中間に,その両者から,第三の種類の「有」を混ぜ合わせて作り,さらにまた「同」と「異」についても,これまた同様に,それらのうちの不可分のものから,物体の領域の分割可能なものとの中間に,[第三の混合物を]構成しました[45]」というのですから.

 

ここで,私たちは,私たちのもつ現代科学技術の観点からは,一つの非常識に直面せざるをえないのです.現実の物体,例えば,羊羹が分割可能である,ということを,私たちは物体と物体の間に,間隙ともいうべき小さな隙間,あるいは小さな空間がある,ということで説明します.切り取られて二つに分割された羊羹のその間隙には,羊羹であるような何もないはずでしょう.

 

もし,羊羹と羊羹の間に間隙がなくて,すべては連続であり充実していたとしたら,羊羹は全く切っても切れないのではないでしょうか.もしたとえ首尾よく切れたとしても,その切り口はいったいどちらに属するか,という問題が生じてしまうのではないでしょうか.

 

これは,デデキント(Dedekind[46])が数学的連続体について考えた事情とまったく同じなのです.物体が「真に」連続であるならば,それはけっして分割できないはずです.結局,あらゆる物体を分割することができることにおいては,その物体の内部においてすでに,その物体を構成する要素の存在しない場所,つまり空隙が潜んでいなければならないということになるでしょう.

 

現代科学技術の観点からは,これを原子や分子などの実体であり<不可分なもの>と,それらを隔てる空間(真空)である<空なもの>の両者の存在,古代原子論者のコトバでいうと,「原子(不可分なもの)と空虚(空なもの)」とで説明するほかはないのです.羊羹があたかも連続体であるように見えるのは,羊羹なるモノがその「実は」膨大な数の原子や分子と,それらの間の空隙から成り立っているのだ,と.モノが分割できるのは,「実は」モノの全く「存在しない」場所,モノが運動できる「場」が「ある」からである,と.私たちはどうやら「世界はアトム(不可分なもの)とケノン(空なもの)のみ」と考える他にはなさそうなのですが,すると,プラトンが考えた端的に「ある」という魂はいったいどこへ行ったと考えればよいのでしょう.

 

[異なる運動と同じ運動]

プラトンは魂をさらに異なるモノと同じモノの混合体として説明しようとします.ティマイオスは「その時「異」は混りにくかったのですが,これを力づくで「同」に適合させたのです[47]」というのです.つまり,「異なる」モノを「同じ」モノにする,つまり異なるモノ同士を結合するにおいては,「力」が必要とされるのです.これを,力の概念の萌芽であるといえないこともないでしょう.

 

ティマイオスは続けます.「まず,全体から一つの部分を切り離しました.

その次には,前者の二倍の部分を,

さらに第三には,第二の部分の一倍半で,第二の部分の三倍に当たる部分を,

第四には,第三の部分の三倍を,

第五には,第一の部分の八倍を,

第七には,第一の部分の二十七倍を,という具合に切り離していったのです[48]」.これは,2の累乗と3の累乗を考えるのです.つまり,2483927の二つの数列がそれです.そして「つまり,その一つは,両端の項それぞれに対してそのどちらにとっても等しい割合を占める分だけての差をもって初項を超過し,末項によって超過されるものであり[調和中項],いま一つは,数的に等しい差をもって,初項を超過し,末項によって超過されるもの[算術中項]なのです[49]」というのです.このように,数的な関係をもって全宇宙の秩序を作り出そうとします.

 

さらに「そこで神は,この組織全体を縦に二つに裂いて,それぞれの裁片の真ん中と真ん中を,ちょうど文字Χ(ギリシア文字「ケイ」)のように相互にあてがい,各自が閉じた一つの円を作るようにしました.そして,同じ場所を一律に回る運動にこれらを巻き込み,そして二つの円の一方を外側に,他方を内側にしました[50]」.ここまでくれば,プラトンの意図が明らかになります.つまり,「同」と「異」なる二重の円運動によって,それぞれ外惑星と内惑星の運動の差異を説明しようとするのです.プラトンにとっての宇宙の魂とは,なんと,惑星の運動それ自身のことだったのでした.

 

「さて,神は外側の運動を「同」の運動だと呼び,内側の運動を「異」の運動だと呼びました.そして「同」の運動のほうは辺にそって右向きに,「異」の運動のほうは対角線にそって左向きに回転させ,「同であり一様であるもの」回転運動のほうに主権を与えたのです[51]」.ここまでくると,神の意志はともかくも,見かけ上の天球の回転という「現象」をあくまで数的(算術的)に説明しようとするプラトンの不屈の「意志」にはいささか感動せざるをえません.そして,このように構成された天体の運動こそが世界の「魂」であるというのです.天球が「運動する」ということを,宇宙が魂をもっていて生きているコト,イノチをもつコト,天球というモノがココロをもつコトであるその現象として捉えているのです.神によって秩序ある運動を与えられたこと,すなわち永遠に円運動し続けることを魂の本性としてとらえているのです.

 

「そして,構成者の考え通りに,魂の組織全体ができあがってしまうと,次にはその身体となるものの全体を魂の内部に組み立てて行き,両者の中心と中心を合わせて,適合させていったのでした.そして魂は,その中心から宇宙の果てに至るまで,あらゆるところに織り込まれ,さらに,そのまわり全体を外側から覆い,自ら自分の内部で回転しながら,休みなき知的活動の生を,時間のあらん限り続けるべく,神々しい出発点を踏み出したのです[52]」.つまり,永遠に回転し続けることが,休みなき知的活動である,ということになっています.天体の運動は永遠であるが,地上の運動はいずれ休止する(死ぬ)ことに対応しています.運動性がイノチあるモノ,ココロあるモノ,つまり知性の働きによるものであって,その活動の静止がすなわち死であることが,明白に意識されているのではないでしょうか.プラトンにとって魂を持つとは自らが自らにおいて運動できること,「自・動」能力を持つことを意味したのです.

 

さらにティマイオスは「そして,宇宙の全体のほうは見えるものとして生み出されたのでしたが,魂のほうは,そのものとしては見えないものではありますが,数理や調和の一面を備えており,およそ理性の対象となり常に<ある>ところのもののうちで最もすぐれたものによって生み出されたものであり,しかも生み出されたもののうちでも,これはもっともすぐれたものだったのです[53]」と語るのです.魂とは,世界を秩序づける正しい運動のことであって,数理や調和の側面をもっているというのです.さて,その現代科学技術において対応する意義をもとめようとすれば,それは自然法則のことであり,世界の運動を作り出す原理であり,それは「自然の第一原理(principle)」に対応すると考える他はないと思われます.

 

「さて,魂は,かの三つの部分たる「同」と「異」と「有」から混ぜ合わされ,また比率にしたがって分割され結合され,さらに回り回っては自分で自己自身へと帰ってくるので,それが分散可能な「有」をもった何ものかに触れる場合も,いつも自分自身の中を隈なく動いて回るのです−何かが,何かと同じであるにしても,何かから異なっているにしても,とにかくそれが,そもそも特に,何との関係で,どこで,どのようにして,いつ,生成する領域の各々のものに対して,また常に同一を保つものに対して,そのそれぞれ[同じ・異なる]であったり,それぞれの状態になったりするような結果となるのかを語るのです[54]」といわれます.宇宙の魂である「宇宙の第一原理(principle)」とでもいうモノは,宇宙のすべての事物を経めぐって,その事物の関与するデキゴトを紡ぎ出すような円運動に他ならない,ということになるのでした.

 

[真なる言論と偽なる言論]

「そして,「異なっているもの」についても,「同じであるもの」についても,変わらず真として成立する言論が,自分自身によって動かされるものの中を,声も音もなく運ばれる時,一方それが感覚の対象にかかわり「異」の円が正しく進行して,それ(宇宙)の魂全体に,これを伝える場合には,確実で真なる思わく・所信が生まれ,他方また推理計算の対象となるものにかかわり,「同」の円がなめらかに動いて,これを明らかにする場合には,必然的に,理性・知識が完成されます−ところで,およそ存在するもののうちでも,これらの二者がその中に生じる当のものを,もしも魂以外のものだと言う人があるなら,その人のいうことは,とにかく真実でないということは確かです[55]」とティマイオスは更に言い立てるのですが,これは宇宙全体の異同と,言論の真偽とのかかわりをいうようです.つまり,真なる言論(ロゴス)が普遍的な真理を語る,と主張するようです.プラトンはここでもロゴスの永遠不変性,真理性,自己同一性にあくまでこだわっています.

 

自己同一性は,事実一般について語る場合については,いささか無理があるのではないでしょうか.たとえば,月が昇った,といった場合,それは地球上のある時間と場所においてはじめて真でありえましょうけれども,月面でみた月(地球)は永遠に同じ場所に静止して見えていて,けっして昇りはしません(『ケプラーの夢』).宇宙のどこにあっても,普遍的かつ永遠不変に,つまり自己同一的に真であるような「事実」はありえないでしょうが,しかし他方で,あらゆる言論はあくまで事実にもとづいているか否かが判断されてはじめて,それが真であるか偽であるかが判断されます.ここにプラトンが想定した宇宙におけるただ一つの永遠の真理であり原理であるものと,地上におけるイノチあるモノやココロあるモノが直面する個々の諸事実の乖離が生じはじめのです.

 

同じであるか,異なるか,あるいは真であるか偽であるか,という判断がココロあるモノ,つまり言語機能をもつものにしか生じないということは,たしかに普遍的真理ではあるでしょう.しかし,だからといってそれは永遠不変かつ普遍的な真理の体現者であるような宇宙の魂の「存在」を証明したことにはならないのであって,真理はむしろ,私たち個々の,その生活のいとなみの中から,つまり「自然のうちに」おいてこそ,発見されねばならないのがその現状です.

 

[プラトンの時間論]

さて,永遠の運動である円運動が定義されましたので,いよいよ時間の概念が登場しはじめます.ティマイオスはいうのです.「モデルそのものは永遠なる生きものとしてあるので,そのようにまたこの万有をも,できるだけそれと同性質のものに仕上げようと努めました.ところで,かの生きものの場合は,その本性まさに永遠なるものだったのでして,そのような性質は,じっさい,生成物に完全に付与することのできないものでした[56]」と.

 

まず,永遠性は,生成されたモノのうちには存在しないことが意識されていることに注意しましょう.つまり,プラトンは永遠性をこの自然の外なる「何か」にもとめようといたします.「しかし,永遠を写す何か動く似像のほうを,神は作ろうと考えたのでした.そして,宇宙を秩序づけるとともに,一のうちに静止している永遠を写して,数に則して動きながら永遠らしさを保つ,その似像をつくったのです.そして,この似像こそ,まさにわれわれが「時間」と名づけてきたものなのです[57]」.世界の運動を秩序づける原理であって,しかも宇宙の運動を写しており,それじしんは静止しており決して運動しないもの,自らは静止していて他の運動を映し出す,まるで鏡のようなものが時間と呼ばれるのでした.

 

さらにティマイオスは語ります.「というのは,昼も夜も,月も年も,宇宙が発生するまでは存在しなかったのですが,神は,宇宙が構成されると同時に,それが生じるように仕組んだからです.そして,これらはすべて時間の部分なのです[58]」というのです.ところで,昼も夜も,月も年も,それは,地球の自転や公転,月の公転に対応する円運動として測られます.一日や一月や一年であり,それらがその部分である時間とは,まさに「運動の数」が時間の本体である,ということなのです.

 

「そして,これらはすべて時間の部分なのですし,また,「あった」や「あるだろう」も時間の相()として生じたものなのです[59]」.結局,プラトンにとっては,過去も未来も,むろん過ぎ去りつつある現在も,永遠の時間の一部にすぎない,ということになります.近代科学においてはじめて成立したといわれる時間の観念そのもののようです.

 

ティマイオスは「ところがわれわれとは,知らず知らずのうちに誤って,これらの言葉を永遠の有に適用しているのです.つまり,われわれはそうした有が<あった>とも,<ある>とも,<あるだろう>ともいっているのですが,正しい言い方では,ただ「ある」だけがそれに該当するのでして,「あった」と「あるだろう」とは,時間の中を進行する生成について言われるのがふさわしいのです[60]」といいます.つまり,時間「そのもの」は不変不動であり永遠である,とプラトンは主張します.これは,近代科学において成立した「絶対時間」,過去から未来へと無限に延びる幾何学的「存在」としての時間,いわば時間軸に該当するでしょう.この「絶対時間」は,あらゆる過去,現在,未来を含み,それじしんは不変不動であって,万物の生成を支配しつつ,しかも永遠に存在する,と考えられたのでした.

 

ティマイオスは,過去と未来は,時間そのものとは異なるといいます.「というのは後二者(あった(過去形),あるだろう(未来形))は<動き>にほかならないからです.しかし,不動の状態で常に同一を保っているものの場合は,時間の経過とともに年とって<行く>こともなければ,若くなり<行く>こともなければ,かつて<なった>こともなければ,いま<なってしまっている>ことも,また今後<あるだろう>こともなく,総じて,生成ということが,感覚内で運動している事物に付与するどんなことも,そうした同一を保つものには該当しないのです.むしろ,それらのこと[「あった」「あるだろう」「なり行く」など]は,永遠を模倣し,数に即して円運動をして行くところの時間の様相として生じたものなのです[61]」と.

 

これにたいして,現代科学技術は,時間とはむしろアリストテレス流に「運動の数」であり,周期的運動を「数える」ことによって時間は生成されつつあるのだ,と動的に考えます.プラトンやニュートンが考えたであろう静止しており完全な一者であって宇宙を映す鏡のようないわゆる「絶対時間」とは,むしろ,こうした時間を作り出す事物の運動を記述するための,数学的道具であり一次元の連続体という空想物であるにすぎないのであって,それは,私たちが自然を記述するために使う座標系の一種に他ならない,と考えられます.

 

プラトンは時間が宇宙とともにあるというのです.「しかしそれはともかくとして,時間が宇宙とともに生じたのは,なにしろ両者とともに生み出されたのだから,またいつかそれらに解体ということが何か起こる場合にも,やはり両者がもとに解体するようにということだったのですし,また,時間が「永遠」をモデルとして生じたのは,宇宙ができるだけかの[宇宙の]モデルに似たものであるように,ということだったのです[62]」と.時間もまた宇宙とともに生み出されたからには,解体されうるというのです.宇宙の永遠性は,そして,それとともにあるべき時間の永遠性は,プラトン以来の「夢」にすぎなかったのかもしれません.

 

[プラトンの天体運動論]

つづいて,ティマイオスは,太陽と月,そして惑星の運動に言及します.「さて,時間が生み出されるために,神が時間の生成に対して考えた,その計算と意図から,太陽と月と,その他「惑星(彷徨する星)」という呼び名を持つ五つの星々が,時間の数を区分し,これを見張るものとして生じたのでした[63]」と.つまり,太陽とか月とか,惑星の運動は,時間を数えるものであり,時間の進行を見張る生き物だったのでした.

 

「そこで神々は,そのそれぞれの星の身体を作ってしまうと,それらを,「異」の循環運動がめぐっている,あの回転[もしくは円運動]へ置きました[64]」.まず,ティマイオスは「異」の循環運動によって,月,太陽,そして水星や金星といった内惑星の運動を説明しようとします.

 

「つまり,七つある円起動へ,七つある身体を置いたのですが,この場合,月は地球をめぐる第一の円軌道へ,太陽は地球の彼方の第二番目に位する軌道へ,また暁の明星(金星)と,いわゆる「ヘルメスに捧げられた星」(水星)とは,速さにおいては太陽と歩調を揃えて回転しながら,しかし,太陽とは逆に向かう力を賦与されている軌道においたのでした[65]」.このように内惑星の見かけ上の運動は,円運動,永遠の循環運動を使って,合理的に説明されうるのです.

 

「しかしとにかく,共同して<時間>をつくり出さねばならなかった天体の一つ一つが,自分に似合った運動にたどりつき,生きた(魂を持てる)絆で体を結ばれて生きものとなり,課せられた役目を理解してしまうと,いよいよあの「異」の運動-これは傾斜しており,「同」の運動と交差し,これの統制を受けているものだったのですが-それに従って回転しはじめたのです[66]」.このように,「同」の回転は,現代風にいえば地球の自転運動を現しており,「異」の回転とは,地球の公転運動の説明に対応しているようです.

 

天動説は,意外なことに,私たちの日常経験,実際に観測される天文現象に適合した,ある意味ではきわめて合理的な理論だったのでした.また,近代科学における機械論的(あるいは無生物的な)説明とは全く異なり,古代においては,自ら運動するものはまさに文字通りに「動・物」として考えられたのであって,「自ら・動く」それらは必然的に魂を持たねばならない,と考えられていたのです.

 

「そしてそれらの相対的な遅速の度合いに何か目立った物差しが与えられるように,また八つの運動体が進行していけるように,神は地球を基準として第二番目に当たる軌道に光を点じました.これが実は,いまわれわれが太陽と名づけているところのものにほかならないのですが,神がそのようにした理由は,それが宇宙を最大限に隈なく照らし,そして,しかるべき動物すべてが,「同にして一様なもの」の回転運動から学んで,数を分有するようにというところにあったのです[67]」といわれ,太陽は火である,と考えられたのです.このように,数とは,自己同一にして一様であって,永遠なものに与るのです.

 

自然数は,永遠にあるだろう日周運動を永遠に記述しうるという機能を持つべく生まれたといえましょう.今日までの日があるのなら,明日もまたきっとあるだろう,とわたしたちは期待します.つまり,宇宙は永遠に運動するでありましょうから,その運動においては,必ずやペアノの公理が成立するとわたしたちは「仮説する」のです.このように,日々を数える,という自然における人間の自然な行為から自然数の世界が成立してきたといえるのです.

 

さらにティマイオスは語ります.「しかし,それでもなお,八つの循環運動の相対的な速さ(周期)が同時のその行程を終了したて大団円に到達する時,時間の完全数が完全年を満たすのだということは-そしてこの場合,計算の単位となるのは「同にして一様に運動するもの」の円なのですが-このことは十分に了解できることです[68]」と.これは,諸天体の運動の,それらの周期の,最小公倍数のことでしょう.最小公倍数を世界の完全数として理解しようとしているのです.

 

さて,この宇宙の目的はなんだったのでしょうか.「それはこの万有が「永遠」を模倣するという点で,あの完全な理性対象の生きものに,できるだけ似るためだったのです[69]」とティマイオスはいいます.プラトンはこの万有が永遠であって,理性的であり,また数がそうであるように,自己同一であって,不変不動であり,しかも不老不死の「生きもの」であるかのようなことをいうのです.こうした「生きもの」としての自然の側面,自ら動くモノとはすなわちイノチあるモノであり,秩序正しく動くモノすなわち理性あるモノである,というこの自然の側面,この自然のイノチありココロあるモノという側面,自然の「生きた」側面を切り捨てて成立してきたのが近代科学だったのではないでしょうか.

 

[イノチあるモノ,ココロあるモノ]

ティマイオスは,この自然の中においてイノチあるモノ,ココロあるモノの創造を語りはじめます.「そしてその場合,「まさに生きものであるところのもの」(モデルとなる理性の対象たる生きもの)」のうちには,どのような種類()が,どれだけ含まれているものなのかについて,理性が展望し得る限りの種類と数に対応するものを,この万有も含まねばならないと神は考えました[70]」というわけです.ここにも,イノチあるモノ,ココロあるものを生成する原理である「数」が登場します.プラトンは,どうしても四元素を構成するであろう「4」という数字にこだわりたいようです.「そうすると,それは四つあることになります.一つは天の種族で,かれら神々(天体)から成るものです.もう一つは,翼を持ち,空中を飛翔する種族.第三は水棲族.陸棲の歩行する種族が第四番目です[71]」とティマイオスに語らせるのでした.

 

「そして運動とは,二種のものだけを天の運動に結びつけました[72]」というのですが,先に述べたように,世界の運動には,円運動,あとは,人間たちが住む3次元の世界に対応して,前進/後退,上/下,左/右,の6種,計7種の運動があるといいます.この中で,回転運動は時間を作り出すことに与り,他の運動は空間を作り出すことに与る,というわけです.しかも,時間は,前進運動しかしないのです.近代科学は,こうした「イノチあるモノ,ココロあるモノの運動によって作りだされる時間と空間」という側面を全く無視して,「絶対時間」と「絶対空間」を立てたのでしたが,それはホントに正しかったのでしょうか.現代のわたしたちは,時間が,原子時計の周期を「数える」という人間たちの行為によって発生することを知りはじめました.古代の人々は,その自然に対する態度において,わたしたち現代人とは意外に近いところにいるようではありませんか.

 

[運動するとは思考することである]

さて,ティマイオスはさらに驚くべきことを語りはじめます.「その一つは,同じ場所を一律に動く運動で,その種族のものが,すでに同じ事柄について終始変わらず同じことを考えるものであるに対応します[73]」というのです.つまり,「同じ」場所を円を描いて「運動する」ことを,全く「同じ」ことを「考える」ことに対応させるのです.プラトンにとって思考することとは,一種の循環運動することに他ならないのです.現代のわたしたちは,コンピュータが無限ループに入ってウンともスンとも言わずにいるとき,それをコンピュータが考えているとはまるで思わずに,それが暴走していると思ってしまうでしょう.しかし,いわれてみれば,ジーッと繰り返し何かを黙々と計算し続けているコンピュータは,永遠に何かを考え続けていると見えないことでもありません.

 

さらに「いま一つは前進運動ですが,これは当のものが,「同にして一様なもの」の回転運動によって支配されているのに対応するわけです[74]」とティマイオスは語ります.あらゆる天体は,前向きにしか考えないように,永遠の時間を作り出すところの永遠の円運動に支配されているというのです.時間はけっして逆転させることはできないのが実情です.なにしろ,時間とは,わたしたちが何かを「数える」という行為に対応するわけですから,過去に遡って時間を数えようとしても,時間はあくまで前向きに容赦なく,ただ過ぎ去っていくのです.わたしたちはあくまで前向きに,未来へ時を数えつつ進み続ける他はないようです.

 

「このような原因から,まさに星々のうちでも,神的で永遠なる生きものとして,同じ場所を一様に回転しながら,つねに変わらずとどまっているところの恒星(彷徨することのないもの)すべてが生まれたのでした[75]」というのは恒星天の循環運動,実は,地球の自転運動に対応します.また「これに対して回転運動をしたりまた,先に言われたような意味で彷徨したりする星は,前に述べられたようにして生じたのです[76]」といわれるように,これは地球の公転や,惑星の見かけ上の逆行運動や順行運動に対応します.

 

ティマイオスは「また,神は大地を,われわれの養い手であるとともに,万物を貫いて延びている軸の回りを回転しながら,夜と昼とを作り出して,これを見張るものに仕組んだのでしたから,この大地こそ,およそこの宇宙の内部に生じた限りのすべての神々(天体)の中でも,最初のものであり,最年長者であったのでした[77]」と,まるで地球のモノが回転しているかのようにいいます.しかし,話しのつじつまを合わせるとすれば,これは地球それ自体が回転しているということではなさそうです.恒星天の回転につれて,地球上の事象である昼と夜とがまるで回転するように見えることや,地球上の空気や水が恒星天に回転に引きずられて風や潮流が起こるかのごとくであることをいうのではないでしょうか.

 

さらに「ところで,これら単体そのものの舞踏(=周行運動)と相互の配列,またそれらの円の相対な逆行と前進,さらに合において,神々のうちのどんなものが,一直線に並び,またどれだけのものが対蹠天に来ることになり,そして,どういうものが,どれだけの期間をおいて,お互いやわれわれの面前に立ちふさがり,そのために各々のものがその後方に隠されたり,再び現れて,計算で予測することのできない人々に,恐怖だとか,未来に起こるであろうことの兆しだとかを送ることになるのか[78]」と,ティマイオスは迷信深い人々を笑うのです.つまり,「計算する」という行為は,そのまま星々の未来の運動を予測することと考えられたのでした.また,星々が神々でありイノチあるモノであって,それが人々の運命であり「おきて」に関与するという観点は,占星術にその影響を残したことであったかもしれません.

 

[不死なる神々の製作]

プラトンはギリシア人たちの神々の信仰をそのまま認めようとします.ティマイオスは「ゲー(大地)とウゥラノス()から,その子オケアノスとテテュスが生まれた.そして後二神から,ポルキュスとクロノスとレアとまたその仲間が生まれた.そして,クロノスとレアから,ゼウス,ヘラ,およびかれらの兄弟としてわれわれにはその周知の神々すべてが生まれ,なおまたその他かれらの子孫も生まれた[79]」といい,これは全ギリシア人の共通の了解事項だったのでした.

 

「まことに,結ばれたものはまた解かれうる.しかし,見事に調和をもって組み合わされ,好調なるものを解こうとするのは悪しきものの意志である[80]」と,ティマイオスは神託を語るのです.つまりプラトンはこの世界の調和が永遠の善意によって成立していると主張するのでした.つづいて神は「死すべき定めの種族三つが,未だに生成されずに残っている[81]」と語ったといわれ,世界製作者であった神は,死すべきモノどもの創造を不死なる神々に託すのでした.

 

世界製作者であった神はさらに「かの生きものには,不死なのものと名を等しくするにふさわしい部分があり,神的と呼ばれ,これは彼らのうちでも,常に進んで正義に従い,あなた方神々に従おうとするもの導き手となるのであるが,その部分については,私が種を撒き,手始めをなした上で,あなたがたに譲り渡そう[82]」と語ったといわれます.というわけで,神的なモノは,「正義」という名の不死なるものに与ることになったのでした.つまり,神的であるコトとは,結局は,神々が司るとされた「自然のおきて」のことだったのでした.

 

[死すべきモノの製作過程]

また,「その余については,あなた方が,不死なる部分に死すべき部分を縒り合わせ,生きものをつくり上げて生み出し,糧を与えて生長せしめ,衰えれば,これを再びあなた方の手に受け入れるがよい[83]」という神託があったので,死すべきモノどもは,不死なる部分と死すべき部分からなるようになったのでありまして,それぞれ,その結合が解かれると自然のモノは自然のモノに帰るようになったのです.プラトンは,インド思想における輪廻とでもいうべき,イノチあるモノ,ココロあるモノの循環を認めるのです.

 

「またそのような(悪しき)状況の中にあって,なお悪を止めることがないなら,その悪くなるなり方が,いかなる性格のものであるのか,その性格の成り立ちに応じて,何かちょうど,それに類した野獣の性に変化し,次のように状態に至るまでは,変転を重ねて,苦労の絶えることがないだろう[84]」というわけであります.その理想の状態は,というと,「すなわち,自分じしんの内部にある,「<>にして一様なるもの」の循環運動の中へ,後からそれにくっついて生じた,火,水,空気,土の大きな集団を巻きこみ,その騒々しい,理を弁えないのを,言論によって制御し,最初の,最も善い状態の姿に行きつくようになるまでは[85]」ということです.つまり,宇宙の意志である善において目覚め,言論によってその行いを正しくすることが死すべきモノ,つまり人間の理想であったのでした.このように,自己同一であるということは,言論においてAAであり続けることと等しい,それは,1という数が1であり続けることと同様である,と考えられていたのでした.

 

生命体(死すべきモノ)の創造はこのようであったといいます.神々たちは「そして,死すべき定めの生きものの,不死なる始源を受け取ると,自分たちを作ってくれた製作者に倣って,火,土,水,空気,それぞれの部分を宇宙から,いずれまた返却するという条件で借り受け,それらのものを手にとって,一つにくっつけていきました[86]」というのです.イノチあるモノの素材である,四元素,つまり地,水,火,空気は,自然からでて自然に帰る,つまり永遠である,と考えられていたようです.

 

さらにティマイオスは語るのです.「しかし,そのさいには,かれら自身が結び合わされた,あの解けない絆を用いたのではなく,ただ小さくて目に見えない締め釘をびっしりと打って溶接して行き,どの身体も,その一つ一つを,材料のすべての種類を使ってつくりあげ,不死なる魂の循環運動(あるいは軌道)を,流れの満ち干きする身体の中へさしいれて,これに結びつけるようにしたのでした[87]」と.魂は,常に循環運動(という時間の流れ)の中にあって,不生不滅と考えられたのでした.ギリシアの時間は,惑星の軌道がそうであるごとく,循環するものであったことに注意しようではありませんか.無限の過去から無限の未来へ伸びる直線的な時間とは,むしろ近代の産物なのです.

 

また,身体の部分は,見えない釘や溶接などによって繋がれている,というのです.釘で結合するとか,溶接するとかの技術要素,モノ作りの技術がギリシア時代にあった,ということです.プラトンは,こうした人々がモノ作りする行為を実際に見ておりその比喩でもって,イノチあるモノは,不死なる部分と死すべき部分からなり,何モノかに製作されたのだ,と考えたのでしょう.

 

[死すべきモノにおける魂の運動]

さて,死すべきモノの魂の運動はどうだったのでしょう.ティマイオスは「そして,魂の軌道のほうは,[流れをなす]河の中に結びつけられると,その強大な河を自分のほうが打ち負かすというわけでも,かといって,打ち負かされるのでもなく,無理やりに運ばれたり運んだりしながら,その結果,生きものの全身が動くことにはなりましたが,しか六つの動きの全部を得て,秩序もなく比例もなく,出放題に進むことになったのです[88]」といい,それが3次元空間を無秩序に運動することになったことをいうのです.「つまり,それは,前に後に,また右に左に,上に下に,はてはあらゆる方向に,六通りの領域を彷徨いながら進んだのでした[89]」と語るのです.

 

運動の方向が,3次元空間に対応して6通り,また,時間の流れは循環的に一方向へ,加えて7種の運動があると考えられたことは先に述べたとおりです.プラトンは,死すべきモノの魂が空間的に乱雑に無秩序に運動することを,神的な(永遠な)秩序からの逸脱であると考えるのです.

 

ティマイオスは感覚の起源を元素の運動と魂(の運動)との衝突過程に求めようとします.「すなわちある生きものの身体が,外からくる<よそ>の火にでくわして衝突したり,あるいは,土の硬い塊や,水の湿ったすべっこい面にぶつかったり,またあるいは,空気によって運ばれて来る突風に襲われたりして,そしてそれらのすべてのものが原因となって,そのいろいろの動きが身体を通り抜けて魂にぶつかるという場合がそれなのです.そしてこのような動きこそ,いま言ったような理由からして,後に一括して「感覚(アイステーシス)」と呼ばれることになったのです[90]」といわれます.プラトンは,感覚の発生を,魂が四元素と衝突することで説明しようとするのですが,四元素が魂に感覚されて,温冷乾湿の4つの感覚を発生させるとすることは,アリストテレスも全く同様です.

 

さらに「いや,じっさい,魂の回転運動も,これと同じかあるいはこれに類した他の甚大な影響を蒙っているわけでして,だから,それは何か外部のもので,「同」に属するものや,あるいは「異」に属するものにでくわす場合には,これを何かと「同じ」だとか,何かとは「異なっている」とか呼びはしますが,それが事実とはおよそ逆なので,こうした魂の運動は,誤ったことを言う愚かなもの(理性を失ったもの)になっている[91]」といいます.つまり,愚かであるということを,感覚によって,言語の自己同一性が失われている状態であることと解するのです.プラトンにとっては,感覚は乱雑であって,理性や秩序に反するものであったのです.

 

ティマイオスは「そして,もしもまた,何からの正しい養いが寄与してくれるような場合は,人は最大の病を逃れて一点非のうちどころのない,完全に健全なものとなります.しかし,それをなおざりにすれば,終始,跛の生涯を送ったあげく,不完全(あるいは秘儀を受けないまま)で,また愚かな(理性を失った)ままで,いま一度冥府(ハデス)へと戻って行くことになるのです[92]」ともいい,知識教養による魂の養育を強調します.これはその師であったソクラテスから譲り受けたプラトンの(魂の)教育者としての信念でもあったのでしょう.

 

[死すべきモノの身体の成り立ち]

ティマイオスは身体の成り立ちの説明に移ります.ティマイオスは「そしてその話をするための予備事項,すなわち身体の各部分ごとの成り立ちについて,また魂についても同様,それらが生じたのは,どんな原因によってなのか,また神々のどんな先々への配慮によってなのかを,最大限にありそうな言論に頼るようにして,その方針をたどりながら詳述して行かなくてはなりません[93]」といいます.古代において,魂の座としての身体は決して軽視しえないものだったのです.

 

ティマイオスは「さて,神々は二つあることの神的な循環運動を,万有がまるいのに倣って,球形をした身体に結びつけました.これこそわれわれがいま「頭」と名づけているところのものでして,最も神的なものであり,またわれわれのうちのいっさいのものに君臨するところのものなのです[94]」と語り,つまり頭を,身体のもっとも神的な部分であるものとします.これは言語という神的なモノの処理機能にかかわるからではないでしょうか.ところが,現代科学技術は,この言語処理機能こそは,生命の歴史の中でもっとも新しく生命体につけ加わったものにすぎないことを明るみに出したのです.

 

ティマイオスは「だから神々はまず,頭の鉢ではそちら(前方)の側に顔を取り付け,魂がどんな先々への配慮でもできるように,いろいろな器官をその中に固着し,そして指導の任にあずかるのは,この本来的に<>である側だと定めました[95]」といい,<>という概念のほうが先にあって,それにしたがって身体が配置されるというのです.

 

目的概念がまず先行し,それに支配されて身体が形成されるのであり,これがプラトンらしいところであるともいえます.現代科学技術によれば,ゲノム情報にそうした生命体の設計図が予め書き込まれている,という考えかたもあり,生命体においては,こうした目的概念の先行性をあながち否定することもできません.むろん,身体がなければ魂もないでしょうし,魂に導かれなければ身体も生存できないのはあまりにも明らかであって,むしろ身体と魂とは不可分な統一体を形成しているのです.

 

[認識器官としての眼の成立 −眼はいかにモノを見るか−]

ティマイオスはまた「ところで神々はいろんな器官の中でも,一番はじめに光をもたらすものとして眼を造作してまとめ,それには次のような原因を用いたのでした[96]」といいます.当時は,眼は光をもたらすモノであると考えられたのです.眼がモノを見るのは,そこからでた光がモノを照らすからであり,また,モノがモノとして成立するにおいては,必ずや何かの原因がそれに先行するであろうと考えたのでした.原因があるから結果があるというのは因果律として,何かが結果としてあるにおいては,それに先行する原因があるに違いない,と考えるのは,充足理由律としてそれぞれ知られています.

 

さて,眼と呼ばれる感覚器官は何から成立しているのでしょう.ティマイオスは「すなわち,火のうちには,焼く力はもっていないけれども,穏やかな(ヘーメロン)-つまり,日ごとの昼間(ヘーメラ)に固有の光-をもたらす性質のものがあるので,神々はおよそそういったものが一つの身体になるように仕組んだわけなのです[97]」といいます.火は光の原因である,と考えられたわけで,光でもってモノを見る眼は,光の原因である火を素材として成立していると考えられたのです.

 

さらに「そうすると,視線の流れの周囲に昼間の光がある時には,「似たものが似たものに向かって」出ていって合一し,眼から一直線上に,どの方向にせよ,内から出ていくものが外界で出くわすものと衝突してこれに抵抗を与える,その方向に向かって,一つの馴染みあった身体が形成されました.すると,その身体全体は,等質なものですから,作用の受け方も一様だということになり,自分じしんが何に接しようと,また他の何ものがそれに接しようと,それらのものの動きを全身を通って魂にまで伝達し,われわれがそれによって見ると言っているところの感覚(視覚)をもたらしました[98]」といわれます.つまり,モノの動きそのものが,魂に伝達されて感覚が生じる,というのです.たとえば,蜘蛛の巣においては,蜘蛛の糸を伝って獲物の運動が伝えられるように,何らかのモノの近接作用を考えているのです.魂じしんも「運動するモノ」にほかなりません.

 

さらに「しかし何らかの比較的大きな動きが残っていると,それがどんな種類のものであれ,またどこに残っているかに応じて,それに対応する性質と量の幻像をもたらすのですが,この幻像は,内部で似像として象られるのに,醒めてからは外にあったように思い起こされるのです[99]」といわれます.これは夢の原理を説明しています.夢を見る原因も,魂とよばれるモノの運動にあります.まさに,魂というのは他から動かされずしても,自ら動くモノ,なのです.

 

ティマイオスは眼が映像を形作ることについて「ところで,鏡が映像をつくるということや,すべて,そこにものが映って見えるなめらかなものについても,これを理解するのは,もはや何も難しいことではありません.すなわち,内外の火が互いに交わるということ,さらにまた,一体化した火が,その都度,なめらかな面のところで形成され,それが行くとおりにも姿を変えるということがあると,そうしたことから必然的に,先に言ったような映像すべてがそこにあらわれることになるのです[100]」といいます.火から形成された眼からでた光()が,対象に含まれる火と一体化し変容して魂に届くことが,「モノが見える」ということなのです.これは,私たちの身体から発した,光()という元素から成立する「視線」の束でもって,世界を探索することによって事物のイメージが成立する,という説明です.これが驚くほど合理的であることは,TVの原理(電子「線」が画面を走査して画像が形成される)などを考えてみれば納得されるでしょう.さらに一歩を進めれば,対象からでた光子(不可分なモノ,素粒子)が網膜に光感受性物質と反応し,視神経の興奮が脳に伝達されて,それがイメージとして再形成される云々,という現代科学技術によるモノの見え方の説明にも帰着させられるのではないでしょうか.

 

[感覚と理性]

ティマイオスは,「さて以上のもの(原子論的説明)は,神ができるだけ善いものを完成していくにさいして,これに役立ってくれるものとして用いる「補助原因者」の一部にすぎません[101]」といい,感覚の成立が,魂の本性であるところの理性の成立の補助原因でしかないというのです.すなわち,「ところが,大多数の人々は,これを「補助原因者」とは見なさないで,あらゆるものの「原因者[そのもの]」とみなしているのです.つまり,ただ冷やしたり,熱したり,凝固させたり,融解させたり,あるいはまた,すべてそれに類した結果を生むだけのものを,すべてのものの「原因者」だけだと考えているのです[102]」というのですが,これはかえって,当時の人々の「大多数」は,プラトンの意に反して,むしろ感覚的であり物質的であるようなものを,自然の成立においては,より主な原因者と考えていた,ということでしょう.

 

ティマイオスは世界の原因は理性であり,魂であるといいます.「しかし,このような事物は,どんなことに対しても,何らの推理作用も理性も持つことのできないものなのです.というのは,およそあるもののうち,理性を持つにふさわしい唯一のものといえば,これは魂だと言わねばならないからです[103]」と.しかし,現代科学技術においては,むしろ,イノチなきモノ(物質,素材,マテリア)からイノチあるモノは自然において発生し,イノチあるモノのうちに理性あるモノは,ココロあるモノの最後に発生したと考えられています.魂,プシュケーとは,自ずから生じたモノの内にあって,イノチなきモノにつけ加わったのでした.

 

[魂とは運動の第一原因である]

さて,プラトンにとって,理性の座である魂とはどんなものであると考えられたのでしょうか.ティマイオスは「それに,この魂のほうは不可視のものなのですが,これに対して,火や水や土や空気のほうはすべて,可視的な物体として生じたものですからね[104]」といいます.つまり,魂は,不可視であるといいます.

 

ティマイオスは「そして,理性と知識を愛し求めるものは,どうしても知力あるものに属する原因をこそ,第一に追求すべきものなのでして,他のものに動かされて,また必然的に別のものを動かすというような次元のものに属する原因のほうはこれを二の次にしなければなりません[105]」といいます.魂とは,運動の第一の原因であるというのです.つまり,魂とは,自らは動かずして,他を動かすもの,世界の第一の原因なのです.

 

しかし,現代科学技術は,自らは動かずして他のモノを動かすモノなどはありえない,ということを明るみにだしてしまいました.むろん,イノチやココロは,私たちのうちにあって,私たちは自らのイノチやココロによって自らを動かすのであり,イノチやココロはそれとともにまた運動するモノでもあります.イノチやココロとは,私たちに確かに「内在する」自然から生じたモノなのですが,それは一体何でしょうか.イノチやココロとは「何であるか」,それこそは,現代の自然学が直面する最大の課題でありましょう.

 

[自然のうちなる善意を求めて]

さらにティマイオスは「しかし,理性の助けを借りて,立派なもの善いものを製作する原因と,思考を欠いてただでまかせのものを無秩序に,その時その時に作り出す原因とは区別しなければならないのです[106]」といいます.つまり,プラトンは,善美なる意志,善美なる魂を,世界の真の原因であらねばならぬ,と言いたいのです.とすれば,それは自然の「外に」超然として存在するような神においてではなく,私たちのじしんの内なる自然な善意においてこそ,求められねばならないのではないでしょうか.

 

ティマイオスは,眼の存在理由,眼は何を見るべきか,を問うのです.「そして,眼がわれわれに裨益してくれるその最大の働きを-つまり,まさにその故にこそ,神が眼をわれわれに贈り賜うた,眼のその働きを-次に話さねばなりません[107]」と.プラトンによれば,神の善美なる意志である理性とは,私たちの眼の「はたらき」つまり眼の機能のうちに宿るのですから,私たちの内なる善美なる自然の意志である自然的理性とは,私たちの「眼」が「モノを見る」というその「はたらき」のうちにこそ認められねばならないというのです.私たちに宿る自然の理性であり善意とは,私たちからする理性的な善意の「まなざし」にこそ宿りうるのではないでしょうか.

 

ティマィオスは「じっさいには,昼と夜とが見られ,月や年の循環だとか,春分・秋分,夏至・冬至が見られたからこそ,それによって数が案じだされ,また時間の概念と,万有の本性についての探求が私たちに与えられたのです[108]」というのですが,理性の目的は,自然に内在する法則を知ることにあるのではないでしょうか.つまり,自然における周期的事象を見てそれを「数える」という「行」為を「経験する」ことが,数の概念の成立,そして時間の概念,ついには,万有の本性への探求が可能になることの条件であることをプラトンは認めます.つまり,自然の哲学は,自然の事物を数える,というわたしたちじしんの行為から始まるのです.

 

引き続き「そしてこれらのものから,われわれはすべて哲学と名のつくものを手に入れたのですが,これらより大きな善いものが,死すべき種族に対して神々から贈られて来ることは,かつてもなかったことですし,また未来においても決してないことでしょう[109]」と語られます.つまり,自然の「数・理」こそが,神的(永遠不変な)な,自然に内在する法則の起源であることをいうのですが,ピュタゴラスの影響は歴然です.

 

ティマィオスは次のように結論します.「すなわち,(人間に視覚が生じた)その原因は,神がわれわれのために視覚を考案してこれを贈り給うたということである.そしてその目的は,われわれが天にある理性の循環運動を観察して,この乱れなき天の循環運動を,それと同族であるが乱れた状態にある,われわれの思考の回転運動のために役立てるということであり,そして,天の循環運動を十分に学んで,自然本来に即した正しい推理計算の仕方をわれわれが身につけ,こうして,どのようにしても彷徨することのない神の循環運動を模倣することによって,われわれのうちの彷徨した状態にある回転運動を,正常なものに立て直すようにということなのである[110]」と.「神」を「自然」と言いなおせば,わたしたちは自然からの贈り物であるところの眼とその理性によって,自然において見出される秩序正しい周期運動を観察することにおいて,その自然の永遠不変な法則を見出し,その法則に即した,秩序正しい生活をその理想とする,ということになるでしょう.

 

[音楽の起源]

同様に,音声や聴覚も神的なものに与るといいます.「というのはつまり,言葉にしても,これまたいまいったまさにその目的に充てられていて,それに最大の寄与をなしているのですし,文芸(ムゥシケー)のうち,すべて音声をきかせる用をなす分野のものにしても,これまた階調(ハルモニアー)のために与えられているのです[111]」と,音声の階調(ハルモニアー)が自然の周期運動,循環運動の比例に対応し,それは理性によってのみ知られることをいうのです.

 

つまり,「この階調というものは,われわれにある魂の循環運動の同族の運動をもっているものなのでして,いやしくも理性に与り,その上で詩神たち(ムゥサイ)と交際を持つほどの人たちにとっては,それは現在有用な点と思われているような理屈ぬきの快楽のために与えられているのではなく,むしろわれわれのうちにあって,調子外れになってしまっている魂の循環運動のために,これを秩序と自己協和へ導く援軍として,詩神たちから与えられたものなのです[112]」と語られます.数的な比例が理性であり調和であるといい,音楽がそれに与ることはココロの調和的な循環運動に対応するのでした.魂は世界の循環運動の秩序に共感して必然的に音楽「する」といわれるのでした.

 

 [「理性」から「必然」へ]

ティマイオスは,天界における理性的な秩序から離れて,地上における「必然」について語りはじめます.「さて,これまでお話して来たことは,少しの例外はありますが,ほかは「理性」を通じて製作されてきたものを示してきたのです.しかしそれとともに,「必然」を通じて生じるもののことも合わせて話さねばなりません[113]」といいます.「理性」とは,私たち人間が,数とその比例関係を知る能力にあったのでした.

 

ところで,数とは,永遠不変であって自己同一を保つ循環運動(円運動)を代表するものだったのです.してみれば,数の永遠不変性に従うのが「必然」なのでしょうか.もしそうだとすれば,世界は永遠不変の循環運動のみから成り立つはずであって,何一つ生成消滅することはありえないということになるでしょう.

 

一方で,現代科学技術においては,すべての事物は時間のうちにあって生成し運動し,変化し,そして消滅していくであろうことが語られています.この世界においては永遠不変に自己同一な事物モノは何一つないという事実が明るみにだされつつあるのです.しかしまた他方で,「もし」私たちにとって「必然」であるような事物は全くなにもないのなら,私たちは何を根拠に世界についてこれを語り,未来を展望することができるのでしょうか.

 

こうした疑問に答えるかたちでティマイオスは語ります.「何故なら,この宇宙の生成は,「必然」と「理性」の結合から,[両者の要素の]混合体として生み出されたからです[114]」と.また「このさいにはしかし,「理性」のほうが「必然」を説き伏せて,生成するものの大部分を最善へ導くようにさせたということで,「必然」を指導する役割を演じたのでして,このようにして,このような仕方で,「必然」が思慮ある説得に服することによって,最初にこの万有は生成されたわけなのです[115]」ともいうのでした.つまり,「善性」こそが「必然性」により優る,というのです.必然性は善性によって導かれねばならない,とプラトンが主張するこの「必然」とは,私たちにとっての「自然」と殆ど同義だったのです.

 

[火,土,水,空気の起源 −自然の本質を求めて−]

ティマイオスは,火,土,水,空気の起源を語りはじめます.「そこで,宇宙が生成する前には,火,水,空気,土の本性は,そのもの自体としては何だったのか,宇宙生成以前はそれらのものはどういう状態にあったのかを見なければなりません[116]」というのです.また,「これらを万有の構成要素(ストケイア,字母)として,諸始源(アルカイ)などといっている[117]」といい,字母が,単語を構成し,やがてはコトバを構成し,ついには,人間たちのコトバの世界を形成していくことになる,いわば元素であることを,火,土,水,空気が世界を構成する要素であることにたとえます.

 

ティマイオスのいう,「あの二つのもの,−つまり,一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・つねに同一を保つものであり,第二は,モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが[118]」というその第一のモノは数であり,永遠不変の循環運動に対応するモノであり,第二のモノとは,火,土,水,空気の世界の構成要素であり質料(マテリア)です.ティマイオスは,「いまはそのほかに第三の種族を明らかにしなければならないのです[119]」といいます.

 

さて,第三の種族とは「つまりそれは,あらゆる生成の,いわば養い親のような受容者だというのです[120]」.どうやら,永遠に自己同一である数モノをモデルとして,生成するモノ・可視的なモノをその素材として生成されたところのイノチあるモノ,ココロあるモノを育むモノ,第三の種族とでもいうべき何かがある,というのです.永遠に自己同一であるモノと,転変極まりない自然現象の中間者にある第三の種族とはいったい何でしょうか.

 

ティマイオスはまず水の相の変化について語ります.「まず第一に,われわれが「水」と名づけているものも,−とにかくわれわれの思っているところでは−凝固すれば石になり,融解したり分解したりすると,この同じものが今度や風や空気になり,空気が燃え上がると火になる,といったことが見られ,空気がもう一度集まって濃密になると雲や霧になり,後者がもっと圧縮されるとそこから流れる水が生じ,水から再び土や石が生じて,こうして-とにかく外見では-それらが互いにまわりまわって生成を与えあっているのが見られます[121]」.私たちはたしかに,水が水蒸気と呼ばれる気体になったり,水が氷という固体になるような現象を知っています.これは,相転移と呼ばれる事象です.しかし,水から土や石までが生じるとまでいいます.火と空気と水は同じものから成り立っているらしいのです.

 

ティマイオスは「こうして,これらのものは,個々それぞれ同じものとしてあらわれているようなことは片時もないのですから,そのうちのどんなものであれば,それを,ある一定のものだとし,他のものではないのだとして,頑強に主張し続けても,恥ずかしい思いをせずにすむのでしょうか[122]」と語り続けます.水と氷は異なっており他のモノですが,しかし,その本質とはやはり水であって共通であり同一です.水と霧は違っていて全く異なるモノですが,しかしその本質はやはり水であって同じモノであり同質です.このように,その外見は全く異なりますが,しかし,その本質において共通であってまた自己同一であり続けるような「何か」を探そうとするのです.自然の事物に共通の本質を求めること,これが,古代ギリシアから現代科学技術に至るまで,自然学の永遠のテーマの一つだったのです.

 

[現象から本質へ]

ティマイオスは奇妙なこというのです.「たとえば,<それ>[いまここにあらわれている現象そのもの]を火と呼ぶのではなく,<その都度これこれであるもの>[一定の様態もしくは特性]を火と呼ぶこと,水にしても<それ>を水と呼ぶのではなく,<いつもこれこれであるもの>を水と呼ぶこと,またその他,およそわれわれが「これ」とか「それ」とかいう言葉を使って指し示しながら,一定の<何か>として指示しているつもりのどんなものにしても,[それ,つまりいまここであらわれている現象そのものを,]これがまるで何か確固たる不動性をもっているかのように,そうした一定の<何か>としては決して呼ばないことです[123]」と.例えば,このモノが氷であるコト(氷という現象)の不変な本質は水であるコトなのです.このモノが霧であるコト(霧という現象)の不変な本質はこれまた水であることなのです.氷現象,霧現象は,「水である」という不変な本質によって述語されるべきその主語であるというのでした.自然において転変極まりない動的な現象たちから,その自然現象に共通な,そして不変な本質を探そうではないか,ということがプラトンの提案だったのでした.

 

さらに「というのは,そのようなものは「これ」とか「それ」とか,また「それに」とか,すべてそれらを永続性のあるものとして示すような宣告におとなしく服していることなく,逃亡していくからなのです[124]」ともいいます.あらゆる事象は速やかに過ぎ去っていきます.この氷とても融けてやがては水になるでしょう.この霧はやがて凝固して露とよばれる水の本質をあらわにするだろう,というのです.つまり,いろんな現象に共通する本質,この世界において変化しない本質,つまり不変な述語を求めよう,とするのでした.

 

ティマイオスはこのように提案します.「「それに対して,個々の場合においても,全部をいっしょにした場合においても,どこにでも,あらわれる度に,いつも同じようなものとしてあらわれるところの,<これこれのもの>[一定の特性]を,いま言ったように[個々別々のそれぞれのものとして]呼ぶこと[125]」にしようではないか,また,「他方しかし,こうした<これこれのもの>の各々が,その中にその都度生じてあらわれ,また再び<そこから>滅びさって行くところの当のものだけを,今度は,「それ」とか「これ」とかいう語を使って呼ぶこと[126]」にしようではないか,と.これは,現代でいうところの,述語論理の提案ではないでしょうか.「このモノ」は「Aである」を,xA,と書くことと全く同様です.このモノは・霧である,といいたいならば,このモノは・(水である・かつ・コロイドとして気体に融けている状態である),と言えば,「水である」とか「コロイドとして気体に融けている状態」は,霧現象は,そのモノの普遍的かつ不変な本質や普遍的な相において記述されたことになるからです.多くの現象は,それよりは少数であるだろうそれらにおいて不変な本質において記述されるであろう,ということです.

 

続けて,ティマイオスはさらに提案します.「しかし,この当のものについては,これまたそれを,何にせよ<これこれのもの>として,つまり,<熱い>とか,<白い>とか,あるいは一般に,互いに相反する対をなすどれかだとか,またすべて,そうした対をなすものから成り立っているものだとかいった,こうした類のどんなものとしても呼ばないこと-これが一番安全な言い方なのです[127]」.例えば,熱いとか寒いとかの感覚は相対的であって,必ずしも不変な本質ではありません.白いとか黒いとかは相対的であって必ずしも不変な本質ではありません.こうした相対的な基準を追放して,むしろ世界を不変な数値で説明しようではないか,というプラトンの「夢」は,現代科学技術においては,絶対温度系(K,ケルビン)や,明度や彩度の基準としてのRGB値,等々の,いわばまったく相対的で「ない」客観的な基準を見いだしつつあることで,まさに実現しつつあるかのようです.

 

[不変な本質を担うべきモノとは何か]

ティマイオスは,プラトンが当時の原子論に強く反対したであろうことを知る人たちにとっては,意外に思えるだろうことを語りはじめます.「さて,以上の同じことが,全ての物体を受け入れるものについても言えます.そのものは,いつでも<同じもの>として呼ばれなければなりません.何故なら,そのものは,自分自身の特性(もしくは機能)から離れることがまったくないからです[128]」というのですが,これはいったい何でしょう.これは,まさに万有をそのうちに置いて,それを生成し運動させ,そのうちにおいて変化させて消滅していくが,それ自身は不変であり不動であるようなもの,すなわちデモクリトスの<>(=虚空,ケノン)のことではないでしょうか.

 

ティマイオスは続けてこう語ります.「何故なら,そのものは,自分自身の特性(もしくは機能)から離れることがまったくないからです.−何しろそのものは,いつでも,ありとあらゆるものを受け入れながら,また,そこへ入ってくるどんなものにも似た姿をも,どのようにしても決して帯びていることはないからです.というのはそのものは元来,すべてのものの印影の刻まれる地の台をなし,入ってくるものによって,動かされたり,さまざまな形をとったりしているものなのでして,このように入ってくるもののために,時によっていろいろと違った外観を呈しているというわけだからです[129]」と.これは現代では万人になじみのある真空の特性そのものの記述にふさわしいのではないでしょうか.動的な物質やいろんな形状を持つ物体が真空にあると,真空はそれに依存して動的な物質やいろんな形状をもつ物体としての現象を呈するのです.しかし,(一般相対論における場合を除き)真空それ自身の特性は全く不変に止まるでしょう.プラトンは,万物の不変な本質としては,現代科学技術でいうところの「空間」を想定していたのではないでしょうか.

 

というのは,「−しかし,そこへ入って来たり,そこから出ていったりするもののほうは,これは「常に<ある>もの」(=理性対象)の模造なのでして,後者から,一種の,表現しにくい,驚くべき仕方で写しとられたものなのです[130]」といわれるのですが,理性というのが「数」であり「図形」にのみ係わるものであるならば,空間は,数や図形の起源だからです.数や図形とは,空間の部分であり,まさに「部分・空間」に他ならないからです.

 

ティマイオスは空間が数や図形としてこの世界に「現象する」というその「しくみ」については述べようとはません.「しかし,それがどういう仕方でか,という点についてはまたの機会に追求することにしましょう[131]」というわけです.しかし,プラトンは,アトム(不可分なもの)を数として,ケノン(空なもの)を,空間として,認めているかのようです.「世界は<不可分なもの>と<空なもの>からなる」としたデモクリトスと,理性の対象であるところの「数や図形」と,数や図形の根源をなしそれらを包摂する「空間」を認めるプラトンは,ずいぶん近いところにいたのではないでしょうか.

 

[万物の生成運動変化消滅の「場」]

ティマイオスは「すなわち,「生成するもの」と「生成するものが,<それの中で>生成するところの,当のもの」と,「生成するものが,それに似せられて生じる,<そのもとのもの(モデル)>の三つがそれです[132]」と語ります. これで,三つの種族が出揃いました.ます,1番目は質料でしょう.2番目は空間のことでしょう.3番目は不可分なものであるような個から成立するであろう「数えられるモノ自体」,つまりは,循環する永遠の周期運動が生み出すものそのものであって,すなわちそれは「数」たちと,それらから構成されるべき「図形」のことでありましょう.

 

ティマイオスはまた,「ですから,あらゆる種類のものを自分自身のうちに受け容れようとするものは,どんな形をも持たないものでなければなりません[133]」ともいうのです.プラトンは空間が全くカタチをもっていないもの,つまり不定形であり無限定(ト・アペイロン)だと思っていたようです.

 

ティマイオスは「ですから,可視的な,あるいは一般的に感覚的なものたる生成物の,母であり受容者であるものを,われわれは,土とも空気とも,火とも水とも,あるいはこれらから成るどんな合成物とも,また,これらを成立せしめている構成要素とも呼ばずにおきましょう[134] というのですが,これではっきりしてきました.つまり,母であり受容者であるものとは,4元素の構成要素ですら「ない」のです.それは質料性を全く持たない,純粋な(むしろ思考上,数学上の)空間だったのです.

 

続けてそれは「むしろこれを,何か,目に見えないもの・形のないもの・何でも受け容れるもの・何かこうはなはだ厄介な仕方で,理性対象の性格の一面を備えていて,きわめて捉えがたいもの[135]」といわれますが,これは,わたしたちが日常的に考える数学的な連続体なり,数学的な空間なりのイメージそのものではないでしょうか.純粋な空間(の部分)であるところの「点」や「線」や「面」や「立体」は,いかなる拡がりをも持たないし,いかなるモノ(充実した物体,つまり質料性を持つモノ)でもないのです.ゆえに,実際には見えもしなければ確定した形ももちえません.それでいて「空なもの」であり,いかなる図形(部分空間)をもそのうちに受け容れますし,しかも,理性的な(rational)対象である他はないのです.図形や図形のモトである空間とは,数的な比例関係(ratio)を推論する行為(計算するコト)においてのみ捉えられるのであり,日常感覚においては,きわめて捉えがたいモノでもあります.

 

そして,「−つまり,<そのものの>火化された部分が,いつも火としてあらわれ,液化された部分が水としてあらわれ,土,空気の場合も,例のそのものが,そうした土や空気の模像を受けいれる限りにおいてそれぞれとして現れる−[136]」と語られる空間とは,万物の生成運動変化消滅をその内に映し込む鏡のようなものなのです.この空間においてはじめて,火は火として,水は水として,空気は空気として,土は土として,自己同一的に現象するのです.

 

[理性と感性]

ティマイオスは,世界の本質として何があるか,についていろいろな説を検討しはじめます.すなわち,「果たして,「それ自身だけである火」というものが何かあるのだろうか[137]」といわれるのは,モノ自体がある,という説です.また,「「それ自体としてそれぞれのものとして独立にある」というように言っているところのものが,果たして存在するのだろうか[138]」といわれますが,これは,不可分なモノそれ自体が,それぞれのモノとして独立にある,という説です.

 

最後に,「それとも,われわれが,ちょうどまた目で見ているもの,あるいはその他一般に,身体を通して感覚しているものだけが,いま言ったような直実性を持っているのであって,それ以外にはどんな他のものも,どのような仕方においても,けっして<ある>ことはなく,それぞれのものには,理性の対象となるところのなんらかの形相が<ある>などとわれわれが言うのも,これはどんな場合においても謂われのないことであって,じっさいには,どうやらそれは単なる言葉にすぎなかったということになるのだろうか[139]」と語られます.これは,ただ現象するモノや感覚されるモノのみが真に「ある」のであって,その他はコトバにすぎない,という説でしょう.現代科学技術の「現場」では,現象や事象を基本として,それを理論的に体系化して説明するコトが,学問である,と考えられていますが,これに近い立場だといえるでしょう.

 

ティマイオスは「そこで,私自身としては,次のように私の一票を投じます」と自説を主張します.つまり,「もしも理性(真に知る思考)と,正しい思わく(憶測でたまたま真実を射当てたという場合の思わく)とが,種類を異にする二つのものであれば,われわれにとって感覚されえず,ただ理性によってのみ把握されるところの形相は,完全に,それ自体として独立に存在する[140]」というのですが,これは,有名なイデア説そのものではないでしょうか.プラトンはイデア説を決して棄てはしなかったのであって,それをむしろ「自然の原理」としようとさえしたのです.

 

イデア説には,むろんプラトンの当時から強力な反論がありました.「しかし,これに対して,一部の人たちの見るように,正しい思わくと理性が少しも違わない(思わくでも当たっていれば,<知る>ということと少しも変わらない)のであれば,今度は,われわれが身体を通して感覚する限りすべてのものが,この上もなく確かなものだとされねばならない[141]」というのがそれでありまして,つまり,知る,というコトは,モノの感覚を通して,モノの知覚や経験にもとづいてはじめて可能である,というのがそれでした.

 

ティマイオスは,こうした今でいえば感覚主義や現象主義,あるいは経験論にこう反論します.「しかるに,この両者(「理性」,「正しい思わく」)は,互いに異なる二つのものといわねばなりません[142]」.つまり,理性と感性は違う,というわけです.また,「すなわち,それらのうちの一方は<教えられる>ということによってわれわれの中に生まれるが,他方は,<説得される>ということによって生まれる[143]」というのです. 感性はたしかに説得されやすいのであって,また,多くの人がそう感じるということは説得的です.

 

ティマイオスは「また一方は,真なる説明を伴っているが,他方は説得によって左右される[144]」といいますし,「また,一方は人間誰もがそれに与っているのだと言わなければならないのに対して,理性に与るのは,ただ神々と,人間ではほんの少数者に過ぎないと言わなければならない[145]」といい,理性とは,神的なモノに与る少数者のみが有していて,それ自身にその真理たる根拠をもっているが,他方で,感性は,多くの人びとがそれを共有しているがゆえに,多くの感性に左右され転変極まりないのだ,といいます.これは,プラトンのデモス(大衆)による政治への嫌悪,いわゆる衆愚政治への憎悪,つまりは,少数者の正義が支配するスパルタ風政治への期待がなせるわざかもしれません.

 

[世界を構成する三つの種族とは −「形相(カタチ)」と「現象」と「場」−]

ティマィオスは,形相(カタチ)について,次のように語ります.「すなわち,まず一つには,同一を保っている形相というものがあるのですが,これは,生じることも滅びることもなく,自分じしんの中へよそから他のものを受けいれることもなければ,自分のほうがどこか他のものの中へ入っていくこともなく,見えもしなければ,その他一般に感覚されることもないものなのでして,じっさいこれは,理性の働きがその考察の対象として担当しているところのものなのです[146]」.つまり,理性の対象となるモノは,自己同一にあるモノなのですが,それは,形相(カタチ)であり,数学的なモノがそうだというのです.

 

他方,現象については次のように語ります.「これ(真なる思わく)は,感覚され,生み出され,いつも動いており,ある場所に生じては再びそこから滅び去って行くものなのでして,思わくによって,感覚の助けを借りて捉えられるものなのです[147]」といいますが,「真なる思わく」とは,日々の私たちが感覚している,いわゆる刹那滅する現象,生成運動変化消滅するあらゆる事象がこれにあたるのです.プラトンは事象や現象や,その感覚にごく低い地位しかあたえません.

 

「そしてさらに三つ目に,いつも存在している「場」の種族があります.これは滅亡を受けいれることなく,およそ生成する限りのものにその座を提供し,しかし自分自身は,一種の擬(まが)いの推理とでもいうようなものによって,感覚に頼らずに捉えられるものなのでして,ほとんど所信の対象にもならないものなのです[148]」.これが,空間であり,あらゆる事象の「場」であり現象が生成消滅変化運動する「場」なのでありました.空間それじしんは,感覚にはとらえられず,理性においてのみ捉えられるというのです.

 

三つの種族をまとめて,ティマイオスは「そしてこの最後のものこそ,われわれがこれに注目する時,われわれをして「およそ<ある>ものはすべて,どこか一定の場所に,一定の空間を占めて<ある>のでなければならない,地にもなければ,天のどこかにもないようなものは,所詮<何もない>のでなければならない」などと,寝とぼけて主張させる,まさに当のものにほかなりません[149]」といいます.最後の種族とは,やはり空間であり,それは,現代科学技術においても,生成消滅運動変化の「場」であることは確かです.

 

[真なる言論であるということ]

真なる言論とは何でしょう.ティマイオスは,それが「真に存在しているもの[150]」に関する言論であり「真実を語ること[151]」ともいうのです.また「しかし,真に<ある>ものには,厳密な意味での真なる言論が味方について,こう主張する.すなわち,何か一つのものと他のものとが,それぞれ別のものである限り,そのどちらももう一方の中に生じて,同じものが同時に1でもあり2でもあるというようなことには決してならない,というのです[152]」が,これは,真実に<ある>というコトと,真なる言論は一致する,といいたいようです.そうすると,真実に<ある>ということは,コトバとして<ある>ことに他ならないのかもしれません.プラトンはやはりイデア説をあくまで主張するのでした.つまり,永遠に自己同一であるということが,真にある,ということであり,そうした自己同一に与る言論が真なる言論であるというわけです.

 

しかし,数として<ある>において,11で,22である,とはあまりにも当然のことではないでしょうか.数学とは一般に,自己同一なモノにのみ与ります.つまり(必ずしも自明ではないが,しかし)トートロジーでしかないのです.ここでプラトンは,むしろ真にあるものは,多ではなく,言語としての1者でなければならない,といいたいのかもしれません.

 

[宇宙のはじまり −混沌(カオス)−]

ティマィオスは「すなわち,「<ある>もの」と「場」と「生成」とが,三者三様に,宇宙の生成する以前にもすでに存在していたのです[153]」といいます.しかし,<ある>ものがあるのは当然としても,生成が宇宙「生成」以前にあるというのも,生成が生成されるべき空間が,生成以前からあったというのなら,何もない虚空がある,ということになるのではないか,という疑問が生じるでしょう.

 

そうした疑問に答えるかのように,ティマイオスは,宇宙創世時の混沌(カオス)を語りはじめます.「そこで生成の養い親は,液化され,火化されて,土や空気の形状を受けいれるとともに,他にもそれらに伴うすべての状態を身に受けて,見た眼にありとあらゆる形状を呈しましたが,何分,似てもいなければ,均衡もとれていない諸力(機能,性質)によって満たされたために,そのどの部分も均衡がとれないで,自分自身がそれらによって不規則にあらゆる方向へ動揺させられて,ゆすぶられながら,また自分のほうも動かされて動くことによって,逆にかのものをゆすぶり返しました[154]」というのですが,まるで,ビッグ・バンのときに,究極の物質(マテリア,現代でいうなら「素粒子」)と空間上の「場」が相互作用しているかのようなイメージです.

 

ティマイオスは続けて,宇宙創造の神話をこのように語ります.「そして,後者(マテリア,素材)は動かされることによって,絶え間なく,選り分けられてそれぞれが違った場所へ運ばれて行きました.それはちょうど箕(み,あるいは「篩(ふるい))だとか,その他穀物の不純物を取り除く道具によって,ゆすぶられ選られるものの場合にも,実の充実した重いものはここに,実の入り具合が薄くて軽いものはかしこに,というように,それぞれ違った場所に運ばれて落ち着くようなものなのです[155]」というのですが,レウキッポスにおける原子論による宇宙創世の神話との記述のあまりの類似性に驚くばかりです.

 

ディオゲネス・ラエルティオスによれば,レウキッポスは「ありとあらゆる形をした数多くの物体(アトム)が『無限()なもの(ト・アペイロン)』から切り離されて,広大な虚空(ケノン)へと運ばれて行く.そしてこれらの物体(アトム)はひとところに集まると,ひとつの渦(ディーネー)を作りだすのだが,この渦によって互いに衝突して,ありとあらゆる仕方で旋回しているうちに,似たものは似たものといっしょになって,別々に選り分けられる[156]」,そして「回転運動ができなくなると,そのうち微細なものは,ちょうど『篩いにかけられる』かのように,外側の虚空の中にでていく」という類の宇宙創世を説いたのでした.また,史上最初の原子論者であったといわれるレウキッポスは,渦運動によって世界が自己生成されたことをいうのでした.

 

[自然の原理 −数と図形−]

プラトンの宇宙創世神話における初期原子論の影響らしきものは,ほぼここまでです.プラトンのプラトン「らしさ」は,こうした混沌(カオス)に理性をもたらし,さらにそれを秩序づけて宇宙(コスモス)にする「数学的方法」にあったのです.

 

ティマィオスは「実際,宇宙の生まれる前には,これらすべてのものはまだ比率も尺度もない状態にあったのです[157]」といい,比率や尺度を,混沌を秩序づけるものとして要請します.つまり「そして,万有の秩序づけが試みられた時,最初は,火,水,土,空気は,なるほど何かそれ自身の,一種の痕跡を持ってはいましたが,しかしまったくのところ,何ものたりとも神不在の場合には,さぞやかくあらんというようなありさまだったのでして,その頃はこれらのものはもともと,まさにいま述べたような状態(混沌,カオス)にあったわけですが,これを神がはじめて,形と数を用いて形づくったという次第なのです[158]」といい,神的な「カタチ」や「数」が,混沌を秩序づけたというのでした.また「神がそれらのものを,(中略)およそ可能な限り善いものに構築した[159]」ともいいます.数的原理やカタチの原理だけでなく,善き意志が世界形成には必要であったとする,予定調和の観点がみられるのです.

 

さて,ティマィオスは「まず第一に,火,土,水,空気が物体であることは,多分,誰にも明白なことでしょう[160]」といいます.ところが,現代の私たちは,火,土,水,空気,が「物体」であるとは思わず,むしろ,「カタチを持たない(不定形な)物質(モノの本質)」であり,いわば自然に内在するその素材(マテリア)であると思っています.物体と物質の意味が,ギリシア古代と現代の私たちとでは,相当異なるのかもしれません.

 

ティマイオスは幾何学について語りはじめます.「そして,物体というものはすべてまた奥行きを持っているものです.また,奥行きはこれを,面が取り囲んでいるというのが,絶対の必然ですし,さらに面のうちでも,平面は,三角形を要素として成り立っています[161]」と,三角形が,平面の「要素」である,というのです.現代科学技術においては,dxdy,なる微分形式こそがあらゆる面の要素である,といいたいところです.

 

ティマイオスは,いよいよ宇宙の原理を仮説しようとします.「これ(二等辺直角三角形,不等辺直角三角形)を火やその他の物体の始源(アルケー)だと仮定します[162]」と,三角形が宇宙の原理であり,万物の「はじまり」だというのです.続けて,「だから,立派さにおいて際立っている四種類の物体を組み立てること,それら物体の本性をわれわれは十分に把握しているのだと主張することに,力を尽くさなくてはなりません[163]」といいます.

 

ところで,現代科学技術は,原子論を使ってこのプラトンの「夢」を実現することに成功したのでした.空気,火,水,土は,原子核(陽子,中性子)に対応する「数」と,それらをとりまく電子の「数」からなるシステム(系)として説明することができるようになってきたのでした.

 

まず,ティマィオスは正三角形を構成する要素(ストケイオン)を次のように定義します. 「ただ,二つ集まれば,正三角形ができ上がるところの,その一種のものをその他の(不等辺三角形)すべてにまさる立派なものと仮定します[164]」と,正三角形と,二等辺三角形から,すべての元素を構成しようとするのでした.

 

特に,正三角形には,三つの元素の構成要素としての地位を与えるのです.「これら(火,空気,水)三種のものはすべて,もともと,一種類の(正)三角形から成り立っているのですから,大きいものが解体する場合には,この同じものから,多数の小さいものが自分に適した形をとって形成されるでしょうし,また逆に,多数の小さいものが[構成要素たる]三角形に従って分散するような場合には,それらが一つの塊をなして,数は一となり,別の大きい一つの形を作り上げることになるだろうからです[165]」というのです.

 

また,「数にして六つの先の三角形から,一つの正三角形が生じたのです[166]」ともいいます.文章で書くと説明がちょっと難しいですが,正三角形を,各頂点とその重心(もちろん垂心でもあり,外接円の中心でもあり,内接円での中心でもある)を通る直線によって六等分し,そのときに生じる三角形が,もっとも立派な三角形だ,というのです.正三角形を構成するにおいても,あくまで対称性や比例の「美しさ」にこだわるのがプラトンらしさといえるでしょう.

 

最初の立体図形は正四面体で,それは火に対応します.「そして,このような角が四つ完成されると,最も原初的な立体の形が構成されるわけですが,この立体は,自分に外接する球全体を,互いに面積が等しく,かつ互いに相似した諸部分に配分するという性質を持っているのです[167]」といい,ようやく正四面体ができあがります.そして,あくまで球面との関係を言い立てます.あらゆる場面で球や円が登場するのは,それが自己同一性を保つ究極の運動である円運動,つまり永遠の循環運動に与るからです.

 

次は空気です.「第二番目の形は,やはりいまのと同じ三角形から成り立っていますが,しかしこのほうは,正三角形が八つずつ結びついて,四つの平面角から一つの立方体を作り上げる場合に構成されます.そして,このような角が六つ生じると,ここに今度はまた,第二番目の物体が完成されたわけです[168]」といい,三角形が四つ集まってそれぞれの頂点を形成することをいいます.これは正八面体のことであり,ダイヤモンド形状がそれです.

 

次は水です.「また,第三の形は,120の構成要素(ストケイア(ストケイオンの複数))がくっつき,そして,それぞれ正三角形に属する五つの平面角によって囲まれているところの12の立体が出来る場合に,それらのものから成り立ったのでして,この形は底面として正三角形を20持っています[169]」といわれるように,3角形が5つ集まってそれぞれの頂点を形成しますと,これは正20面体になります.正三角形から構成される正多面体は確かにこの三つ以外にはありません.

 

四番目は土ですが,この構成要素は正三角形ではなく,二等辺三角形です.「もう一つの,二等辺三角形のほうは,第四のものを生み出しにかかりました.つまりこの三角形は,四つづつが,直角のところを中心へ集めるような具合に結びつき,こうして一つの正方形を作りあげたのです[170]」というわけで,正方形を作るに際しても,それらの構成要素における対称性にあくまでこだわるのでした.結局,「この正方形が六つくっついて,八つの立体角をつくりあげたのですが,その立体角はどれも,平面直角三つずつ組合わさって出来ているようなものだったのです[171]」.ついに,正方形が三つ集まって頂点を形成します.これはむろん正方体であり,正六面体です.

 

それ以外に,第五元素ともいえるような図形がまだ残っています.「なおもう一つ,第五の構成体があります[172]」.これは,正12面体のことで,サッカー・ボールの形状でおなじみになっています.この正多面体の各面を構成する正五角形は,前述の二つの種類の直角三角形からはまったく構成できません.この立体,正12面体には実は特別な目的があったのです.つまり,「神はこれを,万有のために,そこにいろいろな絵を描くさいに用いたのでした[173]」.さて,この神によって描かれたという「絵」とは一体;何だったのでしょう.

 

プラトンに対立していたはずの原子論者であるエピクロスの言説には「神的な夢」を知らせるために神の身体から剥落した「神的な原子」が登場します.この正12面体の,つまり第5元素の正体とは,「神的な原子」だったのであり,そこに描かれた絵は,人々の夢に「神の御告げ」つまり神託を告げ知らせるため「だけ」に使われたのではないでしょうか.

 

[宇宙の数について]

このように首尾よく,三角形だけで世界を創造し終えたティマィオスですが,「ところで,宇宙は無限箇のものだと言わなければならないのか,それとも有限箇のもののだと言わなければならないのか[174]」という疑問がさっそく生じます.「その場合には,宇宙を無限箇(アペイロイ)のものだなどと言うのは,とうぜん心得ていなければならないことを,文字通り,心得ていない者(アペイロス)の説だと思われることになるでしょう[175]」といい,プラトンは原子論者と同じような無限説に立つかのようでもあり,それを否定するかのようでもあり,しかしここではまだはっきりとは立場を言明しません.当時は,原子論者がそうであったように,宇宙が無限個のモノから成立している,と言い立てることは神に対して不敬虔でもあり非常識でもあると思われていたからでしょうか.

 

ティマイオスは話題を,宇宙を構成する本質である「図形の数」に変えてしまいます.「しかしこれに対して,いったい,宇宙は本当には,もともと一つのものと言われるのがふさわしいのか,それとも五つのものと言われるのがふさわしいのかという,この点に立ち止まって問題を提起するほうがむしろ当を得ているでしょう[176]」というわけです.

 

「土には立方体の形を与えることにしましょう[177]」といいます.「何故かといえば,四種類のうちで,土が最も動きにくく,またこれは,およそ物体のうちで,最も可塑性に富んでいるわけですが,他方,最もより,このような性質を備えているものといえば,最も安定した底面をもっているものがそれであるのは必然です[178]」.つまり,元素の「形状」が,その機能,「はたらき」に関係することをいうのです.原子論者と同じように,元素のカタチとその機能とは対応しているのです.

 

ここで,素朴な疑問が生じるでしょう.(立体の体積に比して)もっとも大きな底面をもち,安定した図形は,正四面体のはずでしょう.しかし,正四面体は火に割り当てられるのですが,これは正六面体に比べて,より鋭い「角(かど)」をもっているからです.つまり,こうした仮説に基づく言論は,「必然」というべき言論であるよりは,むしろ「<ありそうな>言論[179]」に分類されるのであって,プラトンはどうしても可能的言論,一種の仮説の混入を認めざるをえないのです.

 

ティマィオスは「そしてまた,もっとも小さい立方体を火に,また最大のものを水に,中間のものを空気に割り当てても同様ですし,さらに最も尖ったものを火に,第二番目のものを空気に,第三番目のものを水に割り当てる場合にも同じことが言えます[180]」といい,人間における「直観的」な幾何学的形状が,その立体が示す現実的機能と対応させられることをいうのでした.また,「正しい言論に従うとともに,「<ありそうな>言論」の線を守るとすると,立体として生成させられたもので,正四面体の形をなすものが,火の構成要素(ストケイオン)であり種子(スペルマ)であるということになります.そして生成の順序が第二番目のもの(6面体)を空気のそれだとし,第三番目のもの(20面体)のものを水のそれだということにしましょう[181]」といい,これで,正四面体が火に,正六面体が土に,正八面体が空気に,正20面体が空気に,それぞれ割り当てられました.

 

「さて,これらのすべては,非常に小さくて,どの種類に属するものも,個々一つ一つでは,小ささのために,われわれの眼には少しも見えないほどのものであるが,ただ沢山のものが集まると,その塊が見られるのだと考えなければなりません[182]」.これは,小さな原子がたくさん集まって物体ができるとする原子論者の説と,結果的には全く同一ではないでしょうか.

 

[「必然」と呼ばれる自然と元素の本質]

ティマイオスは語るのでした.「なおまた,それらのものの数量や,運動その他の諸性質に関する釣り合いについては,どんな面においても,とにかく「必然」が説き伏せられて,自分から進んで譲歩した限り,神が最大限に厳密にそれらのものを仕上げた上で,これを比例に従って調和させたのだと考えねばなりません[183]」.つまり,宇宙の魂であり理性に与る数量や運動が,必然(=自然)を説き伏せて,比例と調和ある宇宙を形成していった,というのでした.あくまで,理性が自然を支配しているのだ,ということがプラトンの主張だったのです.

 

さて,火の機能であり性質とは,他者を分解することにあります.火と水と空気は同じ三角形から成立していますが,土を構成するのは二等辺三角形だけはこれと異なります.これを巧妙に利用して,土の性質が説明されます.ティマイオスは「すなわち火が水に出くわして,火の鋭さに分解されると,そのように分解されるのが,たまたま火そのものの中であっても,あるいは空気の,あるいは水の塊の中であっても,とにかく土は,それの諸部分が互いに出くわして,自分たち同士で再び組み合わさってもとの土になるまで,移動を続けていくでしょう.-何しろ,それは他の形になることはけっしてないはずだからです[184]」といいます.これはまるで,土という「質料」保存則の説明を受けているようではありませんか.

 

次に,「しかし,水が火によって,あるいはまた空気によって,ばらばらにされると,[水の部分が]結合して火の粒子一箇と,空気の粒子2箇を生ぜしめることができます[185]」といわれます.水→火+2空気,というわけです.これはもう立派な化学式の一種といっていいでしょう.

 

さらに,「また,空気の切片は,一箇が解体すると,そこから火の粒子2箇が生じることができます[186]」といわれます.これは,化学式でいえば,空気→2火,ということになります.その生成のメカニズムは明白ではないにせよ,正8面体から2箇の正四面体が生成され,その面の「数」が化学的保存量,化学的な不変量になっているのです.

 

こんどは逆の反応で,火もまた分解されて,空気や水になります.「そしてまた逆に,火のほうが,空気や水や,あるいは土のあるものによって包囲され,しかも囲むものが多勢で,囲まれる側が無勢だとすると,火は運動しているものの中で動かされ,それらのものと戦い,敗北して粉砕されるでしょうが,そのような場合は,いつでも,火の粒子2箇が結びあわさって,一個の空気の形をとることになります[187]」.つまり,2火→空気,であり,これは,2箇の正四面体から正八面体が形成されることに対応するわけです.

 

さらに,「また,空気が征服されて,切り刻まれると,まるごとの粒子2箇と半箇から,水の完全な形一つが構成されることになります[188] 」.これは,(2+1/2)空気→水,と表現できるでしょう.つまり,2箇と半箇の正八面体から正20面体が形成されることに対応させるのです.歴史にレバ・タラはありえませんが,「もし」プラトンが近代に生まれていたら,ドルトンのような立派な原子論者でありかつ化学者でもありえたのではないでしょうか.

 

[再び,無限について]

ここにおいて,ティマイオスは「だから,それらの同種のもの同士で混じり合ったり,また,異種のもの同士で混じり合ったり,また,異種のものが混じり合ったりして,その多様さは無限のものとなっているのです.実際,「自然」について「<ありそうな>言論」を語ろうとするなら,人は,この多様さを観察しなければなりません[189]」と語ります.つまり,プラトンは自然を構成する「数」の無限性をここで承認するようです.

 

また「<ありそうな(可能な)>言論」としての条件下ではありますが,多様性をも承認するに至るのでした.世界は無限の,しかも不可分な「数」に与るところの「図形(主として三角形)」から多様に成立しているといい,それらを容れる「空なもの」としての空間を認めるのです.ここにおいて,プラトンと初期原子論者(レウキッポス,デモクリトス)の差異は全くといっていいほど消失するに至ったといえるのではないでしょうか.

 

[「動」と「静」 −不動の動者−]

ティマイオスは「さて,「動」と「静」について,それらがどういう仕方で,またどのような条件で起こるのか[190]」とその差異を問題にします.プラトンに先行するエレア派は運動を否定したといわれます.それは,静止していることこそが,永遠性に与ると考えたからです.すると,神的であるということは,永遠であるということですから,それは静的なモノのうちに「のみ」見いだされるはずでしょう.

 

プラトンが循環運動(円運動)にこだわるのも,円運動は静止していることと全く等しいと考えられたからです.図形の円を運動させても,円であることそのコト自体は全く不変なのですから.また,円とは,その中心から均等な距離にある物体が描く図形です.「つまり,均等性の中には,動は決してあろうとしないということです[191]」.これに対して,現代科学技術は,むしろ動的平衡のうちに静止の原因を見いだそうとしはじめました.

 

さらにティマイオスは「なぜなら,<動かされる>はずのものが,<動かす>はずのものなしにあるとか,あるいは<動かす>はずのものが,<動かされる>はずのものなしにあるということは,困難というよりも,むしろ不可能なのですが,動はこの両者を欠いては存在せず,またこの両者が均等の関係にあるなどはおよそ不可能だというわけだからです[192]」といいます.つまり,均衡の中において「動」はないというのです.しかし,現代科学技術においては,静的な釣り合いというのは,むしろ,力の均衡のうちにしか存在しないのです.むしろ,力の均衡が破れたところではじめて,事物は運動を開始するのです.静中に動あり,また動中に静あり,という次第です.

 

ティマィオスは「従って,われわれはいつでも,「静」を均等性の中に,「動」を不均等性の中に置くことにしましょう[193]」と結論づけます.現代の私たちは,「静」を運動の根源である「力」の均等性の中に,「動」をやはり「力」の不均等性のうちに置くほかはありません.20世紀に発見された,原子や分子の「動的なゆらぎ」,ミクロなモノが「熱運動」している,という概念が私たちの日常的なモノの見かたや考えかたまでに影響をあたえ,それに根本的な変更を迫ろうとしています.それは「エントロピー」と呼ばれる無秩序性を量る物理量であったり,あるいはその裏返しである,秩序を量る物理量である「情報」という概念であったりします.むろん,「ネゲ(マイナス・エ)ントロピー=情報」です.

 

ティマィオスは「この万有の循環運動は,いったん,先に挙げたいろんな種類のものを包括してしまうと,なにしろ,自分がまるくて,もともと,自分じしんへ立ち帰ろうとする傾向のあるものなのですから,すべてを束ねて縛りつけ,一つの空虚な場所が残るのをそのままにはしておきません[194]」といい,空虚な場所の存在を否定します.あらゆる場所には,その場所に帰属すべき固有のモノがある,と考えるわけで,いわゆる真空嫌悪説です.しかし,真空を「可能性としては」認めているかのようではありませんか.「もし」事物が欠如した場所が「あった」とすれば,そこへ事物は「また」戻ってくるというのですから.さらに「また,以上のような理由(希薄になった場所に戻る循環運動)によって,不均等性の生成は絶えず維持され,このことが,それらの物体が,現在においても,未来においても,尽きることのない,絶えざる動きをもたらすのです[195]」と語られ,不均一性が永遠に維持されることで,永遠の運動が説明されるのです.

 

しかし,近代科学成立いらい,事物は力が働かないかぎり,その固有の慣性によって真空の中を「永遠に」運動し続けることになったのでした.古代においては,力は,その固有な場所に帰属しており,「場」こそが不動の動者(自らは動かずして他を動かすもの)であるすると考えられたのですが,近代科学の成立以来,その力はまず物体に帰属しており,物体からでた力が,何もない空間(虚空,真空)を伝わって,他の物体に対して働くと考えられるようになったのです.

 

[火と空気と水について]

火と空気と水は,同じ正三角形からなる,それぞれ正四面体,正八面体,正20面体であると考えられていました.これらは相互に転換しあうモノどもだったのです.ティマイオスは火について語ります.「そこで,火にも多くの種類があるということを考えねばなりません.例えば,焔と,焔から出るもので,燃やすことはないが,眼に光をもたらすところのものと,焔が消えた時に,燃えさしの中に残る,火の残りがそれです[196]」.つまり,火にもいろいろと種類があるというのです.これを現代風にいうと,焔(発熱反応の場所)と,光と,熱,というところでしょう.光とか熱とか炎の状態は,その「場」に帰属していて,その「場」からは必ずしも分離できないモノと考えられたようです.

 

ティマイオスは空気についてこのように語ります.「また,空気の場合も同じで,「アイテール」の名で呼ばれているところの,もっとも澄みきったものと,「霧」とか「暗さ」とかというもっとも濁ったものとがあり,またその他,三角形が不等のために生じた,名もないいくつかの種類があります[197]」.現代風にいえば,これは,真空(アイテール)とその中に漂う微小な水滴のコロイドあるいはホコリなどのサスペンションの記述とでもいえるでしょう.この場合も,「場」とその場の性質をつくり出している水粒子のような物理的実体とが完全には分離していないようです.なお,アイテールは澄みきった空気のことと考えられており,天上界にある特別な元素のことではありません.

 

こんどは,水です.「水の場合は,まず液状のものと,可融解性のものとの二通りの種類に分かれます[198]」.これは,水のもつ,液相と固相の説明です.水の気相について,霧などはむしろ空気に分類されています.そして後には,空気と水が相互に転換されることが説明されます.

 

続いて,「液状のものは,それに含まれる分の水の粒子が小さい種類で,しかも不揃いなために,この不均等性と[粒子の]形の格好の故に,それ自身だけでも動きやすく,また他のものによっても動かされやすいものになっています[199]」と語られ,やはり形状が運動性に関係することをいうのです.運動の必然性を,その形状からあくまで説明しようとするのでした.また「他方,もっと大きくて,均等な粒子から成り立っているものは,その均等性によって,前者(液状)よりも安定しており,固まって重いものですが,しかし,火が入りこんで来てこれを分解して行くと,均等性を失い,均等性を失うと,以前より動きやすくなります[200]」とも語られます.これは,熱運動によって氷の結晶が破壊されていく過程のことでしょうが,相転移のシミュレーションの描写(アニメーション)を見るようではありませんか.

 

「さて,われわれが,「可融解性の水」と読んだもののすべてのうち,もっとも微細で最も均等な粒子から,最も緻密にできているところのもので,ただ一通りの種類しかなく,光沢があって黄色を帯びたところのもの -それは,最も貴重な財貨,「黄金」でして,岩を通って漉されて固まったものなのです[201]」.まるで「熱水」が流れ込んで「金鉱脈」ができることを言っているかのようです.砂金などが実際に水中に採れることから,金とは,水のエッセンスである,と考えたのでしょう.「水・銀」との類推で,液相の「水・金」もありうると考えたのかもしれません.

 

さらに「ところで,こうした類の,いま挙げたもの以外の分まで,なおもすっかり数え上げるということも,「<ありそうな>話」を追い求める限りは,いっこうにこみ入った仕事にはならないのです[202]」と,いわば,自然現象を説明する仮説,「<ありそうな>話」,現実に可能でありうるような話を述べ立てるのです.このようにして,「氷」,「雪」,「霜」等の生成過程が語られるのでした.

 

また,「植物液」からはじまって,「すなわち,身体とともに魂を温めるものは「酒」[203]」であるとか,「なめらかで,視線を拡張する性質を持ち,そのために見た眼に輝かしく,光ってギラギラ見えるものは,「油(エライオン)の類[204]」といった次第で,いろんな「油」,「蜜」,植物から抽出された「オポス」と呼ばれる凝固剤等に至るまでが水として語られるのです.こうした水の記述にあらわれる,酒や油が「魂を温める」とか「視線を拡張する」といったいいかたは,魂や感覚が「何か」であるモノの運動である,と考えられていたことを示すのではないでしょうか.

 

[土について]

ティマイオスは,土は,空気を介して石になるというのです.「また,土の種類では,水を通って漉されたものは,次のようにして石の類の物体になります.すなわち,そこに混じっている水は,混合する際に打ち砕かれると,姿を変えて空気になります.そして,空気になると自分の場所へと上昇します.ところが,その上には空虚というものが少しもないので,従って,近辺の空気を押すことになります[205]」.空気中には空虚がないというのですが,そこには既に空気があるのではなかったでしょうか.とにかく,空虚の存在を否定しようとします.

 

さらに「ところが,その空気は,何分にも思いものなので,これが押されて,土塊の上に,周囲一帯に降り注ぐと,この土塊をひどく圧縮して,新しくできた空気がそこから脱出していった,その跡の場所へとこれを押し込めます[206]」といわれます.これはまるで,火山灰が降り積もったり,火山の爆発で空洞ができた風景のようではありませんか.

 

「そこで,土が,空気の作用で,水によっては溶かされないまでに圧縮されると,これか「岩」を構成することになるのですが,その場合,均等な粒子からなる透明なものは,それだけ美しく,その逆のものは,それだけ醜いものなのです[207]」.こうなると,ますます火山の描写のようではありませんか.エンペドクレスが身を投げたといわれる有名なエトナ山の状態でもありましょうか.プラトンの自然学は,当時の多くの自然学者の影響を受けており,それらを総合し,プラトンの理想であった数や図形などのいわば「数学的原理(principia mathematica」によって,それらを整理統一して説明しようとしたものであるといえるでしょう.

 

「また,火の急速な作用によって,水分という水分をことごとく奪い取られ,先のもの()より毀れ易く出来ているものは,われわれが「陶器」と名づけているものになったのでした[208]」.これは,陶器をつくる技術の「原理」が語られているといえましょう.その他,「ソーダ」や,「神々の愛用品とも言い伝えられている「塩」[209]」などの生産技術の「原理」が語られ,当時の人びとの生活の知恵やその技術のありようを偲ばせてくれます.

 

「しかし,水の粒子は,元来,火や空気の粒子よりも大きいのですから,無理に通路を開くことになり,したがって,土を解体させて溶かすことになります[210]」.これは,浸食や氷の力で岩石が割られる現象をいうのでしょう.

 

「しかし,(土が)無理に固められている場合には,火以外の何ものも,これを解体させることはありません[211]」といわれますが,このような表現は,むしろ,実体験に基づく,経験値,つまり生活の知恵を意味しないでしょうか.あくまで真なる言論を求め続けた「神のごときプラトン」といえども,「<ありそうな>言論」に基づく,日常的技術,つまり生活の智恵なくしては生きられなかったのは当然のことだったのでした.

 

これに付け加えて,「ただし,空気のほうは,水粒子の間隙に沿って解体させますが,火のほうはもとの三角形にまで解体させます[212]」という次第で,あくまで図形(真なる言論の一種と考えられたであろう)により力学(mechanism)を説明しようとします.数や図形で,生活の知恵をその「原理」によって説明することを選択しようとします.数量化,定量化とは,現代の今や真っ盛りですが,それは近代に始まった話しでは全くなく,プラトンの時代からすでにあったのです.

 

[イノチあるモノ,ココロあるモノ −感覚の発生−]

ティマィオスは「それで今度は,それらのもの[感覚的]諸性質が,いったどのような原因によって備わったのかということを,明らかにするように努めねばなりません[213]」といい,感覚の原理を説明しはじめます.火,空気,水,土という現代では物質(素材,マテリア)とよばれるモノと,生命体がもつ感覚というモノが,むしろ連続的に語られるのです.現代科学技術においては,生物と無生物の境界は,ヴィルスであるとか,プリオンであるとかが発見されて,どんどんあいまいになっていっていますが,古代においても実はそうだったのかもしれません.

 

感覚とは,感覚するモノと,感覚されるモノの関係,作用と反作用,相互作用のことでしょう.「さてまず第一に,これからの話には「感覚」ということが,いつでも前提になっていなくてはならないのです[214]」といわれ,感覚するイノチあるモノやココロあるモノと,感覚されるモノとの関係が語られはじめます.

 

[「熱さ」と「冷」の知覚]

「そこで,まず第一に,どのようにして火が「熱い」と言われているのか[215]」が,語られます.ティマィオスは「つまり,火がわれわれの身体におよぼす,分離・切断の作用に注目するのです[216]」といい,感覚の発生を,火の物体が身体におよぼす作用,分離・切断の作用,つまり力学的かつ機械論的原因に求めようとするのです.

 

ティマイオスは,「熱さ」の原因をこのように説明します.「そこで,稜の薄さ,角の鋭さ,粒子の小ささ,運動の速さなどこそ,-なにしろ,こうした性質すべてのために,火は激烈で切断力のあるものになって,出会うものをいつでも鋭く切るのですから-とにかく,われわれが,火の形の成り立ちを思い起こすなら,他の特性ではなく,まさにこの特性こそわれわれの身体を断ち切り,こまかく細分化(ケルマィゼイン)して,現に「熱い(テルモン)」と呼ばれている性質と,その名称とを,当然の結果としてもたらすことになったのだと,推理しなければなりません[217]」というのです.つまり,「熱い」という感覚の原因を,火を構成する要素である正四面体の「形状」と「運動」に求めるのでした.「数」と「図形」を「不可分なもの(原子)」と置き換えれてみれば,これは当時の原子論による説明とほとんど等価であるといえます.

 

さらに「すなわち,身体の周囲にある水分のうちでも,大型の粒子のものが,身体に入り込んでくると,それは,自分よりも小さい粒子を押し出し,しかし,自分は出て行ったものの占めていた場所に入り込むことができないで,われわれの内部にある水分を圧縮します[218]」と語られます.つまり,水の「粒子」による「圧縮」の「プロセス」が「冷」感覚の原因であるというのです.

 

また「ところが,不自然に凝集させられたものは,自然に,自分で自分を逆の彷徨に反撥して戦うことになります.そこで,この戦いと震動には「震え」とか「寒気(さむけ)」とかいう名が与えられ,また,この感じ全体と,それを生み出す作用者は「冷」と名づけられたのでした[219]」ともいいます.このように,能動的に作用するモノについて「冷」という感覚が,それが引き起こす身体の運動について「寒気」が,それぞれ対応させられています.感覚することとは,粒子の運動や作用から引き起こされる,身体の反応の「プロセス」であると考えられているのです.

 

[硬さと軟らかさ]

次は,硬さと軟らかさの感覚が検討されます.「また,「硬い」というのは,すべてわれわれの肉のほうが屈する,当の相手についていわれる名称であり,「軟らかい」はすべて肉に屈する側について言われる名称です[220]」といわれます.つまり「硬・軟」の感覚とは,「事物相互の関係」として相対的に言われるのです.

 

「ところが,小さな底面に立つものが屈するわけでして,これに対して,正方形の底面から成り立っているものは,非常に座りがよいので,きわめて抵抗力の大きなものであり,また何にせよ,きわめて密に凝集していて,そのために特に強靱なものの場合も同様です[221]」といわれると,いささか抵抗を感じます.私には,正四面体のほうが,正六面体よりは安定していて座りがよいのと思うのですが.

 

いずれにせよ「硬・軟」の感覚においても,物体を構成するであろう要素である図形の形状,そして,物体の密度からくる「抵抗力」が問題にされているのであり,明らかに機械論的,原子論的説明であるというほかはありません.感覚する,というコトの説明は,機械論,原子論によるしかなかったのではないでしょうか.プラトンの「叡知」は,むしろ原子論的説明を「越えて」いったところ,さらにその物体を構成する要素の存在の「原・因」を,数や図形に求めたことにあったといえましょう.

 

[重いと軽い]

次は,現代の私たちが重力に関係づけて説明するだろう「重い」と「軽い」とが検討されます.ティマイオスは,「また「重い」「軽い」は,「上」「下」と言われているものといっしょに,くわしく検討すれば,一番はっきりと説明できるでしょう[222]」といい,やはり,位置関係に対応づけるのです.

 

さて,その上下関係ですが,ティマイオスはおもしろいことをいいます.「というのは,何かこう,宇宙を二分する二つの場所,つまり,その一つは「下」で,それはすべて,何からの物体的な塊をもったものが動いていくその先であり,いま一つは「上」で,これはどんなものでも強制されてはじめて向かう場所だというような,そんな二つの相反する場所が本来的に存在するなどとみなすのは,とのようにしても正しくないのです[223]」.驚くべきことに,宇宙に本来的な上/下方向の区別はない,というのでした.これだけ聞けば,現代の宇宙論のようではありませんか.

 

その理由はといえば単純なことです.「何故なら,何しろ宇宙全体は球形なのですから,中心から等距離にあって,端となっているものはすべて,元来,どれもが同じように端となっているのでなければなりません[224]」.つまり,球のどの部分も回転に対しては対称である,ということだったのです.

 

ティマイオスは「というのは,宇宙の中にあって中心に位する場所は,もともと「下」とも「上」とも呼ばれてよいものではなく,まさに<中心>にあるのですし,また周辺は周辺で,それが中心でないのはもちろんのこと,そのどの部分をとってみても,一つの部分が他の部分とくらべて,中心の関係でちがっていないことは,向かい側の任意の部分の場合に比しても,少しも変わるところがないのです[225]」といいます.つまり,対称性の中心からの関係のみが問題であというわけです.中心からの距離が関係するようないったい何が,上/下の関係を作り出しているのでしょうか.

 

さて,「いま誰かが,宇宙のうちでもとくに火に割り当てられている場所[226]」から,「火の部分を切り取り,これを天秤に乗せて計るとしましょう[227]」.つまり,思考による実験を行おうとします.天秤に乗せて火の部分を切り取ってそれを計る,というはなはだ人間的な測定行為を空想するのでした.

 

さらに「そして,その人が棹を持ち上げて,火をそれとは異質の空気の中へと無理に引っ張って行くとすると,その場恣意に,大きいものより小さいもののほうが,強制に従わせやすいものであることは明らかです[228]」というのです.つまり,あるモノを,本来の場所から運動させようとすると,それには力を要する,というのです.プラトンが考えているのは抵抗力のことでしょうが,上下移動を考えたばあいに,場所の移動が力を発生させる,という原理は,強いていえば重力ポテンシャルの概念と似ていないこともないでしょう.

 

「何故なら,一つの力で二つのものが同時に引き上げられる場合には,小さいもののほうがよりよくこの強制に従い,それに対して,大きいもののほうは,何らかの抵抗を示すために,この強制に従う度合いも少ないというのが必然だからです[229]」ともいいます.しかし,これは論理的必然というよりは,より大きいモノのほうが,より抵抗力が大きい,という経験則のことでしょう.

 

「そして,大きいものは「重い」とよばれ,また「下」に向かうと呼ばれるでしょうし,小さいものは「軽い」と呼ばれ,「上」に向かうと呼ばれることになるでしょう[230]」といいます.このように,力学的概念であるべき「重さ/軽さ」を,あくまでモノの構成要素である図形の「大/小」でそれぞれ説明しようとするのです.

 

「さてそこで,この同じことを,われわれが,ここのこの場所でしているというその現場を見つけて押さえなくてはなりません[231]」.現場を見つけて抑える,これは,実証する,あるいは現実に証拠を求める,という実験家,実証家の態度にほかなりません.

 

「というのは,われわれは大地の上に立っており,土の類のものや,いや,ときには土そのものを,[互いに重さを比較するために]分けて,これらを,その自然に反して,無理に,異質的な空気の中へ引っ張って行く,ということをしている[232]」というのですが,これは農耕の場の日常的な風景でしょう.プラトンは書斎にばかりとじこもっていた青白き哲学者ではなかったのであって,むしろ,活動的な実践家でもあったのです.その「第四書簡[233]」においては,シュラクーサイの革命の陰謀に参加した事件のことが書き残されています.

 

「大きいものよりも,小さいもののほうが容易に,われわれの強制に従って,異質なものの中へ先についてくるのです.そこで,このものを,われわれは「軽い」と呼び,これをわれわれが強制して向かわせる,その先の場所を「上」と呼び,また,それとは逆の状態を「重い」と呼び,「下」と呼ぶに至っている,というわけなのです[234]」.ということで,「上/下」「軽/重」は地上を基準にした,あくまで相対的な概念だ,ということが明らかになります.現代(の相対論)においてあらゆる事物がもつと言われる絶対的な重量や質量というようなモノは全く考えられていないようです.

 

「すなわち,それぞれのものが自分と同属のものに向かって行くという,そのことが,動いて行く当のものを「重い」[と呼ばれる]ものにし,またそのようなものの動いて行く先の場所を「下」[と呼ばれる]ものにしているということ[235]」が語られます.モノを構成する元素には「本来の場所」がある,ということによって,運動の「原・因」を説明するのです.

 

また「ところで,今度は「滑らか」と「荒い」という性質ですが,その原因は,たぶん,誰でも理解できて,他の人にも説明できるでしょう.-つまり「硬さ」が「不均等性」と混じると後者をもたらし,「均等性」が「緻密さ」と混じると前者をもたらすのです[236]」ともいい,滑らかさ,荒さが説明されますが,極力,より少数の本質的属性,図形や数において説明可能な属性において,感覚を説明しようとする態度がここでもみられるのです.数学化された科学を「近代的」還元主義というのは全くあたりません.自然学の数学化の起源は,はるかプラトンの時代,そして哲学の始祖といわれるプラトン自身にまで遡るのですから.

 

[快と苦]

ティマイオスは,いよいよ感覚の領域における最後の問題にとりかかります.「それは,われわれがいま述べてきた諸性質のうちにあって,これらを「快い」ものや「苦しい」ものにする原因をなしている要素は何かという問題です[237]」.その説明においても [じっさいに]感覚されるにせよ,感覚されないにせよ,とにかくすべての感覚的性質[もしくは感覚的印象]について,われわれはその原因を次のようにして把握することにしましょう.すなわち,いぜんにわれわれが区別した,あの「動きやすいもの−動きにくいもの」を思い起こすのです[238]」と語られ,ついに,あらゆる感覚の原因を「何か」の運動で説明しようとするのでした.

 

感覚とは運動なのであって,その運動は魂へと逐次,近接作用によって伝達されるのです.「つまり,本性上動きやすいもののほうは,ほんのわずかでもそこへ影響が及ばされると,その諸部分(粒子)1から他へと影響を生み出すことによって,これを順繰りにまわり伝え,ついに「知性」のところに到達して,作用を及ぼした当のものの機能を報告するのです[239]」といわれるからです.

 

感覚されることとは,軽くて動きやすいモノの運動状態であって,感覚の原因である運動が知性にまで,玉突き現象によって伝達されるというのです.これに対して,重いモノは運動せず,感覚の原因にならないといいます.例えば,髪や骨は重いモノ,土のみから成立している部分であるから無感覚なのだというのです.

 

さらに「これに対して,前に言われたこと[部分が相互に影響を伝える場合]は,視覚と聴覚の場合に,一番よく成り立ちます.これらの中では火と空気が最大の働きをしているのです[240]」といわれます.つまり,これらの感覚器官はむしろ軽い元素から成立していて,その運動がより軽い元素から成立している知性に伝えられて知覚が成立する,というのでした.

 

快や苦とは,どんな運動なのでしょうか.「そこで,「快-苦」は,次のように考えなければなりません.つまり,われわれのところで,自然に反した,無理な影響が,それも一挙に起こる場合には,このような影響は「苦しい」ものなのであり,逆に,自然の状態へと一気に戻る影響は,「快い」ものだということ.そして,静かに,また徐々に起こる影響は,感覚されないけれども,それと逆の影響は,逆のありあり方をするのだということです[241]」.つまり,不自然,無理,急激な運動の影響が「苦しみ」であり,自然,合理,穏やかな運動の影響が「快い」のだといいます.

 

また,視覚によって引き起こされる快楽や苦痛には特別の地位が与えられます.「何しろ,切られることも,焼かれることも,その他,視線の受けるどんなことも,視線の中に苦痛を生み出すこともなければ,また,視線がもとの形に戻るときに,そこに快楽が生み出されるわけではないのです.しかし,それでも,視線には,それがどんな作用を受けようと,またじぶんのほうがどんなものに衝突して触れようと,それに応じて,きわめて強い,きわめて明確な感覚があるのです[242]」といわれるのです.

 

視線の束が,蜘蛛の糸のように,見られる対象とそのまま繋がりあって視覚が成立している,というモデルを思い起こせば,このことがよく理解できるでしょう.現代風にこれを焼き直せば,私たちは対象から出る「光」の運動を「直接・感知」すればよいわけで,対象それ自身に視線でもって「直接・触れている」必要はない,ということになるでしょう.

 

さらに「しかし,これに反しても,もっと大きな粒子から出来ていて,作用者にもなかなか屈することがなく,運動を全体に伝えような,こうした身体器官は,快と苦を持つわけでして,この場合,自然の状態から疎外させられる場合は苦痛を,再びもとの状態に立ち直る場合には快楽を得るのです[243]」と語られます.つまり,快,苦は,ある種の運動の影響による,むしろ全身の感覚状態であることをいうのです.

 

「しかし,自然の状態から一気に疎外され,少しずつやっとのことで,自分のもとへ立ち直るものは,先の場合(大きな快楽)とはまったく正反対の結果をもたらします.そしてこのことは,身体の火傷や切り傷の場合に明瞭です[244]」.つまり,部分的な痛みが,全身の感覚としての苦しみを生じると考えたのです.

 

[感覚器官について −味覚−]

ティマィオスは「そして,身体全体が共通して受ける影響と,それを生み出す作用者に与えられた名称のことは,これで大体話してしまった[245]」と語り,こんどは,「われわれの個々特殊な部分(器官)のうちに起こる事柄,つまり,それらの受ける影響のこと,また,作用者がどのようにしてそれを惹き起こすのかというその原因のことを[246]」語りはじめます.

 

まず,味覚です.それは,「舌がうける固有の感覚的性質(影響)のことです[247]」.また「これも,一種の<収縮><拡張>に由来するように見えますが,またそれに加えて,他のどんな影響にもまして,これは<粗さ>と,<滑らかさ>に依存している度合いが大きいように見えます[248]」と語られ,味覚が,舌という感覚器官の収縮/拡張に対応し,またそれは,荒さ/滑らかさに依存するというのです.感覚の原理は,とにかく,モノとモノとの接触であり,そこから生じる運動なのです.

 

舌の感覚器官の構造はこのようになっているといわれます.「すなわち,舌の試験器官とも言うべきもので,心臓まで延びているところの小管がありますが,そこへ土の粒子が入りこんできて,肉の湿った軟らかい部分に出会うと,土の粒子は溶かされ,これがかの小管を収縮させ,乾燥させることになります.そして,この場合,その<粗さ>の度がおおきければ,それは「収斂性のある」ものに感じられ,粗さの度がさほどでもなければ,「乾いてザラザラした(渋い?)」ものに感じられます[249]」.

 

つまり,舌の感覚器官は,心臓から延び出している管だと考えられており,そこに入った味覚されるべき物質の「形状」が味覚をひき起こす,というのです.感覚の対象が感覚器官と相互作用し,その状態が情報処理されて信号になるという「メカニズム」,つまり神経系はまったく発見されていなかったようで,結局,感覚対象となる物質のイメージあるいは運動が,「そのまま」知性や理性を構成する物質の運動や形状となるような「メカニズム」を考えざるをえなかったのではないでしょうか.

 

味の感覚を引き起こす例として発酵現象があげられます.まず,味覚を引き起こす物質が「こうした空気や土の粒子を動かし,動かされた双方の粒子がお互いに相手のまわりをぐるぐる掻きまわされ[250]」,さらに「[互いに相手のまわりを]とりまく格好になり[251]」,ついに「一方が他方の中へ入り込んでくる[252]」のでした.そしてついに「(その)周囲に,中の空ろな膜が出来て,そのまわりに張ることになります[253]」.これは何でしょう.

 

これは泡です.「中でも,純粋な水分からできているものは,透明な皮膜をなして「泡」の名で呼ばれ[254]」,また「土を含んでいて,全体が動揺して膨れあがっているようなものは「湧き立ち」とか「発酵」とかの名称で呼ばれるのです[255]」.そして,ついに「こういう影響を及ぼす原因となるものは,「鋭い(酸っぱい?)」と呼ばれるのです[256]」.

 

まわりくどいようですが,現実におこるマクロな発酵現象と,感覚器官の中で起こるミクロな発酵現象が,形状や運動としては「等しい」のであって,現象と感覚が,「酸っぱさ」感覚として「対応する」というのです.外界で起こっているマクロな運動が,ミクロな現象として写し取られたのが,感覚現象だというわけです.

 

味覚において快いことはこのように説明されます.つまり「自然に反して収縮しているものや弛緩しているものに対しては,後者を引き締め,前者を緩め,すべてをできるだけ自然な状態に落ち着かせるような場合には,このようなものはすべて,無理な影響に対する医薬となるものなので,誰にとっても快く,このましくこうして「甘い」と名づけられたのです[257]」.つまり,人体において自然な状態が「快」であると考えられたのであって,その自然状態へ回復させるモノが「医薬」だったのでした.ここには,当時の自然学の伝統のみでなく,ヒポクラテスらをその代表としてたでであろう当時の自然治癒派の影響すら認められるのです.

 

プラトンは,自らのイデア論を棄てたわけでもなければ,また当時の自然学を否定するものではなく,むしろ,イデア論と自然学の融和を試みているようです.自然なる世界を,彼が世界の中にあって唯一神的であると思ったもの,つまり数や図形という「原理」において再・構成し,いわば,イデア論の世界を,自然学の世界において,仮想実験しようとするのです.世界創造の神話において,自然なる世界を,空想し,シミュレーションしてみせるようとするかのようです.

 

[嗅覚について]

こんどは嗅覚です.「鼻孔の機能となると,そこには,[はっきりした]種類というものが存在しないのです.というのは,「匂い」というのは中途半端なものなのですが,これに対して,何かの[はっきりした]種類のものの場合は,そのどれも,何らかの匂いを持つのに必要なだけの度合いのものとはなっていないのです[258]」とティマイオスはいいます.つまり当時においては,匂いの感覚対象(匂い感覚をひき起こす物質単位)がはっきりしていなかったことをそのままいうのです.また「いやむしろこの方面でのわれわれの管は,土や水の類には狭過ぎ,火や空気の類に対しては広過ぎるように出来ている[259]」といって,あくまで,感覚器官の形状と感覚器官の対象との関係で,感覚の性質を説明するのでした.

 

また,匂いの原因は,土や水と,火や空気との中間の形状を持つモノと考えられたことに注目しましょう.「ただし,ある種のものが,湿ったり,腐ったり,溶けたり,煙ったりする場合にだけ匂いが生じます[260]」というわけです.あるいは「何故なら,水が空気に,空気が水に変化するとき,その中間の段階で匂いが生じたわけで,匂いとはすべて煙か霧かであり,この場合霧とは空気から水に行くもののことであり,煙とは水から火に行くもののことなのです[261]」といわれます.「というわけで,匂いはすべて,水よりは微細で,空気よりは粗大なものとなっています[262]」.つまり,「大きさ」が中途半端だから,匂いも中途半端に感じられるのでした.匂いを引き起こすモノの「大きさ(カタチ)」から,感覚の性質が説明されたことになります.

 

さて,この匂いの種類ですが,「それら(匂い)は二通りに分かれます[263]」が,それは「「快いもの」「不快なもの」[264]」です.また,「その場合,後者は,われわれの頭の天辺と臍の間にわたってある腔所全体をざらざらに粗くし,これに無理な作用を及ぼすものであり,前者は,その同じものをやわらげ,もとの自然の状態へかえすというけっこうな作用を及ぼしてくれるものなのです[265]」ともいわれます.匂いは,呼吸運動に関係する感覚であると考えられたのです.私たちは不快な匂いがすると呼吸を止めようとしますし,快い匂いがすると深呼吸したくなります.このように,匂いを感じるのは呼吸の器官である肺や横隔膜だったのであって,そうした呼吸器官において,匂いが快いか不快かが問われたのです.

 

[聴覚について]

次に聴覚が説明されます.すなわち「われわれのうちの,第三の感覚器官,すなわち「聴覚」の場合を考察し,いったいどんな原因のためにそこに見られるような影響が起こるのかということを話さねばなりません[266]」といわれるのです.

 

「さて,総じて,「音」とは,「耳を通じ,空気の作用によって,脳と血液に及ぼされ,魂にまで伝えられるところの打撃」であると規定し,また,「その打撃によって惹き起こされ,頭に始まり,肝臓の座あたりに終わる動き」を聴覚だと規定することにしましょう[267]」と,なんと音は,耳から脳や血液を通じてついに肝臓に伝わり,その肝臓が音の認識に与る,といわれます.後でも説明しますが,これは肝臓が神託を受け取って,それを表示する神的な認識器官であると考えられたからです.当時,神託とは文字で表されるよりは,神官たちから音声で伝えられることのほうが多かったからでしょう.

 

さらに,「動きが速ければ,音は高く,また動きが遅ければ遅いだけ,それだけ音は低い.また,動きが均等であれば,音も均等で滑らかであるが,その逆の場合には,音はざらざらしたものになる.そして動きが強大であれば,音は大きいが,逆の場合は音が小さい[268]」といわれ,音の高低,強弱,音色,がそれぞれ,運動の速さ,大きさ,均一性に関係づけて述べられます.現代では,音は空気の振動であって波であり,その音速は一定であるとされ,その周波数が音の高低に,その振幅が強弱に,その周波数のパタンが音色に,と対応づけられていることと比べてみれば,その同一と差異は明らかになります.つまり,聴覚において,音の高低,強弱,そして音色が識別されるのですが,それを説明する力学的原理が全く異なっているのです.

 

[色彩について]

さて,こんどは色彩についてです.色彩が,「感覚される第四の種類のもの[269]」とされていることに驚く人は多いはずです.「総称すれば,「色」と呼ばれるもの[270]」は,近代科学の始祖とよばれるデカルトにおいては,第二性質として説明されます.近代科学において色彩とは,むしろ,主観に属するのであって,客観的に存在するモノではない,とされてきたのでした.しかし,プラトンは,これを視覚や聴覚と同様に,感覚されるべき「対象」とみなしているのです.

 

ティマイオスは「つまり,個々の物体から流出し,その構成粒子が,ちょうど感覚を惹起し得るように視線と度が合っているという,そうした焔がそれです[271]」といいます.つまり色の本体とは,対象から流出した焔()であったのでした.「火」を「光子」と言い替えてみれば,それは現代での色彩感覚の成立の説明とほとんど一致します.

 

ティマイオスは色彩を説明するにあたり,視覚の成立の原理的説明に立ち戻ります.「すなわち,他のものから運動してきて,視線にぶつかる粒子のうちには,その大きさが,視線そのものの粒子とくらべて,より小さいものもあれば,より大きいものもあり,また等しいものもある[272]」というのですが,私たちは見るためには,見えない粒子たちからなる視線を,まるで蜘蛛の糸のように私たちの周囲に張りめぐらしていると考えられたことを思い起こしましょう.世界に対して張りめぐらされた私たちの視線を構成する粒子に,視覚対象から来た火の粒子が衝突して,視覚を生じさせるというのでした.

 

ところで,色彩とは,色彩を生じさせる粒子の大きさに関係するのです.なんとなれば「その大きさが,視線そのものの粒子と較べて,より小さいものもあれば,より大きいのもあり,また等しいのもある[273]」のですが,「そこで,等しいものは,感覚されることがなく,これをじじつまたわれわれは,「透明」と読んでいるのである[274]」というのです.さらに,「しかし,より大きいものと,より小さいものの場合は,前者は視線を収縮させ,後者は視線を拡張させる[275]」のであり,「この両者とは,「白い」ものと「黒い」ものである[276]」のであり,「すなわち,視線を拡張させるものを「白い」と呼び,その逆を「黒い」と名づけるのです[277]」といわれます.つまり,視線より大きい火の粒子が黒の感覚を生じさせ,視線より小さい火の粒子が白の感覚を生じさせるというのでした.

 

引き続いて,「眩しい」とか「輝く」という色彩が発生する事態が説明されます.ティマイオスはこのようにいうのです.「もっと急速な運動が視線にぶつかって,これを分離拡張させながら眼までさかのぼり,さらに眼の通路そのものを無理に押し開いて溶かす場合には,火と水をいっしょに()流れ出させることになり,他方では,自分自身が火にほかならないこの作用者が,反対側から来る火(眼から出る火)と出会うことになります.そしてこの場合,後者は,ちょうど稲妻から発するように跳び出し,前者は入っていって湿気のほうで消えるというわけで,この攪乱状態の中であらゆる色が生じるのですが,この状態を,われわれは「眩い[状態,あるいは感じ]」と名づけ,またこうした状態を生み出す当の作用者を「輝く[]」だとか「光った[]」だとか名づけたわけなのです[278]」.つまり,またしても,マクロな外界の粒子が引き起こす動的現象(反応過程,つまりプロセス)が,ミクロな現象においてその魂の感覚過程(つまりプロセス)において再現される,という明らかな心身の運動対応説が見られるのでした.外界に起こるマクロ現象が,内的なミクロ現象にそのまま,あるいは対応するカタチにおいて「そのまま」の姿で写し取られるというのです.

 

さらに赤という色彩の成立がこのように説明されます.「ただし,この火が[湿気に]混じると,その湿気を通した火の光は,血の色を呈するのでした,われわれはその光に「赤」という名を冠します[279]」というわけです.つまり,火が水と反応し,感覚器官の中において,血の色である「赤」を呈するというのです.ある色の感覚とは,その反応の呈する「色そのもの」である,と考えられたのでした.赤色光を吸収する色素が反応し,それによって視神経が興奮すれば,それは,赤色が検出されたコトである,という現代の生理学的な説明と全く同じことでしょう.人体とは,いろいろな粒子が反応しあって,いろんな過程を引き起し,運動しつつあるミクロ宇宙として記述されうることは,プラトンの時代から現代においてまで,変わることがないようです.

 

ほかの色も同様に説明されます.例えば「輝く色が,赤およびしろと混じると,「黄金色」生じます.どれだけの割合でお互いに混じり合うのかということは,仮に誰かそれを知っている人があるとしても,これをいうのは賢明なことではありません.-そうしたことについては,そのどんな必然性も,それ<らしい>説明も,ただほどほどに言うことすら,出来ることではないでしょうね[280]」というのですが,これはたぶん,神的な色である黄金色が「なぜ」黄金色に見えるのかは神のみぞ知る,というのでしょう.しかし,現代生理学はもっと多くを説明できるはずでしょう.

 

このように、感覚の成立を説明し終えたシィマイオスはいうのでした.「つまり,神のほうは,多くのものを一つに混ぜ合わせたり,また一つのものをから多くのものへと分解したりすることに,十分通暁してもいれば,またそれをする能力もあるのですが,人間のほうは,誰一人として,そのどちらをも,現在においてもできるものではなく,今後もけっしてできはしないでしょうからね[281]」と.さて,プラトンの古代では「今後もけっしてできはしないでしょう」といわれたことは,現代においてはどのようになっているのでしょうか[282]

 

[神的なモノ(善意)と必然(自然)的なモノ]

ティマィオスは「さて,生成するもののうちに,最も立派なものを作り出す製作者たる神が,かの自足した神,最高度に完結した神を生み出そうとした時に受け取ったのが,まさに以上のすべてのものだったのでして,それらはその時,「必然」からして,いま述べたような状態にありましたが,神はそれらのもののところに見られるような種類の「原因」を補助手段として役立て,自分のほうは,生成するもののすべての中に,「善さ」を作り出すのを仕事にしたのでした[283]」と語り,自然の原因が,必然(自然)的に自然物を作り出したことを容認するのです.プラトンにおいて既に,神は,自然に内在するその必然性にそのすべてをゆだねる,いわば「機械仕掛けの神(Deus ex machina)」になってしまっていたのです.そして,自然物の中にあって自然そのものと化した神は,すでに予定された「善さ」のみをつくりだそうとするのでした.

 

ティマィオスは続けていいます.「ですから,われわれは,「原因」の二つの種類を区別しなければならないのです.つまり,「必然的なもの」と「神的なもの」とがそれです[284]」.必然的なものは,自然的なものに,自然法則として確かに見出されつつあります.しかし,自らを自らの必然と偶然において生成しつつありまた転変して常なき自然の中において,神的なモノ(永遠不変なモノ)とはいったい何でしょうか.

 

神的なモノについてはこのようにいわれるのです.「そして,「神的なもの」のほうは,およそわれわれの本性が許す限りの幸福を獲得するために,あらゆるものの中にこれを探求しなければならないのです[285]」.つまり,神的なモノとは,私たちが私たち自身の幸福のためにこれを探求すべきものとされるのでありました.しかし,私たちが私たちの本性において許される限りの幸福とは,神的なモノ(永遠不変)のうちに,果たしてありうるのでしょうか.

 

「そしてまた他方,「必然的なもの」は,とにかくそれなくしては,われわれが真剣に考える当の対象そのものも,それだけでは感知することも,捉えることも,その他どんな仕方ででもそれに与ることができないのだと勘考して,まさにかの神的なもののために,探求しなければならないのです[286]」といわれます.これでは,自然の外なる神的なモノが,自然をその手段として,その外なる神的なモノを見出させるために,自然を創造した,というかのようです.しかし,現代の私たちは自然のうちにあって,自然のうちにおいてはじめて,自然のうちにその善意を見いだして,幸福に生きることができるのではないでしょうか.プラトンの理想は,徹頭徹尾自然のうちなるモノである他はない私たちにとっては,本末転倒,という他はないと思われるのです.

 

[人間とは何か]

さて,ティマィオスはいよいよ本題に入ります.「わたしたちの手もとに,ある幾種類もの「原因」が材料として,選り分けられて準備されており,それを素材として,話の残りが織り上げられなければならないいま[287]」,「締めくくりともなり,総決算ともなるようなものを,この物語の仕上げとして付け加えるように努めましょう[288]」というのです.つまり,この神話の最後のテーマとは,人間とは何か,そして,人間とはいかに生きるべきか,ということなのです.

 

さて,人間はいかに作られたのでしょうか.人間の起源について,ティマィオスはこのように語るのでした.「魂の不死なる始源を受け取ると,次には,そのまわりに死すべき身体を,まるくつくり[=],それに乗り物としての身体を与えたのですが,またその身体の中に,魂の別の種類のもの,つまり死すべき種類のものをもう一つつけ加えて組み立てようとしました[289]」.魂は不死なるモノなのですが,身体は死すべきものであるといのです.

 

また「ところが,この種の魂は,自分のうちに恐ろしい諸原理を,必然的に蔵しているものなのです[290]」というのですが,この恐ろしい諸原理とはなんだったのでしょう.それは,

「まず第一には,「快」という,悪へと唆す最大の餌.次には,「苦」,すわなち,われわれをして善を回避させるもの[291]」であるといれます.端的にいうと,「恐ろしい諸原理」とは,人間がもつ情熱や欲望のことなのです.プラトンの倫理学においては,快が悪の原因であり,苦が善を回避する方便となるというのです.ずいぶん悲観的かつ禁欲的であって,いわゆるエピクロス主義(快と善とは一致する)の正反対であるといわねばならないでしょう.

 

「なおまた,「逸り気」とか,「恐れ」とかいう,「思慮のない助言者たち.宥め難い「怒り.迷わされやすい「期待」[292]」が,恐ろしい諸原理の一数々として語られます.いわば,すべての情動を悪しきものの原因であるとするのです.しかし,人間は感情の動物であるといわれます.すると,善性は人間のいったいどこに宿りうるというのでしょうか.

 

ティマィオスは「しかし神々は,これらのものを理をわきまえない感覚と,敢えて何にでも手を出したがる情欲と混ぜ合わせて,魂の死すべき種族を構成したのですが,これはやむをえない必然によるものだったのです[293]」といいます.しかし,今や永遠の魂も永遠の運動も存在しえないことがハッキリしてきましたし,モノとココロはもはや分離できないものとなりつつあるのです.

 

ついに「こうして,神々は,胸,あるいはいわゆる「胸郭(トラクス)の中に,魂の死すべき種族を縛りつけようとしたのです[294]」といわれます.つまり,死すべき魂であるところの熱情は,心臓に住まうようになったのでした.現代でも,心臓の停止こそは人間の死であるとされることが多いのです.心臓は,死すべき魂の座であったのでした.

 

とくに,「さて,魂のうち,勇気と血管をそなえた,負けず嫌いの部分は,これを頭に近く,横隔膜と頸の間に住まわせました[295]」といわれ,また「魂のこの部分が,理性の言葉のよく聴ける位置にいてくれて,[もう一つの]欲望の種族のほうが,城砦(アクロポリス)から指令されたことや言われたことに,どうしても自発的に従おうとしない時,前者が,かの理性の側に与して,ともに,この欲望の種族を力づくで抑えることができるようにというわけです[296]」といわれると,プラトンの意図はだんだんと明らかになってきます.

 

アクロポリスに住まう神的な種族である貴族が,戦士たちによって,平民を支配する,スパルタの王政のイメージがそれでしょう.頭=貴族,胸=戦士,腹以下=平民,という図式です.この場合に神的である理性とは,永遠の「おきて」あるいは「国家」であり「法律」にほかならないのです.自然に最終的に新しくつけ加わったモノ, 空想物であり人工物であるモノが神的かつ理性的なモノとして,自然を出て,自然の上にたって永遠にそれを支配しようとする「不自然」こそが,プラトニズムの秘儀だったのです.

 

[人体の器官の起源と機能]

ティマイオスは,身体の諸器官の起源をこのように説明しようとするのでした.また,血管の結節をなし,身体四肢を余すことなく激しくめぐっている血液の源泉をなしている所の「心臓」は,これを番兵詰所へ配置しました[297]」というように,人体における各器官の機能を,当時のポリスの制度,現代でいえば社会システムになずらえようとするのです.

 

例えば,心臓の機能(目的)としては,「何らかの不正な行為が,身体諸部分のところでなされているぞ,という理性の通告に,かの「怒り」が激してたぎるような時,身体内のおよそ感覚能力をもったものがどれでも,あらゆる狭い通路(血管?)を通って,敏速に,その勧告や威嚇を感知してその言うことを聴き,全面的に従うように,そしてこのようにして,それらが,かの最もすぐれた部分をして彼らすべての間で,無事に最後まで主導権を行使させるようにということのためだったのです[298]」といわれます.このように,社会システムを身体にたとえる,あるいは逆にプラトンがするように,身体を社会システムに譬えるのは,ある程度は真実を含んではいるでしょう.しかし,それがあまりにも恣意的であれば,単なる政治体制(例えば,スパルタの支配体制)の擁護にしかならないのではないでしょうか.

 

次に,肺の機能(目的)が説明されます.「それ()はまず第一に,柔らかくて血の気のないものであり,次いでは,まるで海綿のように,内部にいつくもの孔が穿たれているものなのでして,こうして息や飲み物を受け入れて,心臓を冷し,灼熱状態にあるそれに,元気を回復させ,寛がせることができるようになっているのです[299]」.肺もまた魂に与り,空気ばかりでなく,飲み物が肺に入るように考えられています.また,心臓の熱の冷却装置とも考えられています.そして,「(肺は)その分だけ余計に,「怒り」に対して,「理性」に仕えることができることができることを目的としているのです[300]」ともいわれます.ここでも,理性とは,怒りという感情に対立するものと考えられているのです.

 

次は胃袋です.「また魂のうち,食物や飲物や,すべて<身体>というものの本来の性質のために必要となっているところのものを,要求するような部分は,これを,横隔膜と,臍に面した境界との間に位(くら)いするところに住まわせ,そのさい,この場所いっぱいに,身体の糧をいれるためのいわば<秣桶>とでもいうようなものを作り上げたのです[301]」.胃袋のことを秣桶というのはちょっとヒドイと思います.食欲を卑しいものとして考えたのでしょう.ただし「そして,この魂のこの種の部分を,(中略)獣のつもりで,そこに繋ぎ止めたのでした[302]」ということで,胃袋とても,魂の不可欠の部分ということになっています.

 

胃袋の状態については「だから,それがいつも秣桶のところで食っていて,熟慮する部分からは可能な限り離れて住み,こうして,ざわめきや叫びはできるだけもたらさない,最上の部分が静かに,公的にも私的にも,すべてのことに有益なことがらについて熟慮するのを,そのままそっとしておくように[303]」といわれ,胃は頭を悩ませないように,沈黙しながら食べ続ける魂であることがよいとされたのでした.しかし,これらの魂の支配者である魂であるところの理性は,真にすべての身体において有益なことを熟慮しえているのでしょうか.

 

こんどは肝臓ですが,その機能がたいへんおもしろい.「この部分(胃袋)が「理性」の言葉を解することはないだろう[304]」というわけでしたから,「そこで,神は,まさこにこの弱点をねらって,「肝臓」なるものを構成して,これをかの獣の住処へと置きました[305]」.それはなんのためかというと,「「理性」からやってくるいろいろの考えの力が,ちょうど印影を受け入れては眼に見える映像を映し出す鏡の中でのように,肝臓の中で[映し出されて],この獣(胃袋)を恐怖させる[306]」ためだったのです.死すべき魂の支配者たる不死なる理性は,あくまで,音声や映像(AV: Audio-Visual)でもって,魂を支配しようとします.これは古代から現代まで全く変わらぬ風景です.

 

理性は肝臓を,胃袋を制御するために使ったのです.「つまり,考えの力が[肝臓に]内在する苦さの部分を利用して,厳しく,(胃袋を)威嚇する態度で近づく[307]」のでした.つまり,胆汁の苦さでもって,胃袋を支配するというのです.理性は,肝臓を通してまさに「苦・言」を呈することによって胃袋を支配えたのでした.

 

また「他方では,肝臓に生来備わっているところの甘さを,その器官(胃袋)のために利用して,そのすべての部分を正常な状態へ戻して,真っ直ぐで,滑らかで,自由なものになるように[308]」します.これは「甘・言」を弄して,魂を支配することといえましょう.

 

なぜ,肝臓にこんなにおもしろい機能があと考えられたのかというと,それは「その中に予見の器官(肝臓)を置いたからです[309]」.つまり,古代ギリシアには,犠牲にした動物の肝臓の色や形状を用いて吉凶を占う習慣があったのでした.プラトンとてもこうした「迷信」から無縁ではなかったのです.

 

こんどは脾臓の説明です.「(脾臓は)まぁ言ってみれば,鏡の傍らに,いつでも使えるよう用意して置いてある,<布巾>とでも言ったところでしょうか[310]」.なんと脾臓は肝臓の表面を磨く布巾だといいます.つまり,肝臓の表面は,神託を映し出す鏡だというので,その汚れを落とす役割を脾臓に与えたのでしょう.むしろ,夢や神託がいかにマジメに真剣に,古代ギリシア人たちに信じられていたかを示すものでといえましょう.

 

また,「何しろ,脾臓は内部が空で血の気のないものに織られているのですからね[311]」と見てきたようなことが語られます.確かに,脾臓内の組織には白質や赤質があって,老朽化した赤血球を篩にかけ,それを白血球が食作用によって除去する作用を持ちますから,血液の汚れを取る器官であることは事実です.むろん,肝臓の表面を磨く機能などはありません.

 

これまた見てきたような話しとして,「だから,脾臓は除去された汚れでいっぱいになると,膿んで大きく腫れ上がり,また,身体が浄化されてしまうと,腫れが退いて,再びもと通りに小さく凋んでしまうのです[312]」と語られます.これは,動物の病的な脾臓の状態の観察結果からきているのかもしれません.いずれにせよ,当時の自然学の関心は,イノチあるモノ,ココロあるモノが「なぜ」老,病,死するのかにあったことは,こうした記述からも歴然としているのではないでしょうか.

 

「さて,魂についてそのどれだけの部分が死すべき定めのものであり,どれだけの部分が神的なものであるのか,また,どこに,何といっしょに,どんな理由で,それらのものが,別々に離れて住まわされることになったのか[313]」が語られました.つまり,魂には死すべきモノと不死なるモノがあり,それぞれが,一つの生命体の多くの部分にそれぞれ局在していると考えられたのでした.

 

魂とは,生命体の各部分が持つ動的な「はたらき」でありその機能のことなのでした.頭は「思慮する」という魂を持ち,眼は「見る」という魂を持ち,各感覚器官は「感覚する」魂を持ち,心臓は「支配する」魂を持ち,胃袋は「食べる」魂を持ち,肝臓は「夢を見る」魂を持ち,脾臓は「(肝臓を)掃除する」魂をそれぞれ持つのでした.

 

プラトンはこれを「その「真相」が語られた[314]」と主張するわけではありません.むしろ,「「ありそうな」もの[315]」が語られたというのです.当時の自然学とは,コトの「真相」を言い立てる特権的な地位にあるものではなくて,自然の事物において「ありそうな」ものを語るものであり,いわば「モノ語り」であったのであり,神話(神的なモノを語ること)とほとんど連続した地位にあったといえるでしょう.

 

[その他の身体器官の起源と機能 −腸と髄−]

さらに「身体の残余の部分が,いったいどのように生じたのか[316]」が語られます.このときにも「次のような推理計算に基づくものだとすれば,何よりも一番適切だということになるでしょう[317]」といわれるのです.神的であるモノ,永遠不変な神的な魂とは,あくまで推理計算する魂なのでした.理性的推理や計算は神的な行為に与ることと考えられていたのです.

 

腸の起源については,「われわれの種族を構成した神々は,われわれの内部に,飲物や食物に対する不節制が起こるだろうことをちゃんと知っていました[318]」と,これまた胃袋の不摂生を制御する機能が割り当てられます.これは,「他から,病気のために急速に衰えて,死すべき定めの種族が,完成に達しないままで,たちまち死ぬということにならないように[319]」という次第であり,不節制が,老,病,死に至る一つの大きな原因である,と考えられていたのです.

 

続いて「余分になるはずの飲食物を収容する容器として,「体腔下部(腹部)」といわれるものを作り,「腸」をぐるぐると巻きました[320]」と語られます.つまり腸は,食物貯蔵庫なのです.その理由がこれまたおもしろいのです.「それは,食物が,すばやく通過してしまって,あっという間にまた次の食物を要求するように身体を強いることになり,そして果てしのない食欲を起こさせて,われわれの種族全体をして,食い気のために,およそわれわれのうちにある最も神的なものの言うことにはとんと耳を藉さないという,非哲学的で(知を愛し求めることを知らない),無教養なものにしてしまうことにならないように,というためだったのです[321]」.つまり,古来より,食欲は哲学の敵だった,というわけでした.

 

続いて「「骨」や「肉」や,またそれに類したすべてのもの[322]」について語られますが,「それら全部の出発点は「髄」の生成です[323]」というわけで,髄から骨や肉が出発するといいます.また「「髄」そのものは,また別のものから成り立っています[324]」.ここで登場する「髄」の構成要素とはやはり例の三角形です.「すなわち,例の三角形のうちでも歪みがなく,滑らかで,火・水・空気・土を,最高度に正確に生み出すことのできた第一のものを,神は,それぞれ,その同属のものから,区別して選び出し,相互に均衡がとれるように混ぜ合わせて,死すべき種族全部のための,「すべての種子の混合体(パン・スペルミアー)」を考案し,これで髄を作り上げたのでした[325]」.つまり,図形の正確さが,「髄」という特殊の部分の素材である,というのです.また,髄は他のすべてのモノがそこから由来する「すべてモノの種子」として重要なモノであると考えられたようです.

 

「そして次には,その中に先に挙げたような幾種類かの魂を植えつけて,そこに縛りつけていくとともに,また[魂の]それらの種類のものがそれぞれ取るはずの<>は,数も性質も,これまた決まっていました[326]」.つまり,それぞれの魂は,それぞれ固有のカタチをもっており,その数も性質もそこに内在しているのです.逆にいえば,魂とは,個々のモノの持つ,その不変なカタチや不変な性質,形相や属性,あるいはそのモノが持つと考えられたその本質のことだったのではないでしょうか.

 

ティマイオスは「そしてまず,神的な種子を自分の中に内蔵することあたかもその種子に対して耕地のような役割を果たすべき部分については,これをどこからみてもまんまるい形に作って,髄のこの部分を「脳(エンケパロス,頭内)と名づけました[327]」と語り,頭に「耕地のような」特権的な地位をあたえます.つまり,頭を使う(学習する,計算する等々)ということが,耕作することと同様に考えられたのでしょう.頭がまるいのは,宇宙が球状であることを反映していると考えられたのでしょう.古代においても,脳は外なる世界をその内部に映し出すミクロな宇宙であると考えられたのでした.

 

続けて,「他方また,魂の残余の部分,つまり死すべき部分を抑えておくことになる,髄の部分については,これを,いつくものまるくて同時に長い形(円筒形)に区分し,そのすべてを「髄」度名づけ,そして,それらのものから,碇綱よろしく,魂全体を繋ぎ留めておく索を投げると,もう,それ[脳や髄]のまわりに,われわれの全身を作り上げにかかったのですが,その[脳や髄の]全部のまわりに,骨の覆いを固めてつったのでした[328]」と語られますが,これは中枢神経系の起源といえましょう.それは魂の中枢であり,宇宙の中心であるとともに,各臓器の魂を繋ぎ止める索によって結合されているのでした.

 

骨の起源と機能はこのようでありました.「ところで,「骨」は次のようにして構成しました.純粋で滑らかな土を,篩に分けて取ると,これを捏ねて髄に浸し,そしてそれから,これを火の中に当時,その次に水に潜らせ,またもう一度火へ,さらにまた水へと移し[329]」,ついに「これを[水と火の]両者のどちらにも溶かされることのないものに仕上げたのでした[330]」.つまり,骨が火と水の攻撃に晒されていながら,安定であるために,それが純粋に鍛え上げられる過程を経ているこということをいうのです.じっさいには,骨髄の造血幹細胞からから分化する造骨細胞が営々と働いて「自ずから」骨をつくリあげていくといわれます.

 

[その他の身体器官の起源と機能 −骨と肉と腱−]

こんどは骨の起源とその機能に移ります.ティマイオスは骨について,このように語ります.「そこでこれを使って,生きものの脳のまわりに,骨の球をぐるっとめぐらせましたが,しかしただ,そこには,狭い出口だけは残しておいてやりました[331]」.これは,神経や血管の出入り口のようです.人体の骨格は,当時から,正確に観察され記述もされていたのでしょう.

 

また,「そして,頸と背中双方のところの髄のまわりには,やはり同じ材料で「脊椎」を形づくり,これを頸からはじめて全体を貫き,ちょうど蝶番の軸のように下へ下へと延ばしていきました[332]」と脊椎との関係が語られます.「そして,このようにして種子全体の安全を守るのに,石のような城壁でこれを取り囲んでやったわけなのですが,そのさい,この脊椎が動いたり,曲がったりできるように,その部分部分の間に「異」の性質を,介在者としてこれを利用することによって,脊椎の中に「関節」を作ったのでした[333]」ともいわれます.現代の進化論とはまったく逆に,あくまで,目的(完成態)となるべき性質が実体化しカタチとなって機能を生ずるとするのです.骨格がその発生の目的とする機能とは,体にとっての「城壁」である,というわけです.

 

ここで,骨の異常によって病気が説明されます.「それ()が,灼熱して,再び冷えることになってと,<炭疽>にかかって,すぐに,自分の中の種子を台なしにしてしまうであろうと考えて,「腱」および「肉」の種類を考案し[334]」た,というのです.当時は,病原菌などは考えられてもおらず,あくまで,その構成要素である火や熱の異常でもって病気を説明しようとしたのでした.

 

次は腱です.「まず,<>で,四肢すべてを結び合わせ,この腱が軸のまわりで,緊張したり弛緩したりするに応じて,身体が曲がったり,伸びたりできるようにしました[335]」というのですが,どうやら腱の緊張や弛緩が身体運動の原因であると考えられたようです.

 

肉の起源と目的が語られます.「また,肉のほうは,炎熱を防ぎ,寒さを防ぐものとなり,なお[生きものが]転ぶような場合にも,物体の衝撃に対して,柔軟に,おだやかに撓んで,ちょうどフェルト製品のような役割を果たす援護物となるように,そしてまた,それが,自分のうちに温かい水分を含んでいて,夏には発汗して,外側が湿り,こうして身体全体に内的な冷たさをもたらし,また冬には逆に,外から押し寄せてきて,まわりを包囲するところの凍てつく冷気を,この火によって適度に防ぎとめてくれるようにというのです[336]」が,現代の知識とはいささか異なり,肉には運動機能が全くあたえられていません.肉はクッションのような緩衝機能だとか,衣服のような冷暖の調節機能を持つと考えられていたのです.

 

また「われわれを蝋人形のように形作った,かの細工師は,水と火と土とで混合物を調合してつくり,酸っぱいものと塩辛いものから,発酵体を合成して,先の混合物に混入し,こうして,汁気の多い,柔らかな「肉」を構成したのです[337]」といわれます.いかなる魂(イノチ)にも,あくまで,外からの製作者が想定されているのです.しかし,現代においては,生命体は,自らが自らにおいて自らをカタチ作るといわれています.この自然であることの原理,自己生成の原理は全く無視されているといえましょう.

 

次は,腱と肉の関係です.「まず,腱で骨を相互に結びあわせ,その後に,肉でその全部を上から覆ったのでした[338]」.つまり,腱と筋肉の結合は全く考えられていないようです.

 

また「一番よく,魂を含んでいた(もっとも生気に満ちていた)部分()は,これを囲うのに最もわずかな肉をもってし[339]」,「内部に,最もわずかにしか魂を含んでいない(最も生気の乏しい)部分は,これを多量な最も緻密な肉で囲い[340]」,「骨と骨との接合部のところでは,(中略)少しの肉しか生じませんでした[341]」といわれます.さらに,「肉が屈折の邪魔になって,身体を動きにくくし,そのために,これを鈍重なものにしてしまったり,また多量の緻密な,相互に押し合いへし合いしてぎっしり詰まっている肉が,その堅固さのために内部を無感覚にし,思考の座を,物覚えの悪い,鈍いものにしたりすることのないようにというわけだったのです[342]」ともいわれます.要は,頭の筋肉が少ないことをもって,肉の機能を過小評価するのです.

 

ところで,運動こそが魂の本体に他ならないのでした.そうした観点からいうと,実は,「肉」こそが身体の運動源であり,エンジンであり,動力源であるはずです.プラトンがこのように「肉」に卑しい地位しか与えなかったこと,精神と肉体は対立するものと考えられたことが,あるいは中世における「肉」体蔑視の根源であったのかもしれません.

 

いいわけが続きます.「しかし,知力を蔵している部分のほうは,もっともわずかの肉しかつけていいません[343]」.「といいのは,「必然」から生まれ,それとともに育まれる「自然」の本性は,緻密な骨,多量の肉といっしょに,鋭敏な感覚が共存することを許さないからです[344]」.肉のうちに,知覚するモノ,つまり魂が宿ることを否定する一方で,自然の本性は「必然」からうまれ,育まれるというのでした.しかし,現代の進化学は,自然の本性であるところの,イノチあるモノやココロあるモノや秩序や宇宙(コスモス)は,偶然やカオスからも生まれえ,また育まれうることをいうのです.

 

「しかし,じっさいには,われわれを生み出した製作者たちは,長命だけれども劣った種族をつくりあげたものか,短命であるがすぐれた種族をつくり上げたものかを考量した時,長くても劣悪な生涯よりは,短くても善い生涯をこそ,誰もが,どんなにしてでも選ぶべきであるということに,意見が一致したのでした[345]」と,ここでも,神的なモノの意志が語られます.神的なモノの意志は,人間は寿命が短くても,善きモノであれ,ということでした.しかし,今や,人間という動物種は,もっとも寿命の長いモノの一つとなったのです.私たちに残された課題は,いかに長く生きるかではなく,むしろいかに善く生きうるかに少しずつ移りつつあるのかもしれません.

 

[その他の身体器官の起源と機能 −口と皮膚−]

こんどは,口の起源と機能です.ティマイオスは「ところで,われわれの「口」は,秩序づけをなす神々が,歯と,舌と,唇とで,これを<必要なもの>と,<最善なもの>の両者のために,現在配置されているように秩序づけたのでした.つまり,これを,<必要なもの>のためには,その入口となり,<最善のもの>のためには,その出口となるものとして工夫したわけなのです[346]」と口という器官の重要性を強調します.必要なものとはむろん養分であり,最善のものとはコトバのことです.つまり,口は,食物を取り入れ,人間にとっては,コトバを発する器官として成立した,というわけです.

 

続いて「何しろ,身体に養分を与えに入ってくるものは,すべて,<必要なもの>であり,これに対して,知的活動に奉仕するところの,外へ流れ出る言葉の流れこそ,あらゆる流れのうちで最も立派な,最も善いものだからです[347]」と語られますが,私たちの口には,必ずしも,必要なモノばかりが入ってきて,最善で立派なモノが出て行くとは限りません.真にわたしたちが必要とするモノを口から入れ,真に善き言葉を語り出すためには,やはりそれなりの努力,選択行為,修行が必要なのです.

 

さて,「肉の類がまだ乾ききらない間に余分に大きな外皮が出来て,肉から分離して行きました.つまり現在,「皮膚」と呼ばれているものがそれです[348]」といわれるのですが,これはちょっと奇妙です.皮膚は,魂のないはずの肉から自然「必然」的に,むしろ自動的に生成されたというのですから.

 

プラトンにおいては,生命活動の持つ目的概念と,機械論的な必然性の概念が渾然一体となって述べられているといえるでしょう.発酵などで膜が「必然(自然)的に」生じることは当時からも観察されていましたから,膜が無生物的に生じると考えたのではないでしょうか.多くの膜形成は「自動的に(必然的に)」行われるように見えますが,実は,微生物の活動,生命活動の産物でもあのことが多いのです.

 

永遠の循環運動は,たしかに「数」を作り出す原因であり,プラトンはそれを魂(プシュケー)として,生命体の持つ目的概念と同一視したのでした.しかし,プラトンが永遠の循環運動とみなしたものは,その実は,自然的必然的な「自・動」運動であり,地球の自転運動に他ならなかったのでした.それに対して,死すべきモノであるすべての生命体がその生涯に示す循環運動こそが,45億年の長きにわたる生命活動を支えてきたのであって,自然の生命活動の循環,生命活動の循環の継続性こそが,自然にその永遠性をもたらすべき,自然の内なる永遠であり,神的な運動だったのでした.

 

いまや,自然のうちにこそ,神的なモノ,神的な運動はあるのであり,自然の外において神的なモノ,神的な運動などはないのです.あらゆる生命体が老い,病み,死ぬ,というそのことが,自然のうちなるイノチあるモノ,ココロあるモノの永遠性のその証(あかし)ではないでしょうか.

 

[その他の身体器官の起源と機能 −縫合と毛穴と爪−]

さらに「そして,湿気が「縫合」の下に上ってきて,これを潤し,顱頂で,これを,ちょうどひきまとめて結び目を作るような具合にして,閉じたのでした[349]」と,頭蓋骨の縫合までもが説明されているではありませんか.古代においては,人間の身体の構造は,その知識を専門家(医師)にまかせてしまい,安心しきっている現代のわたしたちより,はるかに身近で切実なものだったのではないでしょうか.

 

しかし「ところで,この縫合には,かの[魂の]循環運動と養分の作用とのために,ありとあらゆる型が生じているのです.つまり,この両者がお互いに争えば争うだけ,それだけ縫合の数も多く,争いの度合いがさほどでなければ,それだけ縫合の数も少ないものなのです[350]」というわけで,縫合の形態の差を,魂の循環運動と,養分の作用という自然必然性の争いに帰してしまうのです.善なる魂と,肉体の相剋であり,縫合の様子で魂を云々しようとするのは,後世に悪名を馳せた,いわば骨相学のはしりのようなものでありましょう.

 

「さて,この皮膚全体は,「神的なもの」がそのまわり一面を,火で刺し貫く結果になりました[351]」といわれて驚きます.「神的なもの」とは,いわゆる万物の種子(パン・スベルミア)でしょうが,火によって作られた穴とは,なんと毛穴のことなのでした.

 

見てきたような毛穴と毛髪の成長過程が語られます.まず「皮膚を刺し穴と同じ繊さで,外へ延びていきましたが[352]」,「もう一度革下にぐるぐる巻きに捩じ込められ,こうして根を下ろすことになりました.そして,このようにして「毛髪」の類が生じたわけなのです[353]」というわけですが,皮膚よりも毛髪のほうに高い地位が充てられているということは,当時,毛髪には神的な力が宿る,と考えられたことも関係があるのかもしれません.

 

このように,「製作者の神は,(中略)いろんな「原因」を用いた[354]」のみならず「脳の安全を守るための覆いとなり[355]」云々と毛髪の神的なモノに奉仕する目的を強調します.つまり,製作物は,その「原因」のみならず,製作者の「目的因」に基づいて形作られるのです.アリストテレスとプラトンは,自然においては,ほとんど同様の説を採っているといえましょう.たしかに,あらゆる生命体は,その完成を目的として生じるのですが,今や,その目的因である生命の設計図はあらゆる生命体に内在するゲノムにある,といわれているのです.

 

さらに爪の起源までが語られます.「そして,その正確に用いられた「補助原因」のほうは,いまいった通りですが,しかし,最高の原因をなる「意図された目的」においては,それは後に生まれるはずのもののために作られたのです[356]」といわれます.「というのは,われわれを構成した神々は,男から,女や,またその他の獣がいつかは生まれてくるだろうと知っていました[357]」というのです.つまり,男から,女や獣が生まれた,といいます.当時の家父長制のなせるわざかもしれません.現代の生物学では,男性は女性という生命体のライフサイクルのインフラ(基盤)に載った,むしろ寄生体であると考えられるのは全く逆です.

 

そして,「そうした畜類の多くのものが,いろいろな目的のために,「爪」の使用を必要とするだろうことも知っていました[358]」といいます.つまり,プラトンの神は,その最終目的である理性である永遠の周期運動が作り出す「数」や「図形」からはじめて,まず,永遠に循環運動する宇宙を,次いで,不死なる神々を,そして人間の男を作った,というのです.プラトンは,現代の進化論における時間を,完全に逆転させた創造神話を語るのでした.つまり「神々が,皮膚,毛髪,また四肢の先端に爪を生じせしめた,理由,原因は,じっさい以上の通りだったのです[359]」.

 

自然における「必然」においてそれを語らせるにおいては,プラトンは全くの自然学者だといっていいでしょう.しかし,プラトンは,本来は未来において空想されて現在の理想であり目的であるべき概念を,強引に,過去において起こった世界創造の原因にしてしまうのでした.未来の空想を,現実の過去に完全に置き換えること,時間概念における未来の過去の完全な転倒,それがプラトンの神話でありその自然学の奥義だったのです.

 

[植物の起源]

ティマイオスは植物の起源についてこのように語るのでした.「その生きものにとっては,生命を,火と水と空気の中で保って行くのが「必然」の結果となったのですが,またそのために,それはこの火や空気によって,溶かされたり,空にされたりして,衰弱していきましたから,そこで神々たちは,このもののために,救助の策を講じました.すなわち,神々は,人間の性と同族の性のものが,[人間の場合とは異なる]他の形態および他の感覚機能に混ぜ合わせ,別の生きものになるようにしてこれを植えつけたのです[360]」.つまり,植物の起源を人間に,とくに「男」に求めるのでした.

 

ここでは,明らかに時間が逆転させられています.事実としては,農耕作物が人間を養うことによって,人間の文化を生み出したのですが,神が人間を救助するための手段として農耕植物が生み出されたというのです.つまり,「この生きものが,現在,農耕によって養育されて,われわれに馴れるようにさせられているところの,栽培された木だとか,いろいろの植物だとか種子にほかならないのです[361]」といわれます.

 

しかし,「もっとも,以前には,ただ野生のものの種類しかなく,このほうが栽培された種類より古くあるものなのですけれども[362]」ともいいます.野生植物は人間に先行するとすれば,先の話とは明らかに矛盾します.自然学的なとってつけた「いいわけ」のようです.

 

その植物は,下等な霊魂をもっているとティマイオスはいいます.「とはいっても,しかし,いま話題になっているものがそなえている魂は,「魂」のうちでも,第三の種類のもの,つまり横隔膜と臍の間に座を占めていると言われた,あの種類のものなのです.この種の魂というのは,およそ「思わく」にも「推理」にも,「理性」にも,いっこうに与るところがなく,ただ「快-苦」の感覚と欲望だけに与っているものなのです[363]」.これは,アリストテレスのいうところの,いわゆる,植物的霊魂,つまり,栄養的霊魂のことです.植物は,胃袋の霊魂から作られたがゆえに,胃袋に納まる運命にある,というわけです.いわば悪しき意味での人間中心主義の起源がここにある,ともいえましょう.

 

植物的霊魂と動物的霊魂の区別は「外から来る動きを押しのけ,自分に固有の動きを行使して,自分で自分の内部で,自分のまわりを回転し,そのことによって,自分じしんにかかわる事柄の性質を観察して何か勘考するという,こうした能力[364]」にあるのですが,むろん,植物にこうした能力がないわけではありません.イチョウやソテツには精虫が認められます.ミドリムシは葉緑体を持つ植物でありながら,自らの力で動きまわり環境を認識して自らの行動を制御する能力をもっています.「しかし,それは自発的な動きを欠いているために,じっとしており,そして根をおろして固着してしまったわけなのです[365]」と,植物は運動性を欠く霊魂である,と結論づけられてしまいます.

 

[血管の起源 −身体の灌漑の方法−]

続いて,人体の器官である血管の起源が語られます.神は「われわれの身体そのものに,いわば庭に水を引くための溝のようなものを,切り開いて備えつけました[366]」といわれ,あくまで,人工物との比喩において,自然物であるはずの人体の構造が語られるのです.プラトンの描く理想の国家(ポリス)という未来に到達さるべき政治目的からして,現在を演繹し根拠づけようとするプラトンの強靱な意志によって語られる神話が,ティマイオスの「夢」,のその正体なのです.

 

「そして,これらの血管を,脊椎に沿って下へ垂らしたのでした[367]」.その理由は「一つにはこの髄ができるだけ元気旺盛であるようにということ,また一つには,こうすれば下に向かって注ぐことになるのだから,ここからそれ以外の部分に向かっての流れが容易になり,したがって,灌漑が万遍なく行われるようにというわけです[368]」.血管とは,ポリスの灌漑設備と同じであるというのです.血管はたしかに身体の灌漑装置であるといえ,一理あります.しかし,自然が人工物を真似るのではなく,人工物が自然を真似て作られるのではないでしょうか.そもそも,人間の理想とするところは,すでに神的(永遠不変)であって自然を超えていると,果たしていえるのでしょうか.むしろ,人間が自然を越えているというのはいまや単なる錯覚であり,「奢り」にすぎないことが明瞭明白になりつつあるのです.

 

さて,その血液の循環ですが,「すなわち,小さい粒子を構成要素として成り立っているものはすべて,それより大きい粒子が通り抜けるのを防いで手段するものですが,その逆に,大きい粒子からなるもののほうは,それよりも小さい粒子の漏れるのを遮断することはできません[369]」といわれます.いきなり粒子論的な説明がでてきて驚きますが,灌漑とは水が土中に拡散することによって起こるように,全身は粒子の拡散によって行われるというのです.(なお,ウィリアム・ハーヴィが血液の循環説を証明する[370]のは,17世紀です.)

 

ティマイオスはおもしろいことをいいます.「そしてまた,火があらゆる種類の中で一番小さい粒子から成り立っているのです.したがって,火は水をも土をも空気をも,またそれらを構成するどんなものをも,すべてこれらを通り抜け,何ものも火を遮断することができないのです[371]」.活動性,つまり万物の運動の根源であるところの火の元素は,宇宙に遍満してすべてを通り抜けると考えられたのであり,それはいわば現代におけるニュートリノのようなものだったのです.

 

ところで,三角形はいくらでも細分化できるのですから,いくらでも小さい三角形が考えられそうです.そうなると,この粒子に最小の単位があるのかないのかが問題になりそうではありませんか.デモクリトスはこの世界の万物を構成する「最小の単位」を「不可分なもの(原子)」と呼んだのでした.しかし,プラトンはこの問いには答えていないようです.現代においても,空間に最小の単位があるのかないのか,ということは未解決の問題です.

 

人体の運動の原理である火の粒子をどうやって循環させるのでしょう.ティマィオスは「つまり,食物や飲物であれば,それが,そこに落ち込むような場合は,腹腔はその漏れるのを防いで保持しますが,息と火の場合は,その粒子が腹腔そのものの粒子より小さいので,腹腔はこれを保持することができません[372]」といいます.なにしろ,火は,いかなる場所をも貫通するというのですから,運動の原動力であるところの火や空気は,下手をすると漏れてしまうでしょう.

 

それで,ティマィオスはおもしろい「しかけ」を空想します.つまり,「さて,神は,腹腔から血管へと灌漑するのに,これらのもの[火と息]を利用しました.つまり,空気と火を材料にして,これを編み合わせて,ちょうど「筌(うえ)」のような網細工をこしらえたわけなのです[373]」というわけですが,「筌(うえ)」とは,入口より内部が広くなっている漁具のようなものだったそうです.内部が二重になっていて魚を逃がさない「しかけ」を意味するのでしょう.当時の漁師たちの「技術」を偲ばせます.

 

[呼吸の起源とその「しくみ」]

続いて「まず[漏斗状の口]の部分はこれを口腔に導きいれました.ところがこの漏斗は二重になっていましたから,その一方は,これを「気管」に沿って肺へと垂らし,他方は気管と並列させて,腹腔へ垂らしました[374]」といわれます.当時の最高の技術で編み上げられたであろう精巧な網細工のテクノロジーを使って,火と空気の循環運動を成立させるのでした.自然学は,当時からも,こうした技術,テクノロジーによってはじめて成立しえていたのではないでしょうか.

 

また「しかもまた,この過程には,とにかく死すべき定めの生きものがその構造を維持している限り,終息の時というものがないようにしたのです.「吸気」及び「呼気」の名称を定めた人がこれらの名を付与したのは,まさにいまいったような過程に対してなのだというのが,われわれの主張するところなのです[375]」ともいい,「呼気」と「吸気」が,火と空気を循環させ,身体を火と空気によって灌漑し,生命が続く限り,こうした循環運動が行われることこそが生命の本体であることを説明するのでした.このように,プラトンに始まるアカデメイア派の自然学は,天体の循環運動からはじめて,身体内の火や空気の循環運動に至るまで,自然の「必然」において自然を説明するという意味では,きわめて首尾一貫したものだったようです.

 

続けて「しかし,「呼吸」というのものあり方を,それがいったい,どんな原因のために,現にあるようなものになったのかという点について,もう一度みることにしましょう[376]」といいます.むろんこの「原因」なるものは,実は,やはり「目的」であることに注意しておく必要があります.

 

また「すなわち,およそ運動するどんなものにしても,それが入り込んで行くことのできるはずの<空虚>というものは,少しも存在せず[377]」とティマイオスがいう理由はすでに明らかでしょう.空間はすでに無数の三角形で充満しており,空間そのものが図形から成立しているのだから,いまさら空虚が入る余地は全くないのです.もともと空間の一部であるところの幾何学的「図形」が元素である限り,空虚は必要なく,あとはいかに図形を運動させることができるかが問題になるでしょう.「つまり,息は,空虚に向かって出ていくのではなく,隣接するものを,その座から押し出すことになります[378]」といわれるゆえんです.さらに,「そしてのこのことは,まるで車輪が回転する場合のように,全部が同時に行われることになります.何しろ,空虚というものが全く存在しないからです[379]」といわれ,またしても図形の循環運動が発生するのでした.多様に運動するたった一種類の図形,これがプラトンの無想した世界の「運動の原理」だったのです.

 

「というわけで,胸部も肺も,息を外へ放つその間にも,身体のまわりの空気がぐるぐるまわりに追われて,目の疎い肉の組織を通って,中へ浸透して来るので,それによって再び充たされることになります[380]」.これは,やはり灌漑のイメージです.こうした循環運動(円運動)の原動力は何でしょうか.「ところで,このようなことの起こる,そのもの出発点が何に由来するのかというその原因は,次のようなものだとしなければなりません[381]」.循環の原動力はすなわち「熱」です.現代では,むしろ,運動こそ熱の原因なのですが.

 

つまり「すなわち<生きもの>というものは,どれも,その内部の血液や血管の周辺のところが一番熱いものなのでして,この熱は,いわば生きもの自身のうちに内在している,火の泉とでも言うようなものなのです[382]」といわれます.そして,熱の実体であり原因は,火なのです.「そして,これはまた,われわれが「筌(うえ)」の編細工になぞらえていたものにほかなりません.つまり,われわれは,そのものの中心部のところは,端から端まで全部,火で編まれているが,それ以外の外側の部分はすべて,空気で編まれているのだと言っていたのでした[383]」といわれます.つまり,火と空気の循環運動を実体化したモノが,人体だったのです.

 

火と空気の循環運動が呼気と吸気をつくり出す様子は,「このように(呼気と吸気にしたがって),それ(「筌(うえ)」の網細工になぞらえたモノ)は,[被作用・反作用の]両者によって,あちら向きに動いたり,こちら向きに動いたりして揺れ動く循環運動を作り出して,吸気-呼気を生ぜしめるのです[384]」と語られます.

 

「なおまた,医療用の「吸角」に起こる現象も,「嚥下」の現象も,また空中に投げ出されたものも,地上を運動するものをもすべてを含めた「発射物体」の現象も,その原因は,やはり以上のような方針で追求しなければなりません[385]」というわけで,これらをやはり,揺れ動く循環運動で説明します.空間上の図形という要素の循環運動で説明する限りは,空間自体が,図形で充満しているのですから,空虚という実体のないモノを考える必要性は消滅するかのように見えます.

 

しかし,コトの真実はどうなのでしょうか.空間そのものと物質そのものがはたして同一でありうるのでしょうか.「何か」が運動するにおいては,運動するべき「モノ」と,それが運動する「場」が必要とされるのではないでしょうか.

 

[音の認識]

ティマィオスは,音の認識過程について語ります.「そしてまた「音」についても,高音と低音としてあらわれるところの,速い音と遅い音とが,問いとしては,運動の途上でわれわれのうちに,不均等の運動を生み出すので,そのために不調和なものとなるのに,また時としては,均等な運動を生み出して,そのために協和音になるのはなぜか[386]」というわけで,音の調和をやはり「運動」の遅速で説明しようとします.

 

さらに「そこで遅い音が速い音に追いついても,べつだん異なった運動を闖入させてこれを攪乱することにはならず[387]」とまるで,波動の「重ね合わせの原理」のようなことをいうのです.音が周期運動,つまり循環運動であることを知っていたかのようです.「というのは,神的な調和の模造が,死すべき運動の中に生じたのですからね[388]」というわけで,音は,神的な循環運動の,死すべきモノの中での模造であると考えられたのです.

 

[「吸引力」と「空虚」について]

ティマィオスは唐突ながら「またそのほかにも,どの水の流れにしても,なおまた落雷にしても,琥珀や磁石がものを引きつけるというあの不思議な現象にしても,それらのすべてのどれにも,けっして「吸引力」は存在しないのです[389]」といいます.今でいう電磁運動にも,静電気による運動にも,「吸引力」を説明原理にすることはほとんどありません.この力を否定するプラトンの意図は,空虚の否定にあります.当時において,吸引力は虚空の「存在」を説明する原理としてつかわれたからでしょう.

 

運動の原理は,「むしろ,空虚が少しも存在しないこと[390]」であり,「そのすべてが自分自身の座を求めて,場所を変えて動いていくということ[391]」であるといいます.プラトンは,万物がその本来あるべき場所のまわりを永遠に循環運動することを宇宙の「原理」であり理性的な「おきて」とするのでした.

 

[血液の循環運動]

先に呼吸の循環運動が説明されたので,今度は,血液の循環運動が説明されます.つまり「火は食物を切るとともに,また他方では息に伴って内部で行ったり来たりします[392]」というわけで,呼吸運動に伴う火の循環運動で,食物は切られて,栄養分となるというのです.

 

「そしてこのように[空気とともに]揺れ動くことによって,切られた切片をその場から汲み出すという仕方で,腹腔から血管を充たすのです.そして,まさにこの故に,どんな生きものの場合も,その身体の全体にわたって,養分の流れが,このように次から次へ流れ込むことになりました[393]」といわれ,また「とにかくこのように,それぞれの切片は,自分と同種のものから切り取られたものなのです.だからそれは,混じり合うことによって,ありとあらゆる色を帯びています[394]」ともいわれます.食物それじしんにはそれじしんに固有の色があると考えられたのであって,それがそのまま切り取られても残っているというのです.ミキサーにかけられたジュースを思い浮かべればよいのではないでしょうか.

 

さらにティマィオスは色について「そこでは,「赤色」,つまり火が液を切って,そこに自分の印影を押捺するという作用の結果として,作り出された色が一番よく行きわたっています[395]」ともいいます.あくまで能動的な「原理」である「火」という元素が持つその固有の色が血液の色を支配する,というわけです.つまり,色というのは,モノの運動性がそのまま感覚されコトであると考えたのでした.これは,現代において,モノから出る光の振動数が色の基本原理であると考えられることと驚くほど似てはいないでしょうか.

 

ティマィオスは血液が魂の飼料であるといいます.「これが「血液」というものでして,これは肉にとってだけでなく,身体全体にとっても,その飼料となるものであり,そこから身体各部は灌漑されて,空になった部分の根元を充たすのです[396]」.なお,もっとも血液中の酸素消費量の多いのは,神的な魂の座であるはずの脳です.もし,これを知っていたら,プラトンはこれを「飼料」と言ったでしょうか.

 

「ところで,「充たされること」と「失うこと」の仕方は,宇宙の中で,すべてのものの運動が起こった場合と同様の仕方で起こります.つまり,同種のもの同志が,どれも自分自身の仲間のほうへ動いていくという,あの運動です[397]」といわれますが,つまり,身体というミクロな宇宙も,天体と呼ばれるマクロな宇宙も,元素であるモノが,自らが自らの内を,自らの本来の場所を求めて循環する運動であるというのです.ついに「血液の中に含まれているもののほうは,(中略)あたかも天球によって取り囲まれているようなものですから,どうしてもこれは(血液の運動は),宇宙の運動を模倣せざるをえないのです[398]」といわれます.

 

[人間にとって老・病・死とは何か]

驚くべきことに,身体を構成する三角形にもその寿命があるというのです.ティマィオスは,「若い三角形」について語りはじめます.「そこで,生きもの全体の組織体がまだ若くて,それを形成する三角形も,いわば,造船台から出て来たばかりのように,真新しい場合は,三角形同志の結合はしっかりしているのですが,ただ,その組織の塊全体は,何分にも,ついいまし方髄から生まれたばかりでもあり,(中略)若く出来ているわけなのです[399]」.

 

そして,「この組織は,新しい三角形でもって,新しい三角形でもって侵入者の三角形を切って征服し,そして[当の生きものの三角形と]同種の三角形多数で,この生きものを大きくするのです[400]」と,人間の身体の生長過程を,三角形の数の増大で説明しようとします.

 

さらに,「しかし,これに対して,三角形が,長時間の間に,数々のものを相手として,多々闘争を演じたために,その根が弛んでくるといった場合には,それはもはや,入って来る養分の三角形を切って,自分自身に同化することができなくなり,かえって自分のほうが,外部からの侵入者によってたやすく分解されます.そこで,どんな生きものでも,ここに至っては,征服されて,衰えるのでして,このような状態が「老年」と呼ばれているのです[401]」と,今度は反対に,三角形の構造の老朽化と数の減少とでもって,老年を説明しようとするのでした.

 

死についてのティマィオスの解説はこのとおりです.「そして,最後に,髄のところの三角形の絆が,労苦のために,それまで組み合わさっていたのが,もはや持ちこたえられなくなって切れると,それが今度は,魂の絆を解き,そして魂は自然に解放されて快く飛び去ります[402]」.魂の絆が解放されて「快く」飛び去る,これがすなわち死だというのです.しかし,死が快いとはどういうことでしょうか.

 

「というのは,自然に反したものは,どんなものでも苦痛を与えるのですが,本来の自然のあり方で起こるものは,<快い>ものだからです[403]」.ここで,プラトンは自然なあり方こそが快いものであるというのです.まるで自らが自然学者の一人であるかのように.そして,「まさに,「死」もまた同様,病気や障害によって来るものは,苦しく,不自然なものなのですが,老いとともに,自然に終局に向かうものは,およそ死の中でも,もっとも苦痛の少ないもの,いや,苦痛よりも,むしろ快楽を伴うものなのです[404]」と,自然な死を迎えることが,快楽である,と宣言するに至るのでした.

 

[病気について]

病気についてティマィオスは多くを語ります.当時の医師たちは同時に自然学者でもあり,プラトンはそうした人たちから多くの学び,彼じしんの「原理」によってそれらの学説を合理的に説明しようとしたのでしょう.

 

「ところで,「病気」というものが,いったいどういうところから起こるのかということは,おそらく,誰にも明らかなことでしょう.というのは,身体を組み立てているものには,四種のもの,つまり土・火・水・空位があるのですから,それらが不自然に過多になったり,不足したり,また本来の自分自身の場所から,よそへ場所を移したり,さらに-火にしても,その他のものにしても,そのそれぞれには一つより多くの種類があるという具合になっているのですから-身体各部が自分に不適当な種類のものを取り入れるとか,あるいはまた,すべてこれに類したことがあるとすると,こうしたことが,内部の不和や病気をもたらすのです[405]」.というわけで,身体を構成する元素の構成の不自然さ,自然な位置や比例関係からの逸脱に病因を求めようとします.これは,些細な差はあるものの,根幹においてはヒポクラテスの自然治癒派の理論そのものだといえましょう.プラトンは,自然治癒派の身体論に触れ,それを数や,幾何学的図形や,永遠の循環運動である円運動等々の数学的諸原理で説明することに成功しえたと思ったのではないでしょうか.

 

自然に反する行為が病気の原因であるということを,ティマィオスは「というのは,自然に反して,それぞれのものが生じたり,また場所を変えたりすると,以前には冷えていたものすべてが熱せられることになったり,乾いたものが後には湿っぽくなったり,乾いていたものが後には湿っぽくなったり,軽いものと重いものの場合も同様ですし,なお,ありとあらゆる仕方で,あらゆる変化を,これらのものがうけるからです[406]」とも,「というのは,われわれの主張では,同じものが,同じものに,同じ仕方で,恒常不変に,また,一定の比率に従って,つけ加わったり,除去されたりする場合にのみ,ものは自己同一を保ち,無事息災で健康なままでいられるのです[407]」とも語ります.

 

ところで,恒常不変であって,しかも自己同一を保つ運動とは,円運動,循環運動以外にはないのでした.自然にしたがって,永遠の循環運動の中にあること,これが,健康であること,自然であることだったのでしょう.

 

「しかし,これに対して,入って来たり,出て行ったりする時に,この限度を越えて,調子を外すものが何かあるとすると,それは多種多様な変化を惹き起こし,数限りない病気と死をもたらすでしょう[408]」と,自己同一である永遠の秩序である円運動からの逸脱,それが病気であり,死であるというのです.

 

[「髄」や「骨」や「肉」や「腱」や「血液」の病気について]

「さらにまた,自然に構成されて出来ている,第二次的な組織体がありますから,病気についても,これを理解しようとすれば,とうぜん,第二番目の考察が成立することになります[409]」と,自然における「必然」からの逸脱が病気であるといい,部分的な組織や器官の病気について語ります.「すなわち,「髄」や「骨」や「肉」や「腱」は,先に挙げた四種のものから[第二次的に]組み立てられているものですし,なおまた「血液」も,構成の仕方こそちがっていますが,やはり同じものを素材として成り立っているのです[410]」と,その病気の原因を,その素材や構成の異常に求めます.これは,現代にあっても,病気の症状があるにおいては「病・理」つまり,病気の「原理」,すなわち原因がある,と考えることとほとんど同じです.

 

「しかし,病気の中でも最も重症なのは,次のように起こるのでして,これはなかなか厄介なものなのです.すなわち,いま言ったような,第二次的な組織の生成の順序が逆行すると,その時には,これらの組織が壊滅することになるのです[411]」といわれます.つまり,秩序は,時間的に正しいプロセスあるいは手順,手続きを経て形成されねばならないわけであって,これが乱れると,組織形成のプロセスが乱れることになり,組織は崩壊することになるだろうというのです.きわめて妥当な考えかたでしょう.

 

その病気の理由ですが,「というのは,自然の順序では,(中略),最も滑らかでつややかな種類の三角形が,骨から注ぎ出し,したたり落ちて,髄を潤すということになるのです[412]」というのです.してみれば,元素である三角形には,表面のつややかさとか滑らかさとかの「性質」が帰属することになります.つまり,純粋な図形である三角形にもちゃんと属性があるということになります.また,髄は理性的な魂が宿るのですから,その部分においては「純粋さ」ともいうべき属性を持つ元素によって涵養されねばならない,ということになります.

 

続いて「そして,それぞれのものが以上のような順序で生じるなら,たいていの場合には,その結果として健康が生じます.しかし,順序が逆になると,病気が生じるのです[413]」といわれますが,これは,よく経験される生理的事実ではないでしょうか.人体の機能が,順序づけられた生理的プロセス,ホメオスタシス,あるいはフィードバック回路とでもいうべきプロセスから成立していることは疑いえない事実であり,この時間的「順序」や空間的「秩序」が崩壊した状態が病変なのです.

 

[体液(「胆汁」「漿液」「粘液」)説による病気の説明]

さらに,体液の異常によって病気を説明しようとします.「こうしたもの(「胆汁」「漿液」「粘液」)は,自分でももはやどんな養分をも身体にもたらさないままに,循環の自然な順序を保つことももはやなく,血管を通ってあらゆるところに進んで行くのですが,このさい,一方では,自分たち同士の間でも,お互いから利するところが少しもないために,相互に相手を憎み合うとともに,たま他方では,身体の中で組織を形成して,自分の持ち場に止まっている部分に対しては,その敵となり,これを滅ぼし,溶かすのです[414]」.これは,黄疸症状のようです.また,感染症の場合や遺伝子病の場合に,病原体,あるいは異分子は確かにこのようなふるまいをすることが観察されえます.身体は,多くの魂(細胞)が秩序正しく共存する組織から成立しているのです.プラトンが,身体をポリスの組織に譬えるのは,人体は,多くの細胞の,協同のプロセス(過程)からなるシステムであるという意味では決して間違っていないのではないでしょうか.

 

「そして,以上のすべてに対して,共通の名称「胆汁(コレ)」が与えられたのですが,このように名づけたのは,誰か医師仲間の一部の人だったのかもしれませんし,あるいはまた,それは互いに似ていない多くのものを望見しながら,そのすべての中に,一つの名称に値する一つの類があるのを見分ける能力のある人だったのかもしれません[415]」と,胆汁によって多くの病気を説明しようとします.これはつまり,自然治癒派,ヒポクラテスに代表される医師の知識が先行することを認めているのではないでしょうか.こうした医師たちは,多くの症状に「共通の本質」が見出されることを発見する人たち,つまり,自然の本質に関心を寄せる人,自然学者でもあったのです.してみれば,プラトンは当時の自然学者たちの築き上げた知識の上に乗って,モノをいっている,ということになります.

 

「「漿液」については,血の上澄み(漿液)のほうは穏やかなものですが,黒くて酸っぱい胆汁の漿液のほうは,熱のために塩辛い性質と混じり合う時には,劇しいものになるのでして,このようなものは「酸っぱい粘液」と呼ばれています[416]」といわれます.粘液の味にまで言及されているということは,古代にあっては,病者の胆汁や血液の漿液を味わってみて,その症状を診断しようとする医師たちもいた,ということでしょう.

 

「さらにまた,形成されたばかりの粘液の上澄みとして,「汗」や「涙」や,その他すべてそれに類した,日々,排泄して流し出される物体があります.そして,これらすべては,血が,自然に適った仕方で,食物や飲物から充たされるのではなく,自然の習わしに反して,逆なところからその嵩を増すような場合に,病気を惹き起こす道具となります[417]」ともいわれます.自然治癒派の医師たちにとって,こうした排泄物の量や質は,病気を診断するための重要な材料でもあったのです.

 

そして,ティマィオスは「何しろ,病んでいる肉は,また容易に回復しうるのですからね[418]」といい,自然治癒力を認めるに至るのです.そして,「しかし,肉を骨に結びつけているものが病む場合があります[419]」と,先に,肉が単なるクッションであり衣服のようなものだといっていることと矛盾することを言い立てます.むろん,筋肉は腱によって骨に結合しているということが当時にあっても,むしろ,現代においても正しい知識でしょう.

 

奇妙なこともいいます.例えば「そして,肉そのものも逆行して,血の運行の中へと落ち込んで,前に言われたいろいろの病気をいっそう大きくします[420]」というのがそれですが,

機能プロセスの停止や順序の逆行や,組織の機能不全,そして組織の破壊が病理である,ということはそのとおりにしても,そもそも,血液を構成する「火」の循環運動は全く見えもしないし触れもしないわけですから,結局は「見てきたような嘘」という他はありません.

 

骨の病気も観察されたようで「骨が十分に呼吸できなくなり,黴びて,そのせいで熱くなり,壊疽にかかって,養分を受け入れることをしなくなるとともに,自分のほうがかの養分の中へと,反対湧きに,磨滅して入って行き,さらに養分は肉の中へ,肉は血の中へと落ち込んで,すべての病気を,前にいわれたものよりもいっそう激しいものにする,といった場合がそれです[421]」といわれます.当時の戦争で,骨にまで達する傷をうけた場合には,こうした壊疽や骨膜炎といった症状があらわれたことでしょう.

 

さらに「しかし,すべての中で最もひどいのは,髄の実質が,何かの不足か過剰によって病気になる時に起こるものなのでして,この時には,身体の実質全体が,必然的に逆流することになるので,およそ病気の中で最も重傷で最も致命的なものを生み出すのです[422]」ともいわれます.確かに,骨髄の損傷や,骨髄のガンは,現代でも治療が困難な病気の一つです.

 

[「息」と「粘液」と「胆汁」の運動プロセスの異常としての「病・理」]

さて,「ところで,今度はまた,病気の第三の種類ですが,これは三通りの仕方で起こるものと考えねばなりません.すなわち,「息」による場合と,「粘液」による場合と,「胆汁」による場合です[423]」と,「息」と「粘液」と「胆汁」の運動プロセスの異常として,その「病・理」が語られはじめます.

 

「つまり,まず,身体に息を配分する役の「肺」が「[体内の]流れ(レウマ)によって塞がれて,(中略)(息を)腐敗させ,中略(息が)閉じ込められることになります.そして,こうしたことから,しばしは多量の汗をともなうところの,無数の苦しい病気を生み出します[424]」.これは,呼吸不全に関係する病気の原理のようです.

 

「また,身体の内部で肉が分解し,そのことによって体内に息が生じて,これが外に出て行くことができないで,ちょうど外部から入り込んで来た息が与えるのと同じ苦痛をもたらすこともしばしばあります[425]」.これは炎症のことでしょうか.

 

「そして,その治療がまた困難なのです.というのは,このような病気は,それに併発する熱によって,一番よく解消されるのですからね[426]」.これは,炎症が,生体の自然な防御反応であり,発熱によってその部分はかえって癒されることをいうようです.古代においても,病状の観察によって,症状とその病因とは,はっきりと因果関係によって結びついていると考えられていたのではないでしょうか.

 

「ところで「白い粘液」のほうは,体内に遮断さると,泡に含まれている息のために,危険なものとなります[427]」といわれる「白い粘液」とはリンパ液のことなのでしょうか.「白皮病」,「白色癩」等がこれによって説明されます.

 

「そしてまた,この白い粘液が黒胆汁を混じえて,もっとも神的なものであるところの,かの「頭の中の循環運動」の上に蒔き散らされ,これを混乱に陥れる場合は,それが睡眠中に起これば比較的軽症ですが,覚醒時に襲うなら,もっと取り除きにくいものとなります.この病気は,何しろ,神聖なものを犯す病気なのですから,「神聖病(癲癇)」と呼ばれるのが一番正しいわけです[428]」.ここにおいて,ヒポクラテスのいう「神聖病」の原理が説明されます.いわゆる癲癇症状が,脳内の理性的な循環運動が混乱するコトとして正しく記述されているといえます.プラトンにとって「神的」であるのはむしろ理性であり,循環運動ですから,そうした理性からの逸脱や秩序正しい循環運動が混乱することが病気なのです.

 

「まず,酸っぱくて塩辛い粘液は,カタル性の(分泌液が頭から下へ流れる)もののとして起こる限りの,すべての病気の源泉ですが,それの流れて行く先の場所が多種多様なので,さまざまな名を得ることになりました[429]」.カタルシスを引き起こす病気の原因は,「塩辛い粘液」だといいます.これは胃液や消化液のことなのかもしれません.

 

引き続き「ところで,身体のうち,焼かれたり,燃やされたりすることから,「炎症を起こしている」と言われている部分のすべては,「胆汁」に由来するものなのです[430]」といわれ,

胆汁によってすべての炎症を説明しようとします.むしろ,炎症部位においてはリンパ液のほうが活躍するといわれるのですが,プラトンは,病因においては,粘液説よりは胆汁説のほうを重視したようです.

 

また「そこで,この胆汁が外へ出るはけ口を得ると,沸き立って,さまざまな腫瘍を作り出しますが,内部に閉じ込められると,中に炎症性の病気を多く作り出します[431]」といわれますが,ここで胆汁といわれるものは,いわゆる「膿」のようです.粘液と胆汁が混同されて理解されていたのかもしれません.

 

「もともと「繊維素」が血液の中へ散布されたのは,血液が「微細さと粗大さ」の点で,ちょうど釣り合いのとれた状態を保つように[432]」といわれるように,血液中には「繊維素」があることは,血液が凝固することですでに知られていたのでしょう.「繊維素をもとのまま残しておくならば,それは周囲を取り巻いている冷気と協同して,たちまち血を凝固させるのです[433]」とあるように,血液を凝固させるのは,冷気だといわれます.血液の流動性は,火(熱の原因)によって保たれていると考えられたからでしょう.

 

(「胆汁」は)ちょうど内乱のあった国家から追放されるように身体から追い出され,そのさい,「下痢」や「赤痢」や,それに類したあらゆる病気をもたらすのです[434]」ともいわれるように,内的な防御反応が炎症であり,それを体外に排除するハタラキがカタルシスと呼ばれる病状として正しく説明されます.

 

[熱病の周期と病因について]

ティマィオスは「さてまた,身体が,主として火の過剰から病気になる場合は,それは,「持続する灼熱あるいは熱」を作り出し,空気の過剰によるものは,「毎日熱」を,また水の過剰によるものは,「三日熱」をつくりだします.-水は,空気や火よりも緩慢なものですからね[435]」といい,火,空気,水の運動性の違いから,病気の症状の周期を説明しようとします.「そしてまた,土の過剰によるものは,土というものが,以上のもの(火,空気,水)の中でもっとも遅くて,第四番目に位するのですから,浄められるにも四倍の期間を要し,「四日熱」を生みだすので,なかなか取り除けないものです[436]」と,四番目の元素による病気だから,四倍の周期で四日熱だと説明します.こじつけめいてはいますが,急性の病気と,周期的に起こる慢性の病気がキチンと区別されています.

 

[魂の病気について]

ティマィオスは語ります.「そして,身体にかんする病気は,以上にように起こることになるわけですが,魂の病気のほうは,身体的条件を通じて,次のように起こるのです[437]」.いわゆるココロの病気のことですが,これとても,身体的条件を通じておこることがいわれるのであって,プラトンにおいては,魂と身体とは全く分離していないのです.

 

さらに「そこで,まず「魂の病気」とは「理性を欠いていること(愚かさ)」であり,また,それには二つの種類があって,一つは「狂気」であり,一つは「無知」であることを承認してもらわねばなりません[438]」といわれますが,「無知」は魂の病気なのです.ただし,この場合の「無知」とは,むしろ感覚障害,認知障害や記憶障害をもいうようです.

 

「また,過度の「快」「苦」が,魂にとって,病の最大のものとしなければならないのです[439]」と,過度の快楽や苦痛を病気に数えます.その理由は,「何故なら,人間というものは,喜びの度が過ぎたり,あるいはまた,苦しみによってその逆を経験したりすると,快を捉え,苦を避けるために躍起となって,場合のよしあしを顧慮しなくなるので,そのために,何一つとして,正しく見ることも,聞くことも出来なくなり,狂乱状態に陥り,およそ勘考するというようなことは,こうした時にはまるで出来なくなるのですからね[440]」といわれるのです.

 

現代においては,病気とは,「QOL(Quality of Life: 日常性)の喪失」として定義されます.過度の快楽や苦痛,あるいは一時的狂乱状態や一時的無認知状態などは,病的ではありますが,必ずしも病気であるとは診断されないでしょう.

 

[魂の病気の原因]

その病因としては,「人によっては種子が髄のところに大量に生じて流れてくるようになり(中略),欲情と,こうしたもの(種子)を生むことの中にあって,多大の苦しみと多大の快楽を得るのでして,こうして,人生の大部分を,その強度の快苦のために,狂気じみた状態で過ごすことになるのです.そして,このような人は,身体のせいで,その魂が病めるもの,思慮なきものとなっているのに,<病んでいる>とはみなされず,自分から求めて悪くなっているのだと見なされるのです[441]」といわれ,それが身体の主人である魂の責任であるとされます.自らの意志(ココロ)からして病的にふるまうのか,身体に強制されて病的にふるまうのか,の識別と判断は,現代科学技術にあっても,たいへん困難な問題です.

 

また「しかし,本当のところは,色事に耽ってしまりがないというのは,大抵の場合,ある一つの種類のもの[]の,特別なあり方 -つまり,骨の組成が疎らなために,そのものが体内に流れ出してこれを湿らせるというあり方-に由来する,魂の病気にほかなりません[442]」といわれます.驚いたことに,プラトンは,魂の病気を,[]というモノの,特別なあり方,つまり身体の組織のあり方に求めるのでした.これは,現代科学技術において,ココロの病気の原因を,脳神経系という身体の器官や組織のうちの,その機能の欠失や異常に求めるのと同じ態度ではないでしょうか.プラトンは,ここでは自然学者,自然治癒派の医師とまったく同様にふるまっています.

 

ティマイオスはこうもいうのです.「そしてまた,一般に,「快楽に対する不摂生」と言われ,悪い人々は故意に悪いのででもあるかのように,かれらに対する非難として言われているすべてのことにしても,このように非難するのは当を得たことではありません.何故なら,誰にしても,好んで悪くなっているわけではなく,悪い人が悪くなるのは,身体が,ある有害なあり方をしているということ,無知蒙昧に育てられているということによるのでして,この両者は,誰にとってもいまわしく,こちらが求めもしないのにやって来るわけなのですからね[443]」と.

 

これは,ココロの医療に携わる人たち,そして,教育に携わる人たちが肝に銘じるべき発言ではないでしょうか.身体からくるココロの病気,そして,無知は,現代社会にあっても依然として,私たちが直面する最大の難題の一つとして残されているのではないでしょうか.

 

苦痛については「さらにまた,ひるがえって,「苦痛」の場合を考えても,魂は,やはり同じようにして,身体のせいで多くの悪を背負い込むのです[444]」といわれます.ココロはたしかにカラダを経営し支配するとはいえますが,その代わりに,カラダが受けた苦痛をも確実に負わねばならないのです.ココロがカラダをして老いしめ,病ましめ,死に至らしめるならば,それにともなう苦しみは,ココロがそれを負わねばならないのです.

 

あるいは「すなわち,酸っぱい粘液や塩辛い粘液,あるいは苦くて胆汁質である体液が,身体中を彷徨よった挙げ句,外へ出るはけ口が得られなくて,内部に閉じ込められ,自分の出す上記を魂の運行に混じらせることによって,自分がこの運行に混じるというような場合には,いつでもそれは魂のありとあらゆる病気(中略)をその中につくり出すのです[445]」とも語られ,粘液の異常が,魂の運行に障害を与え,それがココロの病気として発現するといいます.つまり,ココロの病気の原因は,魂の運動を形成するであろう,そのプロセスの異常によるのです.脳の活動の異常,正常であるべき脳活動の機能の欠失や異常が,ココロの病気として観察される,という現代科学技術の知見に,これはまさしく一致するとはいえないでしょうか.

 

また「そして,それは魂の,かの三つの場所に向かって行っては,その各々が攻撃を加える場所に応じて,ありとあらゆる種類の「気難しさ」に「意気消沈」,また「向こう見ず」に「臆病」,なおまた同時に,「物忘れ早いこと」に「物覚えの遅いこと」など,多種多様なものを生み出すのです[446]」ともいわれます.いわば気質や性格の弱点ともいわれる部分が病気といわれて,心理的な抵抗を覚えるむきもありましょう.しかし,気質や性格の差異が,身体的差異にある程度は基づいていることは,事実上,認めざるをえないのではないでしょうか.

 

[無知なる魂への配慮]

プラトンは無知と呼ばれる魂の病気への配慮もけっして忘れてはいません.「また,これに加えて,人間の出来がこのように悪いところへ,その国政がまた悪く,悪しき言論が,国家で,公私ともに語られ,しかもなお,こうした害悪を癒す薬となるような学科が,若い時から少しも学ばれないのだとすると,そのような条件のもとにあっては,われわれが悪くなるにしても,誰しもそのように悪くなるのは,ひとえに,われわれの意志にまったく反した二つのもの(悪しき身体構造と,悪しき育ち)の故だということになります[447]」とティマィオスは語ります.

 

つまり,ア・プリオリにおいて善きもの(健康な身体),そして,ア・ポステオリにおいて善きもの(善き教育)の両者によって,はじめて,人間は善きモノになるというのです.「だから,こう言ったことの責めは,生まれる子どもよりも,むしろ生む親たちに,また養育されるものよりも,むしろ養育するものたちに求めねばなりません.しかしそれでも,可能な限りは,養育を通じ,また日々の営みや学課を通じて,悪を避け,その逆を捉えるように心がけなければならないのです[448]」といわれ,これこそが,プラトンの主宰したアカデメイアの理念だったでしょう.そして,最後に,ヒトと呼ばれるモノとそのココロ,その身体と精神の健全性と,人生がめざすべき「善」が語られるのでした.

 

[魂の運動の目指すものは善である]

ティマィオスは「つまり,身体と精神が健全性を維持することのできる,その原因となるところの,この両者の<世話>について[449]」,つまり,体育と知育についてこれを語ろうとするのです.

 

「さて,善いものはすべて美しく,美しいもので均整(あるいは釣り合い)のとれていないようなものはありません.だから,生きものにしても,このように[善美の]性質を備えようとするなら,均整のとれたものでなければなりません[450]」といい,善さを,まず,美しさ,すなわち身体の魂のカタチの均整のうちに求めるのでした.また,「というのは,「健康と病気」は,「徳と悪」を考える時には,それに対して,魂そのものもと身体との間に成り立つ釣り合い・不釣り合いより以上に重大な意味を持つものはまったく存在しない[451]」ともいい,魂と身体の均整にこれを求めるのでもありました.

 

魂が身体に卓越する場合には,どうなるのでしょうか.「魂が激怒すると,それは身体全体を揺り動かして,これを内から病気でいっぱいにし[452]」,「何かの学課や研究に熱中する時には,魂は身体を溶かし(消耗し)[453]」,「また,公私いずれにおいても,教えたり,論戦したりする場合には,そこに起こってくる競争や張り合いのために,魂は身体を灼熱させてこれをゆすぶり,そして「[体液の]流れ(レウマ)」を引き起こして[カタルを誘発して],医者と呼ばれている人々の大部分を欺き,原因でもないものを原因だと申し立てるようにさせます[454]」といわれます.

 

身体が卓越する場合にはどうなるのでしょうか.まず「身体の故に生じる,食物を求める欲望と[455]」,また「最も神的であるような部分の故に生じるところの,知を求める欲望との二つ[456]」の欲望が人間はあるといいます.そして「そのほうの強いもののほうの動きが優勢をしめて,自分自身の勢力を増大させるとともに,他方では魂のほうを,鈍くて,もの覚えの悪い,忘れっぽいものとする[457]」と,「こうした最大の病である「無知」を,内部につくり出すのです[458]」.

 

「さて,この(無知と呼ばれる)病気に対して,安全を守る方法はただ一つです[459]」といわれます.その処方とは,すなわち身体を伴わないで魂を動かすことも,魂を伴わないで身体を動かすことも,どちらも<しない>ということでして,それはつまり,双方が,互いに自分を防御して,[相互に]均衡を保ち,健康なものになるようにというためなのです[460]」.

 

「そこで,数学者だとか,あるいは,何か他の,精神面の激しい訓練に従事する人は,体育にも親しんで,身体にもそれ相当の動きを与えてやらなければなりませんし,今度はまた,身体づくりに気を配っている人は,それに対抗するものとして,音楽(もしくは文芸)や,ひろく「哲学」全体にもたずさわって,魂にも,それに応じた運動を与えてやらねばなりません[461]」というわけで,心身の健康とその均衡を保つことの重要性が説かれます.そしてその理想は「<万有の姿を模写する>という仕方[462]」なのであって,つまり,自然法則において「ある」という仕方がこれではないでしょうか.

 

さて,ティマィオスの理想とするところは,「敵同士が相並んで置かれて,身体の中に戦争や病気を生み出すがままに放置しておかれることもなくなるでしょうし,むしろ,親しい間柄のもの同士で隣合わせになるように置かれて,健康をつくり出すようにさせられることになるでしょう[463]」でした.つまり,心身の均衡,バランスこそが健康であり,善であるということであり,本来あるべきモノが,本来あるべき場所にあることが,調和であり,万有の姿を模写することであるというのでした.

 

しかし,プラトンは,自然である万有が本来<ある>べき善き姿を真に見出していたのでしょうか.自然の真実にあるべき姿,それが現代の自然学においても,未解決に「残された課題」なのではないでしょうか.

 

[魂の自由を求めて]

さて,「ところで,今度はまた,およそ「動き」のうちでも,人が自分自身の中で,自分自身によって動かされるようなものが,もっともすぐれた動きであり[464]」といわれ,つまり,自由な運動,自発的運動がもっともすぐれた運動であるというのです.「というのは,それが,思考の動きや,万有の動きと,一番よく親近性を持っているから[465]」です.しかし,プラトンにとっての万有の運動とは,永遠の循環運動,堂々巡りであり,円運動ではなかったでしょうか.それが,真に自由な運動といえるのでしょうか.

 

「そして,もっとも劣ったものはといえば,それは身体が横になってじっとしたまま,他のものを通じて,部分的に動かされているような場合の動きがそれなのです[466]」ともいわれ,他から動かされている,さらに,静止させられている,活動性,自発性をまったく欠いている状態が最悪であるといいます.自由でない,束縛されている,隷属状態がそれでしょうが,永遠の循環運動状態とは,かえって,永遠の束縛状態なのではなかったでしょうか.

 

心身の健康のための処方においては,「だから,身体から不浄を取り除き,身体を引き締めるいろいろな方法のうちでは,体操によるものが一番すぐれていることになります[467]」.続いて「そして,第二番目によいのは,船に乗って行く場合とか,あるいはどんな仕方でもとにかく,<乗りもので行く>という,労を要しない方法をとる場合の,振動を通じて与えられる動きがそれです[468]」といいます.規則正しい振動は心地よいとともに,ある人たちにとっては乗り物酔いの原因にもなるのですが.

 

「ところで,第三の種類の動きは,極度に切羽づまった場合に役立つこともありますが,そうでもない限り,分別のある人はけっしてこれを受け入れるべきではありません.-とこう言われるのは,実は,医薬を用いて浄化する(下剤をかける)治療のことにほかなりません[469]」ということで,当時の医療は相当に不信の目でみられていたのでした.むろん,今や,手術や検査などにおいて,人体にリスクがある場合については,的確な診断によるICInformed Consent)が必要とされ,病者においても,「自律」がなによりも求められはじめているのです.

 

病気の原因についての総論については「何故なら,およそ病気が形成される場合,それはある意味では,生きものの自然なあり方に似ているからです[470]」といわれます.これは,老化などにおいては正しいでしょう.また,感染症などの場合の炎症も,正常な生体の防御反応といえないこともないでしょう.しかし,放置すれば,QOLが明らかに悪化する場合は,対処治療が必然当然ではないでしょうか.

 

寿命については,「というのは,生きものの場合の構成体も,それは,当の種族全体に定められている命数を持つとともに,また,個々の生きものを単独で取り上げる場合にも-否応なく,無理に割り込んで来る事故を勘定にいれなければ-やはり各々運命によって割り当てられただけの生命を持って生まれてくるものなのでして,それというのも,個々の生きものの三角形が,そもそもの最初においてすでに,ある一定の時間までは,十分に事足るだけの能力は持つけれども,その限度を越えては,もはや決して生きることができないというように構成されているからです[471]」と語られます.またしても,三角形という空想された「原理」によって,生命体の限界が定められているかのようにいうのです.この三角形をゲノムと言い換えてみたらどうなるでしょうか.私たちは必ずしも,ゲノム情報に人生の「すべて」を支配されているわけはないのはむろんのことです.

 

さらに「すなわち,それを定めとして与えられている期間を無視して,人が薬を用いて,これを壊滅させる時には,軽症な病気が重くなったり,また病気の数が少なかったのが,多くなったりしがちなのです[472]」といわれます.これは,延命させるだけの現代の治療には当てはまるかもしれません.死をいかなる状況で容認可能とするかは既に現代科学技術の直面する問題になりつつあるのです.

 

さらに「というわけで,すべてこの種のものについては,時間の余裕のある限り,これを養生法によって教導しなければならないのでして,投薬によって,厄介な災いをかき立ててはならないわけなのです[473]」ともいいます.現代医療は,自然治癒力を活かす意味での免疫療法や再生療法,むしろ,病気にならないことである予防医療を,そして,や健康医学をこそめざすべきなのかもしれません.

 

心身の統一性については「そして,[心身各部の]共同体としての[一個の]<生きもの>[全体]と,それの身体面の部分について,人が,いったいどのようにして,これを教導し,またどのようにして自分自身によって教導されれば,最もよく理に適った生き方ができるかという点は,以上語られた通りで十分だとしておきましょう[474]」と語られ,心身が不可分の共同体であり,個体(individual,分割しえぬもの)であり,全体であることをいうのでした.魂とは神的(永遠)なモノの神的(永遠)な運動なのでした.そもそも,運動するべきモノなしに運動はありえないのであり,身体と魂は,プラトンにあっても,不分離であったと見るべきでしょう.

 

[魂の教育]

ティマィオスは「しかし,その<教導する>という任に当たるはずの当のもの()自身を,その<教導>の仕事に対して,可能な限り,最も立派な最もすぐれたものであるように用意することのほうが,おそらくは,もっとも必要であり,またむしろこのほうをこそ,先にしておかなければならないのでしょう[475]」と,魂の教育の重要性を語ります.

 

さて,魂には三種類のものがあるといわれたのです.「われわれは,もうしばしば,魂の三様にそれぞれ異なった三つの種類ものが,われわれの中に住んでいること,そして,その各々が,動きを持つようになっていることを話してきました[476]」.つまり,神的(不変)で理性的な魂と,死すべき魂であり,後者は,感情という魂と,欲望という魂のことです.理性と感性,そして欲望,と言い換えても,アリストテレス流に,人間的霊魂,動物的霊魂,植物的霊魂と言い換えても同じことでしょう.

 

そして,「すなわち,それらの種類のうち,無為に過ごし,自分自身の動きを停止しているものは,どうしても甚だ弱いものにならないわけには行かないけれども,これに対して,鍛練されるものは,大いに強くなるのが必然である−と[477]」語られ,運動することこそが魂の本性なのですから,運動なしに魂はないのです.「ですから,それらのものが互いに釣り合いのとれた動きを持つように,用心していなければならないのです[478]」.つまり,三つの魂の不均衡をつくり出してはならないのです.

 

「ところで,われわれのもとにある魂で,至上権を握っている種類のもの(理性)については(中略),神が,これを神霊(ダイモーン)として各人に与えたのである[479]」と,ソクラテスの考えた神霊(ダイモーン)こそが理性であり,神的な魂であるといいます.「そして,そのものはまさに,われわれの身体の天辺に居住し,われわれが,地上のではなく,天上の植物であるかのごとく,われわれを天の縁者に向かって,大地から持ち上げているものなのだ[480]」と,プラトンは主張します.理性の永遠性,これが,ティマィオスの見立てぬ「夢」に他ならなかったのではないでしょうか.

 

そして,「欲情や野心の満足にのみ汲々として,そのようなことのためにのみ労すること甚だしい人にとって,その<思い>のすべてが,<死すべき>(地上的な)ものになってしまう[481]」と,欲望と感情が死すべき魂であることをいいます.「しかし,これに反して,学への愛と,真の知に真剣に励んで来た人,自分のうちの何ものにもまして,これらのものを鍛練してきた人が,もしも真実なものに触れるなら,その思考の対象が,不死なるもの,神的なものになる[482]」と,学への愛,つまり真の知識を生み,それを育てる行為や,真の知は不死なるものに与るというのです.

 

「さらにまた,こうした人が[かれ自身も],およそ人間の分際に許される限りの,最大限の不死性にあずかることになり,その点で欠けるところは少しも残さないということも,そしてまた,そのような人は,何分にも,常に神的なのものの世話を欠かさず,自ら,自分の同居者なる神霊を,よく整えられた状態で宿しているのだから,彼が,特別に幸福(エウダイモーン,よき神霊(ダイモーン)を持てるもの)であることも,おそらくは必然でしょう[483]」と語ります.このように,よき神霊(ダイモーン)とともにあって不死なるものに与りつつ幸福であること,それがプラトンの「夢」でもあったのでした.

 

さて,魂の教育の方法です.「ところで,「世話」というものは,誰にとっても,何の世話でも,その方法はただ一つ,各々に対して,それに固有な養分と動きを与えてやることです.ところが,われわれの中の神的なるものと同種の動きと言えば,それは,万有のなす思考と,その回転運動がそれです[484]」といわれますが,これは体育と同じで,魂に同じことを永遠に繰り返えさせるということが,固有の養分と動きを与えてやることらしいのです.これは,現代においてもある程度は必要であるにしても,過剰であればとても耐えられないような苦痛をもたらしはしないでしょうか.

 

「そこで,各人は,これらの運動の跡を追いながら,生まれた時にすっかり損なわれてしまった,われわれの頭の中の運動を,万有の調和と回転運動に学んで矯正し,こうして観察<する>側のものを,観察される側のものに似せて,前者を,その最初の本然の姿に帰さなければなりませんし,また,このようにして似せることによって,神々から人間に,現在に対しても未来に対しても課せられた,もっとも善き生を<まっとうしなければ>ならないのです[485]」.これは,自然を観察し,自然に学び,自然に帰れ,そして,善き生をそこにおいて全うせよ,といっているようで,現代の私たちにも素直に賛同できるのではないでしょうか.

 

[自然の目的について −善なるかな,美なるかな,大なるかな−]

あとは,目的論的な男女の区別,人間と動物の区別,魚類や貝類や,水棲族の起源が語られます.しかし,注意すべきは,これらの動物たち,植物たちは,その質こそ違え,魂を持つものとして考えられている,ということです.「変形してつくりかえる技術者である神々[486]」が,こうした生き物たちを,それぞれの持つ魂にふさわしいものに作り替えるというのです.万有は,多にしてすなわち一者である,というわけでしょう.

 

「そして,このようにして,すべての生き物が,あの時も,また現在も,理性と無知を失うか得るかによって,その場所を変え,互いに変化しあっているのです[487]」といわれ,このとおり,自然においては,多くの生きものたちが,その場所を変え,お互いに変化しあい,共に,45億年もの永遠に近く長き時間において,多様に生きて続けてきたことが観察されるのです.私たちがそこに生きる自然,ただ一つのこの地球,全宇宙(コスモス)の中の,最善にして最美,最大にして唯一の,完成された「この宇宙」の秩序を讃えつつ,ティマイオスの「夢」は終わるのでした.

 

「死すべきもの,不死なるもの,どちらの生きものをも取り入れて,この宇宙はこうして満たされ,目に見えるもろもろの生きものを包括する,目に見える生きものとして,理性の対象の似像たる,感覚される神として,最大なるもの,最善なるもの,最美なるもの,最完全なるものとして,それは誕生したからです.そして,これこそ,ただ一つあるだけの,類なき,この宇宙に他ならないのです[488]」と.

 



[1] プラトン『ティマイオス -自然について-』,種山恭子訳,(『プラトン全集12』岩波書店),1972

[2] 同,21E

[3] 同,22C

[4] 同,23C

[5] 同,27C

[6] 同,27C

[7] 同,28A

[8] 同,28A

[9] 同,28A-B

[10] 同,28B

[11] 同,28B

[12] 同,28C

[13] 同,29

[14] 同,29

 

[15] 同,29

[16] 同,29C

[17] 同,30

[18] 同,30B

[19] 同,30C-D

[20] 同,31

[21] 同,31B

[22] 同,31B-C

[23] 同,(31C-30)

[24] 同,32

[25] 同,32B

[26] 同,(32B)

[27] 同,32B-C

[28] 同,32C

[29] 同,32C-D

[30] 同,32D-33

[31] 同,33

[32] 同,33

[33] 同,33

[34] 同,33-33B

[35] 同,33B

[36] 同,33B

[37] 同,33C

[38] 同,34

[39] 同,34

[40] 同,34-34B

[41] 同,34B

[42] 同,34B

[43] 同,34C

 

[44] 同,35

[45] 同,35

[46] デーデキント『数について−連続性と数の本質−』河野伊三郎,岩波文庫,1961

[47] 同,35-35B

[48] 同,35B-C

[49] 同,36

[50] 同,36B-C

[51] 同,36C-D

[52] 同,36D-E

[53] 同,36E-37

[54] 同,37-37B

[55] 同,37B-C

[56] 同,37D

[57] 同,37D

[58] 同,37E

[59] 同,37E

[60] 同,37E-38

[61] 同,38

[62] 同,37B-C

[63] 同,38C

[64] 同,38C

[65] 同,38C-D

[66] 同,38E-39

[67] 同,39B

[68] 同,39D

[69] 同,39E

[70] 同,39E

[71] 同,39E-40

[72] 同,40B

[73] 同,40B

[74] 同,40B

[75] 同,40B

[76] 同,40B

[77] 同,40B-C

[78] 同,40C-D

[79] 同,40E-41

[80] 同,41B

[81] 同,41B

[82] 同,41B

[83] 同,41D

[84] 同,42B-C

[85] 同,42C-D

[86] 同,42E-43

[87] 同,43

[88] 同,43-43B

 

[89] 同,43B

[90] 同,43C-D

[91] 同,43E-44

[92] 同,44B-C

[93] 同,44C-D

[94] 同,44D

[95] 同,45-45B

[96] 同,45B

[97] 同,45B

[98] 同,45C-D

[99] 同,45E-46

[100] 同,46-46B

[101] 同,46C-D

[102] 同,46D

[103] 同,46D

[104] 同,46D

[105] 同,46D-E

[106] 同,46E

[107] 同,46E-47

[108] 同,47

[109] 同,47-47B

[110] 同,47C-D

[111] 同,47C-D

[112] 同,47D-E

[113] 同,47E-48

[114] 同,48

[115] 同,48

[116] 同,48B

[117] 同,48B

[118] 同,48E-49

[119] 同,48E

[120] 同,49

[121] 同,49C-D

[122] 同,49D

[123] 同,49D-E

[124] 同,49E

[125] 同,49E

[126] 同,49E-50

[127] 同,50

[128] 同,50B

 

[129] 同,50B

[130] 同,50B

[131] 同,50C

 

[132] 同,50B

[133] 同,50E

[134] 同,51

[135] 同,51-51B

[136] 同,59B

[137] 同,51B

[138] 同,51C

[139] 同,51C

[140] 同,51D

[141] 同,51D

[142] 同,51D-E

[143] 同,51E

[144] 同,51E

[145] 同,51E

[146] 同,52

[147] 同,52

[148] 同,52-52B

[149] 同,52B

[150] 同,52B

[151] 同,52B

[152] 同,59C

[153] 同,52D

[154] 同,52E

[155] 同,52E-53

[156] 『ギリシア哲学者列伝』\6.31(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝(中)』加来彰俊訳,岩波文庫,1994(p.120).

 

[157] プラトン『ティマイオス』53-53B

[158] 同,52B

[159] 同,53B

[160] 同,53C

[161] 同,53D

[162] 同,53D

[163] 同,53E

 

[164] 同,54-54B

[165] 同,54C

[166] 同,54E

[167] 同,55

[168] 同,55

[169] 同,55-55B

[170] 同,55B

[171] 同,55B-C

[172] 同,55C

[173] 同,55C

[174] 同,55C

[175] 同,55D

[176] 同,55D

[177] 同,55E

[178] 同,55E

[179] 同,56

[180] 同,56

[181] 同,56B

[182] 同,56C

[183] 同,56C

[184] 同,56D

[185] 同,56D-E

[186] 同,56E

[187] 同,56E

[188] 同,56E

[189] 同,57D

[190] 同,57D

[191] 同,57E

[192] 同,57E

[193] 同,57E-58

[194] 同,58-58B

[195] 同,58B

[196] 同,58C-D

[197] 同,58D

[198] 同,58D

[199] 同,80D-E

[200] 同,58E

[201] 同,59B

[202] 同,59B

[203] 同,60

[204] 同,60

[205] 同,60B-C

[206] 同,60C

[207] 同,60C

[208] 同,60D

[209] 同,60E

[210] 同,60E-61

[211] 同,61

[212] 同,61

[213] 同,61C

[214] 同,61C

[215] 同,61D

[216] 同,61D

[217] 同,62

[218] 同,62B

[219] 同,62B

[220] 同,61B

[221] 同,62B-C

[222] 同,61C

[223] 同,62C-D

[224] 同,62D

[225] 同,62D

[226] 同,63B

[227] 同,63B

[228] 同,63B-C

[229] 同,63C

[230] 同,63C

[231] 同,63D

[232] 同,63C-D

[233] プラトン『第四書簡』(『プラトン全集14』長坂公一訳,岩波書店,1975

[234] プラトン『ティマィオス』63D

[235] 同,63E

[236] 同,63E-64

[237] 同,64

[238] 同,64-64B

[239] 同,64B

[240] 同,64C

[241] 同,64C-D

[242] 同,64D-E

[243] 同,64E-65

[244] 同,65-65B

[245] 同,65B

[246] 同,65B-C

[247] 同,65C

[248] 同,65C

[249] 同,65C-D

[250] 同,66

[251] 同,66

[252] 同,66

[253] 同,66-66B

[254] 同,66B

[255] 同,66B

[256] 同,65B

[257] 同,66C

[258] 同,66D

[259] 同,66D

[260] 同,66D-E

[261] 同,66E

[262] 同,66E

[263] 同,67

[264] 同,67

[265] 同,67

[266] 同,67B

[267] 同,67B

[268] 同,67B-C

[269] 同,67C

[270] 同,67C

[271] 同,67C

[272] 同,67D

[273] 同,67D

[274] 同,67D

[275] 同,67D

[276] 同,67E

[277] 同,67E

 

[278] 同,67E-68

[279] 同,67B

[280] 同,68B

[281] 同,68D

[282] 村田純一『色彩の哲学』岩波書店,2002.

[283] プラトン『ティマィオス』68D

[284] 同,68E

[285] 同,69

 

[286] 同,69

[287] 同,69

[288] 同,69B

[289] 同,68C

[290] 同,68C-D

[291] 同,68D

[292] 同,68D

[293] 同,69D

[294] 同,69E

[295] 同,70

[296] 同,70

[297] 同,70B

[298] 同,70B-C

[299] 同,70C-D

[300] 同,70D

[301] 同,70D-E

[302] 同,70E

[303] 同,70E-71

[304] 同,71

[305] 同,71-71B

[306] 同,71B

[307] 同,71B

[308] 同,71C-D

[309] 同,71E

[310] 同,72C

[311] 同,72C

[312] 同,72D

[313] 同,72D

[314] 同,79D

[315] 同,79D

[316] 同,72E

[317] 同,72E

[318] 同,72E

 

[319] 同,72E

[320] 同,73

[321] 同,73

[322] 同,73B

[323] 同,73B

[324] 同,73B

[325] 同,73C

[326] 同,73C

[327] 同,73C-D

[328] 同,73D-E

[329] 同 73E

[330] 同,73E

[331] 同,73E-74

[332] 同,74

[333] 同,74

[334] 同,74B

[335] 同,74B

[336] 同,74B-C

[337] 同,74C-D

[338] 同,74D-E

[339] 同,74E

[340] 同,74E

[341] 同,74E

[342] 同,74E-75

 

[343] 同,75

[344] 同,75-75B

[345] 同,73C

[346] 同,75D-E

 

[347] 同,75E

[348] 同,75E-76

[349] 同,76

[350] 同,76-76B

[351] 同,76B

[352] 同,76B

[353] 同,76B-C

[354] 同,76C

[355] 同,76D

[356] 同,76D

[357] 同,76D-E

[358] 同,76E

[359] 同,76E

[360] 同,77

[361] 同,77

[362] 同,77-77B

[363] 同,77B

[364] 同,77C

[365] 同,77C

[366] 同,77C

[367] 同,77D

[368] 同,77D

[369] 同,78

[370] ハーヴェイ『動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究』暉峻義等訳,岩波文庫,1961.

[371] プラトン『ティマィオス』78

[372] 同,78-78B

[373] 同,78B

[374] 同,78C

[375] 同,78E

[376] 同,79

[377] 同,79B

[378] 同,79B

[379] 同,79B-C

[380] 同,79C

[381] 同,79C-D

[382] 同,79D

[383] 同,79D

[384] 同,79E

[385] 同,80

[386] 同,80

[387] 同,80B

[388] 同,80B

[389] 同,80C

[390] 同,80C

[391] 同,80C

[392] 同,80D

[393] 同,80D

[394] 同,80E

[395] 同,80E

[396] 同,80E-81

[397] 同,81

[398] 同,81B

[399] 同,81C

[400] 同,81C

[401] 同,81C-D

[402] 同,81D

[403] 同,81E

[404] 同,81E

[405] 同,82

[406] 同,82-82B

[407] 同,82B

[408] 同,82B

[409] 同,82B-C

[410] 同,82C

[411] 同,82C

[412] 同,82D

[413] 同,82E

[414] 同,83

[415] 同,83B-C

[416] 同,83C

[417] 同,83E

[418] 同,83E

[419] 同,84

[420] 同,84B

[421] 同,84B-C

[422] 同,84C

[423] 同,84D

[424] 同,84D-E

[425] 同,84E

[426] 同,84E-85

[427] 同,85

[428] 同,85-85B

[429] 同,85B

[430] 同,85B

[431] 同,85B-C

[432] 同,85C

[433] 同,85D

[434] 同,85E-86

[435] 同,86

[436] 同,86

[437] 同,86B

[438] 同,86B

[439] 同,86B

[440] 同,86B-C

[441] 同,86C-D

[442] 同,86D

[443] 同,86D-E

[444] 同,86E

[445] 同,86E-87

[446] 同,87

[447] 同,87B

[448] 同,87B

[449] 同,87E

[450] 同,87C

[451] 同,87D

[452] 同,88

[453] 同,88

[454] 同,88

[455] 同,88B

[456] 同,88B

[457] 同,88B

[458] 同,88B

[459] 同,88B

[460] 同,88B

[461] 同,88B-C

[462] 同,88D

[463] 同,88E-89

[464] 同,89

[465] 同,89

[466] 同,89

[467] 同,89

[468] 同,89-89B

[469] 同,89

[470] 同,89B

[471] 同,89B-C

[472] 同,89C

[473] 同,89C-D

[474] 同,89D

[475] 同,89D-E

[476] 同,89E

[477] 同,89E-90

[478] 同,90

[479] 同,90

[480] 同,90

[481] 同,90B

[482] 同,90C

[483] 同,90C

[484] 同,90C-D

[485] 同,90D

[486] 同,92B

[487] 同,92C

[488] 同,92C